199章 ピラトによる裁判
マルコ15章1節〜5節/マタイ27章1〜2節/同11節〜14節/
ルカ23章1節〜5節
【聖句】
■マルコ15章
1夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
2ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
3そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
4ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
5しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
■マタイ27章
1夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。
2そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」と言われた。
12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
■ルカ23章
1そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
2そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
3そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。
4ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。
5しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
【講話】
■イエス様とピラトとユダヤ人
今回の「ピラトによる裁判」では、ロ−マ帝国の王権を象徴するピラトと、これに支配されているユダヤの指導者たちと、その両者に挟まれて「訴えられている」イエス様とが出逢います。国土を支配する政治権力と、その国土の民と、イエス様の存在が証しする神の御国の三つの出逢いが、国土それ自体と、これの支配者と、国土の民との三つ巴の「争い」の様相を呈しています。ここで提示されている問題は、2025年の現在で言えば、ウクライナの国土を巡るウクライナ国民とロシアのプーチン政権との争い、中東でのガザの「国土」を巡って、イスラエルの政治権力と、ガザの住民の中に潜むハマスとの争いが、私たちの目の前で起っている問題に通じます。今回の箇所は、二千年前も今も、変わることなく続いてきた国土争いと関連するのです。今回の三者の出逢いは、理屈抜きの「出来事」ですが、その奥には、極めて大事な意味が潜んでいるのが分かります。
ただし、今回の出来事にかかわる記事の場合、単なる一般論でなく、とりわけ注目すべきある特定の問題が絡んできます。今回の三者の出逢いが、行く行くは、ユダヤの民がローマ帝国と闘い、その結果、エルサレムが陥落してユダヤが滅ぼされる(紀元70年)悲劇的な出来事にもつながるからです。紀元70年は、マルコがその福音書を書き著(あらわ)した時期と重なります。これに続く1世紀の末までに、マタイとルカとヨハネとが、それぞれ福音書を著(あらわ)します。ユダヤ人キリスト教徒である四福音書の記者たちが、自分たちの国と民と国土を喪失したこの悲劇に切実な想いを寄せていたのは間違いありません。
■記事への疑念
実はその事が、今回の箇所の解釈に微妙な影響を及ぼしています。今回のピラトの裁判では、イエス様が、ローマ帝国に「逆らっている」という罪状で訴えられています。ところが、帝国の権力を象徴する立場のピラトの口からは、再度、「無罪」の申し伝えが出されるのです。これは史実ではなく、ユダヤの民に訴えられたイエス様が、ローマの権力(ピラト)から睨(にら)まれたことが災いして、イエス様を教祖とする以後のキリスト教会が、自分たちを支配するローマに対する恐れから、福音書の記者たちは、言わば「帝国の支配に配慮して」、イエス様は「(反ローマに対して)無罪」であるという印象を与えようとしているのではないか? 福音書の記述に対して、聖書批評家の間から、こういう「疑い」がかけられているのです。歴史的に見れば、今回の三者の出逢いは、ユダヤ戦争の発端となる時期とも重なるからです。要するに、今回の記事は、実際の歴史的な出来事にそぐわない「嘘」ではないか?というわけです。
さらにもう一つの問題は、ユダヤの国が滅びたのは、ユダヤ人がイエス様に無実の罪を着せて十字架に掛けたことへの「神からの裁きの罰」である。福音書が書かれた頃から、こういう流言が、教会の内と外に広まって、それが、二千年後の現在も、「反ユダヤ」主義の原因になっていることがあります。
■福音書記者の真実
これに対する私の見解は、注釈にも書いたとおりです。四福音書記者たちは、ユダヤ戦争への経緯(いきさつ)を熟知しているだけでなく、その悲劇的な結果も、そこに潜む教訓と信仰的な意義をも共々に察知しています。だからこそ、イエス様とピラトとユダヤ人たちの三者の出逢いの出来事が、めぐりめぐってもたらすことになる結果を見て、その過程を逆に見直すことで、出逢いの意義を的確に捉えようとしているのです。とりわけ、ルカとヨハネは、今回の出来事に潜む「霊的な意義」を見抜こうと、その洞察力を働かせています。筆者(私市)も、今回の記事に、福音書記者たちの真実を読み取ろうとしています。
■イエス様の沈黙
あのギリシアの哲人ソクラテスも、詭弁を弄する告発者たちから「いろいろ訴えられて」も、自己弁明をせず、死刑の判決を甘んじて受けたと言われています。ソクラテスが、一切弁明することなく、死刑を受けたのはなぜか?これを巡っていろいろ議論されています。イエス様の場合にも、同様にいろいろな解釈がありますが、イエス様の場合は、ソクラテスとは違って、はっきりした一つの目的があります。それは、ゲツセマネの園での祈りで体験した「主なる神のご計画」に従う信仰です。以後のイエス様の言動は、この一事に尽きます。では、イエス様に啓示された神のご計画は、なんだったのか? これを知ることが、十字架から復活された後の、イエス様の弟子たちの最大の課題であり、弟子たち以後のキリスト教界の課題として引き継がれて、現在にいたっています。
この課題に取り組んだ、原初の最大の使徒は、パウロでしょう。パウロ書簡は、まさに「この課題」への答えであり、「(罪の赦しの)十字架の信仰」とも称されるパウロの諸書簡は、この一事をめぐって展開されていると言っても過言ではありません。上の者(自由人)と下の者(奴隷)、教える者(信仰の教師)と教えられる者(信仰者)と、未開の人と文明の人、男と女とが、赦し合い、愛し合い、喜びの交わりを持つ(ガラテヤ3章28節)、そんな世界です。しかし、パウロも、この課題を自らの力で考え出したのではなく、すでにパウロ以前の教会において、十字架の信仰に関わる伝承物語が出来ていたことが知られています。その際に、イエス様のメシア性は、すでに預言者たちによって証し(預言)されてきたことが、今回の課題の解き明しの大事な鍵になります。パウロもこの旧約聖書からの預言伝承に与っています。
今回の箇所で、とりわけ重要なのは、ピラトとイエス様との対話です。この対話は、そこから、ピラトのイエス様への十字架刑の判決につながることになりますが、そこで語られているのは、政治的な「王権」をめぐるイエス様との問答です。
今回、イエス様は、ユダヤを支配するローマ帝国の代官のピラトから、「あなたはユダヤ人の王か?」と訊(たず)ねられても、明確な答えを避けて、ピラトを不思議がらせています。イエス様は、自分の伝える「メシア王国」が、ピラトに代表されるユダヤの支配に背いたり、ローマ帝国の統治に逆らう性格のものではないとピラトに知らせるのです。では、イエス様のメシア王国は、ピラトの権力に服従するのか?と言えば、そうとも言い切れないことが、イエス様の答弁から察知することができます。イエス様の「王国」は、天から降る神の御国として、ユダヤを支配する地上の権力を「超越する」力と性格を帯びていることを証しするからです。イエス様の御国は、ユダヤ一国だけでなく、世界を支配するローマ帝国の権威と権力さえも超える神からの力と知恵を帯びて、諸国の民を教化できる権威を保持しているのです。
■三者の出逢いが提示すること
ウクライナ問題でも、イスラエル問題でも、当事者の二者同士では、いつまで経っても解決(和解)の糸口が見えてきません。そこに、第三者が入り込むことで初めて、なんらかの「和解による平和」への可能性が見えてくるからです。ピラトとユダヤ人たちとイエス様との三者の出逢いの場合でも、一見そうでないように見えて、その奥にあるのは、ユダヤの国土とローマの権力との相互間に潜む「権益争い」です。イエス様は、まさに「その事で」訴えられているからです。もしもここで、ローマとユダヤとの間に、「国土とその利権」を巡る問題に和解と平和をもたらす可能性があるとすれば、それは、三人目のイエス様が証しする「神」のお働きにほかなりません。
イエス様を訴えているユダヤ人たちの宗教的志向は、まさに、以後のユダヤ人たちがたどる破滅への道を予想させますが、訴えるユダヤ人たち自身は、まだ、その事に気づいていません。ピラトは、自分がその象徴であるローマの権力が、以後のユダヤにどのように対応することになるのか、その結果、ユダヤの滅亡を誘発させることになるのをまだ自覚していません。しかし、イエス様は、ピラトとユダヤ人たちの両方の関わり方と、これに潜む危険性を見抜いて、これ以後に、ユダヤとローマの権力とが悲劇的な相克を演じることになるのをあらかじめ察知しています(マルコ13章1〜2節)。
今回の注釈(ルカの項)にあるとおり、ピラトの時代以後のローマ総督の悪徳ぶりと、これに対応して反乱を誘発するユダヤ人の宗教的な過激思想と、この二つの相克と、そこから生じる一連の反乱とユダヤの滅亡にいたる過程は、ルカが、今回の箇所で、ユダヤ人たちの口から言わせている内容とぴったり一致します。言うまでもなく、ルカは、それまでの事の成り行きを見聞きしていますから、それゆえのルカによる編集と言い換えだと見れば、説明になります。しかし、ここでわたしがあえて指摘したいことは、ルカの自己流の書き換えでなく、ルカは、ここで、事態の成り行きに潜む「ほんとうの真相」を見抜くことができたのではないか、ということです。言い換えると、ルカが指摘したいことは、実は、イエス様自身が、先に予見していた事態にほかならないということです。マルコを始め四福音書の記者たちも、この過程を見聞きしていて、その結果生じたユダヤの滅亡を目の当たりにしていますから、今回の三者の出逢いの出来事の「真相」を記者たちは提示しようとしているのです。
以上のことをさらに確認していただくために、補遺「ヘロデ王家について」と補遺「エルサレム陥落にいたるまで」をつけました。ご参照ください。
■犠牲を求める政治と宗教
中米の古代アステカ文明は、13世紀にキリスト教徒のスペイン人に滅ぼされるまで、三千年もの間、自分たちの政治権力と神殿とを維持するために、人間の血を「犠牲」として捧げ流し続けました。国家を護持すると称して人の血を流すことで権力を誇示する魔性、これと、宗教のためと称して犠牲に捧げられる生き物の血で神殿を染め続けなければならない罪性は、姿形を変えて、現在も続いていると言えなくもないのです。イエス様は、人類をこの魔性と罪業から贖い出すために、十字架の受難を忍ばれて、ご自分を神への犠牲としてお献げになりました。四福音書と新約聖書が、わたしたちに伝えているのは、この秘義です。
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