【補遺】エルサレム陥落にいたるまで
ユダヤが、ピラトの総督時代から数々の反乱を繰り返しながら、ついにローマとの「ユダヤ戦争」によって、エルサムの陥落とユダヤ国の滅亡を招くにいたるまでの過程のごくあらましを、以下に簡単な項目別にしてあげておきます。出典は、主として、ヨセフス『ユダヤ古代誌』(6)XVIII. 秦剛平訳。ちくま学芸文庫/ヨセフス『ユダヤ戦記』(2)(3)新見宏訳。山本書店などからです。
6年〜9年:ローマの元老院キュリニオスがシリアの総督(6/7年)、騎士階級のコポニオスがユダヤの初代の総督になると(在位6〜9年)、それまでユダヤの支配者であったアルケラオスの財産を処分するために、ユダヤ人の財産登録(課税の準備)を命じます。これがもとで、ガウラニテスのユダが、ファリサイ派のサドコスと組んで、ローマからの独立を主張し、皇帝を「主」と呼ぶ者を襲うことを公然と認めましたから、これが、諸党派の対立を生む契機となり、同胞の市民同士の殺戮合戦を引き起こす原因になります。
26年:ユダヤの総督に就任したピラトは、皇帝カイザルの胸像を付けた軍旗を夜間にエルサレム市内に持ち込みます。夜が明けると、これを知ったエルサレムや地方のユダヤ人たちが、律法に反するとして、カイサリアのピラトの官邸に抗議に押しかけ、5日間座り込んだので、ピラトは、武力で彼らを脅しますが、死を覚悟して首を差し出すユダヤ人の気迫に驚いて、ピラトは、軍旗を撤去させました〔ヨセフス『ユダヤ戦記』(1)11巻。新見宏訳(山本書店)254〜55頁〕。また、ピラトは、エルサレムから離れた水源から市内への水道管を工事する際に、神殿からの拠出金の一部を工事の費用にあてます。聖なる拠出金を工事に充てることに反対して、何万ものユダヤ人たちが集まり、罵倒の言葉を吐きました。ピラトの兵士たちは、棍棒を着衣の下に隠して、群衆を包囲し、雑言が激しくなると、彼らに襲いかかり、見境(みさかい)なく殴りつけます。このため、多数の者が捕らえられ、ふぐ者となり、殺される者たちもでましたから、この事がまた騒動の原因となりました。〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』(6)14〜32頁〕。
30年頃:ユダヤで、一人のユダヤ人が、律法を破ったために起訴され、処罰を恐れてローマ市内へ逃げ込んだのです。この男は、不遜にも、3名の共犯者たちと共に、ローマ市内で律法について教えていました。ローマの市民で、フルビアという身分の高い女性が、ユダヤ教に改宗しようとして、男たちの教えを受けたので、彼らは、彼女に紫の染料と金をエルサレム神殿に寄付するよう促します。献納品と金を受け取ると、彼らはそれを(計画通りに)横領したのです。フルビアの夫は、ティベリオス帝の友人であったために、妻の依頼を受けて、この件を皇帝に告げると、皇帝は全ユダヤ人共同体をローマ市内から追放する命令を出しました。こうして、四人のならず者ユダヤ人のために、全ユダヤ人がローマから追放されることになりました〔前掲書40頁〕。
36年:一人の男が、サマリア人が聖地と崇めるゲリジム山に、モーセが埋めた聖なる什器があると言いふらし、大勢の人を集めて、この山への登山を計画しました。ところが、ピラトは、騒乱を危惧したのか、騎兵と歩兵を遣わして、登山口を閉鎖し、その上、登山直前の民衆を襲わせたので、殺される者、追い散らされる者たちが多数出ました。そこで、サマリアの評議会は、シリアの執政官ウィテリオスにこの件を報告し、犠牲者殺害の件でピラトを訴えました。ウィテリオスは、マルケロスを(ピラトの代わりの)ユダヤの総督として派遣し、ピラトにローマの皇帝にこの件について釈明するよう求めました。ピラトは、この騒乱の釈明のために、ローマ皇帝の下へ赴きますが、彼がローマに着く前に、ティベリウス帝が亡くなります。
38年:エジプトのアレクサンドリア市内では、エジプト人によるユダヤ人への虐待が行われました。このため、武器を手にするユダヤ人による暴動が起こりました。ローマのクラウディウス帝は、この騒ぎを鎮圧するようエジプトの総督に命じます。すると、ユダヤ地帯を支配するアグリッパ1世とカルキス支配のヘロデから、皇帝への要請があり、皇帝は、次のような勅令をエジプトに布告しました。「アレクサンドリアのユダヤ人たちと諸民族は、ローマ帝国の支配下にあって、平等に市民権を有し、その権利は総督によって守られている。帝国に服従する諸民族が、その父祖からの宗教を冒涜するよう強いられてはならない。この勅令の布告後には、一切の紛争を絶つよう命令する。」
52年:フェリクスが総督に即位。この頃、「シカリオイ」と称する盗賊の集団が、エルサレム市内で白昼殺人などを行い人々を恐れさせました。その最初の犠牲が大祭司ヨナタンです。また、別の詐欺集団が、神の霊感を受けたと称して、革命的な変革を扇動し、人々を荒れ野へ連れ出したので、フェリクスは、反乱の兆しを見て、軍隊を送りこれを鎮圧しました。
54年:この頃、エジプト人の偽予言者が現れて、3万人もの追従者を引き回し、オリーブ山からエルサレムへ侵入しようとしたために、フェリクスは、重装備のローマ兵を率いて、彼らを攻撃し鎮圧しました(使徒言行録21章38節を参照)。
また、北部のフィリポ・カイサリアでは(あるいは、地中海沿岸のカイサリア?)、ユダヤ系の住民とシリア系の住民との争いが生じました。カイサリアでは、シリア系の住民は、市内のギリシア風の彫像や神殿を指して、この街はほんらいギリシア人のものだと主張しました。ユダヤ系の住民は、富と力において優っていましたが、シリア系の住民は、ローマの軍隊の後ろ盾を得ていました。優勢を誇るユダヤ人に対して、総督フェリクスが、市場で居丈高に退去を命じ、従わない者を軍によって殺させました。また、ユダヤ人とシリア人の双方の代表をローマに送り、皇帝ネロの前でその権利を主張させました。
60年:フェストスが総督に即位。彼は、ユダヤで暴動を起こそうとする多くの盗賊(反乱分子)を捕らえて処刑しました。反徒らは反乱を扇動し、「自由と解放のために立ち上がれ」と呼びかけ、ローマの支配に屈した者に死をもって報いると脅迫しました。彼らの狂気はユダヤ全土に及びました〔ヨセフス『ユダヤ戦記』(2)10頁〕。
62年:アルビノスが総督に即位。彼は民に重税を課し、投獄されている者たちの親族から金(賄賂)を受け取って釈放したために、牢屋には、貧しい者ばかりが残りました。このために、エルサレムの市民の間から革命を志す者が現れますが、その中からも、総督に金を渡して「反乱」を目こぼししてもらう者が出るという有様でした。言論の自由が失われて、盗賊の頭が統治者になったようなこの事態は、やがて生じるユダヤの滅亡を予期させるものでした。総督アルビノスは、彼らの鎮圧のために努力します。
64年:フローロスが総督に即位。フローロスは、前任のアルビノスよりも、さらに公然と悪事を働きました。彼は、悪事を働いて儲ける者たちから上前を受け取ったために、悪事が公然とはびこり、町全体が裸にされて滅びる有様で、町という町は荒れ果てました。フローロスは、シリア総督ケスティオスに宛ててユダヤ人の反乱への危惧を書き送ります。これに対抗して、エルサレムのユダヤ人もフローロスの悪行をケスティオスに宛てて訴えます。シリア総督ケスティオスは、実情を探らせるために、部下の一人を派遣します。派遣されたネアポリタノスはアグリッパ2世と会いますが、その場に、ユダヤの大祭司や議員たちも王を出迎えに来たので、アグリッパ2世は、フローロスの悪政を聞くことになります。しかし、ローマの支配に逆らうことの危険を察知した王は、ユダヤの指導者と民衆にむけて、反乱を自重するように切々と訴え、騒ぎは一時収まります〔ヨセフス『ユダヤ戦記』(2)24〜42頁〕。
66年1月〜6月:総督が神殿から17タラントの税を取り立てたことが契機となって、フローロスの圧政と悪事に耐えかねたユダヤ人は、ヘロデ・アグリッパ2世の王の時に(使徒言行録25章13節/同26章1節)、ついに反乱を起こします(5月)。ローマとの戦争も辞さない暴徒は、死海南部の西岸にあるマサダの砦を襲い、駐留するローマ兵を皆殺しにします。その頃、大祭司アナニアスの息子エレアザロスは、外国人からの神殿への犠牲を一切拒否するように命じ、このために、皇帝とローマのために神殿に犠牲を捧げることを止めることになります。これは、ローマと皇帝に公然と楯突くことを意味しますから、ローマとの戦争への原因になります。ユダヤの大祭司と有力者たちは、反乱の愚かさをさとし、取り返しのつかない災難が生じると警告しますが、エレアザロスと反乱分子たちは聞き入れず、戦争は避けられない状態になります。事態を憂慮した人たちは、フローロスと王の二人に、軍隊によって乱を鎮圧するよう依頼しますが、フローロスは、これを無視。王は、騎兵2千を派遣しますが、上の町を占拠するに留まり、神殿と下町は反徒の手中に落ちます。
66年7月〜12月: 反乱の暴徒たちは、アグリッパ2世の王党派の軍隊を打ち破り、大祭司と王宮とを焼き払います。ついに、ローマ軍が駐在する神殿の北のアントニア砦を襲撃し、ローマ軍を追い出して占拠します(6月)。反乱軍の頭のメナヘムたちは、暴君となり、エルサレムを占拠し、ローマとの和平を図ろうとする大祭司アナニアスが殺されます(9月)。ところが、メナヘムも、その横暴ぶりのためエレアザロスに殺されます。
ここにいたって、シリア州知事ケスティウスは、ローマの軍団を率いてエルサレムを包囲しますが、和平の交渉もむなしく、神殿の丘の攻略に失敗します(9〜10月)。ケスティウスのローマ軍は、一時撤退しますが、これが敗北の原因となって、反乱軍に追われて和平を求める事態に陥ります。ユダヤの反乱軍は、和平に応じると見せかけてローマ軍を欺いて、ローマ兵を皆殺しにします。ユダヤの破滅を予測した地中海沿岸の町々で、今度は、シリア人などによるユダヤ人虐殺が起こります。ユダヤの反乱派は、これらの町々を焼き払います。エジプトのアレクサンドリアでは、ローマ軍によるユダヤ人への徹底的な虐殺が行われます。
67年1月〜2月:ローマ軍に対して勝利を得た反乱軍は、エルサレムに戻り、財力と武力を蓄(たくわ)え、イエスースとエレアザロスを指揮官に任命しました。ガリラヤへは、ヨセフスが指揮官として赴(おもむ)きます。ところが、レビの子ヨハネという人物が出て、北部のフェニキア地方から戦闘に熟練した者たちを400人ほど集め、悪辣な手段で、ガリラヤで略奪を始めます。彼は、自分が指導者になろうと野心を抱き、ヨセフスに取り入って、ガリラヤの油などの利権を得て、莫大な富を蓄積しました。しかし、ヨハネは、密かにヨセフスを倒そうとねらっていました。ヨハネとイエスースは、共謀して、民衆を扇動し、ガリラヤ湖南部のタリカイアに居たヨセフスを襲わせます。しかしヨセフスは、その莫大な富を利用して、タリカイアの人たちを味方に付け、彼を殺そうとした派閥の指導者たちを相談に応じると見せかけ殺してしまいます。ガリラヤの騒動が収まると、エルサレムの大祭司アナノスは、ローマとの戦いへの防備を固め始めます。
67年4月〜5月:ローマ皇帝ネロは、ユダヤにおけるローマ軍の敗退を知り、ローマ軍団の将軍ウェスパシアノスにユダヤ征伐を命じます。ウェスパシアノスは、息子ティトスを派遣してアレクサンドリアのローマ軍団を率いて、パレスチナへ向かうよう命じます。また、同盟する国々の軍隊を集めて大軍団を結集します。ウェスパシアノスのローマ軍団は、ガリラヤの北方のアンティオキアに軍を進め、そこでアグリッパ2世の軍と出会い、そこから、ガリラヤの西岸にあるプトレマイオスへ進むと、そこで、ガリラヤの中心都市セポリスから来た住民と出会います。セポリスは、ヨセフスから離反して、ローマに降伏します。ヨセフスのユダヤ軍は、ローマの正規軍にかなわず、敗退します。ウェスパシアノスのローマ軍は、パレスチナ沿岸でティトスの軍と合流して、総勢6万の軍団が、ガリラヤ湖の西方の沿岸のプトレマイオスに進み、そこに逗留します。ウェスパシアノスとティトスのローマ軍は東へ進み、プトレマイオスとセポリスの間にあるヨタパタで、ヨセフスの軍と対峙します。強固な城壁に囲まれて、ヨセフスのユダヤ軍は47日間も持ちこたえますが、ローマ軍得意の土塁と投石機による攻撃に耐えきれずにヨタパタは陥落します。
67年6月〜11月:ヨセフスは、神がユダヤを滅ぼそうとしていることを覚り、ユダヤ人に自殺を思いとどまるよう説得しますが、ユダヤ人はこれを拒否。ヨセフスは、クジで順番を決め、順序よく刺殺することで死ぬよう提案。ところが、クジで最後に残ったヨセフスはローマ軍に捕らわれます。捕らわれたヨセフスは、ウェスパシアノスが将来ローマ皇帝になると予言し、これによって生き残ります。
ユダヤ人は、ガリラヤ湖南端のタリカイアに籠もり抵抗を続け、また、ガリラヤ湖西岸のティベリアスに船を終結させて海戦の準備をします。ヨセフスは、タリカイアの住民に抵抗を止めるよう説得しますが、外から来たイエスースを始め暴徒たちに扇動された者たちは、説得に応じることなく、イエスースたちは、ローマ軍とガリラヤ湖で海戦に及び、ユダヤ側が敗北します。ウェスパシアノスは、反乱の暴徒たちを誘導して彼らを処刑しますが、タリカイアの住民を赦します。
残るのは、ガリラヤ湖東方のガマラ(ヨセフスが指導)と、ガリラヤ湖北西のギスカラ(ヨハネに扇動された)だけとなります。ウェスパシアノスはガマラに軍を進めます。ローマ軍は、ガマラの石造りの家の倒壊で苦戦しますが、これを占拠。ヨセフスは、巧みに逃れてエルサレムへ向かいます。一方、ティトスの軍はギスカラの住民に降伏を呼びかけますが、ヨハネはこれに応じることを禁じ、このため、6千人ほどが殺され、全ガリラヤはローマ軍に占領されます。
67年12月〜68年2月:エルサレムは、戦乱で地方から流入した人々を加えて混乱していました。有力者たちはローマ軍と和平を交渉しようとしましたが、地方から来た暴徒たちを含む反乱の徒は、「裏切り者」としてこれを許しませんでした。このために、王家の縁者アンティパスが犠牲となります。思慮深い大祭司アナノスは、エルサレムを指導していましたが、ローマとの和平を図ろうとしました。ところが、ギスカラから逃亡して来たヨハネは、大祭司アナノスに味方するかに見せかけて、過激派のゼロータイと通じて、情報を彼らに流します。過激派は、イドマヤ地方に援軍を求め、イドマヤからの軍隊とゼロータイが組んで、アナノスの警護する神殿を攻撃し、神殿の外庭は血で染まります。平和の維持を唱える大祭司は捕らえられて殺されます。事ここにいたって、エルサレムの陥落は避けがたいことになりました。エルサレムのキリスト教徒たちは、危難を察知して東方のペレアに避難します。多くのユダヤ人が、エルサレムから脱走しようと試みますが、反乱軍か、ローマ軍に捕まり殺され、市の内外に散らばる彼らの死体は埋葬されず腐乱する状態におかれました。その間、ヨハネは、まるで自分が王であるかのように振る舞っていました。
68年6月:ウェスパシアノスは、エルサレムを四方から攻撃するために、死海の北のエリコに布陣していましたが、皇帝ネロが没したため、ウェスパシアノスは軍を引き、戦争は一時中断します。
68年冬:その頃、エルサレムにシモンという人物が現れて、エルサレムで内部抗争が起こり、シモンが独裁の権力を握ります。ウェスパシアノスは、再び軍を率いて、ユダヤ沿岸のカイサリアに進み、そこからエルサレムへ向かいます。エルサレムは、イドマヤから街に迫るシモン一派と、街の内部でヨハネと組む過激派のゼロータイと、包囲するローマ軍の三つ巴の中で、街の内も外も恐ろしい状態に陥ります。
69年3月〜4月:ヨハネは、市内の家々から財宝を奪い、狼藉を働いたので、市民は、外のシモンを誘って市内へ導き入れ、このため、シモンとヨハネとが相争い、シモンは神殿に籠もるヨハネを襲います。
69年5月〜7月:その頃、ローマの将軍ウィテリオスが、ゲルマニアからローマに帰還して、皇帝の地位に就くという事件が起こります。これを聞いたウェスパシアノスの軍隊内では、ウィテリオスよりも、ウェスパシアノスのほうが皇帝としてはるかに優っていると唱えて、ウェスパシアノスを真のローマ皇帝だと宣言します。ウェスパシアノスは、この願いに抗しきれず、皇帝の座に着くことを決意します。
69年8月〜12月:皇帝ウェスパシアノスは、ウィテリオスを抑え込むために、先ずエジプトのアレクサンドリアへ進軍します。アレクサンドリアは、彼を皇帝と認め、シリアその他の地方も彼を皇帝と認めます。アントニウスが率いるローマ軍は、ウィテリオスの軍と闘いこれを破り、かつて、ヨセフスが予言したとおりに、ウェスパシアノスがローマ帝国の皇帝になります。
70年過越祭:皇帝ウェスパシアノスの命を受けて、ローマの将軍ティトスが、エジプトからカイサリアへ進み、エルサレム攻略の準備を進めます。ヨセフスによれば、その頃のエルサレムは、神殿の内部を占拠して神殿の捧げ物を我が物とするエレアザロス一派と、上の町を支配して独裁者となり市民を殺害するヨハネ一派と、シモン一派は下の町を主に占拠して上の町のヨハネを攻撃していました。この三者の相互抗争によって、エルサレムとその神殿は、ローマ軍と戦うための食料や武器や建物を失うことになり、老人たちは絶望して、ローマ兵が来て治安を回復してくれるのを祈る有様でした〔ヨセフス『ユダヤ戦記』(3)V巻。4〜9頁〕。
70年4月〜5月:皇帝ウェスパシアノスの命を受けてたローマ将軍ティトスは、同盟国の王たちからの援軍と、シリアからの補助軍と、アレクサンドリアからの部隊とを率いていました。エジプトの知事であったアレクサンドロスが、ティトスと共に参戦していました。ティトスの軍団は、二手に分かれて、一方は、エルサレムの城壁の最西端の突き出した門(プセフィノス塔)に向き合って布陣し、他方は、エルサレムの東のオリーブ山の一つであるスコポス丘に陣を敷きました。市内では、ヨハネとシモンとの争いが続いていました。過越祭に、エレアザロスが神殿を民衆に開くと、「ヨハネの悪質きわまる陰謀によって」〔ヨセフス『ユダヤ戦記』(3)V巻。23頁〕、武器を隠し持ったヨハネの一派が、神殿内に入り込んで聖所の周辺で騒ぎを起こしました。しかし、ローマ軍の到来によって、ヨハネとシモンの両派も結束し、ユダヤ軍は、降伏する振りをして城門の外へ出て、突然にローマ兵に向かって攻撃を仕掛けたので、だまされたローマ兵は逃げ帰る有様でした。
70年5月25日:ティトスの軍団は、陣地から城門へいたる道を平らにして軍の移動を確保し、司令官の指令を堅く守らせました。ローマ軍は、高い土塁を築き、その上に投石機を置いて、城壁を攻撃します。神殿の西側の城壁から真っ直ぐ西へ延びる「第一城壁」と、神殿の北側のアントニア砦から北へ発して、エルサレムの北の方角に延びて、半円形に南へ降りる「第二城壁」が第一城壁の西端と出合う箇所にあるのがヒッピクスの塔です〔ヨセフス『ユダヤ戦記』(3)V巻。60頁〕〔Michael Avi-Yona. Guide illustré de la Reconstitition de la Jérusalem antique à l'époque du Second Temple. p.5. No.5.〕。二つの城壁がうまくつながっていなかったらしく、言わばそこが「弱点」であったようです。その場所でヨハネは戦死し、ローマ軍は、城壁をよじ登り、中に入って城門を開き、軍団はエルサレム市内へ入り込みました。包囲してから15日目の事です。
ティトスは、反徒に向けて「一般市民に危害を与えずに戦いたければ、町の外へ出る自由を保証する。また、一般市民には財産を元通りにする」と約束しますが、反徒の指導者たちは、「降伏する市民は生かしておかない」と脅し、「平和を口にする者は惨殺する」と宣言します。死を覚悟のユダヤの軍隊は、激しい攻撃によって、ローマ兵を城壁の外へ追い出します。ティトスは、ローマ兵に給料を払い、ユダヤ側から和平の申し出がないことを確認してから、兵を分けて、アントニア砦の側の塔からはアントニア砦を狙い、ヨハネの墓からは、上の町をねらって土塁を構築して攻撃を再開しました。先に、ウェスパシアノスの皇帝即位を予言しローマ側に容れられたたヨセフスは、ここで、長々と演説して、「お前たちは、ローマ軍だけを相手に戦っているのではない。神をも敵に回している」と警告します〔ヨセフス『ユダヤ戦記』(3)V巻。75〜88頁〕。しかし、反徒は市民の投降を許さず、投降の嫌疑をかけられた市民は処刑されました。こうして、餓えのために、妻は夫から、子供は親から食料を奪い、母が自分の幼子から食べ物を奪う悲惨な状態に陥りました。飢餓のため、場外に脱出したユダヤ人は、ローマ軍に捕らえられて十字架に掛けられました。このように、反徒は、同胞のヘブライ人を卑しめて、降伏を許さず、ローマ軍をして上の町へ火をかけさせ、神殿の聖所を燃え上がらせたのです〔前掲書93頁〕。
70年8月:ローマ兵がやってくると、市民たちは、ローマ兵の前で、反徒たちに叫びます。「ローマ兵を市内に容れて、祖国を救ってくれ。それができないのなら、せめて神殿から身を引いて、神殿を救ってくれ」。しかし、アントニア砦を落としたローマ兵は、神殿に攻め込んだために、ユダヤ側は、ついに、自ら、聖なる場所(神殿の聖所)に火を放ち始めます。生き残った者も妻子を殺して自分も自害し、一人生き残った者も、最後に、王宮に火を放って、激しく燃え上がらせました。このようにして、エルサレム神殿が戦場と化し、神殿は崩壊して、ついに、エルサレムは陥落しました。
共観福音書補遺へ 199章 ピラトによる裁判へ