天皇制と霊愛
■神道と国家神道
前回は、個人の霊性から始めて、キリスト教の諸集会・諸宗派の間の平和と一致こそが、異なる宗教間の平和と一致につながり、それが人類の平和につながる、ということをお話ししました。今回は、これに続いて、異なる宗教同士の一致の問題を、イエス様の御霊の視点から観ていきたいと思います。このための手がかりとして、わたしたちに最も身近な天皇制を採りあげることにします。
「天皇制について」の資料をお読みくださった方は、「天皇」「天皇制」「象徴天皇制「神道」「国家神道」「偶像礼拝」「異教」という言葉が出てくるのに気がついたと思います。これらは相互に関連しあっていますが、わたしたちは、これらの言葉をきちんと区別して使うようにしなければならないと思います。
先ず「神道(しんとう)」と「国家神道」とを区別してください。「神道」とは民間で信じられている神社のことで、京都で言えばさしずめ八坂神社などがこれにあたります。鎮守の森の社(やしろ)とこれを祀って御神輿を担ぐ村祭りなどもそうです。これはご存知の通り歴史が古く、日本の各地にそれぞれの神社とそこの祭りが行なわれてきました。ところが、明治になると、天皇を中心とする「国家神道」が政府の指導によって形成されてきて、これに伴って地方の神社信仰も制限を受けるようになります。明治神宮や靖国神社が建てられて、天皇を現人神(あらひとがみ)として崇める祭政一致の「国家神道」の体制ができるのです。
国家神道が最も重視したのは軍隊と教育で、このために軍人勅諭(ちょくゆ)と教育勅語(ちょくご)が発布されました。「勅」(ちょく/みことのり)とは、国会も憲法も超えていて、直接に天皇から出たという意味です。だから、その内容は絶対で、これを憲法に照らして裁判によって争うことはできません。現在の日本で言えば、防衛省と文部科学省の基本方針は、国会で討論することも議論することも許されなかったのです。まして、国民が裁判で勅語と勅諭の内容について訴えることなどできませんでした。だから、国家神道とは、<国家権力>と直接結びついた制度であり組織のことです。ちなみに国家の「主権」とは、思想教育と軍隊と税金、大きく言えばこの三つで成り立っています。だから、現在の教育と軍隊と税金とがどちらを向いているかを見れば、この国がどこに向かっているかが分かります。
■宗教と国家権力
神道にせよ、ほかの宗教にせよ、宗教と国家権力と文化との関係は一様ではありません。そこには様々な形態がありえますから、神道と天皇制と日本文化が「良い」のか「悪い」のか? というような議論自体が意味を持たなくなります。「良い」「悪い」を論じるのなら、どの時代のどこの宗教と国家権力のことなのか、これを明確にする必要があるからです。戦時中の日本の国家神道に基づく国家権力を「天皇制ファシズム」と呼び、このような「天皇制国家神道」を「悪」だと弾劾するのは正しいです。
しかしそれなら、例えば、ナチス政権下の国家キリスト教のドイツ、ムッソリニー政権下のカトリックのイタリア、3000人を粛正したと言われるピノチェト政権下のカトリックのチリー、タリバンの支配下のイスラム教のアフガニスタン、ミロシェヴィッチ政権下の東方正教会のセルビア、これらに加えて、マルクス主義もまた擬似宗教だと考えるなら、スターリン支配下のソ連、チャウセスク政権下のルーマニア、ホーネッカーの東ドイツ、150万人を虐殺したポルポト政権下のカンボディア、金正日(キムジョンイル)の北朝鮮などなど、「悪」の宗教的国家権力の例は歴史上いくらでもあります。だから、神道が良いか悪いか? 天皇制が良いか悪いか? と問うのは、キリスト教が良いか悪いか? イスラム教は良いか悪いか? マルクス主義は良いか悪いか? 君主制はどうか? 大統領制はどうか? などと問うのと同じで、あまり意味がないのです。
■偶像について
次に「偶像礼拝」について考えます。「偶像」とは何か? それは「まことの神でないもの」のことです。真の神でない「偽りの神を拝む」ことを偶像礼拝と言います。だからティリッヒという人は、偶像礼拝のことを「有限のものに無限の価値を与えること」と定義しています。永遠でないものを永遠だと思い込むことも偶像礼拝なのです。
聖書に「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3章5節)とあります。「貪欲」はギリシア語で「プレオネクシア」ですが、これは「もっともっと自分のものにしようとする欲望、人の権利を踏みにじっても自分の所有を増やそうとする欲望、取ってはならないものまでも手を伸ばして自己のものとすること」〔織田昭『ギリシア語小辞典』〕です。「貪る者は偶像を拝む者である」(エフェソ5章5節)という御言葉もあります(この読み方は新共同訳と少し違いますが)。
では、偶像礼拝はなぜいけないのでしょうか? それは、偶像は常に生け贄(いけにえ)を、それも<人間の>生け贄を献げるよう求めるからです。古代のイスラエルでは、穀物が豊に実るようにと、偶像に自分の子供を生け贄にささげたことがあります(列王記下23章10節)。これが「偶像礼拝」の本質です。金儲けのために人間の血と命を搾り取る企業、侵略戦争のために人間の命を「血祭り」として犠牲にする国家権力、自分の欲望のために相手を殺すストーカー、自分の知的研究のためなら人間の命をも犠牲にして人体実験を行なう医学者たち(かつての満州での731部隊のように)、これらが現代の偶像礼拝者たちです。利益追求の金銭欲、倒錯した性的情欲、武力をも含めた暴力、冷酷な知力、高ぶりの権力、この五つが現代の典型的な「貪りの偶像礼拝」です。
戦時中の「天皇制国家神道」は、国家権力と一体になり、人間天皇を現人神(あらひとがみ)として礼拝させることによって、300万とも言われる日本人の命を犠牲にして、しかもこれをはるかに上回るアジアの諸国民を「血祭り」(フィリピンの日本兵による住民虐殺)にあげました。これが偶像礼拝です。現在の日本でも、「戦争を否定する者は人間を否定する者だ。なぜなら、人間は国家のために生きるべき者だからだ」〔小林よしのり著『戦争論』から〕のように、戦争と国家権力とそして天皇制とを結びつける者たちがいます。ただし、このような知的で暴力的な偶像礼拝者は、現在のアメリカでもドイツでも、イスラム世界でもインドでも、マルクス主義の国でも、所を変え品を変えて世界中のどこにでもいます。
■象徴天皇制は偶像礼拝か?
ここまで来て初めて、わたしたちは、現在の日本の象徴天皇制が偶像礼拝かどうかを問うことができます。天皇が即位の際に大嘗祭を執り行なうことで「神化」されて、「皇祖天照大神の御魂を継いで神のお仲間入りをする」と言われています。しかし、ここで言う「神化」とは、キリスト教の受肉思想のような神学的な内実を指すのではなく、むしろ「カミ」と「見立てる/見立てられる」という「見立て」の思想が背後にあると考えられます〔富坂キリスト教センター編『キリスト教と大嘗祭』新教出版社(1987年)27頁〕。昭和天皇がご自分をほんとうに「カミ」だと信じたかどうか分かりませんが、戦前・戦中の天皇が、「現人神」と<見立て>られて、ご真影などによって崇拝の対象にされていたのは事実です。このために昭和天皇は、戦後わざわざ「人間宣言」を行なって、御自分がカミでは<ない>と告げられたのです。
しかし、象徴天皇制のもとにある現在の平成天皇が、即位の際の大嘗祭によって、ご自分をカミと<見立て>ておられるかどうかは疑問です。おそらく天皇御自身は、自分をカミだと見なしてはおられないでしょう。国民も国の象徴として尊敬はしていても、天皇をカミと<見立て>ているとは思われません。さらに皇后陛下の場合は、ご自分の立場が、人間を超えた超自然のお方から授けられたという自覚を持っておられると拝察します。皇后様は、かつてフランスの哲学者をお招きになって、「自然のカミと超自然の神」との違いをご質問されたことがあります。皇后様の場合、その霊性はイギリスやヨーロッパの王室の霊性に近いと言えるでしょう。
万が一にも皇室が、かつてのような国家神道に乗せられて「現人神」として軍国主義的な日本の代表にされるならば、アメリカと中国とロシアの三角形の真ん中に位置する日本の皇室は必ず消滅します。日本の皇室が万世一系であるとは、そのような愚を犯さないことによって、長い歴史の変化に巧みに順応してきたからにほかなりません。おそらく皇室は、これからもその伝統を活かして、歴史の波に対応して行くと予想されます。極端な予想を立てるなら、将来イギリスの王女(プリンセス)が、日本の皇太子と結婚することさえありえます。それくらいの順応性を日本の皇室は具えている思われるからです。
日本の天皇制が、<今もなお>イエス・キリストの福音に敵対すると考えている人たちがいます。しかし、かつての日本やイギリスの封建制度の領主たちが、中央集権体制が整うに従って、単なる貴族となっていったように、日本の天皇も、EUに参加した場合のイギリスの王室と同じように、やがては、世界連邦政府という、より大きな権力の下にある一名門貴族になる日が来るでしょう。
福音の本当に恐るべき敵(サタン)とは、世界連邦が出来上がった後に、聖書に書いてある通り、サタンが、その権力を利用して全世界を征服するという図式なのです。だから、日本の天皇制は現状を維持し続けていくのが、最も賢明であり、かつそうなるでしょう。もっと大きな規模で、<新たな偶像礼拝>を通じて全世界を支配しようとする悪魔(サタン)こそ、わたしたちが最も警戒しなければならない敵なのです。
■仏像と偶像礼拝
仏像は、唐の時代頃から人間的な姿に近づくようになります。こういう仏像は人間の理想像ですから、人は仏像に接することで、自分のうちにそのようなホトケ(仏性)が存在することを自覚するようになるのです。いわば仏像を通じて己の心を見つめ、これによって悟りの姿に近づくわけです。悟りの目で見るならば、森羅万象悉有仏性(しんらばんしょうしつうぶっしょう)です。このように、仏教の仏像は、人間のうちに潜む仏性を自覚させるのがほんらいの意味でしょう。
一般にキリスト教で「偶像礼拝」というのは、仏像やその他のさまざまな像を拝むことだと理解されています。しかし、絶対的でないものを絶対化することを偶像礼拝だと定義するのならば、日本人が仏像を拝するのは、必ずしも偶像礼拝とは言えないようです。この場合、次のふたつのことが見過ごされています。
第一に、仏像を拝んでいる人でも、その像がそのままで絶対的な存在だと思って拝している人はほとんどいないことです。目の前の像が、仏の悟りの姿を現わしているけれども、それは、悟りとか仏性とか、何か目に見えないものを「映し出す」ものではあっても、それ自体が仏の化身そのものだとは信じていないと思います。
第二に、日本人は、逆に絶対的でないものを絶対化した場合に、どんなに危険な事が起こるかをよく知っていることです。日本人が偶像礼拝者だと非難される場合に、この二つの点で誤解されていることが多いようです。見える像であれ、人間の頭脳が生み出した想念であれ、絶対的でないものを絶対化することがどんなに恐ろしい結果を招くかを日本人はよく知っています。だから日本人は、物事を相対的に見ようとして、簡単には絶対的なものを信じないのです。こうすることが、最も安全な道だと考えるからです。
仏像は、これを拝する人の心に潜む仏性を自覚させる働きをします。仏像を拝むことが偶像礼拝であると言うのであれば、十字架のキリスト像を拝することも偶像礼拝にならないでしょうか? キリストのイコン像に口づけすることも偶像礼拝にならないでしょうか? 聖母マリアの前で十字を切ることも偶像礼拝にならないでしょうか? このように言えば、仏教の世界もキリスト教の世界も、ヒンズー教の世界も儒教の世界も、原始宗教から現代の宗教まで、世界中が偶像礼拝に満ちていることになります。
先に説明したように、偶像礼拝の最も恐ろしい点は、己の信じる偶像に人間を生け贄として献げることです。ところが最近の傾向として、偶像礼拝から最も遠いはずのイスラム教徒が、彼らの言う「異教徒」を血祭りにあげる例が増えています。なんと彼らは、自国の女性たちを殉教者としてアラーの神に献げるのです。見える偶像をいっさい否定しているはずのイスラムの宗教イデオロギー(宗教思想)が、今、最も恐ろしい異教徒への攻撃を強めているのです。宗教思想こそが、現代の最も恐ろしい「偶像」であり、これを礼拝するイスラム原理主義者やキリスト教原理主義者たちこそ、現代の偶像礼拝者です。人間の知的な営みが歪むと、己の信念に従って、平然と他民族を虐殺するからです。「人が人に狼となる」"Homo homoni lupus." のです。これほど恐ろしい偶像礼拝を行なうものはないと言っても言い過ぎではありません。
■異教への寛容
ここまで来てわたしたちは初めて、今世界のキリスト教に求められている一番大事な課題が何かを悟ることができます。それは宗教的寛容、言い換えると他宗教、いわゆる「異教」ですね、これにたいして寛容な姿勢を貫くことです。これが、4千年のユダヤ=キリスト教の歴史で、最後に残された最大の課題です。ご存知の通り、欧米のキリスト教は、いぜんとして異教敵視の伝統から抜け出せずにいます。異教徒との和解と平和、これが達成できるかどうかが、21世紀以後のキリスト教の、と言うよりも世界の宗教の最大の課題なのです。
今までお話しして、お分かりかと思いますが、わたしは、キリスト教も仏教もイスラム教も神道も、全く同じレベルに置いて見ています。これらはどれも、「人間の営み」としての「宗教」だからです。核兵器の廃絶を訴える平成天皇の日本と、核兵器を正当化するキリスト教のブッシュ大統領のアメリカと、神の御前に、いったいどちらが正しいのでしょうか? だから、今のキリスト教に最も大切なのは宗教的寛容です。実はパウロが、その模範を示しています。彼はなんと、割礼や食物規定などのイスラエルの律法を当時のヘレニズム世界の異教と同等に扱っているのです(ガラテヤ4章1〜11節/コロサイ2章16〜23節)。パウロは律法による行ないさえも「人間の業」にすぎないと見ていますね。相手を愛するとは、イエス様にあってその人を人格として観ることです。人格として観るとは、その人を、国籍や宗教や性別によらないで、一人の個人として接することです。ここまで来ると前回の話とつながってきますね。個人と個人との交わりが最も大事なのです。善いサマリア人は、ユダヤ人の旅人を一人の人間として、その個人の隣人になってあげた。あなたも行って、同じようにしなさいとイエス様は言われたね。
■日本とキリスト教
現在の日本では、宗教的には、神道あり、仏教あり、儒教あり、少数ながらキリスト教あり、それぞれの系統に属する大小無数の教祖宗団があります。また、日本を取り巻く周辺には、仏教・儒教・キリスト教の韓国、同じように諸宗教を含む共産党の中国、同様なヴェトナム、東方正教会のロシア、カトリック・キリスト教のフィリピン、イスラム教のインドネシアやマレーシア、仏教のタイやミャンマー(ビルマ)、プロテスタント・キリスト教のオーストラリアとニュージーランドがあります。国内と周辺諸国のこれだけ様々な宗教に囲まれているのですから、日本はまさに世界の宗教の縮図ですね。ところが、日本が置かれているこのような状況は、宗教的に見ても、福音的に見ても、将来への大きな可能性に満ちているのです。
日本のいわゆる「キリスト教徒」が1%に満たないと嘆いている宣教師さんたち、天皇制は悪霊だと罵る日本のキリスト教の伝道者たち、仏教や神道を邪教だと信じる日本のキリスト教の信者さんたち、わたしは、こういう人たちに申し上げたい。日本は現在、世界中のどの民族もどの国も、歴史的に体験したことのないような複雑な宗教的状況に置かれているのです。ところが、「このこと」こそが、これから21世紀の「新しいキリスト教」が生まれてくる豊かな土壌となるのです。
宣教師の方々にわたしは申し上げたいです。どうぞ、自分が持ち込んできた「キリスト教」を日本のこういう宗教的状況の中でもう一度じっくり吟味し直していただきたいのです。そうすれば、この日本の宗教的状況の中から、「未来のキリスト教」のあるべき姿が見えてきます。そして、あなたがたがここで見たり発見したことを、今度は本国のキリスト教徒たちに伝えていただきたいのです。おそらく既成の伝統的な「キリスト教国」の人たちには、およそ想像もつかない世界がここにはあるからです。日本は、世界でもまれに見る、貴重な「宗教的実験場」"religious laboratory"です。
だからわたしは、現在の天皇制を打倒して、大和民族主義のキリスト教国を建てようなどとは考えません。日本は今、世界に先駆けて、福音的に最も重要な課題に直面しています。それは、過去のキリスト教が十分解決してこなかった大きな課題、「他宗教との寛容」の問題です。わたしは、日本のキリスト教こそが、これからの世界のキリスト教への大事な指針となると信じています。それは、日本のキリスト教が強いからではなく弱いからです。わたしたちが多数派ではなく、ごく少数派だからです。キリスト教的な政府によって保護されているからではなく、政治権力とは無縁の所に置かれているからです。神の御前では、強さは弱さになり、弱さは強さに転じます。
福音とはナザレのイエス様を通して啓示された神がお始めになった信仰です。昨夜と今朝お話しした意味で、<偶像を拝むな。兄弟姉妹を愛せよ。他宗教と和解せよ。>これが、皆さん一人一人に課せられた大事な課題なのです。どうぞ皆さん、このことを心に留めて、交わりの一致に努め、イエス様の御霊の御臨在にあって、自分自身の霊的な成長のためにお祈りください。イエス様は言われましたね。「神の国は、蒔かれる時にはどんな種よりも小さいけれども、成長すると大きくなる」と。これが、会誌『コイノニア』の表紙にある"A Rising Christianity" が意味していることです。