宗教というものを理性的にとらえようとしている人は、この詩に見られるような神との個人的な深い交わりとそこに燃える魂の情熱的ともいえる激しい迫りに対してある種の懐疑と「しりごみ」を覚えるかもしれない。このような人には、神と魂との神秘的な交わりも、単に独り善がりな熱狂にすぎないと映るのであろう。反対に、このような神秘的な合一に宗教的な意義を見出す人は、この詩に見られる魂の深い個人的な体験に自分の姿を確認しようとするかもしれない。確かに、宗教とはある種の「エン・テオス」(神がかり・熱狂)であり、恐らくこの情熱は、人間存在の最も深い、そして古い心層から噴出してくる力であろう。私も宗教は、そしてより厳密な意味での信仰とは、言葉の最も深い意味で「エン・テオス」な状能、すなわちその字義通りの意味で「神の内にある」ことであり、それゆえ、それは「エクスタシス」すなわち「自分以外のものになる/こうこつ状態」を伴うと思う。この詩の全篇に燃えている「あなた」を求める魂の情熱は、確かにこのような奥深い消息を伝えている。わたしにはこれ以外の解釈ができない。詩人は明らかに神の顕現を体験している(3節)。それゆえ彼は「自分以外のもの」とされていて、ある種の深い「こうこつ」の中で神を賛美する(4節/6節)。これを「熱狂」と呼ぶのはそれぞれの判断にお任せしよう。しかしそれはなんという深い、そして謙虚な「熱狂」であろうか。この詩に燃えているのは「冷静な判断」でもなく、その逆の「自己陶酔」でもない。そのような人間の思い上がりとはまるで正反対の姿、「御翼の蔭」に安らう魂である。それは「熱狂」と呼ぶにはあまりに深く静かな「瞑想」であり(7節)、「冷静」と呼ぶにはあまりに激しい魂のこうこつである。私達は、6節から9節に見られるこのような魂の歓喜を、2節にあらわれる「水なく乾いた不毛の地」と10節に出てくる「恐ろしい敵」に挟まれた背景の中にこれを置いてみる時に、初めてその意味を知ることができる。そして、彼がこのような状況の中にあってかくも静かで深い「エクスタシス」と「栄光の輝き」(12節)に包まれていること、それは、その火が字義通りに「彼の外」から来ていることを悟るのである。〔『光露』73号1986年夏号より〕
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