詩編62
       神のみが救いの岩
 
         【聖句】
1聖歌隊の指揮者エドトンに。ダビデの歌。
 
2わが魂は静まりてただ神を待つ         
 わが救いは神から来る。
3ただ神のみわが救いの岩            
 わがやぐら、わたしはびくともしない。
 
4いつまで一人に襲いかかるのか         
 あなたたち皆で人を倒そうとするのか
 倒れてくる石垣、押し潰す塀のように。
5彼らはただ人の尊厳を落とそうとたくらみ    
 偽ることを喜び
 その口では祝福し
 その腹では呪う。セラ
 
6わが魂は静まりてただ神を待つ         
 わが望みは神から来る。
7ただ神のみわが救いの岩            
 わがやぐら、わたしは揺るがない。
8神こそわが救いわが栄えの拠りどころ      
 わが助けの岩、わが逃れ場は神に在る。
 
9民よ、いかなる時にも神により頼め       
 その心をみ前に注ぎ出せ
 神こそわれらの逃れ場である。セラ
10低い人もはかない息             
 高い人も偽りにすぎない。
彼らを秤にかければ皿は上がり
 束ねて載せても息より軽い。
11人からしぼり取って安心するな        
 人からむしり取っていい気になるな。
富みが富みを生む時にも
 それを心の糧(かて)とするな。
 
12神は一つを語られた            
 わたしは二つをそこに聞いた
力は神に在ることを
13主よ、慈愛もあなたに在ることを。    
それは、あなたが人それぞれに
 その業に応じて報いるためである。
 
                       【注釈】
                【講話】
(1)
 「人間」という言葉の示すとおり、人は誰でも孤独を嫌い人との交わりを求める。人の中で自分の存在を確かめたいと思う。特に私たち日本人は、血縁にせよ地縁にせよ職場の縁にせよ、人間関係を「内」と「外」とに分けて、その枠の中にいる同じグループの間で安んじて仕事がしたい、生活したい、という願いが強い。一つのグループに所属して、その人たちの思いやりや心遣いにあずかることできるのは有り難い事である。 けれども、誰でも知っているように、自分の所属しているグループの内部、あるいは外部から何らかの矛盾が出てきたり、それでなくとも人間関係の我(が)の張り合いから争いやもめごとが生じたりすると、その皺寄せを誰か特定の者(たいていは最も弱い者)に押しつけたり、ボスの一言で犠牲者を切り捨てたりする事がどうしても起こるものだ。事柄は違い性質は異なっても、それぞれの場でそれぞれの仕方でこうした類いの事が常に起っている。しかも、こういう場で「公正」とか「正義」を持ち出せば、やんわりと拒否されるか、場合によっては仲間外れにされるのがおちであるのは誰でも知っている。お互い平穏無事で過ごせる間は波風も立たないが、何か事が起こると(これはたいてい「外圧」としやってくる)「正義」や「公正」などのたてまえはどこやら、先ず(当然の事ながら)そのグループの利益を第一に考え、止むをえなければその内の誰かを犠牲にする、こういうやり方で問題を「解決」するのである。
 けれどもおさまらないのは「解決された」者の方である。腹を切るなり自殺するなり一人酒場で憂さをはらすなり、程度に応じていろいろとやりかたはあるのだろうが、それがうまくゆかないとストレス過剰で「何とか拒否」というお定まりのコースを歩む事になる。そんな場合のために、又そんな人のために、私のささやかな経験から申し上げたい。私たちが「一人になる」絶好の機会に恵まれるのは実はこういう時なのである。「ものはとりよう」とは、まさにこういう時のための格言であろう。人生何のためにあるのか、自分は一体何のために存在しているのか、こういう問題に向き合うチャンスなどそう滅多にあるものではない。今までの自分の仕事が一切虚しく見えたり、将来に望みが持てなくなったり、自分の価値に何の意味も見出せなくなったりすればするほどなおさら結構、人生の深淵がパックリ口を開けてあなたを呑み込みそうなこの時こそ、キエルケゴール流の言い方をすれば、あなたは「単独者」となって「真理」と「救い」に極めて近い所に居るからである。なぜなら一切が虚しく「見える」のではなくて、まさにそれこそが物事の真相だからである。神に出会うのは、多かれ少なかれこういう危機と向き合う時である。この詩の2節から5節までは、そういう人、そういう状況に陥った人のためにある。
 何やら人の不幸を期待しているようで申し訳ないが、今の世の中で、何らかの信念なり正義観なり独創性を持ち合わせている「不運な人たち」は、もしそれをどこまでも貫くつもりならば、遅かれ早かれ仲間外れにされる事を覚悟しておいた方が良い。自分の信念なり独創性を発揮しながら、しかも仲間同志でうまくやっていく、そのようなグループが成り立つためには、よほど一人一人がはっきりとした自己を確立していなければならない。残念ながらそういうグループには、滅多にお目にかかれない。このためには、一人一人が「無条件で」認められていなければならない。独創性とは、人には判断できないものだからである。だから現代のように、数字や業績などの、誰が見てもそれと分かる目立つ成果にのみ価値を置き、「何をやっているのか分からない」人などは無視される時代には、真に独創的なことをやろうとする人、自分の納得のいくまで一つの事にうちこもうとする人、ただ祈る人、弱い人、老人、何かの理由で世間並みの仕事ができない人、こういう「役に立たない」人、又このような人たちの面倒を見ようとする人、要するに神様の喜びそうな人は完全に無意味無価値な存在となる。この国で今最も惨めなのはこういう「金儲けにならない」人たちである。ただし何よりも金がかかり何一つ益を生まない軍需産業だけは別である。
 ところで今述べたのとは正反対の人たち、すなわち、健康で能力があり職場の第一線で人に認められ自らもこれを誇りにしている人たち、こういう人たちも、ここは想像力を働かせて考えていただきたい。もし自分が今の立場から脱落したら・・・・・と。さらに、経営者の方々も含めて、事業に熱心な「仕事一筋の人」にも考えていただきたい。自分は「人からしぼりとって安心して」いないかと。「人からむしりとっていいきになって」いないかと。そういう人にも人生の深淵は大きな口を開けて待っている。ただ彼がその事に気がついていないだけである。私の発想は単純である。第一線で活躍している人たち、そういう人たちは「産業戦士」と呼ばれている。「戦争」で功績を立てるには命を危険に曝すぐらいの覚悟が要るはずだ。だから、そういう人は人一倍危険な人生を送っているに違いない。私なりにそう推察する。どうかそういう人たちも「今の内に」考えておいてほしい。一体何のために働くのか、何のために生きているのか、自分とは一体何なのかと。
 こういう言い方をすると、いかにも現実離れした観念的な意見だと受け取られるかもしれない。しかし、現在、この国では、「現実」から落伍して、一人にされ、無価値にされ、少なくとも自分がそういう者だと思い込む、あるいはそうなるのではないかと不安を抱いている人がずいぶん居ると思っている。だから、このような問いかけは「現実離れ」どころか、最も切迫した問題意識だと私は思う。「一人」にされ「無価値」にされ、それでもなお自分に何が残るのかと問う時、あなたは自分の人生を、人の前にではなく神のみ前に持ち出しているのである。
 「わが魂は静まりてただ神を待つ」。この詩の作者は人に認められる行為や業績から完全に締め出され、何一つ人前に誇れるものを見出せない、そんな状況にいる。それでも自分には存在する価値があるのか、こうこの人は神のみ前で問いかける。この篇には行為を現わす言葉がほとんど出てこないのは注意していい。彼は、いわゆる「はみ出した」存在である。少なくとも、この状態での彼には、世間一般の価値基準からみてなんら存在する意義を認められていない。ただ存在している人間、こういう人間がその存在だけで何らかの価値と意味とを持つのか、こういう問いをここに重ねてみたい。言うまでもなく、彼は、自分の無力のうえにあぐらをかいて、開き直って嘯(うそぶ)いているのではなく、「どうせ俺は」と世をすねているのでもない。自分の置かれた状況を冷静に見つめ、その中に生きる意味を探り求めている。「神を待つ」という一言がこの消息を現わす。人間が「神のみ前に」自分を持ち出すとは、裸の自分の「価値」を持ち出す事である。2〜3節と6〜7節の繰り返しは、彼がこの問いを繰り返し自らに問い、それを神のみ前に持ち出している事を意味する。その繰り返しは、単なる繰り返しではなく、繰り返される度に深められ極められていく。彼は言葉を失い沈黙して神のみ顔を仰ぐ。このような静寂の中で、初めて、神は彼に語られる。まるで、彼がこういう静けさの中に落ち入るのを待っておられたかのように。
 彼は一人になり、ただ主のみ前に居る。主のみ前に居るとは主の「み名を呼ぶ」事でる。主のみ名を「呼び続ける」事である。主とは誰か。神ご自身である。神ご自身とは誰か。神が人間に贈られた神の「み言葉」である。神のみ言葉とは誰か。神の独り子なるイエス・キリストである。神のみ前に出るとはこのイエス・キリストのみ前に出る事である。イエス・キリストのみ前に出るとは、そのみ名を呼ぶ事である。これ以外の方法で、主のみ前に出る事はできない。大聖堂も教会堂も知識も地位も血筋も、一切、この場合の「役に立たない」。裸のただ在るものとなってみ名を呼ぶ、そこに、神と人間との出会いが在る。そこに神の御臨在が顕われる。「み名を呼ぶ」、無の空間で行われるこの小さな行為、これが、人間と神との出会いを生じせしめる究極の姿である。神のみ前に在る時、人は、「ただ在る」者となる。何か大きな力に包含され、無限の広がりを有する大いなる「在りて在るお方」の前に出る。彼は沈黙し無にされ、「自己」と呼ぶべきものすら有しない状態になる。ヨハネ福音書の「言葉は神とともにあった」とある「ことば」なるキリストが、御霊となって自分の内に「受肉」するのはこういう時である。こういう事が自分にも「起こる」(ヨハネ1章1〜14節に出てくる「できた」「きた」「なった」は同じ一つの動詞の訳で「生じる」「起こる」「生起する」の意味)、これが福音の核心であり、福音が伝えたいと願うただ一つの事である。「御霊に満たされる」とは、これ以上でも以下でもない。
                   (2)
 もう一度話を戻そう。人の世の石垣の下敷きとなって押し潰されそうな人たちも第一線で活躍する産業戦士たちも考えていただきたい。特に、企業の「上に立つ」ような人たちに考えていただきたい。それは、一体人間を扱うとはどういう事なのかというきわめて素朴な、しかし根本的な疑問である。「国富みて民富まず」と言うが、本当に国が栄える事を望むのなら民が富まなくてはならない。「国」だの「民」だのを持ち出すのは、現在の日本においては、企業経営に携わる人もその下で働く人たちも、自分たちの営みの究極の価値とその基盤を「国」ーー日本国家に置いていると思われるからである。けれども今や、この「国」とそこに生きる「民」、日本の「国民」だけではどうにもならない状態に来ているのが世界の現状である。日本の国が富みその民が栄えるためには直接間接に日本が関わる「国々」「民々」のことを考えなければならなくなった。そういう所へ今私たちは来ている。「民々」が栄える事なくして日本の民も日本の国も栄える事などありえない、こういう認識に立って人間の生きる価値をもう一度考え直すべき時がきている。なぜなら、しっかりした人間観と人間をとりまく宇宙観なくして、世界に通用する一貫した国の経済も政治も外交も教育も文化も成り立たないからである。
 そうは言っても、人間の究極の価値と当面の経営戦略との間には、繋がりどころか矛盾ばかりが目につくというのが本当の所だろう。しかし、江戸時代といわず現代といわず、しっかりした人間観と人間を取り巻く宇宙観、そこから導き出された倫理観、こういうものがなくて経済政策も社会政策も成功したためしがない。「しぼり取り」「むしり取る」、これだけならアメリカ開拓当時の奴隷商人や中国侵略時代の日本の軍需企業と基本的な人間観において変わらない。もしも、そういう「経営戦略」しかないのなら、国といわず個人といわず、その事業は成就する事ができない。そういう国もそういう企業も必ず滅びる。人間の生きる価値に何一つ残さない無価値・無意味な営みとしてあぶくのように消え去る。彼らは「束ねて載せても息より軽い」。国も政治も経済もハイテクも、人間の究極の価値を護る時に初めてその意味を与えられるからである。
 こういう考え方を嘲笑う人たちは、今私たちが直面している本当の問題意識に気づいていないのである。経済の危機が迫っていると言う人がいる。しかし、経済の危機、政治の危機、さらには核戦争の危機よりももっと恐ろしい危機が忍び寄っている。それは人間の心の危機である。この国をも含めて人類全体に忍びよっている密かな「絶望感」がある。この国と言わず世界と言わず、今最も恐ろしいのは若い人たちの間に世界的規模で広がりつつ在る「無気力」「無力感」である。なぜなら、このような無力感は、政治や経済や軍事の危機を助長する事はあっても、これを克服する力とはならないからである。企業も国家も社会も、人々の心の底に潜むこの危機意識を無視しては、新しい展望は開けてこない。様々な危機が叫ばれる中で、この危機こそもろもろの危機の奥に潜む根源の危機ではないのか。これに対処できない国、これと向き合い、この危機を克服できない国民は世界の国々、民々に確信をもって語り行動する事はできない。
 神の前に「無」とされ、ただ存在する、そんなものがどうして企業や国の役に立つのか、こう問われるならば、単刀直入に言おう。このような存在は企業や国の「役には立たない」。問われている事があべこべだからである。むしろ神のみ前で問われるべきは企業や国が、そのような存在にどのように「役に立つ」のかである。神のみ前にある人間存在とは究極の存在である。私たちが今生きている世界に、これだけは絶対に変わらないと言えるものがあるだろうか。会社も、企業も、国も、肉体的存在としての個人ももはやそれ自体で究極の価値を有するとは言えなくなった。国家は永遠である。民族とその魂は永遠である。こういう事が、かっては「不滅の」価値として人間の命よりも尊いものに見えた時代があった。しかし、今はそれらのものは、たとえ重要だとしても、永遠に変わらない究極の価値を持つとは思えなくなってきている。それどころか、うっかりすると、人類という、現在私たちが人間として考えることのできるもっとも究極の価値さえもあやしくなってきている。はたして、「人類」がそれ自体として永遠の価値を持つ概念なのかどうか。現在分かっている限りでは、後50億年ほどすれば太陽は存在しなくなり、当然それまでには、私たちの地球も存在しなくなる。仮に核戦争という人類絶滅の危機を免れたとしても、この現実は変えられない。とすれば、私たちが、絶対にこれだけは大切にしなければならない人間の価値を、現生人類の永続性に求める事すらできなくなっている。
 神のみ前に無となりただそのみ前に「生きる」と言う時、私はこのような状況を踏まえている。人間にとって究極なもの、それはもはや「未来」でも「過去」でもなくなってきている。また、「民族」でも「国家」でも「会社」でも「家族」でも個人の「肉体の生命」でもなく、生物として地球上に存在する「人類」ですらなくなってきている。そのようなものは何一つ究極の存在とは呼べない、そういうところに私たちは今居る。
                  (3)
 私たちが人間としてこの地上に生きる、この事に何らかの価値、不変の意義を見出す事ができるとすれば、それは、今の時を無条件で生かされて在るというこの事実の他にはない。太陽の前に今日を咲く花のように、その時を全身全霊で生かしめられて在る、これである。これが、それだけで絶対の価値を与えられるのは、それが「神のみ前で」在らしめられている時にのみ可能な有り様だからである。何時断たれても、何時居なくなっても、何一つ人目に誇るべき事がなくとも、存在する事それ自体で絶対の価値を持つ、これこそ神のみが与えることのできる最大の贈りものである。神の慈愛に満たされて在る生き方、そんな人間の温もりと輝きを帯びた人生を大切にするような文化とこれを支える政治や経済、そういうものが、これからの世界に何よりも大切なものとなっていく、この事をしっかり心に留めておいてほしい。何かの「役に立つ」ものは究極のものではない。究極のものはそれ自体で存在する。神の御前に立つとはこのように究極の存在となる事である。それ以外に「意味」はない。野の花のように空の鳥のように生きよと主は言われた。愛、喜び、平安、謙虚、思い遣りなどの御霊の実は、こういう所に結実する。人間である事、それは神のみ前に無心となり無邪気とされ、神と交わる者となり、感謝して神をほめたたえる存在となることである。
 このような存在は、現象的に見るならば「虚ろいゆく時の中の一瞬」としか映らず、またそのようなはかない一時の無常の姿と変わらないと思われるかもしれない。「かもしれない」どころか、現象的に見るならば、地上の一時は、まさにそのようなものに過ぎない。しかし、これが永遠性を帯びるのは、それが根源の光り、神学的な表現を使うならば「終末の」光に照らされるからである。終末とは未来ではない。又、しばしば言われるように「人間の」歴史の行き着く終着点ですらない。終末とは、「今」の内に宿る宇宙の根源の言葉、「天地は過ぎ行くとも私の言葉は過ぎ行かない」と言われたあのみ言葉によって生かされる事である。それは、生起する万物を在りて在らしめる命の言葉の力である。このみ言(ことば)の光に照らされた時に、初めて虚ろいゆく一時が永遠性を宿し、不変の価値に恵まれる。これが、人間のみならず宇宙の万有に贈られた神の言葉、「エウアンゲリオン」(良い報せ・福音)の意味である。
 人が神のみ前に一人になる、それは孤独になることではない。それどころか、彼は初めて言葉の本当の意味で神との「間」で人「間」となる。それまで、人と人との間で忙しく動き回り活躍していた時には全く知らなかった仕方で「人間」となる。なぜなら、このような神との交わりの中で、人は、初めて、それまでの自分がいかに人間同士でさえ、「真の交わり」、コイノニアに欠けていたのかを悟るからである。これまでは、「人と付き合って」はいたが「人間と交わっては」いなかったのだと。一人の人をこういう人間として生かせるかどうか。企業も国家も政治も宗教も経済も、一切が、ここから判断される、こういう時代が来つつある。そして、このような価値を究極の目標としない宗教も政治も経済活動も文化も、もはや本当の意味で人間の心をとらえ、これを感動させる事はできない。
                    (4)
 もう一度、始めに述べた「内」と「外」との人間関係に戻ろう。4〜5節で、この詩篇の作者が自分の仲間からいわば排除されているのは注目していい。言い換えれば、この作者は、自分の属する共同体の中心を追われてその周辺に居る。彼は共同体の中心から強い圧力を受けている。石垣の下敷きになりそうな自分の姿を見ている。しかし、彼は倒れない。それどころか「民よいかなる時にも神により頼め」と確固として宣言する。なぜなのか?神が、彼をそのような目に合わせられたのは、そこには何か深い意味が隠されているに違いない。神が、共同体の中心に居た彼をそこから引き離して、彼をいわばその周辺へと追いやった事、それは、その共同体が、すでにそれだけでは成り立たなくなっている事を意味する。聖書の言葉を使うならば、神は、「その場を離れられた」のである。何らかの新しい事態がその共同体に迫っている。それは、共同体にとっては、ある致命的な危機を意味する。そのままでは、その共同体は崩壊し滅びざるをえない、そういう危機が近づいているのを彼の存在は予告している。だから彼は、その共同体と外から迫りくる危機とのちょうど境界に居る。彼は、その視点から、自分の属している共同体の置かれている有り様を見ている。
 一般に「聖なるもの」とは、このように「周辺」、あるいは「境界」に顕現する。神に選ばれるとは、在る意味でこのような「周辺」「境界」の人となる事である。天国と地上との境界、神と人間との境界、そういうところに彼は居る。空間的には、町とこれを囲む不気味な山森との堺(修道院、寺院、学究暝想の場)、あるいは地上と天との接点とも言うべき「山」(シナイの山、変貌の山、シオンの山、霊峰富士)などである。地上には、中心に位置し、その求心力によって秩序を形成する権力が在る。この支配権力から離れたところに「聖なるもの」が顕われる。そこが啓示の場であり、そこから「神の介入」が始まる。その共同体が、新しい危機を察知し、これに対処し、これに従って自己変革を遂げる事ができれば、新たな力を得て新しく出発する事ができる。しかし、もしも神の警告に耳を貸さず頑(かたく)なになるなら、その共同体は滅びる運命を自らに招く。権力を中心とする「内」が、このような「外」からの新しい働きかけに順応する事ができるかどうか。これが、その共同体が生き延びるか滅びるかの別れ目となる。神に選ばれた者は、中心から「外れた」ところに居ると言った。けれども、「外」の世界をも視野に含めて見るならば、彼は、その共同体と外との境界点、つまり、「内」と「外」との両方を取り込んだ新しい共同体の形成するべき世界のまさに中心に居る。ここが彼の発言の場であり、ここから彼は、9節以下の断固とした警告を発する。
 聖なるものとは常に外から来る力である。この世の外、人間の外、民族精神の外、権力構造の外、ここに聖なるものは顕現する。聖なるものとは、共同体に常に自己変革を迫る力である。それは、言葉の根源の意味で「エール」(神・力)なのである。このような力は、究極において、知的な営みを超えた御霊の働きであり、人間の量(はか)り知ることのできない深みと広がりとを持ち、言葉の最も高度な意味で「奇跡」である。「血肉」関係はこれにあずかることができない。
 この篇の作者は、このような聖なる力に引き出され「聖別」された者となった。これが、神のみ前で一人になることの意味である。私は、「個人」とその個人が発揮する創造性とを、このような意味に理解する。真に創造的な営み、それは人間の最も高い能力である。このような人は、それぞれの場で、それぞれの意味で、神のエリート(選ばれた者)である。しかしそれは、いわゆる自我の発揚でもなければ、ましてや自己主張などではない。そういう自己中心の権威主義、傲慢な者、奢(おご)り高ぶった者、これを聖なるものはもっとも嫌う。聖なるものは、それが選んだ者の「周辺に」現われる。選ばれた当人の謙虚で無心な姿は、むしろ、見栄えがしない。しかしまさにその故に、聖なるものは彼の最も高い能力の、しかもその周辺に、ほのかに見え隠れする。ちょうど聖人や仏像の頭の後にほんのりと描かれる光輪のように、それは彼のものであるように見えながら、彼には属さない。聖なるものとは力である。しかし、それは、なんと優しく穏やかな力であろうか。命の力それ自体のように静かに、しかも抗い難くそれは働く。この篇の作者は、このような力に押し出されている。彼は聞いた「力は神のものである」事を。そしてその力は、彼をして、かっての自分の同族に向かい、「いかなる時にも神により頼め」と語らしめる。彼は、そこに、彼と彼の同族に注がれる「神の慈愛」見ているのである。
〔『光露』79号1988年冬より〕
                                           詩編の招きへ