64章 イエスとの再会
16章16〜24節
■16章
16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
17そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
18また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
19イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
20はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
21女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
22ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
■少しの間
今回は、弟子たちが、「少し経つと」イエス様を見失うこと、そして「また少し経つと」イエス様と再会できること、これに続く喜びと祈りについてです。前半には「少し経つと/少しの間」が繰り返されます。「少し経つ」までの「少しの間」は、イエス様が弟子たちと共にいる間です。でもその「少しの間」は、イエス様が弟子たちから離れて、復活されて再会するまでの「少しの間」へつながるのです。イエス様が復活されたその直後に弟子たちは聖霊を受けますが、これで「少しの間」が終わるのかと思うとそうではありません。聖霊降臨からイエス様が再び来られる再臨までの「少しの間」へと続くのです。
ヨハネ福音書は、ここで、最後の晩餐の部屋にいる弟子たちの視点から見ています。そこからは、弟子たちがイエス様を見ている「少しの間」と、イエス様を見失う「少しの間」と、復活のイエス様に再会して聖霊を受け、イエス様が再び来られる終末までの「少しの間」とが重なって見えるのです。現在のわたしたちも、最後の晩餐と復活・聖霊降臨と再臨、これら三つの出来事の間にある「少しの間」を振り返りながら、わたしたち自身としては、イエス様の御復活と再臨までの「少しの間」"in the mean time"(その中間の時/しばらくの間)を歩んでいることになります。
聖霊(パラクレートス)は、わたしたちにイエス様を啓示してくださいますが、その聖霊は、栄光を受けて高挙されたイエス様から遣わされる御霊です。だから、パラクレートスがわたしたちに啓示するのは、復活して栄光を受けておられる神の御子イエス・キリストです。ところが、この啓示に与る地上のわたしたちは、直ちに栄光のイエス様のお姿に変えられるわけではありません。栄光を受けて復活したイエス様に出会うことによって、わたしたちは、逆に「地上を歩まれた」ナザレのイエス様がどのようなお方で「あった」のかを初めて知るようになるのです。このイエス様こそ、永遠のみ言(ことば)が受肉した神の御子で「あった」ことが、イエス様の御霊によって、わたしたちに啓示されるからです。ヨハネ福音書がわたしたちに証ししているのは、「この」イエス様のお姿です。
パラクレートスが、地上を歩むわたしたちに栄光のイエス様を啓示するその目的は、わたしたちもまた、かつてのナザレのイエス様のように、イエス様の霊性を宿してこの地上を歩むためです。パラクレートスが啓示するのは、神のみ言(ことば)が「受肉した」ナザレのイエス様ですから、それは、地上を歩まれた受肉したみ言(ことば)にほかなりません。だからこそ、地上のわたしたちと「出会い」、わたしたちにご自分を啓示し、わたしたちと「共に歩む」ことができるのです。これが、ヨハネ福音書だけでなく、四福音書がわたしたちに伝えている「ナザレのイエス様」であり、その霊性です。
啓示してくださる方は、わたしたちにご自分を顕してくださいますが、その出会いは、わたしたちのほうから、自分勝手な思いこみや自己努力で自由にできる出来事ではありません。かつて弟子たちが体験した「少しの間」は、イエス様が立ち去ってから、復活して再び啓示されるまでの「少しの間」でした。しかしながら、それは、弟子たちの手からは、完全に離れたところにある「少しの間」だったのです。わたしたちもまた、神をも神のみ座の右におられるイエス・キリストをも見ることができません。だから、聖霊の時代にあるとは言え、わたしたちもまた、弟子たちのように、「少しの間」イエス様を見失うことがあるのです。しかし、その「少しの間」は、復活した栄光のイエス様と再会するまでの「少しの間」なのです。だから「少し経つと」、きっとまたイエス様に会えます。
啓示は、わたしたちの手を離れたところから来ます。けれども、イエス様は、ご自分が復活されたことを、聖霊を通して弟子たちに顕してくださいました。パラクレートスもまた、わたしたちに、復活したイエス様を啓示し、そうすることで、わたしたちを導いて、地上にあって「見えない方を見ながら」(ヘブライ11章27節)歩むわたしたちを支えてくださいます。キリストにある者は、このようにして、イエス様の復活から再臨までの「中間の時/少しの間」を歩み続けるのです。だから、ヨハネ福音書は、ここで、かつての弟子たちの「少しの間」をば、わたしたちがイエス様から離されて再会するまでの「少しの間」とも重ねて見ています。それはまた、終末へつながる「少しの間」ともつながります。パラクレートスは、イエス様の御霊の御臨在を通して、「見えなかった」イエス様をわたしたちに啓示し、「見失った」イエス様にわたしたちを再会させ、悲しみを喜びに変え、苦痛を忘れさせるのです。このようにして、ヨハネ福音書は、わたしたちの現在を「イエス様の御臨在にあって終末化する」のです。
■祈りと喜び
わたしたちは、この「少しの間」をどのように生き、どのように歩むのでしょうか? イエス様の父に「願い求める」ことによって歩むのです。それは、イエス様の御霊の御臨在から来る祈りと喜びです。祈ることが「できる」こと、これもまたパラクレートスのお働きです。パラクレートスを通して祈ることをイエス様は「わたしの名によって」父に願い求めなさいと言われます。なぜなら、パラクレートスは、父がイエス様の名によってわたしたちに遣わしてくださるからです(15章26節)。
祈りは与えられるものであり、この意味で、祈ることが「できる」ことが喜びなのです。その喜びはさらに、祈ったことが父から「与えられる」こと、すなわち祈りが「かなえられる/成就する」喜びにもなります。これによって、父なる神が、今のこの時に、現実に働いておられることが証しされるからです。祈りは神の創造のお働きですから、祈りが与えられること、祈ったことが与えられること、この二つは一つです。このような祈りを通して神様が働いてくださるのを「知る」こと、これが喜びなのです。
ヨハネ福音書は、弟子たちが、受肉のイエス様に出会い、イエス様と共に歩み、栄光のイエス様を啓示された記録です。これを通して、わたしたちもまた、かつての弟子たちと同じように、受肉されて地上を歩まれ、栄光を受けられたイエス様と出会い、共に歩むことを体験するのです。ヨハネ福音書も共観福音書も、このような弟子たちの体験をわたしたちに伝え、これによって、歴史を歩む神の御霊の働きをわたしたちに証しし続けているのです。
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