【注釈】(2)
■15章18~21節
世があなたがたを憎む場合は、
あなたがたより先にわたしを憎んでいたと思いなさい。
もしもあなたがたが世からのものであるのなら、
世は己のものとして愛したであろう。
だが、あなたがたは世からのものではなく
わたしがあなたがたを世から選び出した。
それだから、世はあなたがたを憎むのである。
わたしがあなたがたに言った言葉を思い出しなさい
「僕はその主人にまさることがない」と。
もし彼らがわたしを迫害したのであれば、
あなたがたをも迫害するだろう。
もしわたしの言葉を守ったのであれば、
あなたがたの言葉をも守るだろう。
しかし彼らは、これらのことをみな、
わたしの名のゆえにあなたがたに向かって行なうだろう。
わたしを遣わされた方を知らないからである。
 
[18]【世が】ヨハネ福音書の「世」(ギリシア語「コスモス」)が、第一義的には、イエスを十字架刑にしたユダヤ教の指導層を念頭に置いていることはすでに述べました(11章48~50節の注釈を参照)。しかし今回は、「あなたがた」(イエスの弟子たち)と「わたし」(イエス・キリスト)との関係において「世」からの憎悪が語られますから、イエスとその弟子たち(とヨハネ共同体)への憎悪が重ねられているのが分かります。先にも述べたように、ユダヤ教の指導層は、ヨハネ福音書が言う「世」を象徴するものですが、彼らと「世」を同一視することはできません。ここで言う「世」とは、(1)イエスの当時のユダヤ教の指導者たち、(2)ヨハネ共同体と同時代のユダヤ教の指導者たち、(3)イエス・キリストを憎悪する「この世」全体、(4)イエス・キリストの信仰者たちが形成する諸教会/諸集会への見えざる敵意などが、複合的に重ね合わされているからです。このような憎悪は、イエス・キリストと共にある信仰者たち(共同体や諸教会)が、「この世から」ではなく「天から」力を与えられていて、しかもこれら信仰者たちが、<現在この世の中に存在しながら>その歩みを続けていることから来るものです。これが、エクレシアの「終末的な霊性」の特徴であり、それゆえに「世」の憎悪を誘うのです。
【憎む】「あなたがた<よりも>わたしを憎む」という比較は、「~より愛さない/~よりも憎む」というヘブライ語的な用法よりも、もっと根源的なところから発する「憎悪」のことです(7章7節)〔バレット『ヨハネ福音書』〕。条件の「憎むならば」は直説法現在形ですが、帰結の「(世が)憎んでいた/きた」は直説法完了形で3人称単数です。この完了形は、イエス・キリストに対する持続的な根深い憎しみを表わすもので、このような憎悪は、人間存在の根源に起因するものです(3章19~20節/第一ヨハネ3章12~15節)。
【前に】「あなたがたの前に」の「あなたがた」が抜けている有力な異読があります。この場合、「先に/まずわたしを(憎んでいた)」の意味になりますから、「あなたがた<よりも>わたしを」という比較の解釈は成り立ちません。「世があなたがたを憎む」には、ヨハネ共同体が体験したユダヤ教ファリサイ派との衝突や会堂追放が反映していると思われますが、「先にわたしを憎んだことを覚えておきなさい」とあるのは、イエスの在世当時にさかのぼって、特にイエスの十字架刑を指すのでしょう。
【思いなさい】「~ことを知る/心に留める」は、ヨハネ福音書では挿入としてよく用いられる言い方です。ここの「思いなさい/覚えていなさい」も、これを命令法に読むことも、「あなたがたは覚えているが」と直説法に読むこともできます。"If the world hates you, it hated me first, as you well know."〔REB〕(5章32節/12章50節の語法も参照)。意味はどちらでも変わりません。
[19]【もしも】ここは条件節で、動詞は直説法未完了形をとって「仮に~であるのなら、~愛したであろう」と、現在の事実ではないことを仮定した言い方です。
【世からの】原文の英訳は "If you were from the world"。これは「世からのもの」〔岩波訳〕「この世のもの」〔塚本訳〕などと訳されています。弟子たちは、「世のもの」であったのが、「世から選び出された」ものとされて、しかも「世にとどまっている」のです(17章14~16節)。
【己のもの】原語は中性単数の形容詞で「自分の」"one's own"です。1章11節「み言(ことば)は<自分のもの>のところへ来たのに、<自分のもの>は彼を受け入れなかった」では、ここ19節と同じ形容詞が、中性複数と男性複数で用いられています。しかし、単数と複数で意味の違いはないでしょう。1章11節の「自分のもの」は、イエスと同じユダヤの民を指すと思われますが、15章19節で「世は自分のものを」と言う時は、ユダヤの民を含む全世界の人たちを指すと見ていいでしょう。弟子たちはイエスの「友」(複数のフィロイ)であり、イエスに「愛される」(フィローされる)者になりました。しかし、この世は、「自分のもの」だけを「愛する」(フィロー)のです。  
 シリアのアンティオキア教会の主教であったイグナティオス(35年頃~107/110年頃)は、ローマ皇帝トラヤヌスの治世(98~117年)に、クリスチャンを迫害する皇帝によって死刑を宣告されました。一説によれば、シリアを訪れていた皇帝が、神々にも犠牲を捧げるようクリスチャンに命じたために、イグナティオスは、皇帝の前で自分は「神を持つ者/抱く者」(テオフェロス)であるから神々に犠牲を献げる必要がないと説いたと言われています。これが皇帝の怒りをかって、彼はローマで獣の餌食とされるべく、シリアからローマへ連行されました。イグナティオスは、連行される旅の途中で、方々の諸教会に書簡を送りましたが、小アジア西岸のスミルナからローマのクリスチャンたちに宛てた書簡には、次のようにあります。「見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠です。クリスチャンが世から憎まれるときには、なすべき業は説得ではなく、偉大さを示すことなのです。彼は、世から憎まれる時に、神に愛されるからです。だから聖書にこうあります。『もしもあなたがたがこの世からのものならば、世は自分のものを愛するだろう。しかし今や、あなたがたは世のものではなく、わたしがあなたがたをそこから選び出した。わたしとの交わりに留まりなさい。』」(イグナティオス『ローマの信徒に宛てた手紙』3章より)
【選び出した】アオリスト形で「選ぶ/引き抜く」ことです。すでに15章16節で語られていますが、イエスは弟子たちをこの世から「引き離す」のではなく、この世で神の言葉を証しするために(17章14~15節)、「選び出した」のです。
[20]【言葉を思い出し】「言葉」には単数と複数の両方の読み方がありますが、内容的に変わりません。また「思い出す」も、19節の「覚えている」と同様に、命令法と直説法と、どちらの読み方もできますが、内容的には同じです。ただし、「わたしが~思い出しなさい」は、今回の箇所の終わりに来る「わたしがあなたがたに語ったことを思い出しなさい」(16章4節)へつながっています。「思い出す/想起する」については、14章26節「思い起こさせる」の注釈を参照してください。
【僕はその主人に】13章16節では、弟子が師に学ぶように勧めています。ここ15章では、弟子が師と同じ状態になることを知らせるのです。15章15節に「僕とは呼ばない」とあるのに、20節で「僕」のたとえを出すのはおかしいと考える人がいますが、諺やたとえは、状況や時に応じて意味が変容しますから、「おかしく」ありません。
【迫害する】心の「憎しみ」が外に現われる時に「迫害」となり、「暴力」が伴うことになります。ここでは「わたしを迫害した」(直説法アオリスト形)と「迫害するであろう」(同未来形)とがつながっていますから、「わたしを」と「あなたがたを」が、一つにされています。弟子たちを迫害することは、すなわちイエスを迫害することです(使徒9章4節)。先に引用した皇帝ドミティアヌスによるキリスト教徒迫害をこの20節の「迫害」と結びつけて、ヨハネ福音書が書かれた時期を特定しようとする試みがあります。しかし、ここの「迫害」は、資料として用いるには内容があまりに漠然としすぎています。
【もしわたしの言葉を守った】「迫害したのなら~迫害するだろう」と「守ったのなら~守るだろう」のように、動詞の直説法アオリスト形と未来形が組み合わされて、「迫害する」と「(言葉を)守る」こととが並行します(私訳参照)。この箇所は、その前後関係から、一貫して「迫害する」ことだけを指している。だから、この世が「迫害する」ことと「守る」こととの両方の可能性を示唆するのは、論理的な一貫性に反するという解釈があります。しかし、逆の見方をすれば、ヨハネ福音書のここのテキストは、これをありのままに読むなら、そのような論理的一貫性を拒否する内容を秘めていることを意味します。ヘブライの伝統的な並行法"parallelism"では、しばしば相反することが並行します。ここは「もしあなたがたを迫害する者たちがあれば、あなたがたの言葉を守る者もまたいるだろう。教会の使命は、イエス自身のそれと同様に、二重の反応をもたらす」〔バレット『ヨハネ福音書』〕と解釈するほうが適切です。
[21]【これらのことをみな】内心の憎しみから外に出る暴力による迫害にいたるまでには、様々な段階が存在します。ここでは、この世で行なわれるあらゆる憎悪とこれの発露である迫害や暴力が、すべて「イエスに向けられている」ことを意味します(マタイ25章41~45節参照)。
【わたしの名のゆえに】ヘブライ語/アラム語では、「わたしの名のために/のゆえに」は、「わたしのために」「わたしのせいで」の意味ですから、ここは「イエスを信じているために」です。ただし、続く後半の内容から見ると、「イエスの名」とは「父なる神が遣わした子」の「名」のことですから、「イエスを信じているために」は、「イエスを神の子キリストと信じているために」と同じ意味です。21節前半は、マルコ13章13節「わたしの名のために、あなたがたがすべての人に憎まれる」と重なりますから、ここが終末的な意味を帯びていることが分かります(第一ペトロ4章16節をも参照)。
【わたしを遣わされた方】「わたしを遣わされた方」は、ヨハネ福音書では、イエスが父を指す言い方です。これまでイエスは、「わたしを知らなければ、父を知ることができない」と告げてきました(5章36~38節/8章19節/12章44節/14章6~7節)。ところが、15章21節からは、順序が入れ替わって、「父を知ることが、わたしを知ることである」と告げるのです(16章3節/17章3節/同24~25節)。これは、すでに5章36~38節で示唆されていたことで、イエスは「ユダヤ人」に向かって、父への無知がイエスへの無知につながると警告してきました(7章28節/8章54~55節)。ここ21節では、この父への無知が、「ユダヤ人」だけでなく、この「世」全般に拡大されます。先には、この世で行なわれる迫害や暴力が、実は「イエスに対する」ものだと指摘されました。このことが分かるためには、「イエスを遣わした」父が、どのような方かを知らなければなりません。安息日に家畜を救うことを認めておきながら、人を癒やすことを認めないのは(マタイ12章9~14節)、父への無知がイエスへの不信仰へつながる例でしょう。
■15章22~25節
もしもわたしが来て彼らに語らなかったなら、
彼らに罪はないことになろう。
だが、今は、彼らの罪について言い逃れできない。
わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
もしもだれもしたことがない業を、彼らの間で行わなかったなら、   彼らに罪はないことになろう。
だが今は、彼らはその業を見た。
それなのに、わたしをもわたしの父をも憎んだ。
だが、これは、彼らの律法に書いてある言葉
『理由もなく、わたしを憎んだ』が成就するためである。
 
[22]~[23]【もしも】22節は、18~21節をまとめて、次の23節以下へつないでいます。条件節にある「来る」と「語る」はアオリスト形で、過去の事実に反することを仮定していますが、帰結のほうの「(罪を)持たなかっただろう」は、未完了形(不定過去形)で、現在の出来事に反することを述べています。だから、「もしもわたしが、(過去に)来て彼らに語らなかったとすれば、彼らには、(今現在も)なお罪がないであろう」となります。条件と帰結の間にあるこのような時間的なずれとつながりは、ヨハネ福音書の特徴です。過去においてイエスが「語った」ことが、現在の人々の状態を決定するのです。これに類する言い方としては、「もしあなたがたがアブラハムの子で<ある>のなら(現在形で、彼らが「ある」のか「ない」のかは未定)、アブラハムの業を<しているはず>である(未完了形で、現在して「いない」こと)」(8章39節)、あるいは「あなたは権威を<持たない>(未完了形で、現在持っていないという仮定)、もしも上から権威を<与えられていなかった>とすれば(完了形で、過去から現在まで継続する事実に反する仮定)」(19章11節)などです。
【罪について】原語の「罪」は単数です。もしもイエスが語ったこと、行なったことを人々が知らなかったとすれば、彼らの無知は、無罪ではないまでも、まだ赦されるでしょう(ルカ23章34節/使徒3章17節)。しかし、22節では、ユダヤ人の指導者たちを含むこの「世」は、イエスが語ったこと、イエスが行なった業を知っていながら、意図的にこれを拒否したのです。ここで言う「罪」は、彼らがイエスを知らなかったのなら生じなかったはずの罪のことであり、彼らがイエスに出会ったがゆえに負わなければならない「罪」のことです。したがって、ヨハネ福音書がここで言う「罪」は、新約聖書の他の文書でしばしば指摘されている「罪」、広い意味での人間の罪のことではなく、「人とイエスとの出会い」に焦点を合わせて、そこにのみ発生する独特の「罪」のことです。この意味で、ヨハネ福音書が言う「世の罪」とは、イエスに出会っていながら「イエスを拒否した罪」になります。「彼ら」とある「世」は、もはや無知ではなく、イエスを通して「啓示に」出合ったのです。ここで言う「世の罪」は、イエスの啓示に出合ったことから生じたものですから、「もし啓示が存在しなかったなら、決定的な意味での罪も存在しなかった」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕ことになります。イエスが地上に「来て語った」かつての過去の出来事が、現在の自分の罪に決定的な意味を持つのは、その人とイエスとの出会いが、イエスの御霊にある出会いを通じて「新たな自己発見」へつながるからです。人がイエスを受け入れるなら、彼は「真理から出た者」になります。反対に、その啓示を意図的に拒み続けるなら、彼の過去から現在に至る全存在が、「この世」の「罪」という闇に「留まる」結果になります(3章18~21節)。啓示は、これを意図的に拒否するだけでなく、消極的にこれを「無視する」こともできます。人は、これを拒むことも、逆にこれを受け入れることも「自由に」できます。しかし、この選択には、その人の過去から現在を経て未来にいたる全人格的な存在がかかっているのです。このような決定づけが行なわれる「時」であるという意味で、イエスとの出会いは「終末的な出会い」なのです。
【わたしの父をも】23節は24節の結びと同じですから、22~23節と24節が並行しています。イエスを憎むことが、イエスの父である神をも憎むことであり、イエスを拒む者は神を拒む者です。この関係は、かつてモーセについて言われていたことです(申命記18章18~19節)。
[24]「行なわなかったならば」(直説法アオリスト形)は、過去の事実に反する仮定であり、「罪はなかったであろう」(直説法未完了形)は、現在をも含めて事実でないことを仮定する言い方です。過去と現在のこの時間関係は22節と同じです。"If I had not done such deeds among them as no one else has ever done, they would not be guilty of sin."〔REB〕。なお後半の「見た」と「憎む」は完了形で、過去から現在までその状態が継続していることを指します。
【業を見たうえで】22節では「(彼らは)罪に対する弁解の余地がない」とありました。同じことが、ここでは「彼らは、イエスを通して働く神の業をはっきりと見た(のだから)」と言い表わされます。敵対者たちは、イエスを通して神の啓示をすでに「見ている」のです(5章36節)。「そのうえでなおも」とあるのは、彼らの拒絶が自己の意志と責任において行なわれていることを意味します。人はあることを「しない決意をする」場合があります。この「行なわない」選択も「行ない」です。だから「言い逃れできない」のです。「したがって、罪とは第一義的には不道徳な振舞いではない。罪の核心は特定の行為にあるのではない。むしろ、すぐ16章9節で明らかに定義されるように、罪とは不信仰なのである」〔ブルトマン『ヨハネ福音書』〕。
[25]【彼らの律法に】ここでの「律法」は、いわゆるモーセ五書に限定された意味で言う「トーラー」ではなく、ユダヤ教の旧約聖書全体を指します。「彼らの」とあって、イエス(とヨハネ共同体)から距離を置いた言い方をしていますが、これまでもイエスは、敵対する者たちに向かって「あなたたちの律法」という言い方をしています(8章17節/10章34節)。ただしこのことは、イエスが、ユダヤ教の律法をないがしろにしていることではありません(5章39節/同45~47節参照)。そうではなく、「理由なしに神を憎む」人間の罪への断罪が、ほかならない神の律法にはっきりと預言されていて、それが真実であることが今証しされているという意味です。すなわち、敵対するユダヤの指導者たちは、「自分たちの律法」によって断罪されるのです。
【理由もなく】ここは旧約聖書の七十人訳詩編68篇4節(ヘブライ語原典では詩編69篇5節)からの引用です。ただし、「理由なしに憎む(者)」は、詩編35篇19節にもでています。69篇では、イスラエルの神を呼び求める者が、「理由なしに」不当な憎悪と迫害を受けています。しかも彼は、望みも絶えそうになりながら、神の恵みと真実によって霊的によみがえり、神に感謝を捧げることができたのです。だから69篇の各所は、新約聖書で、受難のメシア(キリスト)への預言として引用されています(マルコ15章36節前半/ヨハネ2章17節/ローマ15章3節)。
【実現するため】原語は「成就する/満たされる」〔接続法受動態アオリスト形〕です。「~ために」に接続法アオリスト形が続く場合は、「~ために~せよ」と命令を表わす場合が多いのですが、ここはそうではなく、神のみ心を表わす用法です。ヨハネ福音書では、「成就する」は、特に12章以下の受難の部分にしばしばでてきます(13章18節/17章12節/19章24節/同36節/特に12章38節以下の注釈を参照)。
■15章26節~27節
父のもとからわたしがあなたがたに
   遣わそうとしているパラクレートス、
すなわち、父のもとから出ている真理の霊が来たなら、
その方は、わたしについて証しするはずである。
あなたがたもまた証しをする。
初めからわたしと一緒にいたからである。
 
[26]~[27]すでに14章15~17節と同25~26節で、パラクレートスが「真理の御霊」であり、御霊が弟子たちに「すべてを想起させる」ことを見てきました。ここ26~27節で、3度目にパラクレートスが表われます。しかし今度は、先のパラクレートスとは異なる特徴を帯びています。このために26~27節を後からの挿入だと見る説がありますが、ここはその前後と密接に結びついていますからこの説は支持できません〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕。14章のパラクレートスが、ほんらいの形(オリジナル)であって、15章のこの箇所は、これをさらに後で発展させたという見方もありますが、内容的に発展しているからと言って、それが、資料的に後から付加されたことの根拠にはなりません。注釈(1)で、共観福音書とヨハネ福音書とでは、伝道(イエスを告白すること)と終末における証しにおいて、相互に通底していると指摘しました。ヨハネ15章26節からは、終末的な迫害と、これに立ち向かうパラクレートスの働きがはっきりと表われます。共観福音書の「聖霊」とヨハネ福音書のパラクレートスは、全く同一であるとは言えませんが、終末的な状況におけるこの世からの迫害に向かう点では、両者の働きは一致しています。どちらも「父から与えられる」ものですが(マタイ10章20節/ヨハネ14章16節)、大事なのは、聖霊とパラクレートスが、法廷での尋問と世からの迫害において、弟子たちを通して「語ってくれる」ことです(マタイ10章20節/マルコ13章11節/ルカ21章15節/ヨハネ15章27節→26節と27節は同じことを意味します)。ただし、迫害に立ち向かって告白するこのパラクレートスは、続く16章7~15節では、共観福音書よりもさらに一歩を進めて、「世の罪を裁き断罪する」働きをします。
【弁護者】ここで「パラクレートス」をまとめてみます。 
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」(14章16節)。
「しかし弁護者、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14章26節)。
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(15章26節)。
 先ず、「父がパラクレートスを遣わす」と「わたし(イエス)がパラクレートス遣わす」とあることです。しかし、「父はわたしの名によって遣わす」とあり、「わたしが父のもとから遣わす」とあるから、「この違いにこだわる必要はない」でしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕。「わたしと父は一つ」(10章30節)です。この15章26節は、三位一体と聖霊との関係について、教会の教義形成に大事な役割を担いました。パラクレートスは「真理の霊」と呼ばれますが、同時に「聖霊」と同一視されています(14章26節の「聖霊」の注釈を参照)。パラクレートス=真理の霊=聖霊という関係は、ヨハネ福音書のパラクレートス観の成り立ちを知る上でも重要です。時期的な前後関係から見るなら、「真理の霊」(キリスト教以前)→「聖霊」(原初キリスト教)→「パラクレートス」(ヨハネ共同体)という系譜が考えられます。
 「真理の霊」が父から「発出する/出ている」〔直説法現在形〕とあるのは、御霊が継続的に父から発していることです。だから、この「出てくる」は、父なる神から出ている御霊が、今も絶え間なく働き続けていることを指します。「永遠にあなたがたと一緒にいる」とあるのもこの意味です。4世紀の教会は、ここの「出ている」(「エクポレウエタイ」>「エクポレウオマイ」の3人称単数現在)が、三位一体の第三の位格である聖霊が、父の本性を宿しつつ父から発出し続けていると解釈しました。なお、「エクポレウオマイ」のもととなる「ポレウオマイ」(旅をする/先へ進む/出ていく/立ち去る)は、共観福音書では、イエスの歩みを伝える重要な鍵語ですから、ヨハネ福音書のパラクレートスの働きを知る上でも大事です。
 ここでのパラクレートスの「働き」に注目すると、イエスを信じる者たちに「宿る」こと、イエスの言葉と業を彼らに「想起」させ「教え伝える」こと、そして「イエスを証しする」ことです。「イエスを証しする」は、パラクレートス自体が、イエスの臨在となることですから、この意味でのパラクレートスを「イエスの御霊」と呼ぶことができます。
 パラクレートスが「イエスを証しする」とあるのは、15章26節だけで、これが26~27節でのパラクレートスの大事な特長です。したがって、26節と27節とは、パラクレートスと弟子たちとが、別々に証しをすることではなく、イエスの御霊が、弟子たちにあって、イエスとその父とを証しすることです
【わたしが遣わそうと】「遣わそう」は未来形で、これと呼応する「(真理の霊が)来たなら」〔接続法アオリスト形〕は、何時かは明らにされていませんが、必ず起こることを指します。「遣わそう」を「遣わす」と現在形に読む異本もありますが、意味は変わりません。
【その方が証しする】「証しする」は直説法未来形で、必ずそうなるという意味です。27節で弟子たちが「証しをする」は現在形です。なお「<それは>父から出る」とあって、続いて「<その方(彼)>が~」と人格的な言い方へ移行しているのが注目されます。パラクレートスが、「イエス自身となって」証しすることを言うのでしょう。
【初めから】「世の初めから」(1章1節)の意味ではなく、イエスの伝道活動の「最初から」の意味です。
■16章1~4節(前半)
これらのことをあなたがたに話したのは、
つまずかないためである。
彼らはあなたがたを会堂から追放するだろう。
その上さらに、あなたがたを殺す者が皆、
神に犠牲を捧げていると思う時が来る。
彼らがこういうことをするのは、
父をもわたしをも知らないからである。
しかし、これらのことをあなたがたに話したのは、
彼らの時が来たときに、わたしがあなたがたに話した
これらのことを思い起こすためである。
 
 すでに幾度か指摘したように、ヨハネ福音書の背景には、ヨハネ共同体と当時のユダヤ教ファリサイ派との対立があります。しかし、このような歴史的な背景だけでは、今回の箇所を説明することができません。なぜなら、バレットが指摘するように、ヨハネ福音書は、ここで史的な証言を意図しているのではなく、神学的な考察を行なっている、言い換えると霊的な視点から観ているからです。
 ジョン・マーティンは、ユダヤ教がキリスト教徒(ヨハネ共同体)を会堂追放に処したその歴史的状況を再構築しようとしました〔J・L・マーティン著『ヨハネ福音書の歴史と神学』原義雄/川島貞雄訳。日本基督教団出版局(1984年)〕。けれどもここで問われているのは、そのような歴史的状況における世の憎悪や迫害それ自体のことでもありません。そうではなく、ここでは、迫害に伴う「つまずき」が問われています。「世」から憎まれることだけでなく、イエスにおける神への信仰が、「つまずき」をもたらすこと、その上で、逆に、弟子たちを「つまずきから守る」ことが語られるのです。ヨハネ共同体の「生活の視座」から書かれているだけでなく、それ以上に、「パラクレートスがこの世に裁きを行なう」という霊的な出来事を語ろうとしているのです。だからこの箇所は、共観福音書に表われる黙示思想につながります(マタイ24章1~31節/マルコ13章3~27節/ルカ21章7~28節)。
 ヨハネ福音書は、15章26節~16章11節において、黙示思想に最も近くなります。ここでは、「世が裁かれ」ますが、その裁きは、パラクレートスによって行なわれます。迫害は歴史的状況となって現われますが、問われてくるのはその出来事への霊的な視点からの神学的な洞察です。 [1]【これらのこと】16章1~4節(前半)は、15章の終わりを受けると同時に、これを16章4節(後半)以降へつないでいます。だから「これらのこと」は、直前の「真理の霊」だけでなく、15章18節以降で語られた世の憎しみと迫害をも指します。
【つまずかせない】原語の動詞は接続法受動態アオリスト形で、「罠にはめられる」「罪に落とされる」「つまずく/挫折する」ことです。アオリスト形ですから、一般的な言い方ではなく、具体的な出来事を念頭に置いているのでしょう。この動詞は、ヨハネ福音書では、ここと6章61節にでてくるだけです。
 6章56節でイエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と語ると、これを聞いた弟子たちの多くの者が「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いておれようか」と不満を漏らします。するとイエスは、「あなたがたはこのことに<つまずく>のか」と問いかけます。6章から判断すると、弟子たちの多くが、ここでイエスと共に歩むことを止めた(ヨハネ共同体から離脱した?)のでしょう。彼らが「つまずいた」のは、イエスの言葉に潜む霊的な意味を悟ることができず、「肉」と「血」を即物的に受け取ることしかできなかったからです。彼らは、イエスの比喩的(隠喩的)な言い方が理解できなかったのです。6章で語られていることは、言葉の具象的で物質的な意味だけでなく、父とイエスの霊的な交わりのこと、信じる者に生じる霊的な出来事のことです。もしも彼らに、地上で生起している霊的な出来事さえ見えないのなら、イエスが天に昇るのがどうして「見える」だろうか?と問いかけているのです。これは、肉眼では見えない「いのちを創り出す御霊の働き」(6章63節)を「観て知る」ことです。
 16章1節で語られる「つまずき」も6章のそれと重ね合わせることができます。ただし16章の「つまずき」は、6章のそれよりもはるかに深刻です。これから弟子たちに起ころうとする「つまずき」とは、「イエスが取り去られる」ことだからです。この状況は、「あなたがたが全員わたしに<つまずく>」とあるマルコ14章27節の状況と重なります。
 ただし、この場合でも、先の6章の「肉」と「血」の場合と同様に、「つまずき」は、目に見える具象的なレベルでしか物事を見ないことから生じます。イエスがこの地上にメシアの王国を「具体的に見える形で」建てることを期待していた人たちにとって、イエスの十字架刑は決定的な挫折とつまずきをもたらしたに違いないからです。  
 ところが、ここ16章1節で、イエスは、弟子たちのつまずきを予告するのではなく、逆に弟子たちが「つまずかない」状態を約束するのです。この約束は、たとえイエスの地上の命が取り去られても、イエスは天において神と共にいるという信仰に支えられているからでしょうか? このような信仰であれば、すでにイエス以前のユダヤ教でも可能であったはずです。神に選ばれた者たち、正しい者たち、特に神に立てられたメシアは、たとえ世を去っても、天において神と共にいてイスラエルを支えているという信仰がすでに確立していたからです。ヨハネ福音書がここで語る「つまずかない」約束は、イエス在世当時のこのような信仰を背景にしていたとも考えられるでしょう。  
 しかし、ここ16章1節でイエスが語る「つまずかない」約束は、「天にいます」イエス・キリストへの信仰を指しているのではありません。そうではなく、この約束は、「わたしが語ったこれらのことを思い起こす」(16章4節)ところから来るのです。ここで、「つまずかない」という消極的な言い方から「(地上において語られたイエスの言葉を)想起する」という積極的な言い方へ移行します。約束は、イエスが天にいるからではなく、パラクレートスが、弟子たちのところへ「降る」からなのです。先に述べた「もう一人のイエス」が、弟子たちと共に臨在して、彼らと共に、彼らにあって、「この世」に向かって証しする。15章26~27節は、このことを意味するのです。15章が「初めからあなたがたはわたしと共にいる」という現在形で終わるのは、イエス在世当時の弟子たちだけではなく、ヨハネ共同体の時も、またそれ以後も、この事態が何時までも変わらないことを証ししているのです。「つまずき」の可能性は、イエスが取り去られるという終末的な状況において起こります。共観福音書で語られているのと同じ状況を想いながら、ヨハネ福音書は、ここ16章1節で、イエスの語った言葉によって、「つまずき」から守られ支えられることを証しするのです。
[2]【会堂から追放】「会堂追放」については「宗教家の盲点」9章22節の注釈を参照してください。ユダヤ教は、当時のローマ帝国によって「公認宗教」(religio licita)として認められていましたから、ユダヤ教からの弟子たちの会堂追放は、イエス・キリスト信仰が、そのような公式の認可を失うこと、言い換えると、「非合法」とされる危険を意味しました。だから、イエスの場合と同じように、会堂から追放された場合には、公式な裁判にかけられることなしに、過激な者たちによって「殺される」危険がありました。
【神に奉仕している】原文では、文頭に「そのうえで、さらに」とあります。また「神に奉仕している」の原文は「神に(供え物として)犠牲を捧げる」です。ユダヤ教のミドラシュには、民数記25章1~13節に出てくるピネハスの故事を引いて、「人が邪悪な者の血を流すなら、それは神に犠牲を捧げることである」とあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕。この発想は、「異端者や異教徒の血を流すことは、神への奉仕である」という思想に道を開くものでしょう。古代の中国や日本でも、これに似た考え方があって、戦を始める前に敵方に属する者たちを殺してその血を注ぐことを「敵を血祭(ちまつり)にあげる」と言いました。ここでの迫害をドミティアヌス帝による迫害(95年頃)、あるいはトラヤヌス帝による迫害(100年頃)と関連づける見方もありますが、ここでは「会堂追放」と関係していますから、やはりユダヤ教からキリスト教への迫害と見るほうが適切でしょう。ヨハネ黙示録(2章9節)に「サタンの会堂」とあるのは、このことと関連しているのでしょうか。
 ここで言われている「神に犠牲を捧げていると思いこむ人たち」を歴史的に特定することはできません。また必ずしもその必要はないでしょう。ここでヨハネ福音書が伝えようとしているのは、そのような史的な出来事の石碑(モニュメント)ではなく、これを霊的な出来事として、そこに終末的な「つまずき」の可能性とこれに克つ力を読み取ることだからです。 
[3]【知らないから】原文では「(これらのことを)行なおうとしている」(直説法未来形)ことと「(父をもわたしをも)知らなかった」(直説法アオリスト形)ことが組み合わされています。ただし、ここでの「知らなかった」は、過去の出来事のことではなく、「理解するにいたらない/分からなくなる」状態に陥ることです。迫害する者たちは、イエスにおいて父である神が働いていることを「洞察すること」ができなかったのです。この状態は、ヨハネ共同体の「現在」でも続いています(15章23節)。迫害者たちは、目に見える出来事を「知らない」のではなく、イエスに神が働いていたこと、パラクレートスとしてのイエスが今も働き続けていること、すなわち「イエスの出来事」が霊的な出来事であることを洞察できないのです。次の4節から判断すれば、ここでは、イエスが弟子たちにあって行なうであろう証しが、これからも「世」の人々に理解されないことを指すのでしょう。なお、この3節全体が抜けている異読があります。
[4]【しかし】3節で「彼ら」が、その無知/無明のために、イエスとその弟子たちを迫害すると告げてから、「それにもかかわらず」あなたがたは、つまずくことがないという約束が来るのです。
【その時が】原文は「それらのことが起こる時」と「彼らの時」と、ふたとおりに読むことができます。後のほうの「迫害者たちの時」という言い方は、イエスに敵対する者たちが力を振るうことを神によって許されている「闇の期間」のことです(ルカ22章53節)。ここはおそらくこの意味でしょう〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕。「彼らの」が省かれていて「その時」と読む異読がありますが、これは分かりやすくするために削除したのです。
【語ったということ】原文は「わたしがあなたがたに話しておいたこれらのことを」という読み方と「これらのこと、すなわち、わたしがあなたがたに話したということを」とふたとおりがあります。どちらでも内容的に変わりません。先のほうはイエスの言葉を、後のほうはイエスが語っていたそのことを、思い起こすことになります。おそらく、分かりにくい後のほうが原文でしょう。ヨハネ福音書は時々このように回りくどい言い方をします。「それを私があなたがたに言ったということを(思い出すように)」〔岩波訳〕。「わたしがこう言ったことを(思い出させるため)」〔塚本訳〕。【思い出させる】ここで14章25~26節に戻ります。14章26節の「思い起こす」は直説法未来形ですが、ここは接続法現在形です。パラクレートスのイエスは、ヨハネ共同体に語るだけでなく、後の世にも「イエスが語っていたこと」を想起させ続けるのです。「弟子たちの実存は<想起>にかかっており、想起させることがまさにパラクレートスの使命に属する」〔ブルトマン『ヨハネ福音書』〕のです。ここは、「前もって予告しておけば、その時にあわてなくても済む」ことではありません。「想起」とは、わたしたちが恐れ惑うまさにその時に、かつてイエスの弟子たちに起こったように、信仰者のつまずきを支える力となって働くことなのです(14章1節)。
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