62章 イエスを憎むこと
15章18節〜16章4節(前半)
■15章
18「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
19あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
20『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
21しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
22わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
23わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
24誰も行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
25しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
■16章
1これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。
2人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。
3彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。
4しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」
【講話】
【注釈】(1)
【注釈】(2)
■父を知らないこと
前回までは、パラクレートスと弟子たちとの関係について語られましたが、今回は、パラクレートスとこの世との関わりについてです。ここに来て、「この世」に潜む闇の働きがあぶり出されます。注釈(1)をお読みになれば分かるように、この世からの憎悪と迫害は、共観福音書では、終末的な状況の中で起きる出来事とされています。ヨハネ福音書の終末観は、共観福音書とはやや異なりますが、今回の箇所も、本質的には、「終末的な」事態での憎悪であり迫害であると観ることができます。
イエス様は弟子たちに「彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」(16章2〜3節)と言われます。「こういうこと」とは、イエス様の弟子たちを憎悪すること、そこから生じる暴力的な迫害と、イエス様を信じる人たちを殺すことです。しかも迫害者たちは、自分たちが悪を行なっているとは少しも思わないのです。「少しも」と言うのは、これこそ自分たちが「神に仕える道だ」と信じているからです。
かつて、オウム真理教の信徒たちは、人を「殺す」(ポアする)ことが、その人を救うことだと信じて、東大の理系の若者たちは、サリンを製造して地下鉄に撒きました。2019年の今は、大勢のIS戦闘員たちが、世界中で、「自分の命を犠牲にして」、男だけでなく女性や子供たちを殺すことが、神のもとで幸いになる道だと信じています。これが、「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)に具わる恐ろしさです。
どうしてこういうことが起こるのか? それは、「父をもイエス様をも知らない」からです。「知らない」とは怖いことです。イエス様は弟子たちに「わたしを見た者は父を見た」(14章9節)と言われました。しかしここでは、「父を知らないから、わたしを知らない」と言われます。迫害は、人々が「わたしをお遣わしになった方を知らない」(15章21節)からです。「わたしを憎む者はわたしの父をも憎む」(15章23節)のです。「わたしを憎む者は、わたしよりも先に父を憎んでいる」(15章18節を参照)からです。だからイエス様は。十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と祈られたのです。
『リバイバル新聞』によれば、現在の中国では、家庭集会を開いて、お祈りをして賛美歌を歌う、ただそれだけで、集会の責任者が拘留されて暴行や迫害を受けているそうです。ほんとうの「父を知らないこと」、これが、イエス様への憎悪と迫害につながるのです。神を知らないことがイエス様への憎悪となり迫害へ発展するのなら、この世で行なわれる迫害や暴力は、逆に言えば、「イエス様に対する」憎しみの現われであると言えます。だから、イエス様の父が、どのような方かを知ることが大切なのです。「イエスの父はキリスト教の神である。」「イエスの父はユダヤ教のヤハウェである。」「イエスの父は一神教の神である。」これらはどれも間違いではありません。けれども、これで、イエス様の父をほんとうに「知っている」と言えるでしょうか。世の中には、間違ってはいないが、正しくもないことがいっぱいあります。
仏教で言う「無明」(むみょう)とは、心の迷いと煩悩の根源にあるものです。無明は、仏(ほとけ)の「知恵の光明」によって、悟りへ啓(ひら)けると言います。これに対して、心の闇を照らすイエス様の光は、個々の人に「霊の人」を啓示することで、新たな人格的な創造を行なうのです。
■イエス様を憎む
イエス様をキリスト教の「教祖」としてしか見ない人は、歴史的に見れば間違っていませんが、この見方からは、イエス様が、「わたしを憎む者はわたしの父をも憎む」と言われたほんとうの意味が見えません。地上において行なわれるあらゆる憎悪と暴力が、父なる神に向けられているだけでなく、その御子であるイエス様にも向けられていることを悟ることができません。
イエス様の父である神を拒むことは、
(1)天地を創造された「神を認めようとしない」ことです(ローマ1章20〜21節)。
(2)「この世」に向けて示された神の愛を拒むことです(3章16節)。愛とは、人と人の世を「新たに創造する」神のお働きです。これを憎み、「信じようとしない」のです。
(3)しかし、ここで言われているイエス様とその父である神への「憎しみ」は、それよりもさらに根が深く、神の創造の御業それ自体を阻止して、これを破壊しようとすること、その御業を「憎悪する」ことです。
神による創造の御業を憎悪するのは、まず、宗教的な様相を呈します。しかし、神の創造の業に向けられる憎悪は、宗教面だけでなく、政治や経済などの社会的な面にも表われます(集会や言論の自由の弾圧)。それ以上に、個人の内面にまで憎悪の力を及ぼします(思想や信仰の自由を弾圧し奪うこと)。イエス様を憎む者は、この意味で、「人間を憎む」者です。「毛嫌いする」から「憎悪する」、「憎悪する」から「迫害する」、これらの間に様々な段階がありますが、根本に潜むのは、「イエス様を憎む」ことです。なぜでしょうか?イエス様が、わたしたちのうちに潜む悪を暴いて、これを取り除こうとされるからです。人は自分のうちに悪を認めようとしないその程度に応じてイエス様を憎むのです。人は自分のうちに潜む悪と闘いこれを取り除こうとする程度に応じてイエス様を愛するのです。
イエス様は、人間にはできないこと、「自分の罪性」を取り除くことをしてくださいます。人にその罪性を啓示する。これがイエス様の御霊のお働きです。御霊は啓示し、啓示することによって、その人を「判断」し「裁定」します。御霊の判断に従おうとせず、これを受け入れようとしない者には、御霊の啓示は「裁き」となり、御霊の判断に従い、これを受け入れる者には、御霊の啓示は「救い」になります。これを分けるのはその人のプライドです。イエス様の御霊を受け入れない人に欠けているのは謙虚さです。
イエス様を憎み、イエス様の父を憎み、イエス様の神の創造的な働きを憎むこと、これを体現しているのは、11章45〜53節の大祭司カイアファです。この人物は、宗教的な権威と政治的な権力と自分が属する家門の名誉と誇りと己の知力とを体現しています。同時に彼は、ユダヤの秩序を維持する責任をローマ帝国から課せられています。だから、彼自身が、ローマ帝国の支配からくる重圧に脅かされています。このために、今自分に与えられている宗教的な権威や政治権力が、神から来ているもので、神によって与えられていることを悟らず、権威と権力を「我がもの」にし、これに執着するのです(15章19節)。しかも彼は、それら自分の拠り所の一切を、イエス様の父なる神によって脅かされていると感じるのです。このために、「一人の人間が犠牲になって、国土全体が滅びないほうがいい」と言って、イエス様を亡き者にして、「この世」の体制を固守しようとします。皮肉にも、彼自身も、彼が守旧しようとした国土全体も滅びました。この世を支配し彼を支配する悪の霊力は、彼をもその国土をも救いませんでした。これこそ、ほんらい神様から与えられたものを「自分のもの」にしようとする時に起こる悲劇、人間に潜む「原罪」です。
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