【注釈】
 この詩は、成立こそ捕囚期以後だとされるが〔Briggs.Psalms.(1)〕、これの原型は虜囚前のダビデ王朝時代(の末?)にさかのぼると考えられよう。「聖所」(3節)とあることから、この詩人は敵の手を逃れて聖所に護られつつ、自分の命を狙う敵の滅びを祈り求めているのであろう(3節)。そうだとすれば、2節の「不毛の地から」は比喩的な意味になる。また、表題の「ユダの荒れ野にいた時」(1節)は適切でないことになろう。ただし、聖所から遠く離れて、神の聖所を望み求めているという説もあり(2節)、この詩には謎が多い。全篇を貫くのは、深い内面性であり神と自分自身との結びつきである(42篇/43篇と共通)。この詩は「全詩編の中で最も親しく神に話しかけている」〔フランシスコ会訳聖書(注)1〕と言われるほどである。2節に見られるように、「魂」と「肉体」とを分けているのもの詩に内面的な深さを与えている。
 12節に「王」が出てくるので、この詩篇は、神殿で王の臨席のもとに歌われたとも考えられるが、これは後に加えられた編集であろう。しかし、「王」(12節)の登場によって、この詩の「わたし」が個人であると同時に共同体の代表としての意味を帯びることになる。2節から9節まで、「あなた」が縁り返しあらわれることに注意してほしい。また、訳には出せないが、3、5節の「それゆえ/実に今」に見られるように、各行が力強い響きで始まるのを感じさせる。
 区切り方は訳によってさまざまで、2~9節/10~12節〔新共同訳〕、2~5節/6~12節〔NRSV〕、2~4節/5~9節/10~12節〔フランシスコ会訳聖書〕、2~4節/7~9節/10~12節〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). 〕などがある。なお9~12節を一まとめにする場合、この部分全体を「~である」と平叙文に読む場合と、「~となるように」と祈願にとる場合がある。
[1]表題の「ダビデがユダの荒野にいた」は、2節に「水なく乾いた不毛の地から」とあるから、ダビデが荒れ野で祈り求めている姿からつけられたのであろう(サムエル記上22~23章参照)。サムエル記下15章で、ダビデが息子アブサロムの手から逃れた時を表題の根拠とする説もあるが〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). 123.〕、これだと、10~11節にある「敵の滅び」を求める祈りと合わない。
[2]【あなたこそわたしの神】ここでは、ヤハウェだけが自分の神であると告白している。この「エリ(神)」には「力」というほんらいの意味も含まれているのかもしれないから、「ヤハウェのあなたこそわたしを支える力」ともなる。
【探し求める】原語には「朝早く祈り求める」の意味もある。7節との関連で見れば、「早朝の祈り」の意味に近いか。どちらにせよ、「切実に祈り求める」想いに変わりない。この語は知恵文学、特に箴言によくでてくる(箴言8章17節/同11章27節)。
【肉体も】ヤハウェは「命そのもの」であるから、肉体をも支える。
[3]【それゆえ】原語「ケン」は、「今わたしがしているこのように」の意味もあるから、作者は敵の手を逃れて神の神殿の聖所にかくまわれているのであろう。「今、わたしは」〔新共同訳〕/「かく、聖所で」〔岩波訳〕。
聖所で】幕屋の聖所は、そこで神に出会い神のみ顔を仰ぎ見ることで「救い保護する力」が降臨する場でもある〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). 124.〕。29篇7節に「聖なる輝きに満ちる」とあるのも、聖所での今回と同じ体験を指している(96篇6節も同様)。
【まみえ】動詞は完了形。神の顕現・啓示をヴィジョンとして与えられること。
【観たい】動詞は不定詞。見知って体験すること。現在体験しているとも、体験を祈り求めているともとれる。「見ています」〔新共同訳〕"I have looked upon you in the sanctuary."〔NRSV〕"I see you...and behold your power"〔REB〕/「見るために」[フランシスコ会訳]。
[4]【あなたの慈しみ】原語「ヘセッド」は神からの「憐れみと慈しみ」を指す用語で(89篇34節を参照)、英語の"loving-kindness"はこのヘブライ語から出ている(初出は1535年でカヴァディ-ルによる最初の英訳聖書)。幕屋の「聖所」は、罪の赦しが与えられる贖いの血を注ぐ櫃(ひつ)の場であるから、神の赦しと慈愛に直接接することで、作者は「命よりも善いもの」を体験したと言う。「命を支えると同時に命そのものをも超える喜び」〔Hossfeld and Zenger.前掲書〕を体験したことを指す。「命にまさる」は「命よりも善い」こと。
[5]【命ある限り】神殿の外にあっても「日ごとに」命の続く限り〔Hossfeld and Zenger.前掲書〕。「あがめる」の原語は「祝福する」。
【両手を上げる】原語は「掌(てのひら)を広げて挙げる」ことで、これは特に神の御名を呼び求める祈りの姿勢をあらわす(141篇2節参照)。
[6]【髄と油】原文は「まるで骨の髄と脂肪の食事で満ち足りたかのように」。「髄」はほんらい神に献げて焼き尽くす香りとすべき部分であるが(レビ記7章23~25節)、ここでは、とりわけ神殿で振る舞われる犠牲の動物の「肉」のことをイメージしているのであろう。脂肪を含む「肉」は当時きわめて貴重な食べ物であったから、動物の髄と脂肪の部分は、イスラエルの人にとって最も貴重なものとされた。
[7]この節は直訳すると「私が床の上であなたを思い出し、夜のふけゆくまであなたにあって瞑想する時に~」とも訳すことができるから、この節全体を前の6節にかける読み方と〔NRSV〕、逆にこれを8節につなぐ読み方とがある〔岩波訳〕〔関根訳〕〔Hossfeld and Zenger.前掲書はややこれに近い〕。ここでは新共同訳とフランシスコ会訳聖書に従った。
【覚え】「覚える」と「深く想う」は、神の慈愛を現臨させるための重要な用語である。「深く想う」には「(賛美を)口ずさむ」の意味もある(1篇2節)。
[8]【御翼】古代イスラエルの幕屋の聖所には、アカシヤ材で作り純金で覆われた契約の櫃(ひつ)が置かれていて、その上蓋(ふた)は犠牲の血を注ぐ「贖いの座」と呼ばれた。その櫃の上の左右には、二羽のケルビムが翼を上に伸ばすように広げて、贖いの座を左右から覆っていた(列王記上8章6~7節/ヘブライ9章2~5節をも参照)。しかし、契約の櫃(箱)も二羽のケルビムも新バビロニアによるエルサレム破壊の際に失われたと考えられる(エレミヤ書3章16節を参照)。それでも、主の臨在を象徴する契約の櫃とその上に羽を広げるケルビムの映像は、捕囚期の預言者エゼキエルによって、神の御座と臨在を顕わす霊的なヴィジョンとして生き生きと描き出されている(エゼキエル10章1~17節)。捕囚期以後に再建された第二神殿(ゼルバベルの神殿)では、その至聖所に契約の箱と2本の青銅の柱はもはや欠けていて、聖所と至聖所とを仕切るのはもはやオリーブ材の二つの扉(列王記上6章16節)ではなく、ケルビムの紋様を織り込んだ垂れ幕だけであった(歴代誌下3章14節/シラ書50章1~5節を参照)〔『旧約新約聖書大事典』638頁〕。
 今回の箇所の「御翼」が、この篇の成立の時期から見て、かつてのエルサレム神殿の至聖所にあった2羽のケルビムの両翼を連想させるのかどうか? この点で疑問が提起されている〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). 125.〕。むしろここでは、捕囚期以後のエジプトにいおて、王を抱くように守るホルス(鷹)の翼(両手)か、あるいは王権を守護する女神マートの両翼のことを指すのではないかという見方もある〔前掲書127頁絵図参照〕。ただし、この詩の原型が捕囚期以前のソロモンの神殿時代にさかのぼるとすれば、この疑問は根拠がないことになる。どちらにせよ、子供を抱く親鳥のイメージが、主なる神の御臨在の「お蔭」としてこの詩の作者に臨んでいることに変わりない。
[9]【付き従い】原文の直訳は「あなたの後ろにくっつく」。この語はアダムとエヴァの「結びつき」を想わせる(創世記2章24節)。「寄りすがり」〔フランシスコ会訳聖書〕/「あなたのあとにしがみつく」〔岩波訳〕。
【右の手】利き腕の手として力を表わす(44篇4節/60篇7節など)。前半は「わたし」の信頼で、後半は「わたし」の信頼に応える神からの働きかけである(73篇23~24節)。後半は平叙と祈願のどちらとも決めがたい。
[10]「滅びに」が、「わたし」のことなのか?「彼ら(敵)」のことなのか?これで意味がふたつに分かれる。「わたしの魂(命)を求める者たち、彼らは滅びに(向かう)」〔新共同訳〕〔REB〕、あるいは「わたしの魂(命)を滅びに向かわせようと求める者たち、彼らは地の深いところへ向かう」〔フランシスコ会訳聖書〕〔岩波訳〕〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). 〕〔NRSV〕。
【地の深い所】原語は、ヘブライ的な意味で人が死後に入る地下の「陰府」(よみ)のことである(イザヤ44章23節/詩編139篇15節)。ここでは特に、再びよみがえることがない「滅びの地の底」を意味する(エゼキエル26章20~21節、同32章18~21節)。なお「くだる」とある動詞はパアル態未来形男性複数で、「くだる」と平叙文でよむのか〔フランシスコ会訳聖書〕〔NRSV〕、「くだるように」と祈願の意味に解するのかで分かれる〔新共同訳〕〔岩波訳〕〔REB〕(次の11~12節も同様)。平叙と祈願のふたとおりを提示する訳もある〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). 〕。
[11]【山犬】狐の一種であるが、狐と異なり死体を食べる。戦場の死骸を求めて群をなして出てくる。前半の「剣にかかって殺された」結果、死骸が山犬どもの餌食にされるのであろう。
[12]【神】この篇の「神」は、もとは「ヤハウェ」であったと考えられる。したがって「神に誓う者」とは申命記6章13節にあるように、主の契約に従って誓約した者のことであり、「王」とは、主に従う者達の王を指す。だから「この王に誓う者たち」という解釈も可能である〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). 〕。「偽りを語る」とは、この契約の誓いを破ることであるが、「偽りの偶像」を拝する者達をも含めている。なお最後の行は、もとは欄外の書込みであったのかもしれない。
【勝ち誇る】原義は「ハレルヤ」と言う/「栄光に輝く」。
                    戻る