【注釈】
 この篇は、4節にあるように「知恵」「悟り」について語っている。このことから、この篇は、37篇、73篇などとともに知恵文学に分類されている。知恵文学には、ヨブ記、箴言、コヘレトの言葉(伝道の書)、外典では知恵の書(ソロモンの知恵)などが含まれる。これらが書かれたのはほぼ捕囚期以後で、ギリシア思想の影響を受けていると見られている。しかしヘブライでは、古くから「比喩」や「諺」の形で知恵が伝えられてきているから、この篇の「謎・比喩」も、その起源は古いものかもしれない。49篇には語法的にも古いものがあるから、紀元前6~5世紀の作(ヨブ記と同じ頃?)であろうか。あるいはペルシア時代後期(前400~330年頃)のものだろうか?〔Briggs.Psalms.(1)〕。ただし、「謎」がはっきり「知恵」としてとらえられるようになったのは、ギリシアなどの外国の思想に接するようになってからである。
 全体の構成は、2~5節が序の部分で、読者に対する呼びかけと同時に、この詩全体のテーマである「謎」が5節に現われる。13節と21節には折返しが合唱のように現われて6節以降を二つに区切っている。二つの折返しは互いに呼応していて、詩の内容に重要な示唆を与えている。さらに、6~12節と14~20節の部分でも8節と16節とが呼応している。特に16節はこの詩の核心を成すもので、これが5節の「謎」の答えであると考えられる。こうしてみると、5、8、13、16、21の各節が互いに響きあって詩全体の枠を構成しているのが分かる。
 この49篇は、「愚か者」は墓の中で朽ちはてて後には何も残らないが、「正しい者」は神によって墓(死)から救い出されて命に与ることを言おうとしているように受け取られるかもしれない。しかし、「愚か者」は滅びるが「知恵ある者」は生き残ると言えるほど、ここで語られている「知恵」は単純ではない。むしろ、愚かと思える者も賢いと見える者も、人は皆等しく「獣と同じに死を免れえない」というのが2~3節の呼びかけであり、11節の意味であろう。だからこそ、ここで語られる「知恵」は解き難い「謎」なのである。このような「知恵」はほとんどコヘレトの言葉のそれに近いと言えよう(コヘレト1章16~18節/同2章16節)。
[3]【高き者】原語は「イーシの子もアダムの子も」。すなわち「身分の高い者も低い者も」の意味。
[5]【たとえ】原語「マシャール」は、「比喩」「諺」「格言」など広く「たとえ」を意味する。隠れた霊的な知恵を言い表す言葉のこと。ここでは特「琴に合わせて」歌われる詩や歌の詞(ことば)を指すのか。新約ではマルコ4章11~12節を参照。
【琴】この楽器は、リラ(小さな丸みを帯びた弦楽器で手に持って演奏する)のことともシターン(ギターに似た小さな楽器で手に持って演奏する)とも解される。「楽器によって(合わせて)語る」とは霊感を受けて語ること(列王記下3章15節参照)。
[6]【欺きの敵】原文は「かかとの邪悪/不義」。これを「自分に迫る罪あるいは悪意」と解することもできるが、「かかと」の動詞「アーカブ」には「欺く・とって代わる」の意味もあるのでこのように訳す。「欺く敵にはめられる」〔REB〕/「迫害する者たちの不義がわたしを囲む」〔NRSV〕。
[7]【金権】原語は「金・力(権力)」。
【財力】原語は「富・誇り」。
[8] この節の前半を直訳すれば「人は兄弟を贖うことは決してできない」となる〔岩波訳〕〔新共同訳参照〕。しかし、ここでは前節の内容から判断して、「兄弟」を強意の「ああ、実に」へと読み替え〔HB注〕、「<彼を>贖う」とは「人」のことと理解して、「自分(の命)を贖うことができない」と解する方がよい〔フランシスコ会訳聖書〕〔NRSV〕〔REB〕。出エジプト記21章30節にあるように、人はたとえ意図しなくても(過失によって)他人を殺したなら、賠償金を払うか、自分の命でこれを償わなければならなかった。ところが、「贖い代」を支払うことによってこれを免れることができたから、金持ちは、これを逆に利用して、殺人を犯しても「贖い代」で解決しようとした。民数記35章31節は、これを禁じたものである。だが、「ああ、神に向かってはこのようなごまかしは通用しない!」
[9]【その命】本文は「彼らの命」。しかしほとんどの訳は、七十人訳と欄外〔HB注〕の読みを採り、三人称単数の「その命」としている。なお「命」と訳した語は「魂」と訳すこともできる〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔関根訳〕。
[10]【墓穴】ここでは特に陰府にあると信じられた「滅びの穴」のことで、もはや生き返る希望のない「死」それ自体のこと。9~10節は訳し方が様々であるが、七十人訳に基づくとおよそ次のようになる。「人は自分の(命が長らえるための)贖い代を神に払うことはできないし、その魂(命)の贖いの値段を(支払うこともできない)。久しく労苦を重ねて、最期まで(生きよう)、滅び(死)を見ることがないように求めても(それはできない)」。なお、10節を「~できようか」と疑問文に採る訳もある〔新共同訳〕。
[11]【目に映る】原語は「彼は見る」。
【愚か者】自信過剰なうぬぼれ者。
【馬鹿者】思慮がなく強欲な者。
[12]【墓】本文の原語は「人の心の内」。しかしこれでは意味が通り難いのでほとんどの訳は欄外〔HB注〕の読みにしたがって「墓」と読みかえている。
【土地を自分の名で呼ぶ】その地所を自分の所有だと宣言すること。
[13]【ほうられて死ぬ】原語は「沈黙させられる」で、「滅ぼされる」「切り捨てられる」ことを意味する。ここを「断ち切られる」〔REB〕あるいは「滅びる」〔NRSV〕〔フランシスコ会訳聖書〕と訳すこともできるが、「殺される」[ワイザー]〔新共同訳〕[関根訳]ととるほうが内容が明確になる。作者は特に犠牲として殺される家畜を意味しているのかもしれない。
[14]【自分に頼る愚か者】11節註参照。
【自己満足】原文は「彼らの口を喜ぶ者たち」。これを「自分の(口の)言葉に満足する者たち」〔新共同訳〕[関根訳]とする訳〔REB〕もあり、「自分の分け前に満足する者」〔NRSV〕もある。「愚か者」の意味から、この世での自分の身分や偽りの思いこみに満足している者たちを指す。「富を持つ者の行く末、美食に耽ける者のなれの果て」〔フランシスコ会訳聖書〕。また後半の原文は「彼らの後の者(子孫)」「彼らの死後」と読むこともできるから「彼らの後に彼らの口を好む者らが従う」〔岩波訳〕という解釈もある。
[15]この節はテキストが乱れている(特に訳文の3~4行目)。3行目の原典本文は「朝になると正しい者は彼らを<踏みつける(支配する)>」である〔七十人訳〕〔新共同訳〕〔岩波訳〕。ただし、「正しい者が悪人を踏みつける」(特に終末において)という思想はこの詩編よりも後の時代による読みかえではないかとも考えられる。「踏みつける」と「降る」と、ふたとおりの読みがあるから、「朝」を「墓」と読み替えると〔HB注〕、「彼ら(悪しき者)はまっすぐに墓に降る」となる〔NRSV〕〔REB〕〔ヘブライ語対訳シリーズ『詩編』(1)(注)ミルトス(2002年)〕。
【失う】「(姿を)失う」は「消え失せる/朽ちはてる」とも訳すことができる〔七十人訳〕〔NRSV〕。
【住まい】原語は「高い住まいから」である。「彼らの栄誉から」〔七十人訳〕。
訳文の4~5行を原文通りに一つにして、「誇り高かった彼らの姿を陰府がむしばむ」〔新共同訳〕/「陰府では彼らの栄誉から離されて助けが来ない」〔七十人訳〕/「彼らの体は、栄誉を剥奪されて陰府で朽ちはてる」〔REB〕などの訳がある。私訳はNRSVに従っている。
[16]【命】「魂」と訳すこともできる。
【陰府の手から】原典本文では、この句はその前にかかり「わたしの命を陰府の手から」と読むべきであるが、ほとんどの訳はこれを後半の「取り去る」にかける。ただし、"But God will ransome my soul from the power of Sheol" 〔NRSV〕
【取り去る】この語は、エノクやエリヤが「(地上から)取り上げ」られたのと同じ語である。創世記5章24節参照。「(陰府の手から)奪う」〔フランシスコ会訳聖書〕/「救う」〔関根訳〕。
[17]【うらやむな】原文の動詞は「恐れる」だけである。しかし、欄外の読みに「見る/うらやむ」とあり〔HB注〕、このほうが内容的にふさわしい。ここでの「恐れる」もこのような含みで用いられていると考えられるので二重に訳出した。「妬(ねた)むな」〔フランシスコ会訳聖書〕"Do not envy anyone though he grows rich" 〔REB〕
[18]【携えず】この動詞は16節の「取り上げる」と同じである。ここでは16節と対照して用いられている。
【後を追う】「富も一緒に(陰府へ)下っていかない」〔フランシスコ会訳聖書〕〔REB〕〔NRSV〕。
[19]19節を直訳すると「たとえ<彼の>魂を<彼らの>人生において<彼が>祝福するとしても、/そして<彼ら>が<あなた>をたたえる『<あなた>は善い事をしている』と<あなた>に向かって」となる。これでは、人称がうまく一致しないので意味が通らないように思える。しかし、17~18節の内容的な主語は「人」であるから、この語(人)は三人称単数(彼)でも複数(彼ら)でも受けることができる。だから「彼」「彼ら」を「人」に置き換えると、「たとえ人の魂を人の人生において人が祝福するとしても、/そして人が『<あなた>は善い事をしている』と<あなた>に向かって<あなた>をたたえるとしても」となる。したがって、「人」を単数扱いにして、「たとえ彼が彼の人生で彼自身を幸せだと思い、そして彼が彼の繁栄を賞賛されるとしても」〔REB〕という訳がある。「人」を複数にして、「たとえ彼らの人生において、彼ら自身を幸いだと思うとも(なぜならあなたは、あなた自身で善くやったとほめられるから)」のように、二人称の部分を挿入とする訳もある〔NRSV〕。「おのが魂を彼は生前に祝福し、お前がうまくいくので人々がお前を讃えはしても」〔岩波訳〕。「彼は生きている間、自分の魂に、『人々はうまく立ち回るお前をほめている』と言って、ほくそ笑むのだが・・・・・」〔フランシスコ会訳聖書〕。
[21]【悟りなく】13節は「長く続かない」であるがここは「悟らない」となっている。この違いを無視する訳が多いが〔フランシスコ会訳聖書〕〔NRSV〕〔REB〕、この違いは重要である〔ワイザー『詩編』〕。
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