【注釈】
この4篇は古い「ダビデ詩集」に属している。9節に「(床に)臥す」とあるので、「夕べの祈り」とされて、5篇の「朝の祈り」(5篇4節)と対(つい)にされている。ほんらい個人の嘆きから出た詩であると思われるが、指揮者に従って歌/謡われるのだから、公の礼拝で用いられたものであり、「わたし」が個人を指すとは言えない。「苦境」の背景にある内容は、日照りの時の「雨乞い」など諸説があるが、悩みの原因が何かを特定することはできない。この詩は「嘆きの詩」に分類されるが、むしろ「確信と信頼」を表わしていると見るべきであろう。詩行と韻律の構成は複雑である。「セラ」が2箇所に出てくるが、これは内容あるいは詩形に関するものではなく、おそらく弦楽器の演奏に対する指示であろう。
[1]【指揮者による】原語は「指揮者による」とも「指揮者のために」とも訳すことができる。「指揮者」は、楽器の旋律や速度を選んで指揮する人のことであろう。9篇には、その旋律を特定する指示がでている。
【弦楽器に】この句は「指揮者による」と共にでてくるから、弦楽器の伴奏によって指揮すること。
【ダビデの歌】ほんらいは「ダビデによって作詞された」の意味であったのが、後には「ダビデについて/ダビデが行なった事に関して」をも意味するようになった。
【歌】原語は「ミズモール」。これは礼拝のための「賛美の歌」であるから(英語のpsalm)、一般的な「歌/詩歌」(シール)と区別される。詩の表題全体をまとめて意訳すれば、「(聖歌隊の)指揮者によって琴に合わせてうたわせたダビデの歌」〔口語訳〕となろうか。
[2]「答える」「顧みる」「聞く」が命令形で、祈願を表わすのに対して、「自由にする」だけが完了形。このため、この完了形を「祈願」の意味に解する説があるが、ヘブライ語の用法としてこれが適切かどうか確かではない。
【わたしの義】「義」(ツェデック)とは「まっすぐで誠実」なこと/「公正で正しい」こと。元の作者は、無実の罪で訴えられているか、あるいは不当な非難を浴びていると思われる。したがって、「自分が正しく誠実で間違っていない」と自分の「身の証し」を神に祈り求めている。ここは、「自分の罪が赦されて神に義として受け容れられる」という意味の「ツェダーカー」(義/憐れみ)と少し違うようである。
【苦境】原語は「狭い場所」「苦境」。「悩み」〔口語訳〕「苦しみ」〔岩波訳〕。
【自由にした】原語は「広い場所を与える/解き放つ」こと。「くつろがせる」〔口語訳〕。「自由にした」を現在までの体験を表わすと採る説と、これを未来への確信を表わす信仰告白とする説がある〔岩波訳注〕。
【顧みる】「好意を抱いて恵む」こと。「憐れむ」〔新共同訳〕〔岩波訳〕。
[3] 【人の子ら】原語「ベネー・イーシュ」(人の子たち)は、「ベネー・アーダーム」(人間の子たち/人類)(49篇3節)と区別されて、比較的裕福で身分の高い人たちを指す。「人間(アダーマー)の子らは空しく、人(イーシュ)の子らは欺く」(62篇10節)。
【栄誉】原語は「栄光/栄誉/名誉」で、「恥/恥辱」と反対の意味。
【空しさ】ここの「空しさ」と「偽り」は内容的に共通する。彼らは偽りの訴え/非難をもって、どこまでも「わたし」を罪に陥れようと謀(はか)るが、その企(くわだ)ては「空しく」失敗すること。その理由が次の4節に続く。
[4]【御自身に敬虔な者】「敬虔」(ハスィード)は、ヤハウェ(主)に対する信仰を全うする人のことで、主はそのような人を「聖別する/選び分かつ/見分ける」。「彼に忠実な者」〔岩波訳〕「神を敬う人」〔口語訳〕。しかし、「ハスィード」は「ヘセッド」(慈しみ)から出ているから、「主の慈しみに生きる人」〔新共同訳〕の意味にとることもできる。ここを「主は(驚くべき)慈しみを示された」(17篇7節参照)のように読み替える説もある〔Biblia Hebraica978頁注〕〔Briggs. Psalms.(1)33.〕
[5]【怒りに震えても】原語は「怒りに震える」〔パアル態命令形男性複数〕。七十人訳では「あなたがたはたとえ<怒っても>罪を犯すな」〔口語訳〕である(エフェソ4章26節はここから)。しかしこの動詞「ラーガッズ」はパアル/カル態では「震える/おののく」ことでもあるから、ここの命令形をもその意味にとる訳もある。「おののいて罪を離れよ」〔新共同訳〕「怒り震えよ、しかし罪を犯すな」〔岩波訳〕。"When you are disturbed, do not sin "[NRSV]。
【床の上で】これ以下の意味が分かりにくい。詩編の作者は、敵対する者たちに対して、「たとえ、怒りに震えることがあっても、それを口に出すことなく、自制して床の上で静かに己の心に語るがよい。そうすれば罪を犯すことがない」と警告しているのであろう〔Craigie. Psalms 1-50. WBC. Psalm 4.Comments.〕。
[6]【義の犠牲】「自分が犯した罪にふさわしい捧げ物」のこと(申命記33章19節/詩編51篇21節)。ここでは、祭儀的に「ふさわしい」ことだけでなく、己の心をも主に向けて「悔い改めにふさわしい」態度をとるよう勧めている。原文は「捧げ物を捧げよ」で、パアル態男性複数命令形である。なお「捧げ物」も複数。
[7]「多くの人は言う」が、7節の終わりまでを含むのか? それとも「見させてくれる」までなのか? が問題になる。3行目を作者自身の祈りととれば、作者は、自分に敵対する者たちから、ここで「多くの人たち」のほうへ目を転じて、彼らに神の導きに対する疑い/懐疑を見出し、彼は、人々のそのような疑惑や懐疑に向けて、「どうかみ顔の光をわたしたちに照らしてください」と救いを祈り求めていることになる〔新共同訳〕〔岩波訳〕。ただし「人の子たち」が言う内容を節の終わりまでとして、「どうか私たちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光をわたしたちの上に照らされるように」〔口語訳〕という読みもある。
この箇所で、「揚げる」(ナーサー)を「ナーサハ」(追い出す)のニファル態「ヌッサ」「追い出される/取り去られる」と読み替えて〔Biblia Hebraica978頁注〕、7節の終わりまでを民の嘆きの声ととるなら、「み顔の光はわたしたちから遠ざかった/取り去られた」(フランシスコ会訳)という訳にもなる。この詩が、穀物の不作の時を背景にしているとすれば、この節は民の嘆きの声と解することもできるからである。
[8]【与えられた】原語の動詞はパアル態完了形〔口語訳〕〔岩波訳〕他。2節の「自由にした」と同じように、この完了形を祈願の意味にとることもできる。「わたしの心にお与えください」〔新共同訳〕。
【穀物とぶどう酒】「彼らの」とは「人の子たち」のこと。「穀物とぶどう酒」については創世記27章28節/イザヤ書36章17節を参照。なお「ぶどう酒」(ティーローシュ)とは新しいぶどう酒のこと。ここに「油」を加える異読がある〔Biblia Hebraica978頁注〕。
[9]【臥して眠る】原文は「平安に<共に>臥して眠る」で、「共に」を「平安」にかけるなら「平安に満たされて」の意味になるが、後のほうにかけるなら「臥し同時に眠る」となる。「臥して眠る」は確信を表わす強めの形。また「居らせる」の原語は「住まわせる」。