【注釈】(1)
■15章18節~16章4節前半について
14章15節以下で語られた聖霊授与の約束は、15章のぶどうの樹のたとえにつながり、この約束は、イエスとその「友」である「あなたがた」との交わりへ深められます。ただし、この交わりは、父からの御霊がすでに授与されていることが前提になっています。これに続いて、御霊にある交わりが、愛であることが証しされ、締めくくりに愛の戒めが繰り返されます。
今回の15章後半では、イエスの「友」ではなく、その「敵対者」について語られます。これは「世」と呼ばれますが、この「世」は、イエスと同時に、イエスの友である「あなたがた」をも憎むのです。その後で再び、今度は以前と異なる意味を帯びて、真理の御霊であるパラクレートスが約束されます。
今回の箇所を区分けすると、15章18~21節では、世が、イエスと「あなたがた」を憎むことと、その理由が告げられます(21節)。続く22~25節では、「もし~なら、彼ら(世)に罪はなかったであろう。しかし~」が繰り返され、「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」で締めくくられます。続いて、15章26節で、真理の御霊であるパラクレートスがでてきます。ただし、パラクレートスの役目は、ここでは「世に向かって」証しすることです。16章1~4節前半は、15章18節以下を受けて、「これらのこと」(16章1節/同4節)が「あなたがた」に告げられたその理由を伝えます。
■共観福音書との関係
今回の箇所は、内容的に見ると、マタイ10章16~25節(同24章9~10節と重複)と、マルコ13章9~13節と、ルカ21章12~17節(同12章11~12節と重複)と共通するところが多いことが指摘されています。共観福音書のこれらの箇所は、終末の状況にかかわる出来事と関連します。以下に、ヨハネ福音書と共観福音書との類似点をまとめてみます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
「世があなたがたを憎むなら、~わたしを憎んでいたことを覚えなさい」(15章18節)。→「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(マタイ10章22節/マルコ13章13節/ルカ21章17節)。
「僕は主人にまさりはしない」(15章20節)。→「僕は主人にまさるものではない」(マタイ10章24節)。
「人々は、~あなたがたをも迫害するだろう」(15章20節)。→「一つの町で迫害された時は、他の町へ~」(マタイ10章23節)/「人々はあなたがたに手を下して迫害する」(ルカ21章12節)。
「父の下からでる真理の霊が来るとき、~わたしについて証しをする」(15章26節)。→「話すのは、~あなたがたの中で語ってくださる父の霊である」(マタイ10章20節)/「話すのは~聖霊である」(マルコ13章11節)。
「あなたがたも~証しをするだろう」(15章27節)。→「(あなたがたは)彼らや異邦人に証しをすることになる」(マタイ10章18節)/「あなたがたは、~総督や王の前で証しをすることになる」(マルコ13章9節)/「それはあなたがたにとって証しをする機会になる」(ルカ21章13節)。
「あなたがたをつまずかせないためである」(ヨハネ16章1節)。→「その時多くの人がつまずく」(マタイ24章10節)。
「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう」(ヨハネ16章2節)。→「あなたがたは、会堂で鞭打たれる」(マタイ10章17節/マルコ13章9節)/「人々はあなたがたを~会堂や牢に引き渡す」(ルカ21章12節)。
「あなたがたを殺す者が~」(ヨハネ16章2節)。→「そのとき、あなたがたは殺される」(マタイ24章9節)/「子は親に反抗して殺すだろう」(マルコ13章9節)/「あなたがたは、~中には殺される者もいる」(ルカ21章16節)。
これで見ると、ヨハネ福音書のこの部分には、マタイ福音書と共通する部分が多いことが分かります。ヨハネ福音書がマタイ福音書を踏まえているとは考えられませんから、共観福音書とヨハネ福音書とのこれらの共通点は、四福音書以前の段階で共通する資料が存在していたと想定されます(例えばイエス様語録やマルコ福音書、およびその前段階の口伝/資料など)。ただし、それらの資料は、ヨハネ福音書と共観福音書では、それぞれ別個に伝承されたのでしょう。これらの部分は、共観福音書の中で最も黙示的な色彩が濃く、終末的な状況を描いている点に注目してください。
■ヨハネ福音書の終末観
共観福音書では、迫害が、終末を特徴づける黙示的な「しるし」とされています。先の「愛の戒めとペトロの否認予告」(13章36~37節注釈)では、イエスが予告するペトロの否認とは、イスラエルの捕囚体験に類するほど深刻な試練であることが、ペトロには分かっていないと指摘しました。また、「わたしは道である」(14章1節)の注釈では、「心を騒がせるな」とあるのが、『第四エズラ記』のエルサレム滅亡に対する嘆きの言葉に等しいほどの重みを帯びていると指摘しました。
ヨハネ福音書は、共観福音書に比べると、終末を「現在において」観ていると言われます。これに異論はないものの、ヨハネ福音書をこのように「特徴づける」ことには疑問があります。改めて、今回のヨハネ福音書の箇所に対応する共観福音書の記事を見ることにしましょう。マタイ10章17~25節は、イエスが十二弟子を派遣する際に与えた「宣教命令」に属します。これに対して、マルコ13章9~13節とルカ21章12~17節は、どちらもイエスが、エルサレムでの受難を間近にして語る終末の艱難を述べたものです。しかし、これらの記事は、マルコ福音書を除いて、マタイ福音書でもルカ福音書でも、重複して語られている点が注目されます(ここで一方は語録集から、もう一方はマルコ福音書からという問題に立ち入ることは控えます)。マタイ10章17~25節と重複するのは同24章9~10節であり、ルカ21章12~17節は内容的に同12章11~12節と重複します。これらの重複は、それだけ原初のキリスト教会において、この伝承が重視されていたことを示すものです。
注意してほしいのは、マタイ福音書でもルカ福音書でも、どちらも重複が、伝道すること、すなわちイエスを人々に告白する/証しすることと終末の「しるし」、この両方にまたがることです。終末と伝道/証しのふたつが、このようにつながるのは偶然でありません。終末のしるしは未来を予兆しますが、伝道と証しは現在行なわれます。言い換えると、福音書での伝道は、「終末を現在において伝える」ことによって成り立っていることが分かります。このことは、伝道する現在において、終末的状況が同時に伴うことを意味します。この消息を最もよく伝えているのが、マタイ福音書の十二弟子派遣の記事です(マタイ10章5~14節)。ここでは、当時の常識ではとうてい考えられない「無謀な」伝道の旅が命じられています。この「捨て身の無謀さ」は、イエスの命じた伝道が、人々に終末が「現在すでに到来している」ことをはっきりと自覚させる以外の理由では説明できません。マタイ福音書の伝える福音伝道は、「すでに終末に入った」人たちが初めてとりうる行動様式です。ちなみに、使徒言行録が伝える聖霊降臨直後の原初キリスト教宗団の生活形態もこれに近いと言えましょう。このように、共観福音書とヨハネ福音書とは、その伝道と信仰告白の様式において、通底する終末性を帯びています。
共観福音書が証しする終末と伝道のこのつながりは、明らかにイエス自身による「終末的伝道」に直結していると考えられます。イエスが告知した神の国の到来それ自体は、決してイスラエルの民族的な危機や艱難をもたらすものではありませんでした。しかし、御国の到来を告知するという出来事には、イエス以前のかつてのイスラエルの捕囚体験やアンティオコス4世の迫害体験などが、イエスの告知を支えていたと考えることができます。だからこそ、イエスが伝える御国の終末性は、当時のユダヤの宗教制度を初め、政治的・社会的にもユダヤの国を根幹から揺るがすほどの衝撃と危機感を指導者たちに与えたのです。その衝撃の深刻さは、ユダヤ社会の指導層をしてイエスの十字架刑へと駆り立てたほどであり、その結果、弟子たちにとっては、イエスの十字架刑による挫折の危機を体験することになります。
しかし、イエスの御国の福音は、ユダヤの民族的な危機を克服することができるほどの現実的な力と神の臨在を伴っていました(マタイ11章2~6節)。だからこそキリストの教会は、エルサレム滅亡という危機に直面しても、これを克服するだけの霊性を保持しえたのです。この危機の深刻さは、終末を「待ち望む」信仰ではなく、終末を「現実に生きる」信仰によって初めて、克服することができるからです。この意味において、イエスの伝道形態が、イエスがもたらした終末の現臨を最もよく伝えているのは偶然でありません。この形態による「伝道」を通じてのみ、人々は神の国に「入る」ことが実現できたからです。
ヨハネ福音書が現在を終末化しているというのは、イエスのこの伝道形態と無関係ではありません。互いに愛し合うヨハネ共同体と、これに対峙する世からの憎しみ、この鋭い対立の裏には、人間の最も根源的な危機、聖書学が言う「歴史の恐怖」が秘められていると言えましょう。だから、ここで語られている「迫害」は、「終末を特徴づける黙示的なしるし」としての迫害の特徴を帯びています。この意味で、ここでの「敵対者からの憎しみ」とは、「至る所に悪魔を見ること、光と闇との戦いをまさに文字通りに受け取り、悪の諸力が、あらゆるところに働いていると考えること」〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕なのです。
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