詩編の招き
4篇:安らかに眠る
【聖句】
 
1指揮者に。弦楽器にあわせて。ダビデの歌。
                                
2わたしの叫びに答えて下さい
  わたしの義の神よ。
  あなたはわたしを苦境から自由にしてくださった。
 わたしを顧(かえり)みて
  この祈りを聞いてください。
 
3人の子らよ、いつまでわたしの栄誉を辱(はずかし)め
  空しさを慕い、偽りを追い求めるのか。セラ
4あなたたちは知るがよい。
  御自身に敬虔な者を主は見分け
  わたしが呼び求める時主は聞いてくださる。
5怒りに震えても、罪を犯すな。
   床の上で心に語れ。そして沈黙せよ。セラ
6  義の犠牲を捧げ、主により頼むがよい。    
 
7多くの人は言う                 
  「わたしたちに善い事を誰が見せてくれようか?」
  主よ、わたしたちの上にみ顔の光を揚(あ)げてください。
8主は、わたしの心に喜びを与えられた
  彼らの穀物とぶどう酒の豊かな時にもまさって。
9わたしは安らかに臥して眠る。
  主よ、ただあなただけが、
  わたしを安らかに居らせてくださるから。
                        【注釈】
【講話】
(1)
 4篇は5篇に対して「夕べの祈り」と呼ばれてきた。この詩には、敵に対するというよりも、ほんらい自分の仲間であった人たちに向けて訴える響きがある。4〜5節は、相手に語り聞かせると同時に自分自身にも言い聞かせているようにもとれる。この篇の背景についてはいくつかの推定がなされている。「人の子ら」とあるから、同じ祭司仲間から何らかの理由で非難を受けた作者が、己の正しさを証明しようと神殿において主に訴えているという見方がある。又、6〜8節から不作による飢饉を背景に想定することもできる。この二つを綜合して、民とさらに祭司たちまでもが、「穀物とぶどう酒」を求めて偽りの神々に迷っていると考えることもできよう(フランシスコ会訳他)。おそらく、背景となっているこういう事情が、公の場合だけでなく個人の祈りとしても、様々な状況の下にある人々に語りかける力をこの詩に与えているのであろう。
(2)
 「主に導かれる」ことは、時には大きな負担を負わなければならない。もう少し楽な道を歩みたい、心のどこかでそう思えてくる時もあろう。生活の必要上やむを得ずしなければならない事ならばともかく、さし当り自分には、そうしなければならないさし迫った事情が何一つないのに、どうしてもその道を歩みたいと思う、そんな場合には、安きにつきたい思いも頭をもたげる。
 そんな時は、今主が自分にさせようとしている事が、どんなに大きな意味を人に対してだけではなく自分自身に対して持っているのか、それがどんなに大きな恵みをこの身にもたらしてくれるのか。これがなかなか見えてこない。主の言われる事が、自分の能力を超えていると思えるか、事をなすに当り思い切った決断と勇気が要るか、あるいはその両方の困難を意識する場合が多いからである。機会(チャンス)の女神には前髪しかなく、彼女は、前から掴まえなければ後からでは遅すぎるという諺があるが、主の導きもこれと同じで、与えられた時に従わないと後で悔いることになる。
 ところが、主に導かれて歩みだすと、その後に、本当の試練がやってくる。自分のやることが、人になかなか分かってもらえない、理解されない、という試練である。もともと人間的な理屈で納得して始めたことではないからである。自分のためならやらなくてもすむことをやむにやまれず始めたのは、自分自身の在り方に疑問を感じたからである。今のままの生き方に空しさを覚えて、何か本当に心のよろこびとなるものを求めたからである。求めたのは、おそらくよろこびを、「主を知るよろこび」を味わったからであろう。だから、自分のやることが理解されなくても仕方ないが、当然のことながら、そこに誤解も生じることになる。
 人々や仲間たちとの齟齬(そご)が、何らかの危急存亡の時に、例えばこの詩篇の背景と推定される飢饉のような時に起こると、事は深刻である。食物は生活の基盤であるから、これを欠くと生存そのものが脅かされる。詩篇の作者も彼を非難する人たちも、この点で食い違いのあろうはずもない。あるのは、このような厳しい現実の中にあっても、なお詩人は、食べることだけに心を奪われて、自分の内面を支える大切なもの、主に従う信仰をないがしろにする生き方を「空しい」と考えていることである。さらに、これは大切なことであるが、問題の真の解決は、そのような「偽りを追い求める」ことによってではなく、「義の犠牲を捧げる」こと、すなわち正しく主に従うことによって与えられると確信していることである。その結果、肉体的な生存だけに心を奪われ、「空しい」「偽り」の手段に訴えようとする人たちとの間に、決定的な食い違いが生じる。
 この詩篇の作者が置かれているのは、こういう厳しい現実であろう。かつてナチの収容所で、死にかけている病人に自分の肉体の生命そのものであるパンを与えた人たちがいたという話を聞いたことがある。そういう苛酷な状況の下で、はたして、わたしが、そこまで人間としての尊厳を貫くことができるかどうか分からない。多分できないと思う。「主が驚くべき愛を示して」(「敬虔な者を見分ける」の異読)くださらなければ、である。
(3)
 今のわたしにも分かること、それは、人間とは肉体の生存よりも大切な、なにかそのような霊性を具えることができることである。「穀物やぶどう酒の豊かな時」の楽しみにまさるよろこびを知ることがありえると悟ることである。時間の中に消滅する肉体とこれに付随するもろもろの幸せよりもはるかに尊く価値あるもの、これを自分の内に見出だした人たちが居たのだと知ることである。「はるかに」とわたしが推察するのは、よほどの強い力に惹かれなければ、人間は自分の生存を犠牲にすることがありえないと思うからである。
 これは大変に重要なことだとわたしは思う。なぜなら、自分の見出だした喜びが、永遠に失われることがないと知った人は、地上のいかなるもの、例えば、地位や名誉、財力や権力、さらに、わたし一個人の肉体の生命よりも永続すると思われるもの、すなわち家系や会社や団体、民族や国家など、「自分が死んでもなくならない」と思われるものよりも、さらに大きな価値を<自分自身の存在に>見出すようになるからである。
 言うまでもなく、地上にあって尊いと思われるこれらものと、人間一人一人の内に宿る主のみ霊の証とは矛盾するものでも対立するものでもない。地上にあって尊いと思われるものが本当に尊いのは、それらが、人間の尊厳を支える霊性を、一人一人の内に一そう輝かせるために機能する時であろう。そのような時には、人の肉体も、地上の制度や組織も「神から与えられた」ものになる。
(4)
 しかし、この詩篇の場合、そうはならなかったようである。深刻な「経済的」危機が、肉体と物質的な生存に心を奪われた人たちと、「主が心に与えられる喜び」を見出した人との間に深い亀裂を引き起こし、その結果、後者の「名誉が傷つけられる」事態に至ったらしい。
 主に導かれる者も人間である以上、人の心を理解することができるだろう。少なくとも、自分に加えられる非難の原因を推測することはできるだろう。人々が主を知ることがない限り、自分の生き方を彼らが理解することが困難だということにも気付くだろう。「しかし霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない」(第一コリント2章15節)とは、こういう状態を指すのであろう。
 彼は、特に民の指導者たちに訴えかつ警告する。「たとえ、どんなに怒り、不安、焦燥にかられても罪を犯してはいけない」と。そして、「空しいもの」「偽り」の力に迷わないで静かに主により頼むようにと。自分自身の内にもそのような力が働くことを知っている作者は、彼らを一方的に弾劾することはせず、半ば自分に言い聞かせるように彼らを説得する。
 平和とは、人と人との間につくり出されるものである。しかし、それは、同時に、「愛」 や「信仰」と同じように、人間の力の届かないところから来るようである。どんなに恵まれた環境の中でも「安らかさ」が訪れるとは限らない。かえってささいなことで心乱される。逆に人目にはさぞ大変だろうと思われる状況でも本人は案外平気な場合もある。「平安」の中にも不安はあるし、不安の中にも「平安」がある。
 わたしは、人間関係によって成り立つ政治的・社会的な平和を軽んずるつもりは毛頭ない。又、この詩篇の作者のように、敵対し対立する者たちとの間に平和をつくり出そうと力を尽くすのが極めて大切だということも知っている。ただ、これらのことを認めた上で、なおかつ、本当の心の安らかさは、これらの外的な平和が、永遠に失われることのない何か絶対的な安らぎとどこかで結びついていないと人の心に根を下すことができないのでないかと思い始めている。
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