2014夏期集会講話
性愛から霊的結婚愛へ(前編)
■はじめに
 わたしたちはすでにイエス様の福音的霊性について、コイノニア会の例会でも夏期集会でも学んで来ました。また、日本人の福音的霊性が今後果たすべき社会的あるいは政治的な意義についても、「東アジアキリスト教圏」というテーマで幾度か語ってきました。今回は、「結婚愛」を軸にして個人の倫理的な生き方について考えてみます。
■ギリシア神話の性愛
 始めに、女性の性愛について基本となるギリシア神話を四つ紹介します。
(1)ダプネー(月桂樹)とアポロン。ダプネーはギリシアの中央にあるテッサリア平原を流れるペーネイオス川の娘(妖精)です。アポロンは彼女に恋しますが、彼女はこれを避けて逃げます。しかし、父ペーネウス川の畔まで来ると、それ以上逃げられなくなって、月桂樹に変身します。アポロンはこれを悲しみ、月桂樹を自分の神木にしました。ダプネーは、男性からの愛を受け容れず、最後まで父のもとに留まり続けた女性を表わします。
(2)クローリスとゼピュロス。ゼピュロスは地中海では春をもたらす「西風」を意味し、クローリスは後のイタリアでは「春の女神」フローラと同一視されました。クローリスはある春の日にゼピュロスにさらわれましたが、二人は結婚し、その結果クローリスは春の花を咲かせるフローラへ変身します。「フィレンツェ」はこのフローラから出た名前です。ボッティチェルリの「春」(プリマヴェラ)の絵の向かって右側に色の黒いゼピュロスがクローリスを襲う場面が描かれていて、そのクローリスが花の女神フローラに変身した姿が、すぐ隣に描かれています。女性が男性の優しい風にさらわれて花を咲かせることを表わす神話です。
(3)ペルセポネー(ラテン名プロセルピナ)とハーデース(ラテン名ディース)。ペルセポネーは最高神ゼウスと太母デメーテールの娘です。彼女は、野原で花を摘んでいる時に、黄泉(よみ)の王ハーデースにさらわれて地下の国へ降ります。彼女は男性の恐ろしい暴力によって死の国に降り、そこで恐ろしい「地獄の后」に変身します。デメーテール(ラテン名ケレース)とペルセポネーの母娘は、古代ギリシアではエレウシースの祭儀として今に伝えられています。これは女性の性愛の最も悲劇的な状態を表わします〔オヴィディウス『変身物語』5巻360〜520/中村善也訳。岩波文庫(上)196頁以下〕。
 以上の三つは、女性の三様の性愛の在り方を表わしますが、もう一つ、「愛」を表わす大事な神話があります。
(4)プシュケー(魂)とエロース(愛)。プシュケーは三人姉妹の王女の一人でしたが、あまりに美しかったので嫁のもらい手がいませんでした。するとアポロンの託宣が降り、彼女を恐ろしい怪物に人身御供として献げるよう命じられます。ところが彼女が山頂に一人残されると、突然の風で美しい宮殿のある谷間に運ばれます。夜になると暗闇の中を怪物が訪れて、優しく彼女を愛し、二人は夫婦の契りを結びます。彼女は幸せに暮らしますが、父母と姉たちに会いたいと彼に頼んで、ある日両親のもとを訪れます。すると彼女の幸せを妬んだ姉たちが、夜の闇に彼が訪れた時に、灯火をつけてその正体を見るように唆(そそのか)します。彼が寝ている時に彼女が灯火を灯すと、そこには美しい若者エロースが眠っていました。彼は彼女の裏切りに気づくとエロースの母アプロディーテー(ラテン名ウェヌス)のもとへ立ち去ります。プシュケーは遍歴を重ねてアプロディーテーのもとへ行き、エロースとの再会を願い出ます。そこでアプロディーテーはプシュケーに三つの難題を出して試しますが、彼女は神々の助けによって、それらの試練を克服し、ついに天上でエロースと永遠の愛で結ばれます。
 この物語はラテンのアプレイウス(2世紀?のローマの詩人・哲学者)の『黄金のロバ』だけにでてくる神話で、ローマでは「アモールとプシーケー」として知られています〔アプレイウス『黄金のろば』(5巻)/呉茂一訳。岩波文庫(上)133頁以下〕。
 次に、男性の悲劇的な性愛の有り様を語るギリシア神話二つを紹介します。
(1)ナルキッソスとエコー。ナルキッソスは美青年でしたが、泉に自分の姿を映した時に、その美しさに見とれて、自分に恋をします。森の妖精エコー(こだま)は彼を愛しますが、いくら呼んでも自分のほうを向いてくれず、彼女はついにやせ細ってこだまする声だけになってしまいます。ナルキッソスはそのまま水仙に変身します。自己陶酔の愛を「ナルチシズム」というのはここから出ました。こういう男性は人を愛することができません〔オヴィディウス『変身物語』3巻340〜500/中村善也訳。岩波文庫(上)113頁以下〕。
(2)オイディプス。彼はテーバイの王家の王子として生まれたが、アポロンの託宣によって、その子は王家に災いをもたらし、父を殺して母と結婚するだろうと予言されます。そこで王はその子を山中に棄てさせますが、拾われてコリントスの王家に養われ「オイディプス」(びっこ)と名づけられました。成人したオイディプスは、ある日奪われた馬を探して遠くへ出かけると(あるいは自分の出生の秘密をデルポイの託宣で知って)、テーバイに向かう途中で狭い道で父の馬車と出遭い、諍(いさか)いとなり知らずに父を殺してしまいます。テーバイではこの頃スフィンクスのかける謎に悩まされていたので、オイディプスはこれを退治に出かけ、スフインクスの謎を解いて怪物を退治し、これの褒美として彼はそうとは知らず自分の母であるテーバイの王妃と結婚するのです。ところが予言者テレイシアースが、託宣を受けて彼の犯した罪を告発すると、彼は自分の目を潰してテーバイを去ったとあります。
 これら二つの神話は、どちらもマザコンと関係があり、オイディプス神話は、心理学者フロイトによって「オイディプス・コンプレックス」として知られています〔ソポクレス『オイディプス王』宮川登訳。一誠社(昭和57年)。ギリシア悲劇の最高傑作の一つ。前427年頃の作。ソポクレスにはこれのほかに『クロノスのオイディプス』(前401年)があるから区別してください〕。
 最後にもう一つ、聖書の物語を紹介しましょう。
(3)サムソンとデリラ。この物語は士師記13章〜16章にでていますから内容を略します。彼のように、女性に惹(ひ)かれながらも、女性の内に悪魔性が潜むと思い、これを警戒する心理を「サムソン・コンプレックス」と言います。一般的に男尊女卑の思想背景には、このサムソン・コンプレックスがあると指摘されています。
 以上、女性と男性にまつわる幾つかの神話と物語を紹介しましたが、「ゼピュロスとフローラ」を除くと、どれも幸せな結婚を破壊する原因となる点で共通しています。
■ホセア書
 ホセアはアモスと並んで、北王国イスラエルに遣わされた二大預言者です。イスラエル王国の指導者に向けた彼らの批判は厳しいものでした。アモスが「義」の預言者と呼ばれるのに対して、ホセアは「愛」の預言者と呼ばれます。それはホセアが、ヤハウェとイスラエルの民を夫と妻の契約に基づく結婚関係でとらえたからです。彼の預言活動はヤロブアム2世からアッシリアによってサマリアが包囲される少し前までです(前750年頃〜725年頃)。しかし、ヤハウェがホセアに与えた使命は、「淫行の女」(神殿娼婦?)と結婚することであり、その自己体験を通じて、偶像礼拝の「淫行」に走るイスラエルに対するヤハウェの愛の深さを証しすることでした。ホセア書では、断罪と裁きの裏にヤハウェの愛と赦しがこめられているのを見落としてはなりません。
(1)2章1〜2節→ここで捕囚となり散らされたイスラエルとユダの民が再び主によって一つに集められることが預言されます。
(2)2章21〜22節→ここでヤハウェとイスラエルの関係が夫と妻のちぎりであることが明確に示されます。
(3)2章25節はパウロによって、主なる神がイスラエルの民から異邦の民へ救いを向け変えたことと結びつけられました(ローマ9章25節)。
(4)6章1〜3節→ここは聖書で「復活」を預言する重要な箇所とされています。アモールとプシーケーが恋愛を成就して魂の永遠性にいたる場合と、神と人間が契約のちぎりに基づいて、しかも人間(妻)の裏切りににもかかわらず、神(夫)の赦しの慈愛によって破綻が克服されて復活にいたる点を比較してください。
(5)6章6節→ここで人間の契約の愛がいかに頼りないかが徹底的に暴かれ、同時に、その弱さを覆い包む神の慈愛がいかに深いかが「わたしが尊ぶのは慈愛であって生け贄でない」という一言にこめられています。これが、新約で証しされる「律法の行ないでなく神の慈愛による救い」へ道を啓(ひら)くことになります。人間の結婚が神の恩寵の慈愛に支えられなければ成り立たないことが預言されます。
(6)13章12〜14節→主ヤハウェの愛が死に勝つことが預言されます。
(7)14章1〜6節→イスラエルへの厳しい裁きと赦しの預言。
■雅歌
 聖書の中で雅歌は独特の意義を与えられています。現在では雅歌は古代オリエント(エジプトやメソポタミア)の恋愛詩にならった男女の性愛の歌だと考えられていますが、そこには古い結婚の歌(祝婚歌)が織り込まれており、この歌は幾つかの資料に基づいて一つに編集されたと考えられます。成立年代ははっきりしませんが、捕囚以後の前4世紀〜前3世紀以降だと言われています。雅歌は紀元100年頃にヤムニアの会議で正式にユダヤ教の正典に入れられました。
 雅歌の解釈は古来寓意的で、その内容は様々です。羊飼いとソロモンが「男」として登場するので、この二人から求愛された「高貴な民の娘」が王を捨てて羊飼いを選んだという解釈もあります。以下に古来の寓意的な解釈をあげます。
(1)オリエントの恋愛歌は、男女の神々の愛を歌うものですが、同時に神々と同一視された王と王妃の結婚愛をも反映します。さらに王とその国土の親密な関係をも映しますが、これには天(太陽)と大地の「結婚」の豊穣神話が背景にあります。これを「聖婚」と言います。
(2)雅歌にはソロモン王が登場します(3章7〜11節など)。また女性は「色が黒い」とあるので(1章5節)、この歌はエチオピアのシバの女王がソロモンを訪ねてきた時(列王記上10章1〜13節)の二人の愛の歌だと解釈されてきました。その折に女王がソロモンに「謎」をかけソロモンがこれを解いたとあるので(列王記上10章2〜3節)、ソロモンに与えられた「神の知恵」(ソフィア)を歌っているとも言われています。雅歌が「ソロモンの歌」"Song of Solomon"と呼ばれるのはこのためです。
(3)ユダヤ教のタルグムとミドラシュにおいて、この歌は神(ヤハウェ)とイスラエルの民の愛の歌として過越祭の祭儀に用いられました。雅歌がユダヤ教の正典に入れられたのはこの解釈に基づいています。ホセア書では、神と民との契約に基づく愛と背信が主題ですが、雅歌では両者の理想的な愛の成就が歌われます。結婚が、部族同士の結びつきではなく、このような愛の成就で描かれるのはヘブライでは異例です。
(4)キリスト教では、ユダヤ教のヤハウェとその民の「愛」が「キリストと教会」の結婚愛へ移し変えられて解釈されます。この伝統は、オリゲネスの雅歌講解(253年頃)において、信仰者の魂がキリストを探し求めて、ついにキリストとの合一を成就する過程と見なされました。オリゲネスの解釈はニュッサのグレゴリオスの雅歌講解へ受け継がれ、さらにヨーロッパ中世で、クレルヴォーのベルナール(1090頃〜1153年)の雅歌注解に受け継がれます。宗教改革以後も、雅歌のこの解釈が続けられます。
 ホセア書の契約に基づく夫婦関係に比べると、夫と妻の関係が人間の自然な性愛によって表現されていますから、神からの愛(アガペー)と人間の性愛(エロース)が結びつけられて解釈されるところに雅歌の最大の特長があります。
■童貞と処女性の意義
 結婚愛を強調すると、独身者はその分だけ無価値だと思われるかもしれません。ところがイスラエルの結婚観は、エッセネ派からイエスにかけて、独身者の価値を認める方向へ切り替わるのです。ユダヤ教は、楽園喪失の伝承に結婚と生殖への神からの保証を見ていました(創世記1章27〜28節)。しかし、クムラン宗団を核とするエッセネ派とエジプトのテラペウタイたちは、宗教的独身主義を尊び、既婚者でも非婚者のように暮らすことをモットーにしました。ただしこれは、性に対する憎悪から出たものではなく、終末において悪との闘いに備えるためです(ヨハネ黙示録14章4節)。
 キリスト教は、最初の400年間、楽園喪失の主題が「自由」にあると見ていました。修道僧聖アントニウス(3世紀後半〜4世紀前半)もヒエロニムス(4世紀)もアウグスティヌス(4世紀後半〜5世紀前半)も同様です。自由とは、悪魔からの自由、社会的性的義務からの自由、独裁政治からの自由です。だから、キリスト教は楽園喪失伝承をユダヤ教とは逆に独身への保証と見たのです〔エレーヌ・ペイゲルス『アダム、エヴァ、蛇』絹川久子/出村みや子訳〕。
 したがって、クムラン宗団とその霊性を受け継ぐ洗礼者ヨハネは、「結婚」を終末的な霊性において理解したのは間違いありません。すなわち地上の生殖への性愛から生じた結婚が、終末的な視点から霊的に解釈されることで、独身者をも含む新たな道を見出すことになったのです。こういう霊的な結婚思想には、独身男性・女性の童貞と処女性は、アルテミスvsアプロディーテー(ダイアナvsヴィーナス)のように自然な性愛と対立する傾向を帯びるようになります。
 注意しなければならないのは、最初期のキリスト教の童貞と処女性は、性愛それ自体を罪悪視することも憎悪することもしなかったことです。だから初期キリスト教は、結婚を憎悪も否定もしませんでした(第一コリント7章28節/第一テモテへ4章3節)。独身者も既婚者も、神とキリストへの「貞節」という積極的な美徳で一貫して理解されたからです。そこには、処女性を結婚と結ぶ「貞節」の思想が存在していることに注目してください。処女性(virginity)は豊穣の生殖を司る性愛とは対立しますが、結婚を司る貞節(chastity)とは手を結ぶのです〔「処女性」と「貞節」のつながりは、コイノニア会ホームページ→聖書講話→ミルトン→『ラドロウ城の仮面劇』(『コウマス』)の解説を参照〕。
■処女降誕と結婚の霊性
 ギリシア神話では、処女性は性愛と対立し、アプロディーテーとアルテミス(ヴィーナスとダイアナ)のどちらにも「貞節な結婚愛」は存在しません。しかし、イエスの降誕物語では、処女性は結婚と結びつくのです。マリアは夫ヨセフと婚約していたとあるのがそれです。霊的な視点から見るなら、マリアは夫ヨセフとの交わりを通して神との交わりにあってイエスを身ごもった。こう理解することが許されるのではないかと思います。霊的な意味での結婚愛は、夫も妻も、肉的な交わりを超える貞節な霊性で結ばれることを意味するからです。処女性とは純潔のことにほかなりませんが、霊的な愛で結ばれる結婚も、その「貞節」ゆえに動物的な性愛から区別されます。「貞節」は純潔と同一視されるのです。マリアがヨセフと、霊的に純潔な結婚愛のうちにイエスを身ごもったのであれば、それは聖霊の働きであって、実際にそこで性交があってもなくても、本質的な問題ではなくなります(現在のマタイ福音書の本文はこのような解釈を支持しないかもしれませんが)。離婚を厳しく否定したイエス自身の霊的な結婚観は、彼の両親のこのような結婚愛から来ており、性愛と契約に基づくユダヤ教の律法的な結婚観をさらに純化したものです。
 イエスの処女降誕物語は、イエスの神性を証明するというよりは、むしろ、イエスの人間性について語ろうとするものです。<創造者が被造物として>存在するという不思議が処女降誕で語られているのです。バルトが、イエスの地上での生の最初と最後における奇跡として処女降誕と復活を結び付けたのは有名です。神が新しい創造行為の基礎としているのは、イエスのような人間であり、そこにはヨセフとマリアとイエスの聖家族としての親子関係があります。マタイ福音書が、その系図において、イエスの人間としての素性を信仰の父アブラハムからヨセフにつないでいるのはこのためです。したがって、ヨセフとマリアの結婚とこれに基づく処女降誕は、なんら矛盾することなくつながるのです。
 結婚の霊性は、処女性と性愛を貞節によって一つに結びつけ、かつ、「性愛」を神の「聖愛」へ導く働きをします。だから結婚の霊性は性愛と聖愛を結ぶ重要な働きをします。しかも「聖愛」は童貞も処女性も結婚愛をも含むから、独身者をも既婚者をも受け容れることができるのです。このような視点から、オリゲネス→ニュッサのグレゴリオス→クレルヴォーのベルナールへいたる独身至上の霊愛から、イングランドの宗教改革による結婚愛へという分岐(進化)の道が啓かれることになります。
■イエスの結婚観
 マタイ19章4〜6節で、イエスは「創造主は初めから、人を男と女とにお造りになった。だから人は父母を離れて、ふたりは結ばれて一体となる」と告げ、その上で、「神がひとつに結び合わせてくださったものを人が離してはいけない」と離婚を厳しく戒めています。イエスは、モーセ律法からではなく、創世記の創造から結婚を見ているのです。すなわち、イエスにあって、結婚は神の「創造のみ業」です。神が一組の男女を新しく夫婦一体として「創りだされる」からです。
 だから結婚は、今まで存在しなかった「夫婦」が、神の御手によって「創造される」のです。例えて言えば、ふたりが結ばれた結果、今までどこにも存在しなかった子供が新たに存在することに比べることができます。結婚は、神によって定められた営みであり、単に男女の合意だけで成り立つものではありません。ふたりの男女が「結び合わされる」というのは、神の新しい「出来事」です。だから、ファリサイ派の人たちが、どんな場合に離婚が許されるのかとイエスに尋ねた時に、イエスはそもそも神様がお造りになった夫婦に離縁も離婚も存在しえないと答えたのです。それは結婚で生まれた子供を「生まれなかった」ことにはできないのと同様だからです。
 だから、たとえ夫が妻に離縁状を渡しても、そんなことで神から与えられたふたりの関係は解消されない。離縁が、そもそもありえないからです。たとえ離縁状を渡しても、その女が他の男と結ばれるなら、これはその妻に姦淫の罪を犯させることにほかならないのです。またその女と結婚する男も姦淫するのと同じです。マタイ5章28節の「心の中での姦淫」の場合でも、イエスは結婚を法律的あるいは社会的な制度として見るのではなく、神による霊的な結びつきとして「内面的/霊的に」見ていることを表わします。
 イエスのこの結婚観は、結婚制度だけでなく、それ以上に重要な変革をもたらす結果になりました。(1)それは、このような霊的な結びつきによる内面化によって、結婚が、ユダヤ教の伝統的な「子孫を残す」目的から、夫婦の出会いそれ自体を目的とする方向へ道を開くことになるからです。(2)イエスのこの結婚観は、それまでの一夫多妻を容認していたユダヤ教の結婚観を一夫一婦制へと切り替える重要な働きをします。同時に、(3)夫と妻が、結婚において神の前に対等な立場に置かれる道をも開くことになります。創世記に「彼(男)にふさわしい助け手」(創世記2章18節)とあるのがこの意味です。
 ただし、このような結婚・離婚思想は、御霊の働きですから、これを外面的な律法や戒めとして受け取るならば、かえって人間を束縛することになります。イエスの教えを律法的に制度化することはできません。人を束縛する律法制度から、人それぞれに働く御霊の自由な導き(独身をも含む)に委ねる福音へと切り替わらなければならないからです。
 イエスの結婚観には、このように、神の「創造の御霊」の働きを見ることができます。そこから見えてくるのは、結婚の霊性にあって、女性は男性の人格的な「交わり」の相手であり、また男性の「助け手」として、神によって与えられている、という女性観です。
■パウロの結婚観
 パウロの結婚観が最もよく現われているのは第一コリント7章1〜16節/同25〜40節です。ここでパウロは、結婚と独身のどちらにも平等に価値を見出しています。大事なのは、欲情に負けて淫行に陥らないことです(7章2節)。パウロ自身は生涯独身で通したと思われていますが、結婚の経験があるという見方もあります〔Anchor Bible Dic.(4)570〕。ただし、パウロ自身は、結婚よりも独身のほうがクリスチャンにとって望ましいと考えていたようです。これは終末が差し迫っているという信仰から出ている便宜的な手段です(7章7節/28〜31節)。また、離婚についてはイエス同様に厳しいですが(7章節10節)、結婚は、未信者の夫とその子供たちへの救いになると考えられています(同14節)。
 パウロは結婚を否定する禁欲主義者ではありませんが、結婚を奨励する結婚主義者でもありません。個人の倫理的な生活と祈りのためにどちらを選ぶかはそれぞれの御霊の導きによるのです(7節)。したがって、パウロには「結婚愛」を尊ぶという考え方はありません。この点では、当時のギリシア哲学や東洋の儒教的な思想と共通します。
■キリストとエクレシア
 エフェソ5章21〜33節では、キリストとエクレシアが夫と妻の関係でとらえられています。それは道徳的な教えではなく、むしろ霊的な出来事として読むべきです。エフェソ人への手紙のこの箇所は、夫婦の有り様を創世記の創造論からとらえ直すよううながしています。キリストの妻であるエクレシアは、「天と地の頭であるキリスト」(エフェソ1章10節)と一体化することで新たに創造される事態ですから、社会的、宇宙的な広がりにおいて語られることになります。
 キリストとエクレシア=夫と妻の類比関係は、個々のクリスチャンが、イエス・キリストの救いに与ることによって初めて授与されるものです。この類比に基づくなら、エクレシアもまた、そのような個々のキリスト者による無数の夫婦によって成り立つことになります。エクレシア(単数)が、個々の夫婦から成り立つのなら、エクレシアには、それぞれの夫婦愛による無数のヴァリエーションが存在しなければなりません。だから、キリストとエクレシアを夫と妻の類比において理解することは、個々の夫婦の有り様を通して、キリストにあるエクレシアが内容的に多様性を帯びることをも意味します。これに対して、<父なる神と母なるエクレシア>という類比関係が考えられますが、父母とエクレシアのこの関係は、その母性ゆえに統一と普遍性を志向する傾向を帯びることになります。
 エフェソ5章23節の「エクレシア」は単数で、神のエクレシア全体を総称しています。パウロ書簡では、ガラテヤ1章4節に「ガラテヤの諸教会へ」とあり、パウロの頃は、イスラエルの伝統的な「カハール」(会衆)の考え方に従って、地域ごとの箇々の「諸集会」が意識されていたと考えられます。ただし、最初期のエルサレムのイエス=メシア宗団は、自分たちこそが、終末に成就する唯一の「神の会衆」(「カハール・エール」)であるという自覚に立っていました。パウロにとって、エクレシアは、イエスの人格的な聖霊の働きと結びついていましたから、信者一人一人が「キリストの肢体」であるという隠喩で語ることができたのです。
 このような単数の「神のエクレシア」は、その後、「イエス・キリストの体」として、エフェソ人への手紙では中心的な主題になります(エフェソ1章22〜23節)。したがって、エフェソ人への手紙での「エクレシア」観は、その形成過程をパウロへ、さらにエルサレム宗団の自己認識へとさかのぼることができます。おそらくその先には、ユダヤ教の伝統的な一夫多妻制を事実上否定したイエス自身の教えに基づく<夫婦一体>観があるのでしょう(マルコ10章5〜9節/これと並行箇所)。
■結婚愛の成立
 キリストとエクレシアの関係は、ホセア書のヤハウェとイスラエル民の夫婦関係を背景にしていると見ることができます。しかし、ホセア書では、夫婦は契約によって結ばれていましたが、そこで啓示されるのは、脆く弱い人間の不誠実を赦して支えるヤハウェの我慢強い忍耐でした。雅歌はこの二人の関係を理想的な「性愛」として賛美しました。
 ところが、エフェソ人への手紙のキリストとエクレシアの関係は、「キリストがエクレシアを愛して御自身を献げるように」とあるように、はっきりと「愛」によって基礎づけられています。しかも、それは自己犠牲の愛です。このような愛(アガペー)は、信仰者同士の愛であれば、十分理解できます。しかし、事「結婚」での夫婦の愛となれば、これと性愛の関係が問題になります。したがってここで、性愛(エロス)を<方向付ける>聖愛(アガペー)の働きが必要になります。アガペーは、性愛を結婚愛へ向けて昇華させる働きをするのです。恋に<落ちる>ことが、結婚へ<踏み切る>決断と意志による選びの愛へと移行するのです。「時」の視点から見れば、ただ「現在」においてのみ成り立つ「恋」から、神に導かれて未来を志向する結婚愛へ切り替わるという事態がここで生じることになります。
 エフェソ人への手紙のこの部分は、一夫一婦制の価値観を根拠づける大事な箇所です。人類学的に見るならば、自然のままの性愛にとって繁殖を無制限に続けるなら、生殖の時期を特定しない人類は、それ自体の生殖欲の重みで自滅することになるでしょう。だから、結婚愛は、創造の神から人類に賜わった自己保存/生き残るための知恵なのです。結婚愛は他の動物には見ることのできない人間特有の価値観であると言えましょう。
 長い人類の歴史において、唯一存続し続けてきた普遍的な儀式として、「結婚式」と「葬式」のふたつがあります。シエイクスピアの作品においては、喜劇はすべてが結婚で終わり、悲劇はすべて死で終わりますが、この偉大な劇作家は、人類普遍の原則をその作品にこのよう形でドラマ化しているのです。このような視点から見るならば、ヨハネ黙示録において、最期にキリストとエクレシアが、花婿と花嫁として結ばれる救済史の最終的な結末は、エフェソ人への手紙の結婚観と対応していることが見えてきます。
   集会講話へ     聖書講話へ     ミルトンとその思想へ