エクレシアと霊愛
■今回のテーマについて
昨年のこの集会では、人間の人格的な「永遠の命」についてお話ししました。自分でもずいぶん難しいテーマだと思いましたが、とにかく自分が分かるところまではお話ししておこうという思いで語りました。今回のテーマも、これに劣らず難しいテーマです。
わたしは常々、コイノニア会の福音は、東方正教会もカトリックもプロテスタントも含めて、どんなタイプであろうとキリスト教なら通用する福音だと語っています。昨年お話しした永遠の命もそうです。けれども、今晩と明日朝のテーマは、おそらくわたしの語る福音の中で、ある意味で最も特殊な側面でしょう。イエス様を知らずに死んだ人でも救われる可能性があるのか? という問題と並んで、今回お話しする「宗教と霊愛」、すなわち宗教的な寛容の問題は、キリスト教ならどの宗派でも「共通に」わかり合える内容ではないからです。だから、これからお話しするわたしの見解は、プロテスタントの中でも賛否両論だと思います。しかし、わたしたちの先祖がイエス様を知らずに死んだ問題と、今回お話しする宗教と霊愛、この二つは、日本人のクリスチャンなら誰しも避けて通ることのできない大事なことだと思います。わたしたちがこれを考えなければ、世界中のクリスチャンで、これらを「我が事」として真剣に考えてくれる人たちはいませんから。
■山上の教えについて
このように言うと、皆さんは、これからわたしが、常々語ることとは違うことを話そうとしているのか、と思うかもしれません。そうではありません。わたしは、今回のテーマについても、御復活のナザレのイエス様、御霊となって御臨在くださるイエス様から始めたいと思います。しかし、今回は、今までとは少し違った視点から語りたいと思うのです。
イエス様は言われた。「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と言い伝えた。しかしわたしは言う『兄弟に対して腹を立てるものはだれでも裁きを受ける』」(マタイ5章21〜22節)。「昔の人の言い伝え」とは、旧約聖書の時代から旧新約聖書の中間期を経て、イエス様の時代まで伝えられてきたイスラエルの民への教えのことです。山上の教えを聞くと、イエス様は、「昔の」教えを破棄して、全く違うことを教えようとしているかのように思う人がいるかもしれません。しかしそれは違います。
「殺すな」という命令は、旧約ではイスラエルの民の間だけに通用する教えで、例えばサウル王の時代には、異民族(異教徒)との戦争の場合には、逆に敵を殺して絶滅しなければなりませんでした。ところがイエス様は、その「殺すな」を、イスラエル共同体の中のことだけではなく、全人類に普遍する教えとして説かれたのです。「目には目を」とあるのも、復讐は当然の行為として認められていましたが、イエス様は、これを主なる神の御手に委ねて、逆に「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」と驚くべきことを言われました。
イエス様は、それまでのイスラエルの言い伝えとは違うことを教えているように思われますが、実はそうではありません。旧約聖書の教えの最も根本的なところへさかのぼって、そこからもう一度、聖書の教えを「新しく」解釈し直しておられるのです。離婚の問題などは特にそうですね。「神が人を男と女に創造された」(創世記1章27節)とあるところへさかのぼって初めて、イエス様の言われる離婚への戒めの真意がはっきりします。同じことがパウロの律法の解釈にもあてはまります。
■啓示の進歩
これで分かるように、イエス様の教えは、それまでの旧約聖書の教えと矛盾するものでも、これに逆行するものでもありません。そうではなく、旧約聖書の教えをさらに一歩も二歩も<新しく>推し進めたのです。このことは、神様からの啓示は、歴史と共に常に新しく解釈され、人類の歩みと共に啓示もまた進歩することを意味します。三位一体の教えがそうですね。旧約時代には「父なる神」が啓示され、イエス様の到来と共に「御子イエス」が顕わされ、さらに御復活以後では「聖霊の時代」が来ます。
このように「歴史と共に進歩する啓示」こそ、キリスト教の一番大切な特長ですから、このことを心に留めてください。この点では仏教は少し違いますね。仏教では、お釈迦さんが開いた悟りの境地へ到達することが最も大事な修行だとされています。こういう「悟り」の世界は、過去も現在も未来も変わるところがありません。イスラム教でも、「啓示の進歩」に対してはかなり厳しいようです。コーランは、現在でもアラビア語のものだけが正典だとされていて、これ以外の言語に訳されたものは正典とはみなされません。この点、キリスト教では、皆さんご承知の通り、ヘブライ語やギリシア語で聖書を読まなければ、正典を読んだことにならないなどと教える教会はありません。だから皆さんは、日本語で聖書を読んで祈ってくださってなんら問題ないのです。
イエス様は、「神の国」を種に譬えて、人が夜昼寝起きしている間に、「いつの間にか」大きく成長すると言われています。御国は、人類の歴史の中で、いつの間にか広がり大きくなり、「成長する」、すなわち姿を変えていくのです。
■現代のキリスト教の課題
それでは、現代において、キリスト教が直面する最も大きな課題とはなんでしょう? これを考えますと、まずキリスト教の諸教会の「一致」が思い浮かびます。エフェソ人への手紙4章1〜6節を読みましょう。
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。
愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、
霊(御霊)による一致を保つように努めなさい。
体は一つ、霊(御霊)は一つです。
それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるように
招かれているのと同じです。
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
すべてのものの父である神は唯一であって、
すべてのものの上にあり、
すべてのものを通して働き、
すべてのものの内におられます。
ここにはっきりと御復活のイエス様はお一人であり、その御霊も一つだとあって、このイエス様を信じることによる「エクレシアの一致」が語られています。だから、もしも皆さんが、御復活のナザレのイエス様の御霊の御臨在に歩むなら、何派のプロテスタントであろうと、カトリックであろうと、ギリシアやロシアの東方正教会であろうと、霊的に交わりを持つことができるのです。そうでなければイエス・キリストの御霊ではないですね。全世界のクリスチャンが一つになること、これが、現代のキリスト教の最大の課題です。日本であろうと韓国であろうと台湾であろうとアメリカであろうとロシアであろうと、イエス様の御霊にあるエクレシアは一つです。
でも、そんな大きなことではなくても、もっと身近で大事な一致があります。それは、大小様々な集会の中の一人一人の信者同士の一致です。一房のぶどうは、粒はそれぞれ別ですが同じ房です。房ごとにおいしいぶどうが生っていて初めて、そのぶどうの樹全体がおいしいぶどうを実らせるのです。だから、現代のキリスト教の最大の課題は、集会の中で、諸教会の間で、宗派間の間で、イエス・キリストの御霊にある一致を保つことです。信者一人一人が、<このために>御復活のイエス様の御霊に支えられて歩むこと、このことが今求められているのです。信仰は過去から生じ、希望は未来に託し、愛は現在働くのです。
■集会の中の一致
ですから、エクレシアの一致というのは、先ずそれぞれの集会の交わりの中で実現しなければなりません。交わりの根本にはイエス様の御霊の働き、すなわち、その人なりの<聖霊体験>があります。これは、「聖霊」と「体験」という二つから成り立っています。この二つを結ぶ鍵は、人格的な御霊、すなわちペルソナとしての<イエス様の御霊>です。だとすれば、「体験」とは、ここでは<イエス様との人格的な交わり>のことになります。このような交わり(コイノニア)は、父なる神とイエス様との交わりが軸になって、この交わりにわたしたちが加わえられることで初めて、人間同士の交わりが創り出されることなのです(第一ヨハネの手紙1章1〜4節)。これが、新約聖書の「交わり」、エクレシアの根本原理です。
けれども、こういう人格的な交わりは、なかなか難しい。キリスト教の教会の中でも、宗派の違うクリスチャンに対して、「あれは異端だ」とか「あそこは悪霊が働いている」などと言う人がいますね。わたしなんかもつい「それは異端だ」と言ったことが何度かあります。でも、「これはよくない」と最近反省しています。同じクリスチャン同士で、「異端」だとか、まして「悪霊」だとか、そういうことを軽々しく口に出してはいけません。主を心から愛さないこと、兄弟姉妹を愛さないこと、これこそが「最大の異端」なのです。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と言われたイエス様の教えに背くことだからです。
クリスチャンでない人たちとの「人格的な」交わりは、もっと難しいです。わたしなんか、大学の教師をしていた頃には、どうしても成績がいいか悪いかで、クラスの学生たちを色分けしてしまう。言ってみれば、学生は人格ではなく成績の点数です。政治家なんかは、人を見れば選挙の「票」に見えるようです。会社の経営者が社員を人格として扱うことはめったにないでしょう。このように、わたしたちは日常、人と人格的な交わりを持つことがありません。職場や商売の「お付き合い」がほとんどですから。だからこそ、エクレシアの「交わり」が大事なのです。イエス様にある「交わり」は、ほかでは絶対に与えられないからです。
でも、こういう「交わり」はなかなか難しい。どうしてかと言えば、人はどうしても、他人と比較して優劣を決めたがるからです。弟子たちは、いったい自分たちの中で誰が一番偉いんだろうと比べあっていましたね。するとイエス様から、「一番偉い人は他の人の足を洗いなさい」と戒められました。ギリシアはオリンピックの発祥の地だけあって、古代ギリシアでは「競い合い」がとても重要でした。ところがパウロは、この「競い合い」を肉の働きとして厳しく戒めています(ガラテヤ5章26節)。昔から「傲慢は罪の根」だと言わていますが、わたしたち人間には「我(が)」という罪の根っこがあって、これがなかなか抜けないのです。だから、イエス様の十字架の贖いから来る御霊に委ねないと、エクレシアでの交わりがうまくいかないのです。
聖霊体験とは、人と比べて自分が偉いとか、自分には霊能があるとか、そういう「競い合い」や「比べ合い」の世界ではないのですね。むしろ、祈りの内にあって、皆さん一人一人の霊性にイエス様の御霊が現臨するとね、御霊のお働きによって、自我が次第になくなっていく。すると、無の境地に輝く<霊光・霊知・霊愛>の世界が啓けてきます。これが創造する神様のお働きです。この「神の国」が達成されるところに初めて、人と人との人格的なコイノニアが生まれるのです。だからわたしたちは、外面の宗教的な形態がどうであれ、その人の内側を洞察する必要があります。見かけのクリスチャンがクリスチャンではない。「隠れた」クリスチャンこそ、ほんものです。
では「異端」のことから、今度は「異教」のほうです。例えば、現在の皇后陛下は、宮中で神道の儀式に参与しておられますが、その内面はカトリック的なキリストの霊性だと言われています。聖霊は、人格としてのイエス様の霊性です。このようなイエス様の人格的霊性は、座禅を組んでいるカトリックの修道僧にも働きます。仏教の「空」の世界は、イエス様の人格的霊性と対立するものではありません。仏教の空の世界にあっても、イエス様の霊性は少しも損なわれることなく成り立ちます。また、仏教の循環的な時間は、福音の直線的な時間軸と対立するものではありません。両者は組み合わさって螺旋形に進むことができるからです。
また、日本古来の時空一如の「間(ま)」の世界も、福音の終末的な時間軸と矛盾するものではありません。そのままで採り込むことができます。こういう霊性の現実は、教派同士や宗教同士でいくら話し合っても生まれてきません。人格的な個人が、それぞれに与えられた場において初めて実感し、そのような場を通じて「創造されて」いかなれば、どうにもなりません。平和の交わりが、二人三人の小さな交わりの中で達成されないのなら、いくら教派や宗団の間で「一致」を叫んでみても、これを達成できないのです。
■宗派間の一致
ユダヤ教でもキリスト教でも、ほかの宗教でもそうですが、外部から様々な批判や非難や攻撃に曝されました。暴力的な攻撃だけでなく、言葉や教義による攻撃にも曝されました。これに対抗するために、ユダヤ教もキリスト教も、確固とした教義や祭儀や権威化した制度を整えて、宗派や宗団の会員数を増やすことによって、ユダヤ教、あるいはキリスト教という「宗教組織」を作り上げたのです。カトリック教会から分かれたプロテスタント諸派の場合も同じです。プロテスタントのそれぞれの宗派は、批判や攻撃から身を守るために、小さくまとまって団結しました。その結果、プロテスタントは、言わば「ミニ・カトリック宗団」の寄せ集めになったのです。だから内村鑑三は、もしもわたしが教会に加わるのなら、プロテスタントではなく、ほんらいのカトリック教会に入ると言ったほどです。
このように<武装した宗派>を信奉している人たちから見るならば、宗派や宗団を超えた個人個人の御霊にある交わりは、あまりにもひ弱で、やがて宗派の間で埋没するとしか映らないでしょうね。埋没するのならそれでもいいですよ。しかし、確かなのは、そのように武装した宗団からは、ほんとうの寛容や平和な交わりは絶対に来ないことです。なぜなら、そういう鎧こそ、宗教同士、宗派同士を対立させる道具建てにほかならないからです。宗教や宗派の名で「平和と一致」を説きながら、自分の宗教や宗派のことになると、とたんに争うというわけで、「衣の下の鎧」の本音が透けて見えるのです。
では、御霊体験さえあればそれで解決するのかと言えば、これがまた難しいです。聖霊体験が逆に分裂を引き起こす例をわたしたちは何度も見ています。パウル・ティリッヒは、有名な神学者であり思想家で、1960年に日本を訪れてから、『キリスト教徒・仏教徒:対話』(丁野政之助訳:桜楓社、昭和42年)という本を出しました。彼はこの本で次のように述べています。
「初期キリスト教の聖霊の宗教は、ローマ帝国の迫害において自己を権威化し、律法化しなければならなかった。このように、権力や律法主義・権威主義の前には、自由なヒューマニズムと聖霊の宗教はもろくて弱い存在に見える。しかし、本当の危険性は、聖霊とヒューマニズムが、組織的宗教や疑似宗教組織に圧倒されることではなくて、聖霊の宗教が、組織的な宗教の暴力から身を守ろうとするあまり、自分を攻撃するもののイメージに自分自身を形作るようにさせられることなのである(前掲書17頁)。
神道や仏教には民主主義の象徴が欠けている。しかし、現在の日本は、再び悪魔的な国家主義に陥ることはできない。そこに現在の日本の空白がある。この空白は何によって満たされるのか? この問いは<人類共通の問い>である(前掲書31頁)。
イエス・キリストの<普遍性>は、諸宗教を否定することでも、それらを混合することでもない。むしろ、それが受け入れるすべてを、究極の基準(ultimate criterion)に従わせることなのである。この方法でキリスト教は、他のいかなる宗教とも優劣を争うことなく、これらを総合して中世へと入ることができた(前掲書42頁)。」
ティリッヒはここで「自由なヒューマニズムと聖霊の宗教」と言っていますね。これは、ただの熱狂的な「聖霊」のことではありません。古今東西の霊性をその内に包含する広い霊性に根ざす「聖霊」のお働きのことです。わたしが「知恵の御霊」と呼んでいるのがこれです。ユダヤ教もキリスト教も仏教もヒンズー教も含めて、人類は、どんなに遅く見ても10万年前には、火と道具と言語と弔いの宗教を持っていました。これら四つは、どれも人間をしてそれ以外の動物からはっきり区別する特長です。人類の宗教は、エジプトでもメソポタミアでもインドでも中国でも、それぞれに長い歴史を経て「知恵」思想を育んだのです。
■現代文明の危機
ところが、火と冶金/製鉄の文明が自然を破壊し、道具が核戦争を引き起こし、言語がののしり合いによる分裂を産み、宗教が人間同士の交わりを隔てる、ということが現在の人間世界で起こっています。けれどもわたしたちは、この世界の現状に目を奪われてはいけません。もしもこれが、人間界の「自然な」状態だと言うのなら、わたしたちはこういう「自然/本性」(nature)を乗り越えなければなりません。人間には、こういう能力、「自然」を超える能力が神様から与えられているのです。
聖霊体験によって、自我の罪の有り様を気づかせられて、そこから知恵の御霊に導かれて、次第に自我を脱却していく。イエス様の霊性に根ざす人格が与えられる時に初めて、人と人との人格的な「交わり」(コイノニア)が開かれるのです。二、三人の小さな交わりが成り立たなければ、宗派間の交わりなどありえません。キリスト教の宗派や教派の間の交わりが成り立たないのなら、異なる宗教との間の交わりなど成り立つはずもありません。異なる宗教を信じる人同士の交わりが成り立たなければ、人類の一致や平和が訪れることはありません。
現状では、これの達成は難しいように見えます。しかし、イエス様の御霊は、父なる神から出て、人間の本性や性質を超える働きをしてくださいます。だから、たとえ困難に見えても、知恵の御霊は現在でも働きつづけておられます。だから恐れないで、御霊のお働きに身を委ねて祈り、祈りつつ歩み続けましょう。イエス様は、「あなたがたが互いに愛し合うならば、世の人々はこれを観て、あなたがたがわたしの弟子であること知るようになる」(ヨハネ13章35節)と言われました。「あなたがた」とはエクレシアのわたしたちのこと、「世の人たち」とは、わたしたち以外の諸宗教の人たちのことです。霊能も知的な探求も人を福音から逸(そ)れたほうへ向かわせる危険があります。しかし、愛は、異端や誤りから無縁です、御霊にある愛こそ、今この時に働く神御自身だからです(第一ヨハネ4章7〜12節)。祈ります。
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