(3)エルサレム使徒会議
【聖句】
2章1節〜10節
1
これに次いで14年目に、わたしはバルナバと連れだって再びエルサレムへ上がったが、その際テトスも伴って行った。
2上がったのは啓示があったからである。そこでわたしは、異邦人の地で宣べ伝えている福音を皆さんに呈示し、有力な人たちには個別にこれを行なった。わたしの今の歩みとこれまでの行程が、あるいは無意味にならないかと思ったからである。
3ところが、わたしと共にいたテトスでさえ、ギリシア人であるのに、割礼を強制されることがなかったのである。
4と言うのは、偽兄弟たちが潜り込んできたからである。この連中が潜入してきたのは、わたしたちがキリスト・イエスにあって得ている自由に探りを入れ、わたしたちを隷従させようと意図したのである。
5わたしは、そういう彼らの強要に一瞬たりとも譲らなかった。福音の真理があなたがたの間に一貫して留まるためである。
6有力と目されるほどの人たちからも(彼らがかつてどのような人であったとしても、わたしには問題ではない。神は人の顔で左右される方ではない)、その有力な人たちもわたしに負担を加えることはなにひとつしなかった。
7それどころか、無割礼の人たちへの福音がわたしに託されているのを認めてくれた。それも割礼の人たちへの福音が託されているペトロと同等にである。
8ペトロに働いて割礼の人たちへの使徒としてくださった方は、わたしにあっても働いて、異邦の諸民族に向かわせてくださったからである。
9柱と目されているヤコブとケファとヨハネは、わたしに授けられた恵みが分かったので、わたしとバルナバとに交わりのために右手を差し出してくれた。わたしたちのほうは異邦人へ、彼らのほうは割礼の人たちへ向かうためである。
10ただ「貧しい人たち」のことを忘れないようにと言われたが、このことは、わたしも努めて行なってきたことである。

【注釈】

【講話】
(1)エルサレム会議の背景
    今回は、キリスト教の歴史においてきわめて重要なエルサレム会議についてです。まずこの会議の背景について説明します。ユダヤ人/ユダヤ教は、旧約聖書のイスラエルの民として、自分たちを異邦人/異教からはっきりと区別してきました。まだ「異邦人」であったアブラムは、「全能の神ヤハウェ」との契約に入り、名をアブラハムと改めて、契約のしるしとして割礼を受けました(創世記17章)。これによって「アブラハムの子孫」、つまりイスラエル民族には、父祖アブラハムの契約に伴う神からの祝福が約束されたのです。イスラエルの男性が受ける割礼は、このことのしるしです。こうしてイスラエル民族は、アブラハムへの神からの祝福の契約を相続するために、割礼という儀礼を受け継いできたのです。ヤハウェの民としての契約は、割礼だけでなく、モーセの十戒に代表される様々な戒めや贖罪のための献げ物の儀礼なども伴うようになりました。これらはまとめて「律法」と呼ばれています。律法は、贖罪の献げ物のような「祭儀律法」とモーセの十戒のような「道義律法」と、大きく二つに分けられます。どちらもイスラエルの民には重要で、パウロはこの二つを区別していません。
    こうしてアブラハムを父祖とするイスラエル民族は、契約の民と呼ばれて、割礼や安息日などの律法制度を発達させることで、イスラエルの宗教を守り抜いてきたのです。これは言わば「民族宗教」ですから、本来イスラエル民族以外の人たちには関わりがないはずですが、主なる神が、全世界の唯一の主であると信ぜられるようになってからは、イスラエル以外の人たちもユダヤ教を信じる道が認められるようになりました。新約聖書に「神を敬う異邦人」とあるのは、このような人たちのことです。けれども、アブラハムへの契約とこれに付随して生まれた諸律法は、どこまでもイスラエル民族のものであって、イスラエルの民は、これらの割礼や律法によって、ギリシアやローマの異邦の諸民族から区別されていたのです。安息日制度、食物規定、贖罪の儀礼などは、彼らと異邦人とを区別する大事な律法とされていました。ですから、割礼は、言わばアブラハム民族の「内」と「外」とを分ける大事なしるしだったのです。
   イエス様は、当初は、イスラエルに約束されたメシアとして、ユダヤ人だけに救いをもたらすと思われましたが、復活されたイエス様の御霊は、ユダヤ人だけでなく異邦人にも注がれるようになりました(使徒言行録10章)。こうして、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒のふた種類の「イエス様の民」が生まれることになったのです。ところが、割礼を始めとする律法は、ほんらいイスラエルの民であるユダヤ人だけのものでしたから、イエス様の民である異邦人キリスト教徒にも割礼を施すべきかどうかが問題になったのです。この問題をめぐって、律法に関して比較的自由な立場を取るヘレニストのユダヤ人キリスト教徒たちとユダヤ主義的なユダヤ人キリスト教徒たちとの間に意見の食い違いが生じることになったのです。イエス様が「イスラエルのメシア」であると信じる人たちは、当然異邦人キリスト教徒にも割礼を施すべきだと考えたことでしょう。しかし、イエス様が「全世界のメシア」であると信じる人たちは、パウロもその一人でしたが、異邦人キリスト教徒には割礼は不要であると考える人が多かったと思われます。
  エルサレム教会の中心的な存在であった「主の兄弟ヤコブ」などは、律法を遵守する信仰の人でしたから、イエス様への信仰を通して、異邦の諸民族にもアブラハム民族が生まれて、イスラエルの律法制度が全世界に拡大され、その結果、エルサレムを中心に、世界規模でのメシア王国が実現すると信じていたかもしれません。つまりこの段階では、ユダヤ教と区別された「キリスト教」は、まだ存在していなかったのです。
    ところが、パウロやバルナバたちのアンティオケアの教会は、異邦人とヘレニズム文化の中にありましたので、異邦人キリスト教徒への割礼を含めて、イスラエルの律法に対しては、比較的自由な姿勢で福音を伝えていました。この教会では、異言や預言などの御霊の働きが活発で、ユダヤ人だけでなく、それまでユダヤ教に帰依していた異邦人たちも、さらにユダヤ教に関心がなかった異邦人たちからも、イエス様の集会に加わる人たちが増加していたのです。だから彼らは、異邦人キリスト教徒に割礼を施すことをしなかったのです。このことがエルサレム教会へ聞こえてくると、たとえ異邦人でもイエス様を信じた者には、もれなく割礼を受けさせるべきであるという意見が大勢を占めたのでしょう。エルサレムから何人かの人たちがアンティオケアを訪れて、エルサレム教会の主旨を伝えたのです。これが議論を呼んで、とうとうこの問題をめぐって、エルサレムで会議が開かれることになり、パウロとバルナバもこれに参加することになりました。
(2)ユダヤ人キリスト教徒たち
   2章全体を通じて、パウロは、ガラテヤの人たちと向き合うだけでなく、場合によってはそれ以上に、「ユダヤ人」として、同じユダヤ人キリスト教徒の仲間たちに向けても語っているのです。パウロのこの視点は、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、罪人としての異邦人ではないが」(15節)に表われています。「罪人としての異邦人」という言い方は、彼のここでの言葉が、ガラテヤの「異邦人」に対してではなく、同じユダヤ人同士に向けられていることを示しているのです。このことと、彼が福音的な視野において、ユダヤ主義的なユダヤ人キリスト教徒と鋭く対立していることとは少しも矛盾しません。それどころか、「この視点に」立って初めて、パウロのユダヤ教批判の言葉のほんとうの意味が、洞察できるのです。わたしたちがここに見るのは、当時のユダヤ人キリスト教徒たちの間に横たわる亀裂の深さであり、同時にその多様性です。それにもかかわらず、わたしたちがここに見るのは、ともかくもユダヤ人キリスト教徒同士が、一致を守り抜いた驚くべき柔軟性と寛容です。
   福音書では、イエス様が、ユダヤ教やユダヤ人に向かって厳しい発言をしていますね。これを現代のわたしたち「異邦人」が、いわば「外側」からこれを聞いて、ユダヤ人は神に逆らう呪われた民族だと考えるなら、これはとんでもない誤解です。またパウロが、同じユダヤ人キリスト教徒たちに向かって、「偽兄弟」だとか「呪われよ」と言っているのを聞いて、わたしたちが、ユダヤ人はパウロの敵で、悪い人たちだ、こう誤解するととんでもないことになります。イエス様もパウロもユダヤ人ですからね。こういう誤解が、キリスト教の歴史の中で長年続いてきた結果、あのナチスのユダヤ人虐殺という恐ろしい出来事が生じたのです。
   わたしたちは、パウロの語る言葉が、どのように複雑な状況の中で語られているのかを知っています。彼の周辺には、おおざっぱに分類しただけでも、ユダヤ主義的なユダヤ教徒、比較的自由ないわゆるディアスポラと呼ばれるユダヤ教徒、ユダヤ主義的なユダヤ人キリスト教徒、比較的リベラルなヘレニストのユダヤ人キリスト教徒、ユダヤ教に改宗した異邦人、異邦人キリスト教徒、さらにその周辺には、ギリシアやローマの諸宗教を信じている大多数の異邦の諸民族がいました。また、ユダヤ人キリスト教徒たちの間でさえも、サマリア人やガリラヤ人がおり、クムランを中心とするエッセネ派やファリサイ派や洗礼者ヨハネの宗団から流入してきた者もいて、その出身と宗派は多種多様でした。これに、イエス様の語録集を生み出した諸集会の人たちも加わります。パウロを取り巻くこの多様な状況は、現代のわたしたちを取り巻く「キリスト教」の多様で複雑な状態に似ているとも言えます。わたしたちは、これらのユダヤ人キリスト教徒たちの「交わりの知恵」を学ばなくてはならないのです。
(3)エルサレム使徒会議
   1節に、「これに次いで14年目に」とあります。パウロは、最初のエルサレム訪問から14年たって、会議があって再びエルサレムへ上りました。これが第1回のエルサレム使徒会議です(48年頃?)。実はこのエルサレム会議については、その年代や性格について、いろいろ議論があります。これは使徒言行録の記述とパウロのここでの記述とが合わないからですが、この問題には立ち入らないことにします付記「パウロのエルサレム訪問について」を参照。この会議で、異邦人キリスト教徒たちにユダヤ教の律法を守らせるかどうかについて、ユダヤ人キリスト教徒たちが、さまざまな意見を闘わせました。特に異邦人キリスト教徒にユダヤ人の受ける割礼を受けさせなければならないかどうかが、大問題になったのです。ここでペトロが立って、イエス様の御霊は、異言を異邦人にも語らせることで、彼らの中にもそのご臨在が証しされたと言いました(使徒言行録10章)。異邦人にも福音の道が開かれているのだから、先祖からのユダヤ教をそのまま押しつけるのは止めようではないか。ただ、偶像を拝まない。動物の血を食べない。その他ごく簡単なことだけを守らせようと提案します。最後にヤコブが(使徒ヤコブではなく、「主の兄弟」のヤコブ)、この人はユダヤ主義的な人ですけれども、それでいいであろうと締めくくって、会議が終わります。ここで示された規定は「使徒教令」と呼ばれています。
   この時パウロは、テトスというギリシア人の若者を一緒に連れていきました。テトスは、ギリシア人で異邦人だから、ユダヤ教の慣習に従って割礼を受けなければならない。おそらくパウロには、そういう圧力がかかったでしょう。しかしパウロは、断固としてテトスに割礼を受けさせなかった。5節に「そういう彼らの強要に一瞬たりとも譲らなかった」とあるのがこれです。しかも、そのことで、ペトロもほかの使徒たちも、何も言わなかったようです。こうしてパウロは、自分が信じて伝えているイエス・キリストの教えが間違っていなかったことを確信したのです。結果として、パウロがエルサレムの指導者たちから絶縁されなかったのは、大きな成果であり、主の恵みです。
   ここでエルサレム教会とパウロたちとが、ともかく「交わり」を保ち得たことは、繰り返しますが驚きです。この成果は、ひとりパウロのみならず、彼をそのように遇したエルサレムの使徒たちの度量、またその周辺にいた人たちの裁量と努力に負うところが大きいのです。特にペトロと義人ヤコブとヨハネ、さらにバルナバを加えて、彼らの果たした役割は大きい。と言うよりも、今わたしたちが読んでいる新約聖書は、その大部分がこの人たち、ユダヤ人キリスト教徒たちによって書かれたのです。だから、これらの人たちの功績をここではっきりと理解してください。ペトロたちを「柱」とするエルサレムの使徒たちが、パウロたちの唱える「福音の自由」を認めたのは、その寛容と柔軟性において、わたしたちも学ぶべきです。
   2世紀になって、テルトゥリアヌスやエイレナエオスなどのギリシア系教父たちは、この2章5節の否定辞と関係代名詞とを削除して、パウロが「偽兄弟のゆえにテモテに割礼を施すことによって一時的に反対者たちに譲歩した」という読み方をしました。言うまでもなくこの読みは正しくないです。でも彼らは、エルサレムの大使徒たちが、混乱を避けるために、パウロと敵対者たちとの調停を図る目的でパウロに譲歩させたと解釈したのです。このような読みは、2世紀の教父たちが、この場の事態を観て、それ以外に解決の方法がなかったに違いないと判断したからなのです。一方でマルキオンという人は、関係代名詞だけを削除して否定辞を残す読みをとり、パウロが飽くまで敵対者に譲ることをしなかったと解釈しました。マルキオンは、新約聖書のパウロの考えに近い部分だけをキリスト教の正典にすべきだと唱えた人で、異端とされました。このことは逆に言えば、パウロの時代のエルサレムの使徒たちが、どんなに厳しい多様性と対立に対処する寛容さを具えていたかを示しているのです。コイノニアの知恵ですね。
(4)御霊の証し
    この使徒会議において、パウロのように異邦人へ向かう使徒やユダヤ人キリスト教徒たちと、それからモーセ律法を固守しようとするヤコブやユダヤ主義のキリスト教徒たちとの間に、それぞれの立場に応じて、キリストの御霊にある信仰生活を送る道が確認されたのです。御霊の働きは多種多様です。ペトロとパウロとの間でさえも、キリストの福音とユダヤ教との関係において、見方がずいぶん隔たっていたと思います。しかも、お互い、自分だけではなく、その周囲に大勢のこれまた多様な人たちがいました。こういう状況での二人の交わりは、本当に難しい。そのことは後ではっきりと現れてきます。しかし、ペトロは主として律法制度のもとにいるユダヤ人に福音を伝え、一方パウロは、異邦人に福音を伝えよう。こう話し合って、二人は手を握ることができました。これが御霊の働きの一番大事なところなんです。なぜ二人は手を握り合うことができたのでしょうか。それは、どちらにも御霊が働いてくださっていたからです。御霊のお働き、これがあればこそ一致できたのです。だからパウロは、ペトロや他の人たちを批判したりしませんでした。御霊は、批判をしません。自分の道を認めてもらえばそれでいいのです。いいものは残ります。 悪いものは消え去ります。それでいいのです。
    イエス様の御霊が働く生活の場では、それぞれに文化的な環境は様々です。ただし、信仰は本質的に「文化」ではありません。信仰は文化に属さないのです。なぜなら、信仰は文化を「造り出す」からです。信仰は、文化の源であって文化そのものではないのです。キリストの御霊とは創造する御霊です。文化を生み出し創りだす力を秘めているのです。
(5)残りの者たち
   エルサレムの使徒たちとパウロたちとは、互いに厳しい対立を抱えていました。しかもその対立を直視しつつ、しかも「対等に」、しかも分裂も排除もなしに、交わり(コイノニア)の握手を交わすことができました。パウロがここ2章1節から10節までで語っているのは、まさに「このこと」ですよ。ユダヤ人であり、イスラエルの民と言われる人たちの中で、彼らユダヤ人キリスト教徒たちはほんのひと握りの存在にすぎません。それはほとんど存在することが奇跡に等しいほどわずかです。パウロは、このユダヤ人キリスト教徒たちを「イスラエルの残りの者」と呼びました。 ローマ人への手紙9章26節と27節では、「私の民でない者たちを私の民と呼ぶ」こと、これは異邦人キリスト教徒のことです、それと「イスラエルの残りの者だけが救われる」こととが結びつけられています。このようにしてペトロやパウロたちは、旧約のモーセ律法を新約においてどのように扱うのかについて、その継承をユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とのふたつに分けたのです。どうしてそういうことになったのか、それは、ペトロたちの側にもパウロたちの側にも、どちらにも御霊が働いていてくださるからです。8節に「ペトロに働いて割礼の人たちへの使徒としてくださった方は、わたしにあっても働いて、異邦の諸民族に向かわせてくださった」とあるのは、この意味ですね。すごい創造の力です。御霊の働きとはこういうことです。
   「パウロ」とは「小さい」という意味です。サウロがヘブライ名ですね。サウロはだめになった。もうどうにもならないところへ来ていた。その時イエス様が顕れて、サウロはひっくり返った。するとサウロが小さくなってパウロになった。でもその小さいパウロがものすごい大きな事をなしとげたのです。だから、どうか皆さんは「わたしみたいな者」と言わないでください。一言足りない。「私みたいな者デモ」と言ってください。イエス様のみ手に委ねて、イエス様の御霊に用いられたら、何が起きるか分からないです。
   だから、未来を目指す御霊の働きは、中心があって円を描く一枚岩ではありません。中心はあるけれども、そこからいろんな方向へ発展する花弁型の展開です。御霊の知恵ですね。多様な御霊の働きは、ひとりひとりにあって、そのおかれた状態の中で創造的に働いてくださいます。だから、ひとりひとりが、それぞれに自分に与えられている状態で主様を宿して生きることができるんです。どうかそれぞれに与えられた環境の中で、主様を生きてください。皆さんが、イエス様の御霊にあって、全く新しい文化を創り出してください。政治が悪い。経済が悪い。教育がだめだと、いくら言っても始まらないです。イエス・キリストの御霊は神様の御霊です。神様から来る御霊は、この国に新しい文化を造り出す力を秘めています。日本だけではありません。世界中の文化が、今行き詰まっています。どうか皆さん、そういう意気込みでやってください。
    やがて時代は、ユダヤ人キリスト教徒たちの時代から異邦人世界のキリスト教へと移っていきます。だから、彼らユダヤ人キリスト教徒たち「残りの者」は、旧約から新約の時代を開いてくれたのです。ユダヤ人キリスト教徒たちこそ、その「つなぎの役」をはたしてくれました。彼らは相互に驚くほど多様で、しかも厳しい論争や対立を体験しなければなりませんでした。しかしながら、キリスト教は、彼らなしには成立しえなかったのです。新約聖書は、彼らなしには書かれなかったのです。
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