2010年秋期 東京集会
祈りの世界
(前篇)
■祈りの聖句
【ルカ11章9〜13節】
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。
【フィリピ1章2〜6節】
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
【コロサイ1章14〜17節】
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
【エフェソ4章23節】
心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身にまといなさい。
■主客一如の世界
今日は、皆さんと共に、祈りと御霊の世界について学びたいと思います。昨年、この東京集会の翌日に、石田さんに案内されて、新宿の朴東先(パクトウセン)先生の集会に出席して御言葉をとりつぎました。集会が終わって、先生が握手しに来られた時に、ツーンと鼻をつくような香水の香りがしたのです。後で、石田さんの奥さんに確かめたところ、朴先生は香水をつけておられないということでした。石田さんご夫妻も、同じように先生から香水の香りがするのを体験したとのことです。先生は、祈るとこのようなことが起こるそうです。なるほど、後でご一緒に写真を撮った時には、香りはしませんでした。
香水の香りは、五感の一つですから、これは完全に客観的、物理的な世界の出来事です。しかし、その出来事が祈る時に生じるのであれば、祈りは、おそらく皆さんの考えでは、主観的な世界のことだと思っておられるでしょう。ところが、祈ると香りがするのですから、これは主観的な祈りと客観的、物理的な出来事とが一つにならないと起こらないことです。このことは、祈りが、主観だけではない、客観だけでもない、主客一如の世界で起こることを現わしています。こういう主客一如の世界が現実に存在していること、このことを意味します。私が「霊的」というのは、この意味で、見えない主観の部分と外からも見える客観的な部分とを一つにした世界のことです。
でもある人たちはこう考えるかもしれません。別に祈って香水の香りを出さなくても、化粧品店でシャネルの香水をつけたほうが、よほど効果がある。これならお金を出せば、祈る人も祈らない人も誰でもつけられるし、第一香水の香りは、何時までも続くから、そのほうがよほど効率的でいいとね。科学技術の力のほうが信仰の力よりずっと確かで信頼できる。こう考える人がきっといると思います。
同じことが祈りによる神癒の場合にも当てはまります。祈りによって病気が癒やされる場合があります。これも主観(祈り)と客観(身体が治る)とが一つになって起こる現象です。しかし、癒やされない場合もあります。実際は、祈っても癒やされない場合のほうが多いでしょう。神癒はだからそう簡単には起きません。それなら、神癒に頼らなくても、病院で医者にかかって治すほうが、よほど確かです。第一、祈りがあるなしにかかわらず医療で病気を治すことができますから。
香水と癒しの例で分かるように、外見的には同じ出来事でも、そこに二つの違った意味が含まれています。一方は祈りと神様の奇跡(しるし)の世界、もう一方は、人間の理性と科学技術の力の世界です。神様のお働きのほうでは、誰に起こるのか、誰には起こらないのか不確かですが、科学技術の世界では、誰であっても確実に起こる現象です。だから信仰より科学のほうが確かだ。こう考える人が多いのです。
ところが、信仰と科学とのこの二つの出来事は、全く意味が違います。 科学技術で作り出すほうは、「香り」とか病気の「身体的な治癒」のように、出来事の客観的で物理的(身体的)な面だけに限られています。科学技術は、客観的で物理的な世界だけしか扱いませんから、これは当然です。そこには、信仰も要らなければ、祈りも必要ありません。信仰の出来事は神様が起こす出来事ですが、科学技術のほうは人間が起こす出来事です。だから宗教の世界は主観的で、科学の世界は客観的だと人々は考えるのですね。
ところが先に指摘したように、祈りによる香りと癒しは、主客一如の世界で起こることなんです。この世界は、科学技術の世界だけではどうにも理解できません。また、主観的な世界のことだけでは祈りのほんとうの力も意味も理解できません。なぜなら、信仰による香りと癒しは、科学技術による現象とは全く異なる<意義>を帯びているからです。ではその意義とは何でしょうか?
■価値観の世界
それは「神様を信じる」ことによる霊的な出来事か、そうでない出来事か、この違いです。聖書の言う「奇跡」(しるし)と自然現象とは、ここが違うのですね。「どこが」違うのか? 神様を信じる信仰とは、正しいことを行なうとか、罪を犯さないことを含んでいますね。だから祈りと信仰の世界には、「正しい」とか「悪い」とか、「義」とか「不義」とか、「罪」とか「赦し」とか、「悔い改め」とか「憐れみ」とか、「傲慢」とか「謙虚」とか、こういう「価値観」が含まれてきます。一方の科学技術には、そのような価値観は要りません。客観的な外側の世界だけを扱うのですから当然です。
これで分かることは、祈りは主客一如の世界で働くこと、それだけではなく、もっと大事なことは、祈りは、「罪」や「悔い改め」や「赦し」、「愛」や「悦び」や「平安」などという<価値観>と深くつながっていることです。祈りの世界は、主客一如の世界であり価値観の世界なのです。こういう価値観を含む世界が、<現実に存在して働いている>こと、これが祈りの世界の最も大事な点です。
では価値観とは何か? 上にあげた価値観を表わす言葉は、どれもわたしたちの「人格」 "personality" と深く関係しています。祈りに含まれる価値観とは、神様と人間との人格的な関わり合い、神と人との「交わり」に関係するのです。祈りに働く「力」とは、神様が人を通じて働く「交わり」の世界で起こることなのです。神は「求める者には必ず聖霊を賜わります」(ルカ11章9〜13節)。
■人と宇宙
わたしたちが今見ている宇宙は、ほんの一瞬にして創造されたそうです。その時から135億年経っていて、今もなお膨張を続けているそうです。その膨大な宇宙の片隅にある小さな太陽系に属するごく小さな地球にわたしたちは住んでいます。太陽は、出来てから50億年経っていて、残り50億年でなくなるそうです。地球も出来てから45億年経っています。わたしたちは、こういう宇宙の片隅にある地球にいる極微の存在です。しかも、わたしたちは、それぞれ10億とも言われる細胞で成り立っています。一つ一つの細胞には、遺伝子が組み込まれていて、そこではDNAが絶え間なく動き変化し続けています。しかも、すべての生命の源は、このDNAから始まると言われています。
このように、わたしたちの存在は、宇宙が創り出したものです。だから、わたしたちに働いて一人一人を動かしている「力」は、宇宙を動かしている「力」と同じ力から出ているのは確かです。「力」はヘブライ語で「エール」(神)です。宇宙が存在しなければ、自分は存在しません。だからある人は、宇宙が分かれば、人間が分かり、人間が分かれば、自分が分かると考えます。しかし、これを逆にして、自分が分かれば宇宙が分かる、こう考えた人がいます。西田幾多郎という哲学者ですね。だから西田は、「自己」とはなにかを真剣に考えました。デンマークの哲学者で、キェルケゴールというキリスト教の哲学者も同じように考えました。自己の存在を世界と、その世界の奥に存在する「永遠」と関連づけて考えたのです。彼は人間の「実存」ということを考えた最初の人です。この「わたし」という人格的な実存には、宇宙を創造した神様のお力が働いている。だから、神様の力がわたしたちに働く時には、わたしたちの「信仰」を通して働く<価値観を含む>人格的な力が働いていることが分かるのです。「万物は御子にあって造られた」(コロサイ1章14〜17節)とあるとおりです。
■御霊の命
わたしたちは通常、自分の「命」を考える時に、生物学的な生命現象のことを考えます。だから、「病気が治る」という生物的で物理的な現象だけに目を留めて、これを物理的に手術や薬品によって病気から自然の生命体へ戻そうとします。しかし、このような物理的な医療の世界は、起こっている現象のほんの上っ面だけの出来事です。そこには、価値観は存在しません。善人であろうと悪人であろうと、治療を受けると病気が治るからです。だから、このような癒しは、一時的です。
しかし、信仰による霊的な現象ではそうはいきません。そこには神を信じて祈るという「人格的な」価値観が入り込んでくるからです。宇宙物理学で言う世界には善悪、正義不義のような価値観は含まれません。その「力」は、ほんの一瞬から「生まれる/始まる」のです。そこで初めて、「時間」が創り出されます。でもね、そのような宇宙に働く力が生まれた/始まった、そのことの<意義>、その目的ですね、これはその物理的な「力」の理解には含まれていないのです。いったい、宇宙を動かしているほんとうの「働き」、その価値観ですね、それはなんなのか? 宇宙物理学はこれに答えてくれません。
祈りによって生じる現象には、人格的な価値観という霊的な世界が含まれています。これは、科学技術による客観の世界、目に見える外側の出来事では分からないことです。祈りがほんとうに働いて初めて、宇宙に働いているのは価値観の力だということが分かるのです。主客一如の価値観の世界が、この宇宙を動かしていることが分かるんです。聖書の言う「命」とは、この霊的な意味、すなわち価値観の世界のことです。神様のお働きから出る「命」のことです。そこには「愛」「悦び」「平安」など、身体的な意味で言う「命」には含まれない霊的な価値観が含まれます。「神様からの命」とは霊的な命のことです。霊的な命とは、自然の命をも含みつつも、これを超える霊的な価値観を含むのです。
聖書が「永遠の命」という時の「いのち」の意味は、物理的生物学的な命、それ自体の内に善悪を含まない命に対して、愛や悦びや義を含む聖なる価値観を含んだ命のことなのです。この「命」は永遠になくならないと聖書は教えています。なぜなら、この「命」は、宇宙を創造された神御自身から来る働きそれ自体だからです。宇宙を動かし、宇宙を創造しておられるのは、人格的なみ言(ことば)のお働きそれ自体です。この命は、宇宙の創造に「先だって」存在する永遠の世界です。ヨハネ福音書は、こういう人格的な神のお働きを「ロゴス」と呼び、イエス・キリストと同一視しています(ヨハネ1章1〜4節/同14〜15節/同18節)。価値観とは「目的」のことです。「目的」は、宇宙の創造に「先だって」存在していなければなりません。だから、宇宙が始まるその<前に>神様の目的があったのです。「初めにみ言があった。み言は神と共にあった。み言はかみであった。すべてのものはこれによって生じ、生じたものでこれによらないものはなかった。このみ言に命があった。その命は人の光であった」(ヨハネ1章1〜4節)です。
■日々の御栄光
ここまでくるとね、神癒などという奇跡的なことだけに留まらなくなります。わたしたちの小さな日常の出来事でも、事は全く同じです。どんな小さなことでもいいです。祈った結果与えられたものなのか? そうでないものなのか? 自分の努力や計らいでうまくいった出来事なのか? それとも主様により頼む祈りによって与えられたことなのか? これによって、起こった出来事の「意味」が全く違うのです。人の目には同じに見えても、自分にはその出来事の意味が全く違うのですね。祈りの出来事には、神様のお働きがこめられています。主様からの御栄光が顕われています。よい結果が出ると、人はわたしを誉めますが、わたしは主を誉めます。その出来事は、永遠になくならない、なにかそのような「価値」を帯びています。ものすごい世界があるんだということが、だんだん分かってきます。だからクリスチャンは、これを「御栄光」と呼ぶのです。御栄光を顕わす出来事と呼ぶのです。たとえ小さくても、「霊的な」出来事とわたしが呼ぶのはこのことです。
■霊風無心
祈りには御霊にある力が伴いますが、それはすでにお話ししたように、人格的な交わりのお働きを目指すためのものです。だから、祈りの力は、いわゆる信念に基づく「念力」のことではありません。異邦人はくどくどと祈るが、あなたたちは簡単に祈りなさいと言われてイエス様が主の祈りをお与えくださったのはこのためです。だからイエス様は、死んだ娘をまるで寝ていた人を起こすように、「娘さん、さあ、起きなさい」と言って、手を取って起こしたのです。ただし、ラザロの復活の時には、「ほかの人たちに聞こえるように」大きな声で祈りました。これは、交わりのためにみんなで祈る祈りだからです。
だから、御霊のお働きとは、わたしたちが、自分の力で伝えたり獲得したりするものではありません。それは、主様がお与えになり、主様が注がれるものです。だから、自分がどうすれば降る、しなければ降らない、などというものではありません。主様がお与えになるのを信じて、主様にお委ねするときに起こるからです。わたしのなすべきは、ただ、主様が与えてくださることを信じて御言葉を語り、祈り、主様にお委ねする。これだけです。これ以上に出ることは、主様のみ旨を「私(わたくし)する」ことになります。主様が活きておられるのが真理であるなら、主様は必ずこの祈りに答えてくださるはずです。こうすることによって、御霊のお働きの「方法」と、そのお働きの「内容」との両方が真理であることが証しされることになります。ところが、信仰の世界でも、わたしたちは、つい科学技術のやり方に、すなわち<自分の>力、人間の力ですね、これに頼ろうとします。だから、結果が出ても、神様がお働きになったのか? それとも自分の力で勝ち取ったのか?どっちだか分からなくなるのです。
だから神様<を>知るのではない。神様に知られるのです。主客一如の世界は、物事を対象化しません。自分を知ることと同じで、対象化できないもの知るのです。「対象化して知ることのできないものを知る」とはどういうことか。それは、「自分が知られる」ことです。「知られる」ことが、「対象化して知ることのできないものを知る」ことになるという逆説です。もし、対象化して知ることのできないものを自分のほうから「知った」と考えるならば、それは、知ったそのものを対象化していることになります。「対象化して知ることのできないものを知る」とは、自分が本当にそのものに<なる>ことなんです。
■受動即能動
だから「あるがまま」の自分が、「あるがまま」でなくなる。自分がイエス様の御霊のお働きによって変容するんです。ただの受け身で、なんにもしないことではない。御霊に動かされ、御霊のお働きを受けて、自分が内部から変動し始めるのです。御霊にある自己変容です。受動即能動です。
だから真理を知るというのは、自分が真理そのものに「なる」のです。「なる」のは「ならされる」ことです。神様に「知られている自分を知る」ことによって、自分が、だんだんと変容していくのです。これが本当のイエス様の霊性の世界です。イエス様を見てごらんなさい。父なる神と交わり、神の中にイエス様が入れられてしまっている。だから、「我と父とは一つなり」です(ヨハネ17章22節)。父子一如です。こういうのが、イエス様が言われる「父を知る」ことです。本当は神さまに知られているんだね。キリストという方は。こちら側に居て「お父さん」と言っているんじゃない。内側に入って「お父さん」と言っている。父のふところに入っておられる。お父さんの中に入っているから「我を見し者は父を見しなり」(ヨハネ14章9節)です。
私がすばらしいと思うのは、ここにいらっしゃる皆さん方のように、祈りの働きを信じておられる方々が、日本の各地におられることです。コイノニア会関係の方々だけではない。病気の人たち同士で、祈りの交わりを広げておられるグループがあるそうです。祈りを通じて互いに信じ合い、信じ合うことによって祈りが働く。こういう交わりこそ、イエス様のコイノニアの霊性です。こういう御霊にある祈りが現実に働く、こういう世界がほんとうにあるんだということを皆さんが証ししていてくださることです。フィリピ1章2〜6節の世界ですね。祈ります。
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