2012夏期集会講話
日本人のリヴァイヴァルの特徴
 
■コイノニア会の信仰
 ではこれから、日本人のリヴァイヴァルが、どのような特徴を帯びるのか、この点を考えてみたいと思います。皆さんはご存知だと思いますが、コイノニア会のホームページの始めに、エル・グレコのマリアさんの絵があって、その「作者紹介」の欄に「霊知・霊性・霊愛・霊能」とあります。実はこれ、始めは違った言い方をしていたのですが、結局この言い方に落ち着きました。これから、この項目に従って、わたしたちコイノニア会の有り様とその特徴をお話ししたいと思います。
■霊知について
 すでに昨夜お話ししたように、「霊知」とは、イエスの御霊にある知性のことです。昨夜、わたしがイエス・キリストの御霊にある真の霊性とは「目覚めた」霊性だと言いました。これは、異言体験のある人ならお分かりと思いますが、異言を語っている間もわたしたちの理性・知性は少しも曇りません。逆に周囲の状況も手に取るように分かります。だから、異言を止めようと思えば、いつでも止めることができます。御霊は、あなたの意志の自由を侵すことをしないからです。
 昨夜お話ししたもう一つのことは、「神からの躓き」ということでした。正統キリスト教には、人間の理性や知性ではとうてい理解できない、何かそのような逆説/背理がある。これを「矛盾」と呼んでもいいかもしれません。しかもその「不可解の壁」こそが、信仰の扉であって、これを叩きなさい。「開けてください」と呼び求めなさい。そうすれば扉が開かれると言いました。理性を超えた壁が祈りによって開かれる。これを「啓示」と言います。キリスト教は仏教などに比べて「啓示宗教」だと言われるのはこのことです。
 では、何が「啓かれる」のかと言えば、神が居られることが啓かれるのです。どのように啓かれるのかと言えば、神が<お働き>になるからです。神がお働きになる時どうなるのか?その人の理性・知性が<霊的に目覚める>のです。だからこれを「霊知」あるいは「英知」と呼ぶのです。
 人間の理性・知性が、躓きの門扉の前で謙虚にされるのです。ちょうど浸礼の洗礼を受ける時のように、その人の理性・知性が丸ごと水の中に沈んでしまう。「人知の死」です。これを「知性のエクスタシー」と呼んでもいいかもしれません。そこから、新たに神の臨在を信じる信仰が生まれてきます。だから、「霊知」とは「神を信じる」あるいは「神を知る」理性・知性のことです。通常の人の理性・知性とはこの点が異なります。どう異なるのかと言えば、「見えない世界」が見えてくる、これを「霊的な世界」と言うのなら、そういう「霊的な世界」が分かるようになるのです。
 わたしに言わせると、それは、主観と客観の区別を超えた「主客一如」の世界です。自分の祈りが人に通じる霊的な世界です。遠くの出来事が衛星アンテナを通じて、別の離れたところに電波が届くように、祈りが神様を通じて別の祈りの人に通じる。そういう世界です。小諸のママさん(川口愛子先生)は、わたしが二階で祈っているのを下でちゃんと知っていて、「昨夜はお会いできて感謝でした」と言ってくださいました。
 遠く二千年前のイエス様の十字架で起こった贖いの赦し、これは「霊的な」出来事です。これが、二千年後の遠く離れた日本にいるわたしたち一人一人にも起きるのですから、時間と空間を超えた霊的な世界の出来事です。「時空一如」の霊的な世界が存在するのです。このことが分からないと、二千年前のイエス様の出来事がどうして現在の自分に働きかけるのか?このことが理解できません。聖書の御言葉が、様々な歴史的な変化や編集を経ているのに、どうして現在のわたしたちに「神の御言葉」として響くのか?このことが理解できません。
 だから、霊知は、決して通常の人間理性の「否定」ではありません。従来、特にヨーロッパの近代(16世紀)以降、キリスト教と自然科学の知的探究が区別され対立関係でとらえられる傾向がありました。しかし、これからのキリスト教は自然科学への人間理性の営みと一体であって、そこに何ら矛盾を感じさせない方向に導かれると思います。ただし、生まれつきの人の理性を無条件に肯定することもしません。だから聖書は「理性は正しい」とは言わないのです。「正しい理性」が大切だからです。文献批評に基づく学問的な聖書解釈を否定もしません。科学的な探求や学問的な理性の営みは、全部が全部「正しい」とは言えませんから、それらは「正しく導かれる」必要があるのです。「主はわたしの(理性の)光。」"Dominus illuminatio mea" 。これがオックスフォード大学の紋章の中にある言葉の意味です。
■霊性について
 正統キリスト教は、ナザレのイエスが「神の御子」であることを信じる宗教です。二千年前にパレスチナで生まれ育った一人の「個人」、この方に神の聖霊が宿られた。この方を通じて人類に神御自身が啓示された。こう信じる宗教です。だから、この信仰は「個人に神が宿った」ことを証しするものです。ユダヤの国でもない。イスラエルの民全体でもない。イエスの家系でもない。イエスの所属していた宗教団体でもない。イエスが属していたパレスチナの農民階級でもない。イエス個人です。
 言うまでもなく、個人は、これを生み育てる様々な環境や人間関係から成り立っています。しかし、神は、ナザレのイエスという一人の人に宿られたのです。たとえユダヤ民族が滅んでも、ユダヤ国家が消滅しても、イエスの家系が途絶えても、それどころか、ユダヤ教という宗教さえ意味を失っても、イエス様に宿られた神の御霊、イエス様を通じて啓示された神のお働き、これは決して失われることがないのです。言い換えると、イエス様を通して啓示された「御人格」は、永遠に滅びないのです。これが新約聖書が伝える「永遠の命」です。
 わたしの住んでいる学区の常磐野小学校の門には「人権は誰もが持てる宝物」と書いた標語が掲示されています。「人権」とは、人間一人一人が、ほかのどんなものよりも価値のある人格を所有しているという意味です。一人の人間に、どうしてそんなに大きな価値があるのか? この「人権」思想をさかのぼると、どうしても、キリスト教のイエス様の人格的霊性に行き着くのです。ナザレのイエス様が、わたしたち人類に啓示してくださった人格的霊性の福音、最も大事なことがこれです。だから、「福音は誰もが持てる宝物」です。
 「個人」は、英語で"individual" と言いますが、これは、「これ以上分割(divide)できない最小単位」という意味です。だから「個人」は、他人から分割された存在です。一人一人がそれぞれに独立した別個の存在。これが、英語の言う「個人」です。しかしわたしは、「個人」とは言いません。「霊性」と言うのです。「霊性」とは、霊的な「個性」のことです。なぜ「個人」ではなく「個性」なのか。「個人」は分割され独立した別個の存在ですが、「個性」はそうではありません。あの「なでしこジャパン」のように、一人一人が、それぞれ自分の役割を心得てそれをきちんとこなしていく。「コンビネーションのサッカー」。これが日本人のやり方です。彼女たちは、それぞれが別個に行動しているのではない。それぞれが、自分の役割、自己の分を発揮することで、チーム全体に貢献しているのです。自分だけの「個人プレー」ではない。「個性」を発揮しているのです。大柄で体力のある欧米の選手たちが、日本人のこの「コンビネーション」に太刀打ちできませんでした。世界の人が驚いたのはこのことです。
 イエス様の御霊にあるあなたがた一人一人には、何物にも替えられないイエス様から与えられた御霊にある人格が宿っています。これがわたしの言う「霊性」です。「霊性」は「精神」とは違います。「肉体と精神」のように、「精神」は「肉体」とは別のものだと理解されています。昔の日本の軍隊の指導者たちは、食料も武器もないのに、「精神力でアメリカ兵と闘え」などと言っていました。このために、多くの日本兵が降伏することをせず、アメリカ兵の弾丸や火炎放射器で殺されていった。「精神主義」とはこのことです。「霊性」は、このような精神だけのことではありません。わたしたちの肉体をも含めて、全存在のことを言うのです。
 なでしこの女子サッカーが銀賞を勝ち取った。アメリカに負けたけれども、わたしにはそれ以上に嬉しいことがありました。それは、なでしこの選手たちが、決勝に負けた後でも、実に明るい表情で表彰式にでたことです。各国の記者たちが、なぜ彼女たちはあんなに明るいのか?と不思議がったと言います。それは、彼女たちが、国家の名誉とか、権力者からの威圧的命令とか、そのように強制されて頑張ってきた成果だからではないことを表わしていたからです。彼女たちに対する日本人の反応もすばらしかった。「銀は金より良い」と言って、彼女たちの健闘を称えたからです。このような反応は、女子バレーが中国と闘って勝った時にも現われました。中国の選手たちが 険しい表情で闘っていたのに対して、日本の女子バレーの選手たちは、ただ一生懸命にやることだけを考えているように見えました。いつの間に日本はこんなすばらしい国になったのでしょう。わたしたちは、「日本の国家」ではなく「日本人」の「国」に住んでいるからです。リヴァイヴァルは、日本国家ではなく、わたしたち日本人の国に住む人たちの心に起こるのです。これが日本人のキリスト教に生じるリバイバルの心です。律法的な義務や宗教的圧力や征服欲に支配されずにやっている信仰的な霊性です。あるがままの心に吹く風のようなリバイバル。霊風無心/春風接人。この心こそ日本人のリバイバルの特徴です。
■霊愛について
 「霊愛」とは「神の愛」のことで、「イエス様を通して与えられる愛」のことです(ヨハネ13章34〜35節)。霊愛はギリシア語で「アガペー」と言い、これは「性愛」(ギリシア語で「エロース」)と対比されます。ただし今回は、「アガペー」と「エロース」の関係について語るのではありません。この両者の関係は、先に述べた人間の理性と聖霊の知恵の関係に近いと思うのですが、今はこのことに触れません。
 ここで言う「霊愛」は、クリスチャン同士の愛のことです。同時に、クリスチャンが異なる宗教に対する時の姿勢をも意味します。「他宗教」とは、日本で言えば、さしずめ、仏教系や神道系の宗団や宗派のことです。先に現在のキリスト教諸宗派に共通する根源的な福音についてお話ししましたが、実は、この他宗教への霊愛についてのわたしの考え方は、いわゆる伝統的な「正統キリスト教」と異なっています。だから批判を受けるかもしれません。ユダヤ=キリスト教の伝統には、正統キリスト教以外は「異端」として、他宗教は「異教」だとして、批判と攻撃の対象にしてきた歴史があります。歴史的によく知られているのがヨーロッパ中世の十字軍で、これは第1回十字軍(1096年)から第8回十字軍(1270年)までの長期にわたって、キリスト教世界とイスラム世界とが闘った歴史です。わたしなどは「クルセード」という言葉を聞くと、今でもこの十字軍のことが思い浮かびます。
 イエスの御霊にある福音は、仏教や神道を「悪魔/悪霊」だとして断罪するのでしょうか? この問題は、わたしが宣教師さんたちから離れた最大の理由だったと言ってもいいでしょう。ただし、他宗教を非難するキリスト教を非難するだけでは、「否定する者を否定する」だけでは、建設的なもの、積極的なものは生まれてきません。「愛」は否定ではなく肯定です。断罪ではなく「赦し」だからです。
 これからは、アジアのキリスト教の時代です。アジアには、仏教、儒教、ヒンズー教、イスラム教、カトリックのキリスト教、プロテスタントのキリスト教、その他もろもろの土着の諸宗教が共存しています。このアジアで、異教を批判非難するキリスト教を宣べ伝えるなら、平和どころか、紛争と争いの種を蒔くことになります。
 しかし、日本のリヴァイヴァルについて考える時、他宗教との関係以前に解決しなければならない問題があります。それは、同じキリスト教諸派同士の対立や異端視です。残念なことに、同じキリスト教諸派の間でさえ、相手を「悪霊」呼ばわりするクリスチャンがいます。あるいはローマ・カトリックを敵視したり、ユダヤ教を非難するクリスチャンや牧師・宣教師たちがいます。現在のキリスト教は、中世や宗教改革時代(16〜17世紀)の宗教戦争の名残を未だに引きずっているのです。この点で、現代のキリスト教は、過去から「抜け出す」必要があります。
 今日お集まりの皆さんを含めて、コイノニア会は、数がごく少ないのに、その割にそれぞれが属する宗派や教会が様々です。わたしはこれがとても良いことだと思っています。この中には、複数の諸教会を経験したことのある人たちも何人かおられます。そういういろいろな経歴の持ち主が、こうやって集まって、イエス様の御霊にある「交わり」(コイノニア)を持っている。これがとても大事だと思うのです。小さなミニ集会ですが、その意義はとても大きいです。信仰の経歴も所属も社会的環境も全く異なる人たちが、こうやって集まっている。実に不思議な交わりです。悦びです。御復活のイエス様の御霊にある愛の証しです。
 コイノニア会のどこがそんなに大事なのか? 一人一人が、イエス様の御霊にあって、交わりを「創り出して」いるからです。イエス様の御霊の愛は「平和を創り出す」働きをします(マタイ5章9節)。御霊は愛となって<働く>のです(ガラテヤ5章6節)。御霊とは創造する働きです。創世記1章にあるように、創造する神の御霊です。
 聖書が伝える神は、宇宙を創造しつつある「唯一の」神です。ノアの時代から、アブラハムとモーセの時代を経て、イスラエルで「唯一神教」が確立するのは前6世紀頃の第二イザヤの時代からです。そこから、旧約と新約の中間期を経てイエス様にいたり、さらにパウロの時代から現在にいたるまで、聖書は「ただ一人の神」を語り伝えてきました。ただし、唯一の神を宣べ伝えるだけではありません。全世界の人類を一つにする唯一の神を「創り出す」働きをもしてきたのです。ただし、聖書は、唯一~を受け容れない人たちを非難したり弾圧したりすることによって、唯一神教を「押しつけよう」とする書ではありません。そうではなく、イエス様の御霊にある霊愛によって、人類を唯一の神へと「向かわせよう」とする書なのです。その方法は、個々の人々の主の御霊にある働きによって、己の周囲に唯一の神への愛と信仰を創り出すことによるのです。この意味で、聖書は「唯一~教<化する>」書なのです。
 では、どうやって異なる人たちを一つにするのか? それは「御霊にある交わり」です。今ここで皆さんは、一人一人が個人として別個の存在でありながら、イエス様の御霊に導かれて、それぞれが祈り、それぞれが語り、これを全員で分かち合っています。これが交わりです。一人一人が御霊にある個性を発揮しています。これが御霊にある個性(霊性)の「交わり」です。宗教的寛容と言い、諸教派の合同と言いながら、政治家の国際会議のように、各派各宗教の指導者たちが集まって、協議によって一致を図ろうとしても、それだけではどうにもなりません。宗教的な平和、キリスト教諸派の一致は、一人一人が、それぞれに置かれた状況の中で、それぞれの霊的な個性を発揮して、互いに交わりを持っていく。こういう事の無数の積み重なりだけが、ほんとうの意味で宗教的な平和、教派同士の一致を「創り出して」いくのです。これだけが、最も確実で、身近で、具体的な平和と一致の力です。
■霊能について
 霊能については、昨夜も触れました。異言や預言や癒やしなどの霊的な現象を軽んじてはいけません。しかし、これらにとらわれてもいけません。昨夜お話ししたとおり、「御霊に導かれてこれに従う」という受動的で能動的な霊知が大事です。昨夜、御霊の働きを自我の働きから区別するのは難しいと言いました。「謙虚な心」が大事だとも言いました。信じて従う心が大切だとも言いました。でも、多くの人が、せっかく御霊の導きとその賜物に与りながら、これを続けないのが残念です。
 ある人が祈っていると異言が与えられた。するとその人は、自分が異言を語る様子を鏡に映して、自分の舌の動きを見て、格好が悪いと言って、語るのを止めたのです!せっかく与えられたのに、御霊を信頼しないで、自己流の判断で語るのを止めた。御霊は自由ですから、その人から離れました。もったいないです。その人は「御霊を悲しませた」のです。御霊は愛の御人格ですから、悲しむのです。「御霊を悲しませてはいけません」(エフェソ4章30節)。信じてどこまでも御霊の導きに従ってください。いろんな人がいます。いろんな躓きの機会も来ます。でも、どうぞ御霊の導きを信じて、イエス様への祈りを欠かすことなく祈り続けてください。
 ヨハネ福音書5章に、ベトザタの池で足萎えの人が癒やされた奇跡が語られています。同9章には、生まれつきの盲人の目が啓(ひら)かれた奇跡がでてきます。ヨハネ福音書では、霊能の業それ自体が、イエス様を通じて働かれた「神の確かなしるし」としてはっきり語られています。しかし、福音書のイエス様は、癒やしなどの霊能の業を伝道の手段として利用したり、人集めのアトラクションと見なすことはしていません。霊能を利用することは、ほんらいのみ業の意味を見失わせるおそれがあります。霊能の出来事それ自体が、「神のお働き」であることが、見聞きする人たちにはっきりと印象づけられることが大事なのです。ヨハネ福音書で、イエス様の癒やしの業に続いて、その出来事の意味が、対立する人たちや癒やされた本人の言葉を通して、はっきりと語られているのはこのためです。
 フランス映画ジェシカ・ハウスナー製作「ルルドの泉で」(2012年8月)は、ルルドを訪れるカトリックの巡礼の一行の様子を詳しく伝えていて、そこで一人の足萎えの娘が癒やされる様子が、周囲の人たちの反応をも含めて克明に描かれています。この映画は「一つの癒やし」が周囲の人たちにどんなに大きな神の言葉の証しになるかを教えてくれます。そこで崇められているのは、特定の人ではなく神御自身です。霊能を誇ることなく、霊能を侮(あなど)ることなく、与えられても、与えられなくても、イエス様の御霊に感謝して、賛美と祈りを続けてください。そうすれば、あなたにすばらしい御栄光の世界が啓かれるでしょう。これに優る霊能はありません。これ以上尊い霊能はありません。異言は廃れ、預言は止む時が来ます。しかし、何時までもなくならないもの、それは、イエス様にある愛と希望と信仰です(第一コリント13章13節)。
■霊灯無数
 以上わたしは、コイノニア会のホームページに掲げた目標に従って、霊知・霊性・霊愛・霊能の四つについてお話ししました。今日お集まりの皆さんは、わずか10人そこそこですが、わたしは少しも失望していません。一人一人が、小さな個性を発揮して、互いに認め合って和の交わりをつくり、ささやかながらリヴァイヴァルの灯をともしてください。どんなすごい発見も、始めは研究室の試験管の中で、小さな小さな出来事として起こるからです。大事なのは、それが真理かどうか、ということです。もしも、真理なら、その小さな試みは必ず大きな意義を帯びてきます。わたしは、コイノニア会のようなミニ集会が日本の津々浦々に、無数のミニ集会という形で霊の灯火を灯し続けることが、この日本にほんもののリヴァイヴァルを生じさせる一番確かな方法だと信じています。
 御霊のお働きは多種多様であり、わたしたちがおかれている宗教的環境も複雑です。どこかのキリスト教国のやり方をそのまま直輸入しても、神様からのリヴァイヴァルの一助にはなりますが、それだけではまだ「神の御手によるほんとうのリヴァイヴァル」とは言えません。特定の教団や特定のリーダーたちが、かけ声と旗振りで大勢の人たちを動員しても、それだけで真のリヴァイヴァルとは言えません。右に行く者もいれば、左に行く者もいる。それぞれが異なった歩みでいいのです。一見バラバラのようで実はそうでない。根本的なところでは正統キリスト教に根ざしていても、神様の御霊のお働きは多種多様です。伝える人も牧師さんや伝道者だけではありません。祈る人。イエス様のため、日本のリヴァイヴァルのために祈る人。そういう人を神は用いてくださいます。イエス様にある小さな交わりが、無数の霊灯となってこの国を覆う時に初めて、神様のほんとうのリヴァイヴァルが成就するのです。資料【6】を読みます。
 今の日本人はすばらしいです。今の日本の国もすばらしいです。わたしは、「日本」とは言わず「日本人」と言いました。日本の「国家」とは言わず、「国」と言いました。敗戦の時にわたしはこう思った。「日本国」は滅びても「日本人の国」はなくならないんだと。偉そうに威張っていた無能な指導者たちが全部いなくなっても、日本人と日本人の国は、明るく生きていましたよ。上のつっかえがとれて、みんなせいせいして、あのリンゴの歌のように「黙って見ている青い空」だけが広がっていました。あの時は何にもなかったけれども、何となく明るかったです。
 アジアには、戦争中の日本を今もなお非難する国家があります。わたしもかつて、太平洋戦争中に日本国が犯した侵略の罪をイエス様に謝りました。ある朝、明け方目覚めて、床の上で祈りました。すると国歌が聞こえてきて、何か大きな重荷がわたしにのしかかってきた。起きて祈るうちに、それが日本の国が犯した過去の罪であることが分かってきました。わたしは十字架の贖いの愛と赦しを祈り求めました。床の上にひれ伏して祈るうちに、重荷が少しずつ取り除かれていって、最後に歓びが訪れ、十字架を高く掲げた御神輿をみんなでワッショイ、ワッショイ担いでいるヴィジョンを見たのです。日本の国のために、世界中の人類の罪のために、またキリスト教国の犯してきた罪のために、祈らされたのは初めてです。資料【】を読みます。
 リヴァイヴァルはほんとうに来るでしょうか? わたしは来ると信じています。神様は、この国のこの民を用いて、アジアに大きなことをされようとしておられる。わたしはこう信じています。もし来年もここで語ることが許されたら、日本人のリヴァイヴァルの歴史的な使命についてお話ししたいと思っています。資料【9】を読みます。
 だからミニ集会でもいいのです。霊灯無数です。 これが、これからの日本人のリヴァイヴァルの原点であり、源泉です。かつてさすらいのヤコブは、兄エサウから逃れて、今のエルサレムから北の方角に向かっていました。そこで夢で示されて、だれもいないその場所に石を積んで祭壇とし、そこを「ベテル」(神の家)と呼びました。今日、この場所に、わたしたちも、小さな石となって集まり祭壇を作り、ここを日本人のリヴァイヴァルのベテルにしましょう。祈り。 (2012年8月26日)
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