【補遺】ヘロデ王家について
以下では、ヘロデ王家の代表的な5名について見ていきます。主な出典は、フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌(XVII巻)』(4)(5)ちくま学芸文庫/『岩波キリスト教辞典』/『キリスト教事典』(教文館)/フリー百科事典「ウィキペディア」/アハロニとアヴィ=ヨナ『マクミラン聖書歴史地図』池田裕訳(原書房)/"Britannica.com/Herod-Antipas".
【ヘロデ・アンティパテル】
マカバイ戦争の後で、ギリシアのセレウコス朝の支配から独立を勝ち得たユダヤは、それまでのツァドク系の大祭司から、戦いを勝利に導いたハスモン家のヨナタンが大祭司になり(前153/2年)、ここから大祭司職がハスモン家に移ります。大祭司職は、王権を失ったユダヤにとって、祭司と王との両方を兼務する祭政一致の支配体制をもたらします。このハスモン家の祭司たちによって、ユダヤヘのレニズム化がいっそう進行することになります。
ハスモン王朝の支配も、9代目のアリストブロス(在位前67〜63年)の時代になると、その弟ヒルカノスとの兄弟同士による大祭司職をめぐる継承争いが生じて、ハスモン家の支配が揺らぎ始めます。「アリストブロス」は三人居ます。(1)ヘロデ家の祖アンティパテル2世の娘サロメの息子の娘婿〔サロメの孫娘の婿〕。(2)ヘロデ大王とマリアンヌ1世の間の息子。(3)(2)の息子の三人。気丈で猛々しい兄のアリストブロスに対して、温厚で柔軟な弟ヒルカノスは対照的な性格だったようです。その頃、ユダヤの南部にあたるイドマヤ(現在のイスラエルのヘブロンの辺りから南はネゲブ砂漠の境まで)を支配していたイドマヤ人アンティパテル(アンティパトロス)2世が、大祭司職をめぐるハスモン家兄弟の跡目争いの機に乗じて、弟ヒルカノスを支持しながら、しかも東方のナバタイ王国のアレタ王とも結んで、ユダヤの支配をもくろんでいました。
ハスモン家の兄弟と、イドマヤのアンティパテルとの三つどもえの駆け引きは、時あたかもローマの将軍ポンペウスが、ギリシア系のセレウコス朝の支配を破って、東方にローマの勢力を拡大しつつあった時と重なります。その頃、ポンペウスは、小アジア(現在のトルコ)を席巻(せっけん)して、シリアのダマスコまで来ていました。このために、アリストブロスと、対するヒルカノスとアンティパトロス2世が、ローマの支持を得ようとして、双方ともに、ポンペウス将軍に援助を求めていました。ポンペウスは、どちらの側にも丁重な対応をしながら、両者を見比べていましたが、気丈なアリストブロスがローマの支配を受け容れるつもりがないことを見抜いて、ヒルカノスの支持に回りました。ローマ軍の攻撃を受けたアリストブロスは、頑強な抵抗も空しく、敗退してエルサレムへ退きますが、ポンペウスの軍はすでにエルサレムの東のエリコに達していました。アリストブロスは、ローマへの降伏を望んだのですが、エルサレムにいる頑固なユダヤ人たちに押し切られて、やむを得ずエルサレムに立て籠もって闘う羽目になります。深い谷と頑丈な城壁に守られたエルサレムを陥落させることは至難の業でしたが、ローマ軍は、木材を組み合わせて、その隙間に土を盛るという土木作戦で高い堤(つつみ)を築いて、その堤(つつみ)の上に、城壁を破壊するための投石機などを載せて、エルサレムを囲む北側の城壁と塔を破壊して、そこから一気に市内になだれ込み、神殿とエルサレムとを占領しました(前63年)。これによってユダヤは独立を失い、以後ローマの支配下に置かれることになります。こうして、ユダヤを含むパレスチナは、ローマの将軍ポンペイウスによって占領され、ローマの支配下にあるシリア州に組み込まれました(前63年)。
その頃のローマは共和制でしたが、ユリウス・カエサルが元老院で権力を握るのを境に、ローマは共和制から帝政へ移行し始めます。しかし、カエサルは、元老院の共和制支持者たちによって刺殺されました(前44年)。その後ローマは、カエサル・オクタヴィアヌスとマルクス・アントニウスとアエミリウス・レピドゥスの三者による三頭政治の時代に入ります(前60年)。カエサルの甥(正しくは彼の妹の孫)のオクタヴィアヌスは、ライバルたちを倒して元老院から「アウグストゥス」(皇帝への名称)の称号を受け、アウグストゥス・カエサルとしてローマ帝国の初代皇帝(在位前27年〜後14年)になります。
ローマでのユリウス・カエサルの暗殺に先立って、ユダヤの南部にあるイドマヤから、ヘロデ家のアンティパテルが台頭してきます(彼はほんらいユダヤ人ではないと言われています)。彼は、徹底した親ローマ政策を採り、カエサルとその仲間たちに軍事的な支援と莫大な資金を貢(みつ)いで取り入ることで、ユダヤや隣国パルティアのライバルたちとの争いを巧みに切り抜けました。こうして、カエサルの側について戦功をあげることで、アンティパテルは、ユリウス・カエサルの信任を受けて、ローマの市民権を与えられ、カエサルによってユダヤの長官に任命されました(前47年)。この時から、ユダヤはヘロデ家の支配に移ります。アンティパテルと大祭司ヒルカノスは、共にカエサルの信任が厚く、このためカエサルは、わざわざ小アジアのサルディス、エフェソ、ラオディキアなど、移住のユダヤ人が多く住む諸都市にユダヤ人の宗教的自由を認める布告を出したほどです〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』14巻10章〕。
【ヘロデ大王】
ローマの元老院内でカエサルが刺殺された(前44年)後で、アントニウスとオクタヴィアヌス(カエサルの甥)の同盟と、対するブルトゥスとカッシウスの同盟軍とが、マケドニアのフィリッピで闘い、オクタヴィアヌス側が勝利します。ちょうどその頃、カッシウスの手の者であるマリコスによって、ヘロデ・アンティパテルが毒殺されます(前43/44年)。しかし、アンティパテルの息子ヘロデは、若くして(15歳)ガリラヤの支配を任され、ユダヤにおける彼の反対者たちを次々と殺して頭角を現わしました。アンティパテルの息子ヘロデは、大祭司ヒルカノスと共に、ブルトゥスとカッシウスを倒したアントニウスからユダヤの支配を任され、父の仇マリコスを討つことができました。
その後ヘロデは、父の遺志を継いで、徹底した親ローマ政策を採り、軍事的にも財政的にもローマの指導者たちへの援助を惜しみませんでした。こうして彼は、アントニウスの信任を得ることに成功し、このために、アントニウスの意を受けたローマの元老院は、ヘロデが、ユダヤ地域の「王」と称することを認可したのです。彼が「ヘロデ大王」と称されるのはこのためです(在位前40/37年〜前4年)。さらに、アントニウスがオクタヴィアヌスに滅ぼされた(前31年)後では、巧みにオクタヴィアヌス(ローマの初代皇帝アウグストゥス:在位前27年〜後14年)に取り入ることに成功しました。イエスがベツレヘムで生まれた時に、ベツレヘムの幼児を虐殺したと伝えられるのはこのヘロデです(マタイ2章1節)。ヘロデ大王は、エルサレム神殿を改築して、壮麗な神殿を実現したことで知られています(改築開始は前20年〜完成は後64年)(マルコ13章1〜2節)。
ヘロデ大王には(全員同時にいたわけではないが)10人の妻と多数の子供がいました。大王は、2番目の妻でハスモン家の王女であるマリアンヌ1世との間に生まれたアレクサンドロスとアリストブロス(4世)の二人を自分の後継者候補としてローマで教育を受けさせていました。しかし、5年間の留学後に帰国した彼らは、大王の妹であるサロメをはじめ、マリアンヌ1世とは仲の悪い人々から警戒され中傷を受けます。息子たちのほうも、後述するように、自分たちの母を処刑することになるヘロデ大王を心よく思っているわけではありません。それでも、ヘロデは、息子たちの縁談を進め、特にアリストブロスには、大王の妹であるサロメの娘ベレニケを妻に迎えさせるなど、一族との融和を図ろうとします。しかし、次第に、ヘロデとマリアンヌ1世の息子たちの不仲が広がります。一計を案じたヘロデ大王は、離縁した最初の妻ドリスと、その息子アンティパテル(3世)を呼び、アンティパテルを王位継承権のライバルとして据えることで、マリアンヌ1世の息子たちアレクサンデルとアリストブロスに、彼らが必ずしも王位を継げるわけではないと暗に脅します。ところが、マリアンヌ1世の息子たちアレクサンデルとアリストブロスは、自分たちが不当な扱いを受けているとして、大王に反目しましたから、大王の方策は逆効果になりました。
しかも、アンティパテルもまた、異母弟たちを陥れる策略を練っていましたから、これによってヘロデ大王は、マリアンヌ1世の息子たちからの信頼をさらに失うことになります。そこでヘロデ大王は、マルタケ4世との間に生まれた息子のアンティパスを信頼するようになります。 さらにヘロデ大王は、マリアンヌ1世の息子たちが自分を暗殺しようとたくらんでいると考えるようになります。一度、ローマのアウグストゥスによって、次いでカッパドキア王のアルケラオスの仲裁を受けて、逆らう息子たちと和解したものの、アンティパテルの策略などで、再び大王一族内の軋轢が激化します。ヘロデ大王は、ローマの皇帝に訴えて、自分の手でこれを裁くことを皇帝に認めさせることに成功し、その上で、アレクサンドロスとアリストブロスをサマリアで処刑しました(紀元前7年ごろ)。しかし、息子たちの処刑後に、弟のフェラロスが亡くなり、ヘロデ大王が調査したところ、フェラロスが毒薬を持っていたことが判明します。しかも、その毒薬は、ヘロデ大王の毒殺を図るよう、アンティパテルからフェラロスに渡されたものだと知ったヘロデ大王は、フェロラスの奴隷達からの内通を受け、信頼していたアンティパテルが、毒薬事件の黒幕だったと判断して、ローマから呼び寄せたアンティパテルを捉え、シリア総督ウァルスの前に引き出して、犯罪の証拠をあげた報告書を皇帝に送らせました。さらに大祭司の娘のマリアムネ3世もこれに関与していたとして離縁し、その息子のヘロデ・ピリポも相続権が剥奪され、彼女の父も大祭司を解任されました。そこで大王は、新しい王位継承者を選ぶ際、息子たちの中で、以前、自分の悪口を言っていたアルケラオスとフィリッポスと候補から外して、最年少のアンティパスを王位継承者に指名したのです。
皇帝から、長男のアンティパテルを処罰する(死刑か流刑かの判断はヘロデに任せる)許可をもらった後で、大王は、自分の死の5日前に、アンティパテル処刑の命令を出します。この頃(死ぬ数日前)ヘロデは遺言を書き直し(皇帝アウグストゥスの許可を得て?)、マルタケ4世の間に生まれ、現存する息子たちの中では最年長のアルケラオス(アケラオ)は、ユダヤとサマリアの「王」に、アルケラオスの弟ヘロデ・アンティパスは、ガリラヤ(ガリラヤ湖の西部)とペレヤ(ヨルダン川の東部)の二つの地域の領主に(在位前4年〜後39年)、大王とエジプトの女王クレオパトラ5世との間に生まれたフィリッポスは、ガリラヤ湖の東北部一帯に広がるガウラニティスとトラコニティスとアウラニティスなどの広範囲の領主(在位前4年〜後39年)に指名しました(前4年)〔アハロニとアヴィ=ヨナ『マクミラン聖書歴史地図』池田裕訳(原書房)140頁の地図を参照〕。
【ヘロデ・アンティパス】
『ユダヤ古代誌』第XVII巻1章3節によると、ヘロデ・アンティパスの母であるマルタケ4世はサマリア人です。へロデ・アンティパスには、同じマルタケによる兄のアルケラオス(アケラオ)とオリュムピアスと呼ばれる姉妹がいました。ヘロデ・アンティパスとアルケラオスは、若い頃ローマで、ユダヤ人によって育てられました。母親のマルタケは、身分的にも年齢的にも王位継承順序が高いわけではありませんでした。しかし、ヘロデ大王は、死亡直前に、考えを改めて、王位継承者をアルケラオスに変え、アンティパスをガリラヤとペレヤの領主に指名しました。これに不服を持ったアンティパスと、アルケラオス(アケラオ)を嫌う親族たちは、ローマ皇帝に訴え出て、ヘロデ大王が晩年病気で正確な判断ができなくなっていた可能性があると述べ、その上で、アルケラオスは残忍で身勝手な点で王(実際は「領主」)にふさわしくない人間だと主張しました。しかし、アルケラオス側も、これに負けずに、皇帝に対して、自分が行なった行為は、身勝手や残忍ではなく、緊急時のユダヤの暴動鎮圧のための行為だと主張しました。この論争の最中に、ユダヤ王国で、ヘロデ大王を心よく思わない勢力が各地で立ち上がり、各地で暴動を起こします。これに対して、隣接するシリア州の総督が出動して暴動を鎮圧します。ところが、ユダヤ国内の穏健な者たちは、ユダヤを支配するシリア総督の許可を得た上で、ローマ皇帝に使者を送り、ユダヤをローマ帝国の直轄地域としてシリア属州に組み込んでほしいと要求したのです。これらを踏まえたローマ皇帝アウグストゥスは、ヘロデ大王の最後の遺言を原則とした上で、アルケラオスを「王」としては認めず、「エスナルケス」(民族の統治者)として認定し(在位前4年〜後6年)、その上で、アンティパスはガリラヤとペライヤの「テトラルキア」(四分領太守)(在位前4年〜後39年)に認定されることになります。
ヘロデ・アンティパスは、ガリラヤにいくつか新しい町を建設し、セフォリスの町を要塞化してアゥクラトリス(「皇帝の」の意とされる)と呼び、ベタラムフタの城壁も整備して「ユリア」(アウグストゥスの妃の名前にちなむ)と命名します。さらに、皇帝ティベリウスの時代に、ゲネサレト湖(現在のガリラヤ湖)のほとりの温泉が湧く地域に新しく都市を作り、そこを皇帝の名にちなんで「ティベリアス」と名付けて、都として住んだのです。しかし工事中に、ここが古代の埋葬地であったことが判明して、死を嫌う敬虔なユダヤ人から嫌われた結果、ティベリアスには、異民族やユダヤ人の乞食などを無理に駆り集めてそこに植民させましたから、住民の混合した町になり、ヨセフスが言うには、「無統制な集団」で「ガリラヤ人や行政官、家付き土地付きの移住を条件に解放された奴隷」などがいたとあります。このような事態から、
(1)アルケラオスは、南は死海の南端から西側に広がる(イドメヤを含む)ユダヤ全域と、北に隣接するサマリア全土との領主。
(2)アンティパスは、ガラリヤ湖の西に南北に広がるガリラヤの全地帯(西はフェニキアとの境にあるティベリアスまで)と、さらに死海に注ぐヨルダン川の東側地帯(北部はペレイア地帯、南部はアルノン山までの細長い地域)、すなわち、スキトポリスを挟んで南北二つに分かれる地域の領主。
(3)フィリッポスは、ガリラヤ湖の北東部に遠く東まで広がるガウラニティスと、その東のトラコニティスと南はアウラニティスの地域の領主になりました。
(4)残りの領地の内、ヤムネイア、アシドト、ファサエリスとアスカロンの王宮(アスカロン自体はアルケラオス領)はヘロデの妹サロメの領地になりました。
これがいわゆる「四分領」と称されています。
後に、ユダヤの支配を任せられたアルケラオスは、失政を重ねたため、統治後10年目(紀元後6年ごろ)に、ユダヤの住民によってローマに訴えられ、アルケラオスは解任されて、ガリアのビエンナへ追放されましたから、その後のユダヤは、(イエスの十字架刑の頃も含めて)ローマ帝国の直轄領となりました。アンティパスとフィリッポスは、比較的長い間、領主として勤めあげ、フィリッポスは紀元後34年に死去し、アンティパスは紀元後37年にローマに対する謀反未遂で追放の刑を受け、最終的にこれらの領地とアルケラオスなどのローマ領編入領地は、ヘロデ大王の孫のヘロデ・アグリッパ1世が相続します。
【ヘロデ・アグリッパ1世】
本名はマルクス・ユリウス・アグリッパス。ヘロデ・アグリッパ1世(前10年頃生まれ〜後44年没)は、ヘロデ大王とマリアンヌ1世との間に生まれたアリストブロスの息子です。彼は、幼少の頃、ヘロデ大王によって、ローマ市へ送られ、そこで教育を受けます。当時の皇帝ティベリウスの息子ドルススとともに育てられ、二人の仲はよかったのですが、自分の母ベレニケの死後、金遣いの荒さで生活に困り、中東にわたり叔父であり義理の兄弟(アグリッパの姉妹ヘロデヤと結婚していた)でもあるヘロデ・アンティパス(ガラリヤとペレア領主)と、親友だったシリア総督のフラッコスとを頼りにします。しかし、双方ともアグリッパとの関係が悪化して、彼は追い出されます。
再度ローマに戻って、母の友人でもあった小アントニアに借金を立て替えてもらうなどして対処し、この恩義もあってその孫にあたるガイウス(あだ名はカリグラ)に近づきます。ある時カリグラを褒めているうちに、口を滑らせて、ローマ皇帝ティベリウスの悪口を言ってしまい、それが皇帝本人の耳に入ったために、牢屋に入れられます。半年ほどでティベリウスが死んだので(後37年)、皇帝になったカリグラによって釈放されました。カリグラ帝によって、叔父のヘロデ・フィリッポス(34年に死亡)が治めていたトラコニティス、ガウラニティス、バタナイア(現在のシリア南部〜ヨルダン王国北部)の領主として認められます。翌年には(38年)、ユダヤの領主となり、エルサレム神殿に多額の献金を納めて、ユダヤ人の信望を得ます。さらに39年には、ヘロデ・アンティパスがパルティアと組んでローマに対し謀反を企んでいると告発して、アンティパスが支配していたガリラヤとペレアの統治権も得ることに成功します。こうして、彼は「領主」となり「王」の称号が許されます(在位37年〜44年)。
カリグラが暗殺された際にも(後41年)、クラウディウスが帝位につけるように協力し、新皇帝クラウディウスからも、領主の地位を認めてもらい、それだけでなく、祖父の支配地だったユダヤ(イドマヤ地方含む)とサマリアの支配をも任されます。さらに東方のアビラやレバノン山脈付近の土地やキリキアとコムマゲネも手に入れて、祖父ヘロデ大王が治めたのとほぼ同じ版図を統治することになりました〔アハロニとアヴィ=ヨナ『マクミラン聖書歴史地図』池田裕訳(原書房)156頁地図249を参照〕。
さらにアグリッパ1世は、クラウディウスに願い出て、同じアリストブロスを父とする兄弟である「カルキスのヘロデ」を自分の娘婿にすることで、カルキスの土地(ガリラヤ湖の北のほうで、ダマスコの西北部にあるカルキスとアビラの二つの都市とその周辺)を与えてもらうなどの厚遇も受けました。キリスト教徒を迫害し、使徒ヤコブを殺害し、ペトロを牢獄に入れたのはこの「王」です(使徒言行録12章)。パレスチナ北部に浴場や競技場や劇場を建設しますが、カイサリアで変死します(使徒言行録12章20〜23節)。
ユダヤの地が彼の支配下にあったのはわずか3年ほどで、紀元44年に彼は死亡します。その時の死亡状況は、使徒言行録12章19〜23節と、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第XIX巻8章2節にでています。そこには、「カエサリアでアグリッパが式典に豪華な衣を着て出た際、その場にいた人々が彼を神のようだと称(たた)えると、突然体調が悪化して死に至った」とあります。彼の死亡時に、長男のアグリッパ2世は、17歳でしたから、その地位をすぐに継承することは認められず、ユダヤは、一時ローマ総督の管轄下におかれます。
【ヘロデ・アグリッパ2世】
マルクス・ユリウス・アグリッパ(Marcus Julius Agrippa)は、ヘロデ・アグリッパ2世(27年頃〜95年/100年頃)と称され、その父のヘロデ・アグリッパ1世は、ヘロデ大王とマリアンヌ1世との間に生まれたアリストブロスの息子(2世の祖父)です。アグリッパ2世には、ベルニケとドルシラの二人の妹がいます。どういうわけか、父のアグリッパ1世にもアグリッパ2世にも、正式の妻の名前が出てきません。ところが、妹のベルにケには、何人もの夫ができています。
アグリッパ2世は、ローマで育てられ、皇帝ティベリウスの宮廷で教育されました。父アグリッパ1世が亡くなると(44年)、時の皇帝クラウディウス1世(在位41年〜51年)は、まだ若いアグリッパ2世にユダヤを継がせることをせず、ユダヤは再びローマへの直属の州になります。しかし、4年後に、父アグリッパ1世の兄(弟)で彼の伯父のヘロデは、カルキスの王であり、しかも、この伯父は、自分の姪であるアグリッパ2世の妹ベルにケと結婚していましたから、伯父のヘロデが亡くなると、皇帝クラウディウス1世は、伯父の支配したカルキスをアグリッパ2世に与えます(48年)。
ところが、アグリッパ2世は、与えられた都市カルキス一帯を利用して、カルキス近くのアビラ周辺と、それだけでなく、かつてヘロデ大王の息子フィリッポスが受け継ぎ、これを父が受け継いだ領土、すなわち、ヨルダン川の東北部に広がるピリポ・カイザリアからその南のガウラティニスとその東のトラコニティスと南のバタネアと死海の東にまで及ぶ地域全体、これとカルキスとを交換することに成功したのです(53年)。その後、皇帝ネロの時代に、かつてヘロデ・アンティパスが受け継いだガリラヤ湖西方のガリラヤ地域を手に入れます(61年)。しかしながら、フェリクス(52年)、フェストス(60年)、アルビノ(62年)、フローロス(64年)と、歴代の総督の苛酷な支配のために、ユダヤがローマ帝国とのユダヤ戦争へ向かったために、父が支配した領地ユダヤとサマリアは、これを受け取る前に、完全な継承は最後まで行われませんでした。だから、彼は「ユダヤの最後の王」だと言えます〔アハロニとアヴィ=ヨナ『マクミラン聖書歴史地図』池田裕訳(原書房)156頁と地図250を参照〕。アグリッパは、最後までローマとの争いに加わることなく、ユダヤ戦争の間も生き延びて、長命を全うします。
アグリッパ2世について、とりわけ注目したいことが二つあります。一つは、ユダヤの大祭司アナニアと長老たちが、パウロを死刑に処するよう総督フェリクスに訴え出た時に、フェリクスは訴えに不審を抱いてパウロを生かしたまま拘留します。パウロへの暗殺計画が発覚したので、パウロは、総督官邸の所在地カイサリアに護送されます。フェリクスの後を継いでフェストゥスが総督になると、パウロは、自分の件をローマ皇帝直々に訴え出たいとフェストゥスに申請します。そこにアグリッパ2世が妹と訪れて、総督フェストゥスの許可を得て、カイサリアに拘留されていたパウロと会い、パウロは、自分の伝えるイエス・キリストについて、自分は無実であることを訴える演説をします。これを聞いたアグリッパ2世は、パウロの無実を認め、「皇帝に上訴しなければ釈放されたのに」と言います(60年〜62年頃)(使徒言行録24章1節〜26章32節)。
もう一つは、ユダヤとローマとの関係が悪化して、ユダヤ戦争が始まろうとする直前に、アグリッパ2世が、エルサレムの民衆に向けて、ローマとの戦いを止めるようにと「涙ながらに訴える」演説が、ヨセフスの『ユダヤ戦記』に掲載されていることです〔フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』(2)新見宏訳(山本書店)27〜41頁〕。
アグリッパは、「無分別にもローマとの戦争を望んでいる者たち」、「実際に暴動が起こったら、弱い者を犠牲にして、自分の利益をむさぼろうともくろむ連中」に扇動されてはならないと民衆に警告します。ローマ帝国のような強大な権力には、戦争を仕掛けるのではなく、服従するほうが、最上の手段なのです。ギリシアを始め、「太陽の下のほとんどすべての民族が、ローマの武力の前にひれ伏しているのだから、ローマの支配に隷従することは決して不名誉ではない」「特別の神の助け、あるいは人間からの援助。これなしに戦うのは、間違いなく滅びる」と切々と訴えます。これを聞いた民衆は、一時ですが、ローマへの反抗と暴動を思いとどまります。
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