洗礼者ヨハネについて
■洗礼者の言葉
 洗礼者の言葉としては、
マルコ1章7〜8節/マタイ3章7〜10節/ルカ3章11〜14節に彼ほんらいの言葉が最もよく保存されていると見ることができます〔Meier. A Marginal Jew.(2)40/42.〕。これらに準じて、マルコ1章2〜3節の「呼ばわる声」も彼自身に帰することができましょう。それらには、厳しい裁きの警告と同時に民衆への倫理的な教えが具体的に示されています。洗礼に際して彼が実際に語ったのは、「水の浄め」による一回限りの悔い改めの告白であり、これを拒む者たちへの迫り来る「火の裁き」です。その上で、「後から来る方がいて、自分はその方の履き物の紐を解く値打ちも無いこと、その方は<(聖)霊でバプテスマする>」と予告していたと思われます。ただし「その方」が誰であるかは、彼自身も特定できなかったようです。
■洗礼者の出身
 洗礼者ヨハネは、下級祭司の出であったと推定されています(ルカ1章)。当時の祭司は、エルサレム神殿を中心とする貴族的祭司階級と地方の農村に住む下層の祭司階級とに分かれていて、両者の関係は、当時のパレスチナの支配層と被支配層との関係を反映していました。もしもルカ1章5節が伝えるように、洗礼者が祭司の家の出であったとすれば、彼は家系も家族もエルサレム神殿との関わりも、一切を棄てて荒れ野で預言活動をしたことになります。この点で、洗礼者ヨハネはクムラン宗団となんらかのつながりがあると言われてきました。しかし、両者の関係を直接に証明する資料が存在するわけではありません〔Meier. A Marginal Jew.(2)24-25.〕。にもかかわらず、彼がクムラン宗団と関係があると推定されるのは、エルサレム神殿の祭司制度やファリサイ派に対立する彼の姿勢が、クムランのエルサレムに対する姿勢と重なるだけでなく、彼が洗礼を宣べ伝えた場所が、クムラン宗団の建物があった場所でエッセネの人たちが多かった土地と重なるからです。クムランは、エルサレム全土に散在するエッセネ派の人たちの中核となる宗団が共同生活を営む場所でした。ただし、エッセネ派とクムラン宗団との関係は単純でなく、両者を完全に同一視することはできません。
 クムラン宗団と彼とは、終末の裁きが迫っているという信仰において、また「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」(イザヤ書40章3節)と呼びかける点で共通していました。しかし、両者の関係は、それほど深くはなかったようです。正式にエッセネ派のメンバーとなるためには、少なくとも3年の「見習い」期間が必要でしたが、洗礼者ヨハネは、その期間を待たずにエッセネ派を離れたか、あるいは宗団との信仰的な違いのために、エッセネ派から追放された人であったのかもしれません。
■身なりと食物
  洗礼者は「らくだの毛衣をまとい腰に革帶をしめていた」とありますが(マルコ1章6節=マタイ3章4節)、この描写は列王記下1章8節のエリヤの描写「毛衣を着て革の帯を締めた人」から出ていると思われます。しかし、洗礼者は当時のベドウィンのような荒れ地(砂漠)の地域の人たちと同じように、ごく普通の毛皮をまとっていたので、貴重な「らくだ」の毛皮ではなかったと考えられます。革帯(紐)のほうは列王記下のエリヤの描写に通じますが、これもありふれた革紐であって、特にエリヤを意識した身なりではなかったようです。また洗礼者の食物については「パンも食べずぶどう酒も飲まない」(ルカ7章33節/マタイ11章18節)とあります。しかし、「パン」はヘブライ語「レヘム」(肉)のギリシア語への誤訳から出ているのではないかと思われます。彼はおそらく「肉」を食べることがなかったのでしょう。「蝗(いなご)と野蜜」を食べていたとありますが(マルコ1章6節)、「野蜜」は、ナツメヤシの実から採った物も「蜜」と呼ばれていましたから、ミツバチの蜜のことだけではありません。イナゴはオリエントでは広く食物にされていました。「蜜」についてはエッセネ派の人たちの食べ物との共通性があり、「蝗」はクムラン宗団でも食されていました。エッセネ派の食物規定は厳しく、エッセネを離れた人でもこの規定を守っていたと言われていますから、洗礼者もエッセネ派あるいはクムラン宗団の影響を受けていたのでしょうか。なお彼がナジル人であったという説は、彼が髪を剃った形跡がありませんから事実無根です〔Meier. A Marginal Jew.(2)46-49.〕。
■洗礼の場所と殉教の場
 洗礼者ヨハネは「荒れ野の預言者」とも呼ばれていますが、イエスの頃には「荒れ野」とは、イスラエル南部に広がるような「荒れ地」のことではなく、農耕に適さず人の住まない放牧地のことも含んでいました。ちょうどヨルダン河下流の死海に近い両岸がこれにあたります。洗礼者ヨハネの洗礼活動は主としてヨルダン河の東岸で、彼は死海からやや北の東岸に住んでいたと思われます。そこは、エルサレムからエリコを通り、渡し舟でヨルダンの東岸を通り、ペレアへいたる交通の要所でしたから、彼はここで、商人、駐屯の軍人、その他の人たちに悔い改めを説いたのです。新約聖書では、彼が洗礼を授けたのは「ヨルダン川の向こう側ベタニア」(ヨハネ1章28節/同10章40節)とあります。「ベタニア」(渡し舟の家)とは、ヨルダン川を渡る船着き場のある所のことです。
 ところが、後になって、この地名が、エルサレムの東に位置する別の「ベタニア」(障害者たちの家)と混同していると<誤解>されたようです。このために、洗礼者が洗礼を授けていたのは「ベタニア」(ヨハネ1章28節)ではなく、「ベタバラ」(渡しの場)の間違いであろうと<誤って>判断したのです。ベタバラは、ヨルダン川東岸のベタニアから7キロほど南にある渡し場の地名です。あるいは、ヨルダン川の西岸で、ベタニアから5キロほどエリコ寄りの西にある「ベト・アラバ」(ヨシュア15章6節)のことだと誤解したのかもしれません。しかし「ベタバラ」も「ベト・アラバ」も、どちらも誤りです。
 ヨルダンの東岸のあたりは「アイノン」(泉の多い地)とも呼ばれていました。ところがヨハネ福音書の記者は、これをデカポリスの西岸にあるサマリア領で、サリムに近い所にある同名で別の場所にある「アイノン」と混同して、そこを洗礼者ヨハネのもう一つの洗礼の場だと判断したようです(ヨハネ3章23節)。この結果でしょうか、後のクリスチャンは、ヨルダン川の西岸を洗礼者ヨハネの記念の場としました。しかし、洗礼者ヨハネが西岸で、あるいはサマリアでもなんらかの活動したかどうか?確かなことは分かりません(その可能性もありますが)〔Meier. A Marginal Jew.(2)45.〕
 ヘロデ・アンティパス(在位前4〜後39年)は、ガリラヤとペレアの領主でしたから、洗礼者ヨハネがいた川の東岸は彼の支配下にありました。アンティパスは、ナバテア王の娘と結婚していましたが、彼はその妻を離別して、彼(母はマルタケ)の異母兄弟ヘロデ(母はマリアンメ2世)の妻ヘロデヤ(彼女もアンティパスの異母兄弟の娘)を妻としたために、ユダヤの律法に背く「不倫と近親相姦」として、洗礼者から厳しい非難を受けました。その結果、洗礼者は、ヘロデヤの差し金によって捕らえられ、死海の東にある砦マケルスの牢獄に閉じこめられて、そこで処刑されました(マルコ6章14〜29節)。なお処刑の出来事とその場所については、さらに下記をご覧ください。彼の殉教の時期は、はっきりとは分かりませんが、28年?でしょうか。
■マルコ福音書とヨセフスの記事
 
マルコ福音書での洗礼者ヨハネの殉教記事は、ヨセフスが、その『ユダヤ古代誌』で語っていることとは異なっています。先ずヨセフスの記事を簡単にまとめておきます。
 ヨセフスによれば、洗礼者ヨハネは、ユダヤ人に対して、徳を実践し正義を求め、神への敬虔を実践するために洗礼を受けるよう説いていました。彼が教える洗礼とは、「犯した罪の赦しを得るためでなく、霊魂が正しい行ないによってすでに清められていることを神に示す、身体の清めとして必要だった」からです。しかし、大勢の人たちが彼の周囲に集まるにつれて、ヘロデ・アンティパスは、洗礼者の影響力が騒乱を起こす引き金になることを警戒して、革命が起こって窮地に立たされる前に、「反乱の先手を打って」洗礼者を捕らえ、マケラスの砦に鎖でつないでから、彼を処刑しました〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻5章2節〕。
 なお、ヨセフスによれば、この出来事に先立って、ヘロデ・アンティパスは、妻であったアレタ王の娘と離別して、アンティパスの異母兄弟であるヘロデの妻ヘロディアと恋に落ち、彼女と再婚しました。彼の先妻との離婚が原因となって、ヘロデ・アンティパスは、先妻の父アレタス王の怒りをかい、両者の間で戦争が起こり、アンティパスが敗れました〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻5章1節〕。これを聞いた人々は、ヘロデ・アンティパスが、先妻の父アレタス王と戦って敗れたのは、亡くなった洗礼者ヨハネが、彼に復讐したからだと噂したと伝えています。なお、ヨセフスは、再婚したヘロディアの連れ子である娘の名前が「サロメ」であることも伝えています〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻5章4節137〕。ちなみに、ヘロデ大王の妹にも「サロメ」がおり、また、イエスの十字架刑を見守っていた女性の中にも「サロメ」がいますから(マルコ15章40節)、これらのサロメと区別してください。
 以上で分かるように、マルコ福音書とヨセフスとでは、洗礼者ヨハネの殉教記事に幾つかの違いがあります。
(1)マルコ福音書によれば、洗礼者ヨハネが処刑されたのは、彼がヘロデとヘロディアとの結婚を非難したために、ヘロディアの恨みをかったことが原因になっています。ところが、ヨセフスによれば、洗礼者の処刑は、ヘロディアの差し金によるのではなく、ヘロデ・アンティパスのほうが、洗礼者を警戒して処刑したことになります。個人的な怨恨か? 政治的な懸念からか? 二人のうちで、どちらが洗礼者の処刑を望んだのか? これが問題になります。
(2)ヨセフスによれば、ヘロディアの前夫の名前は「ヘロデ」になっていますが、マルコ福音書では「フィリポ」です。彼女の前夫は、父ヘロデ大王の名声にあやかるために、公称では「ヘロデ」と称していたけれども、その個人名は「フィリポ」だったのでしょうか。
(3)ヨセフスによれば、洗礼者ヨハネは、死海の東岸にある<マケラスの砦>の牢につながれていたことになります〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻5章2節119〕。しかしマルコ福音書では、ヘロデの誕生の祝賀行事の一つとして、大規模な宴会が催されたとありますから、その場所は当時ヘロデ・アンティパスの宮殿があったティベリアス(ガリラヤ湖の西岸)になります。領主の命令で、処刑人が直ちに遣わされて洗礼者ヨハネを処刑し、その首を宴会の席に持ってきたとありますので、洗礼者ヨハネはティベリアスの宮殿の地下牢に捕らわれていたことになりましょう。ただし聖書を含めて、洗礼者ヨハネが閉じ込められていたのがティベリアスであったという伝承はありません。だからこれは「状況証拠」です。
 マルコ福音書にあるとおり、ヘロデが洗礼者ヨハネの話を<しばしば聞いていた>のであれば、また、洗礼者ヨハネが弟子をイエスのもとへ遣わした記事からも判断すると(マタイ11章2〜15節)、その場所は、遠く離れた死海の東岸ではなく、ティベリアスの宮殿の地下牢のほうが適合します。ただしここに問題があります。洗礼者ヨハネの殉教物語は、洗礼者ヨハネ宗団から来ているとも考えられますが、それ以上に、ここのヘロディアとその娘の踊りの物語部分には、ヘレニズム世界の民間での物語の影響を読み取ることもできます。マルコ福音書のこの殉教記事の中心部が、<実際の出来事ではなく>、ヘレニズム世界の民間の物語から出ているとすれば、洗礼者の処刑がティベリアスで行なわれたという推定も成り立ちません。以上で分かるように、状況証拠から判断すれば、洗礼者の処刑はティベリアスでの出来事になりますが、実際の処刑の場所については、確かなことが分かりません。
 ■洗礼者の伝道の特徴
 クムランの遺跡の発掘を指導したステゲマンに従って、洗礼者の伝道の特徴をあげるとすれば、以下のようになります〔Stegemann: The Library of Qumran. 139-227〕。
 なぜ洗礼者ヨハネは、わざわざアンティパスの領地であるヨルダンの東岸で伝道したのでしょうか? 西岸あるいはエリコに近い場所であれば、アンティパスの結婚を非難したとしても、彼の支配地域外ですから、比較的安全ではなかったかと思われます。この謎を解く鍵は、エリコに近いヨルダンの東岸という場所それ自体にあります。そこはかつて、ヨシュアがイスラエルの民を率いて、長い荒れ野での放浪から、約束の地へ足を踏み入れたまさにその境界の場所だったからです(ヨシュア4章13節)。洗礼者ヨハネは、古代の預言者に見習って、荒れ野に住むベドウインのように毛衣をまとい、彼らと同じ野蜜とイナゴを食べることで、イスラエルが約束に土地に入る<以前の>イスラエルの民の<荒れ野での生活>を再現しようとしたのです。なぜなら、「荒れ野」にいた頃のイスラエルの状態こそ、未来の約束の土地に入る直前の神の民の「場」にふさわしかったからです。洗礼者ヨハネが、迫り来る終末の裁きを前にして「悔い改め」を人々に説いたのも、約束の神の終末に入る時が迫っているというまさにこの視点からでした。洗礼者ヨハネのこの生活のスタイルは、「大食漢で大酒飲み」(マタイ11章19節)と言われたイエスのそれとは対照的です。
 洗礼者ヨハネは、自分の生活を他の人たちの模範にしようとしたのではありません。しかし、彼の身なりには、預言者エリヤの姿がこめられていると言われています(列王記下1章8節/ゼカリア13章4節)。イエスが洗礼者ヨハネを「預言者以上の者だ」(マタイ11章7〜9節)と呼んだのはこの意味です。だからここで言う「預言者」とは、未来を「予言」する者のことです。ただし、洗礼者ヨハネ自身の意識においては、自分がエリヤの再来であるとか、イエスの「先駆者」であるという認識はなかったと思われます。彼は、自分が神によって遣わされた預言者にほかならないと自覚していたからです。ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネは、「イエスにいたる先駆者」(ヨハネ1章23節)として描かれていますが、共観福音書には、洗礼者ヨハネについて、イエス自身の発言が記録されています(マタイ11章7〜18節/ルカ7章24〜35節)。
 洗礼者ヨハネ自身は、自分の活動をイザヤ書40章3節/マラキ3章1節に基づくものと見ていました。それは「火による裁きと悔い改め」(マラキ3章19節)で、このモチーフが、洗礼者がエリヤと結びつけられた理由でしょう。エリヤもまたエリシャと共にエリコから出てきて、ヨルダン川の東岸で、「つむじ風に乗って昇天した」(列王記下2章1〜18節)からです。
 洗礼者ヨハネは、従来個人がそれぞれ自分で行なっていた水による洗い清めを洗礼者自身の手で洗礼(バプテスマ)を「他人に与えた」最初の人です。彼は受ける者を水の中に「浸す」方法をとりましたから、「浸す者」(バプティスト)と呼ばれたのです。イエスも彼に倣って洗礼を行なったと思われますから(ヨハネ3章25〜26節/4章1〜3節)、キリスト教の洗礼はここから発祥していると考えることができます。洗礼者ヨハネの洗礼は「罪からの浄め」と結びついていました。マルコ1章4節(=ルカ3章3節)には「罪の赦しのための洗礼」とありますが、この言い方はマルコ福音書のこの箇所とこれを採り入れたルカ福音書だけです。しかしここは「罪を清める/取り除く」とも解釈できます。洗礼者ヨハネの洗礼はどのように受け取られていたのか?これを正確に知ることはできません。神の裁きに備える「悔い改め」と、その結果にふさわしい生活が求められていたのは確かですが、それ以上のことは分かりません。「罪の赦し」それ自体は、祭司も預言者もメシアさえも与えることができないもので、ただ神のみが裁きにおいて与えることができたものです(マルコ2章7節)。だから、洗礼者ヨハネの洗礼は「罪の赦しに<いたるための>」洗礼だったのかもしれません。迫り来る神の裁きにおいて、その人が悔い改めるまでの間に犯してきた罪を神が赦して浄めてくれるものだったのでしょう。当時のユダヤ人は洗礼者とその仲間のことを「(滅びから)保持される者たち」と呼んだようです。アラム語「ナースレン」「(冠詞と共に)ナースラヤ」は、ギリシア語読みでは「ナザレ」(マルコ1章24節/ルカ4章34節)であり、「ナゾレアン」(マタイ2章23節/ルカ18章37節/ヨハネ8章5節)でした。ほんらいこれが、同名のほかの「イエス」と区別するために「ナザレのイエス」と呼ばれるもととなったという説もあります(ただしマタイ2章23節を参照)。
 洗礼者ヨハネが祭司の出であることは、彼の洗礼にとって不可欠な要素でした。祭司だけが神の権威を帯びて、洗礼を授ける儀礼を執り行なうことができたからです。しかし彼は、人々をヨルダン川の岸辺<までしか>連れて行くことをせず、そこで洗礼を授けたのです。ヨルダン川の向こう側へは裁きと救いの時に初めて到達できるからです。だから、ヨルダン川は、裁きと救いの二重の終末へいたる<渡しの場>であったことになります。洗礼者ヨハネの洗礼が「死」を意味する「悔い改め」が目的であるというのは、後のキリスト教の解釈です。洗礼者ヨハネの洗礼は、ほんらい裁きに際しての救いの洗礼であったと見るべきでしょう。新約聖書では、この「救い」にいたる洗礼はイエスに帰せられることになり、イエス自身もこの意味での洗礼を受けたのです(マルコ1章9〜11節/マタイ3章13〜17節/ルカ3章21〜22節/ヨハネ1章29〜34節)。
■洗礼者の「洗礼」
 洗礼者は自分の洗礼を「水の」洗礼と呼び、来たるべき方が「聖霊で」バプテスマすると告げました(マルコ1章8節)。ところがマタイ福音書とルカ福音書では、これが「聖霊と火で」(マタイ3章11節)となっています。マタイとルカは、マルコではなく、語録集(Q資料)を用いていますから、「聖霊と火で」は語録集から来ています。しかし「聖霊」という言い方は当時のユダヤ教には見られません。「主の霊」あるいは「霊」が普通であり、ごく希に「聖化する霊」の意味で「聖なる霊」という言い方が見られるだけです。「聖霊」はキリスト教会によって初めて用いられるようになったのでしょう。「火」は裁きの預言者としての洗礼者本来の言葉であり、「聖霊」という言葉はイエスに臨んだ神の霊を指すとも考えられます。洗礼者の実際の言葉は「霊によるバプテスマ」であった可能性があります。彼の水による洗礼の目的は、終末的な裁きに備える1度限りの「浸し」による悔い改めの霊性だったからです。だから「火で」であったとすれば、それは裁きの火を意味したはずです。
 洗礼者は「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」(マルコ1章4節)を伝えたとありますが、新共同訳では、「悔い改めの洗礼」とあって、洗礼は直接に「罪の赦し」と結びついていません。「罪の赦しを得させる」が、「悔い改め」にかかるのか「洗礼」にかかるのか原文は必ずしも明白でないからです。はたして洗礼者自身は「罪の赦しを得させる」洗礼を宣べ伝えたのでしょうか? 先にも指摘したように、確かなことは分かりません。洗礼者の洗礼について、ヨセフスは「人々は、犯したどんな罪をも赦してもらおうとして洗礼を受けるのではなく、正しいおこないによって魂が完全にきよめられたことに基づいて、体を聖別するために(洗礼を)受けなければならないのであった」と述べていて、この洗礼解釈はクムラン宗団のそれと重なるものです。クムラン宗団と洗礼者との間の共通性として、悔い改め→罪からの浄め→内面の聖化→洗礼→心身のきよめ、という一連の過程を想定することができます。神は人間を義なる者と悪しき者とに分け、正しい者たちは、きよめからきよめへと聖化され、悪しき者たちは、呪いから呪いへと断罪される。クムランの洗礼が繰り返しおこなわれたのは、このような信仰と無関係でありません。洗礼者がエリヤであるという伝承は(ルカ1章17節)、洗礼者ヨハネ宗団にまでさかのぼると見ることができます。エリヤは祭壇を先ず水で浸し、その後で祭壇に「主の火」が降るのを祈り求めました。この「火」は「裁き」というより「主の臨在」を意味するから(士師記6章21節)、洗礼者の「火」もこれに近いものだったのでしょうか。
  上に述べたように、洗礼者ヨハネのメッセージ、とりわけ洗礼については、従来語録集(Q)の「しかしわたしより後に来る方はわたしより強い方で、彼は(聖)霊<と火で>洗礼するであろう」〔ヘルメネイアQ14〕がほんらいの形であると考えられてきました。しかし近年(1994年)、洗礼者ヨハネの洗礼については「わたしよりも強い方が後から来られる。わたしはかがんでその履き物(単数)の紐を解く値打ちもない。わたしは水で洗礼を授けたが、その方は(聖)霊で洗礼をお授けになる」(マルコ1章7〜8節=ヨハネ1章26〜27節)のほうがほんらいの形に近いと指摘されています。これに加えて、洗礼者のメッセージはマタイ3章7〜10節に最もよく保存されています。マタイ福音書3章11節の「(聖)霊と火で」はQから出たものですが、「火で」とあるのは洗礼者の洗礼に関する言葉が、その前後に「火に投げ込まれる」「消えることのない火で焼かれる」とあることから、口頭伝承の段階で「火」が洗礼にも紛れ込んでQで「(聖)霊と火で」になったと考えられるからです。
 したがって、洗礼者は迫ってくる終末に備えて悔い改めを説いて水の洗礼を授け、その一方では、悔い改めを拒む者には厳しい口調で「火による裁きと罰」を訴えていました。その上で彼は、自分よりも後から「自分よりも優れた/強い方が来て、聖霊でバプテスマするであろう」と預言したのです。しかし「強い方」がだれであるかは、彼自身にも明かではなかったと思われます〔Meier. A Marginal Jew.(2)27-40.〕。
■クムランと洗礼者との違い
 洗礼者とクムラン宗団との間には幾つかの重要な違いがあります。
 第一に、洗礼者の授ける洗礼は1回限りのものであって、しかも宗団の名前によるのではなく、彼ひとりがこれの授与者です。
 第二に、彼は受洗者たちに宗団的な規律あるいは規則を与えた様子がないことです。福音書には、洗礼者の弟子たちが祈り(ルカ11章1節)や断食をしたことが出ていますが(ルカ5章33節)、それらは洗礼者宗団の中で定型化されたもので、洗礼者自身がこれを制定したとは考え難いところがあります。彼は、自分のもとに集まる人たちを他宗団や世俗の人たちから分離しようとはしなかったのです。
 第三に、クムラン宗団は加入者に一定の条件を課していましたが、洗礼者はこのような制限を一切もうけませんでした。彼のもとには、庶民や下層の人たちだけでなく、知識階級の人たちもその呼びかけに応じた可能性が大きく、彼の周りには「社会を変革できる立場にいる人たち」が相当数いたと考えられます。洗礼者は、クムラン宗団のように、「アブラハムの末」が「悪の霊」によって終末の滅びに定められているとは考えませんでした。彼は差し迫った終末の裁きを前にして、なお悔い改めによる「罪の浄め/赦し」があることを、クムランが拒否していたまさにその人たちに向かって宣べ伝えたのです。彼は「神の秘義」を説く代わりに、それぞれの身分や職業に応じて、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ように説いたのもこの理由からでしょう。この意味で彼のメッセージは、社会の体制を変革しようとする意図を含んでいたと言えます。そうであればこそヘロデは、民衆が彼を指導者として暴動を起こすことを恐れたのでしょう。
 第四に、クムランでは、モーセ律法に従って悔い改め、主の霊によってきよめられることが、水による洗いの前提とされていました。ところが洗礼者は、「きよめ」をこのようには見なかったのです。彼の目には、「きよい者」も「きよくない者」も一様に神の裁きに直面している姿が見えていたのです。彼はこの視点からクムランの二分法を乗り越えたと言えます。彼が見ていたのは、クムランの人たちもユダヤもサマリアもガリラヤの人たちも一般の人たちも、皆一様に終末の裁きのもとにある姿だったからです。
■クムラン宗団と洗礼者
 クムラン宗団とエッセネ派は、「イエス以前の」クリスチャンであり、洗礼の先駆けであったという見方は、正しいとは言えません。両者の違いは、これまで考えられていた以上に大きいからです。洗礼者ヨハネとクムランとはむしろ対立関係にあったと観るほうが正しいとさえ言えます。洗礼者ヨハネの洗礼はイスラエルの荒れ野への回帰を意味しましたが、クムランの洗礼は律法と預言書の研究を主たる目的としていました。洗礼者ヨハネの終末観は、間近ではあるが何時訪れるか分からないものでしたが、クムランは終末をダニエル書の研究から紀元70年と定めていたのです。クムランがエルサレム神殿の祭儀に参加しなかったのは太陽暦によるものですが、洗礼者ヨハネが太陽暦を重んじたかどうかは不明です。彼の父はエルサレム神殿に仕える祭司でしたから、エッセネのようにエルサレム神殿の犠牲を否定することはしなかったと思われます。洗礼者はイスラエルの救いが、全面的にヨルダン東岸での洗礼によると考えていましたから、神殿での祭りを無視していたようです。
 地理的に見ると、クムランと洗礼者ヨハネの東岸とは、徒歩で5時間ほどですが、クムランはイスラエルの「聖地」の内に含まれていたのに対して、東岸は聖地と荒れ野との境界にあって、「聖地の外側」になっていました。洗礼者ヨハネが、ヨルダン東岸へ出向いたのは、彼に対する召命の後になってからですから、「洗礼者ヨハネは、エッセネでもなければ、エッセネの弟子でもなかった」〔Stegemann 225〕と言えましょう。
 しかし、クムランの文書は、今まで明らかにされなかった洗礼者ヨハネの側面をはっきりと見せてくれたと言えます。クムラン文書は、エッセネにとって、捕囚以後の聖地がいかに重要であったかを明らかにしてくれますが、洗礼者ヨハネの象徴的な洗礼の場もこのような考え方と関連していると思われます。クムラン宗団の「義の教師」は、エッセネ共同体に加わることこそが救いの普遍的な原理であると教えました。洗礼者ヨハネは、この普遍性をさらに推し進めて、自分の洗礼運動によって救いを達成しようとしたのです。エッセネ派は、他のユダヤ教諸派がそれまでになかったほどに、最後の審判の重要性を説いていました。これがエッセネの最大の黙示的特徴であると言えます。このような裁きの終末性が語られなかったとすれば、人々は洗礼者ヨハネの告知に耳を傾けることはなかったと思われます。
 クムランの文書にある「火による裁き」は、明らかに洗礼者ヨハネの終末の裁きの火に受け継がれています。また、義の教師の聖書解釈の方法は、預言書が過去あるいは未来のことではなく同時代の出来事にかかわるという読み方でしたが、この解釈法と、洗礼者ヨハネが同時代の人たちに語った告知とを切り離すことができないでしょう。さらに、エッセネの律法遵守の精神なしに洗礼者ヨハネの厳しい裁きの告知はありえなかったと思われます。このために、特に律法に基づく結婚についての彼の告知が彼を殉教へ導いたのです。エッセネ派は、罪の赦しがエルサレム神殿の犠牲とは直接結びつかないことを明らかにしました。洗礼者ヨハネの場合でも、彼がヨルダン川で洗礼を授けたことは、これまでのユダヤ教にその例がありませんでした。だから、エッセネに対する知識なしには、洗礼者ヨハネの正しい位置づけはできなかったと言えます。
*なおコイノニア会ホームページ→著作→知恵思想とヨハネ福音書の霊性→第6章「洗礼者ヨハネ」をも参照してください。また、洗礼者ヨハネとイエスとの関係については、ヨハネ福音書講話(22)「イエス様と洗礼者」の注釈に、現在一般的に認められている枠組みで紹介してあります。
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