【注釈】
■16章16~33節の構成
16章16~33節は、内容的に一つのまとまりをなしています。これに先立つ14章25節から16章15節までは、イエスの長い独白(モノローグ)が続いています。その独白は、2度目のパラクレートス説話で始まり、3度目のパラクレートス説話で終わります。そして、今回のところから、再びイエスと弟子たちとの対話(ダイアローグ)が始まります。だから、今回の箇所は、1度目のパラクレートス説話(14章1~24節)での、イエスと弟子たちとの対話と対応します。
16章16~33節は、これを二つに分けて見ることができます。前半(16~24節)は、弟子たちがイエスと再会することについてです。後半(25~33節)は、「わたしはこれらのことを話した」で始まり、「わたしはこれらのことを話した」で終わり、ここでは、イエスがもはや「たとえ」によらないで語り、イエスがすでに世に勝っていると告げられます。今回は、このまとまりの前半部分についてです。
■16章16~24節
「少し経つと、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、
また少し経つと、わたしを見るようになる。」
そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「わたしたちに言っておられるのは、何のことか?『少し経つと、あなたがたはわたしを見なくなる、また少し経つと、わたしを見る』とか、それに『父のもとに行く』とかは。」
そこで彼らは言った。「その『少し経つと』と言われるのは、何のことか? 何を言おうとしておられるのか分からない。」
イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「わたしが言った『少し経つと、あなたがたはわたしを見なくなる。また少し経つと、わたしを見るようになる』ことで尋ね合うのか。
アーメン、アーメン、あなたがたに言う。
『あなたがたは泣いて悲嘆に沈むだろう。
だが、世は喜ぶだろう。
あなたがたは苦しむだろう。
だが、その苦しみは喜びに変わる。』
女が子供を産むときには、苦しむものだ。
自分の時が来たからである。
しかし、子供が生まれると、もはやその苦痛を思い出さない。
一人の人間が世に生まれた喜びがあるから。
このように、今はあなたがたも、悲しんでいる。
しかし、わたしは再びあなたがたと会い、
あなたがたは心から喜ぶだろう。
その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。
アーメン、アーメン、あなたがたに言う。
わたしの名によって何かを父に願うなら、
父はあなたがたにそれをお与えになる。
今まで、あなたがたはわたしの名によって何も願わなかった。
願いなさい。そうすれば与えられる。
あなたがたの喜びが満たされるためである。」
[16]【しばらくすると】16節は、内容的に見ると、同6節の「わたしがこれらのことを話したので、あなたがたは悲しみに満たされている」からつながっています。この6節と16節との間にパラクレートスについての説話(7~15節)が挟まることになります。原語は「ミクロン」で、「少し経つと/今しばらくの間」と訳されています。これまで、この言葉は、地上にいるイエスが「少し経つと」地上を離れ去ることを意味していました(7章33節/12章35節/13章33節)。特に14章19節の「少し経つと」は、ここ16章16節と内容的に並行していて、どちらも「イエスを見る」ことと関連します。ここ16節の「少し経つと」は、次の「そして、また少し経つと」と並んで、「わたしを見なくなる」と「わたしを見る」とがそれぞれに組み合わされています。なお、「わたしを見る」の後に「わたしが父のもとへ行くからである」を加えている異読があります。続く弟子たちの戸惑いの言葉にこれが含まれているので、それと一致させるための後からの追加でしょう。「父のもとへ行く」ことは、すでに10節で語られていますから、追加の必要はないと思われます。
【見る】「わたしを見なくなる」の「観る」はギリシア語「テオーロー」〔現在形〕で、「わたしを見る」の「見る」の原語は「ホロー」〔未来形〕です。「観る/見る/眺める/見つめる」にあたるギリシア語は、ほかにも「ブレポー」「テアオマイ」などがありますが、ここでは、16節の二つの言葉をヨハネ福音書の用法に限って見ておくことにします。
(1)「テオーロー」は、ほんらい「瞑想する/観想する」という哲学的な内容を持つギリシア語です。しかし、ヨハネ福音書の場合はそうではなく、ここ16節のように肉眼で「見続ける」という時間的な要因が含まれます。これはまた、イエスの「しるし」を「見る」時にも用いられていて(2章23節/4章19節/6章2節)、ある程度は認知するけれども、信仰への深い認識にはいたらないことを指します(ただし、14章17節の「世は真理の御霊を<見よう>としない」は例外でしょう)。ただし、20章14節では、マグダラのマリアが、復活したイエスを<それとは気づかずに>「テオーロー」しています。
(2)「ホロー」は、霊的な視点あるいは直観によって、信仰を抱いて識別することです(1章34節/1章50~51節/3章11節/同32節/11章40節/14章9節/19章35節/20章8節)。この言葉はまた、復活のイエスを「みる」場合にも用いられます(20章25節)。もっとも、「ホロー」は、しるしを見る場合にも用いられたり(4章45節)、信仰を伴わないで「見る」場合にも用いられますから(6章36節)、その用法が厳密に限定されているわけではありません。
イエスは、ここ16節では、弟子たちに「しばらくすれば」イエスの姿をもはや肉眼で「見る」(テオーロー)ことができなくなるが、「またしばらくすれば」、イエスの復活した姿を「見る」(ホロー)と語っています。「少し経つと」受難を境に弟子たちから離れ去り、また「少し経つと」復活によって再会するのです。弟子たちから見れば、地上からイエスが立ち去る<までの>「少しの間」は、イエスと共にすごす「少しの時間」のことだと察しがつくでしょう。しかしながら、イエスが離れ去った後から再会するまでの「少しの間」は、内容的にも時間的にも、その意味が弟子たちには全く理解できないのです。
[17] だから弟子たちは、戸惑いながら、イエスの言う「少し経つと」を繰り返しています。繰り返しは、彼らの戸惑いの深さだけでなく、これを引き起こしたイエスの言葉の重要性を伝えるためでしょう。「わたしを見る」とは、言うまでもなく、弟子たちが、地上で共に過ごしたナザレのイエスと、イエスの復活後に再会することです。ところが、再会するこのイエスは、すでに「栄光を受けている」イエス・キリストです。だから、弟子たちの知っていたナザレのイエスと、「栄光を受けたキリスト」として啓示されるイエスと、この二つの出会いの間には、時間的な差だけではなく、霊的にも大きな落差が存在することが分かります。弟子たちの戸惑いは、この「再会」が意味する霊的な事態の落差にもかかわってくるのです。地上で弟子たちが体験することのできたイエスと、復活して啓示される栄光のイエス・キリストは、同じであって同じではありません。同じなのは、それがまぎれもなく弟子たちの「知っている」イエスだからです。しかし、同じでないのは、栄光のイエスが、その在世中には、弟子たちが見分けることが「できなかった」霊性を宿すイエスで<あった>こと、「このこと」が啓示されるからです。知っているイエスと知らなかったイエス、この両方のイエスとの出会いを弟子たちは「今少し経てば」体験することになるのです。
[18]私訳に<そこで彼らは言った「その『少し経つと』と言われるのは、何のことか?何を言おうとしておられるのか分からない」>とありますが、前半の「その『少し経つと』と言われるのは、何のことか?」が省略されている異読があります。どちらにせよ、弟子たちの戸惑いが「少し経つと」にあることに変わりありません。
アウグスティヌスは、「少し経つとわたしを見る」を「主は復活し、弟子たちは彼を見たからである」と解釈しています。ところが彼は、23節の「その日にはあなたがたはわたしになにも尋ねない」は、イエスの復活の時ではなく、終末でのイエスの再臨の時をも含めて指すと解釈するのです〔アウグスティヌス『ヨハネ福音書』(第101説教)〕。アウグスティヌスは、「少し経つとわたしを見る」を23節と関連づけて、復活の時と終末の時とを重ね合わせて、両方を弟子たちが尋ねたがっていると解釈していますが、この解釈は現在でも受け継がれているようです。
18節の後の21節には、妊婦の産みの苦しみの比喩がでています。このような産みの苦しみの比喩は、旧約聖書で、特にイザヤ書では、最後の審判が下る「終わりの日」を指しています。また22~23節では、「だれにも奪われることのない喜び」が語られていて、弟子たちは、「もはやイエスに尋ねる必要がない」とありますが、この言葉も復活顕現の時だけに限定することができません。だから、ここでの「少しの間」は、イエスの復活による再会だけでなく、イエスの再臨をも含むと見るべきです〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕。したがって、「あなたがたはわたしを見る」もまた、終末でのイエスの再臨をも指しています(マルコ13章26節と同14章62節の「見る」を参照)。
ヨハネ福音書では、復活は、同時に聖霊の授与と結びついていますから(20章22節)、ここでの「少し経つと」は、弟子たちとの別れから、復活と聖霊降臨までと、終わりの日の再臨までと、これらが重なって語られていることになります。もっとも、イエスの復活の際の出会いと再臨の時の出会いが、はっきり区別されるようになったのは、イエスの復活信仰が確立した後の教会においてです。ルカの使徒言行録では、復活と再臨の二つの出会いが、はっきり区別されていますが(使徒言行録1章6~11節)、ヨハネ福音書では、むしろそれ以前の段階にあって、復活と再臨の顕現が、まだ未分化の状態にあった頃の「再会」が語られているのです。そもそもイエス自身が、自分に働く霊性において、復活と再臨を明確に区別してはいなかったと思われますから、ヨハネ福音書には、ナザレのイエス以来のこの霊性が、そのまま受け継がれているのでしょう。ただし、ヨハネ共同体が、「終わりの時」と自分たちの現在における御霊の臨在との区別を知らなかったと考えるのは誤りです(11章24節)。
[19]【またしばらくすると】イエスは、弟子たちが、「わたしはいなくなるまで」と「わたしとの再会まで」と、この二つの「少し経つと」の狭間で戸惑っているのを察知します。イエスとの「再会」は、復活と聖霊降臨の時を指します。ところがここで、弟子たちが「尋ねたがっていた」〔不定過去〕ことをイエスは「察知した」〔アオリスト〕とあって、視点が過去へ戻ります。こうすることで、弟子たちとイエスが共にすごした最後の晩餐の時へ、もう一度わたしたちの視点を引き戻すのです。なぜなら、ヨハネ福音書は「そこから」今回の箇所を書き始めているからです。先に指摘したように、復活と再臨が区別されるようになったのは、復活以後の教会においてです。だから、最後の晩餐の時から見れば、最初の「少し経つと」はイエスの受難までです。ところが、次の「また少し経つと」は、最後の晩餐の時から見ると、イエスの復活だけでなく、同時に起こる聖霊降臨と重なり、さらに、イエスの再臨の時までもが視野に入ってくるのです。このような多重な視点は、すでに14章23節でのイエスの答え、「もし人がわたしを愛するなら、その人はわたしの言葉を守る。わたしの父もその人を愛し、わたしたちはその人のところへ<来て>、彼と共に住まうだろう」〔原文直訳〕にも表わされています。ここを踏まえて、今回の2番目の「少し経つと」についても次のように言われています。「したがってここで〔16章16節〕、『少し経って』からイエスを見ることについて第二の解釈が生じることになる。歴史の出来事としての復活に加えて、歴史を超えた再臨がある。14章23節にあるイエスと父が『来る』は、単なる復活の『来る』ではなく、また再臨の『来る』でもない。・・・・・これはキリスト教特有の終末観であって、来るべき時代が、部分的に来てはいるが、まだ完全に成就してはいない、という状態を確認するものである」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
[20]【泣いて】これは葬儀の時に死を悼んで泣くことです(11章31節/20章11節)。続く「悲嘆にくれる」も、ここでは人の死を悼んで悲しむことです。
【悲しむ】これは「悲しませる」「苦しめる」の未来受動形で、「辛い思いをさせられる」ことです。この言葉は身体的な「痛み」をも表わしますが、新約では精神的、霊的な苦悩の意味が強いようです。なおこの言葉は、女性の出産の時の苦しみ/痛みをも表わしますから、次の出産の「苦しみ」の比喩へ移るのです。
【世は喜ぶ】ここで言う「世」は、「この世の支配者」と一つになった「世」のことです。弟子たちがイエスを見失って泣き悲しんでいる間、一方では、イエスの存在とそこから来る罪の告発を免れて、悪霊の頭もその支配下でうごめくもろもろの悪しき者どもも「安心して」己の立場を保つことができるからです。
[21]【子供を産む】出産の苦しみは、終末の時に神から裁きを受ける苦しみをも象徴します(イザヤ21章3節/同26章16~21節)。しかし弟子たちにとっては、むしろ新たな救いの到来を産み出す創造の苦しみとなります。イザヤ書66章7~14節は、とらわれていたイスラエルの民が、新しく創造されるために「産みの苦しみ」を体験すると預言し、これが成就した「喜び」を語っています。なお「子供を産む<日>」と読む異読がありますが、これは、おそらく終末を表わす「主の日」にちなんだ読み替えでしょう。イエスは「産みの苦しみ」を弟子たちにかかわることとして語っていますが、出産の陣痛が来る「彼女のその時」は、同時にイエス自身がこれまで繰り返し指摘してきた「わたしの時」とも重なります。「苦しみ」は、弟子たちだけではありません。イエスが苦しみを受ける「その時」がついにやって来たのです。
【苦痛】ここでは「産みの苦しみ」を表わしますが、この言葉は、迫害の時の艱難や苦しみをも指します(フィリピ1章17節/コロサイ1章24節)。しかし、ここでは、このような「苦痛」が成就した後には「もはや思い出さない」と言われています。産みの苦しみとこれに続く喜びの到来は、ユダヤ教では、特に終末の成就にいたるまでのしばしの「メシアによる生みの苦しみ」として預言されていました。このように、20~21節にかけて、死別の悲しみ、産みの苦痛、迫害の苦しみが重ねられて、イエスとその弟子たちが巻き込まれる受難の苦しみが言い表わされています。しかし、その受難は、同時に「栄光を受ける」苦しみです。その中から、イエスの復活という喜びが誕生するからです。だから「悲しみが喜びに変わる」のです。その時、かつての「苦難」は、陣痛の苦痛のように、「もう思い出さない」のです。
[22]【再びあなたがたと会い】ここでイエスと弟子たちとの再会の喜びが約束されます。この原文を直訳すれば「<わたしは>あなたがたを見るだろう、そしてあなたがたは、その心から喜ぶだろう」です。これは、七十人訳のイザヤ書66章14節「<あなたがたは>見るだろう。そしてあなたがたは、その心から喜ぶだろう」を反映しています。イザヤ書66章は、第三イザヤによるもので、イザヤ書の最終章であり、バビロンの捕囚から解放されて回復されたエルサレムへの喜びが背景になっています。イザヤ書66章14節に先だって、新天新地の創造(イザヤ65章17節/ヨハネ黙示録21章1節参照)、主の栄光と神殿無用(イザヤ66章1節/ヨハネ黙示録21章22節参照)、新しい国と民とを出産する女性(イザヤ66章7~8節/ヨハネ黙示録12章1~5節参照)などが表われます。ここでのイエスの言葉は、このようなイザヤ預言を背景にしています。ただし、ヨハネ福音書は、イザヤ書の「あなたがたは」を「わたしはあなたがたを」に変えることで、イエスが弟子たちに与える預言にしています。
なお、原文では、「悲しんでいる」と「奪い去る者はいない」が現在形で(これを未来形に読む異読がありますが後の変更です)、「あなたがたと会う」と「喜ぶことになる」が未来形です。イザヤ預言とヨハネ黙示録からも分かるように、今回語られる約束は、終末の時のイエスと弟子たちとの再会です。しかも、弟子たちの<今の>悲しみと、だれにも奪われない<終末での>イエスの再臨とが、<現在形で>重ねられているのです。さらに、これに、再会とその喜びが、未来形で一つにされます。こうして、イエスを見失った弟子たちの現在の中へ終末的な再会の喜びが入り込む構成になっているのです。
ヨハネ福音書は、このように、イエスの現臨と終末での再臨を重ね、これを「再会の喜び」の約束として語るのです。ヨハネ福音書は「現在化された終末」において語ると言われるのはこの意味でしょう。こうして、弟子たちの一時的な苦しみは、イエスの復活によって生じる「現臨する終末」によって解消されます。これこそ、パラクレートスである聖霊の光です〔ヴォーター『ヨハネ福音書』〕。別れは涙と悲嘆を伴います。しかしその涙と悲嘆は、イエスの復活によって「喜びに変貌する」のです。弔いの悲しみと出産の苦しみが、喜びへの序曲であったことが啓示されるのです。
[23]【何も尋ねない】原語は「エロートー」(尋ねる/求める)です。この節の始めの部分は、その前を受けるのか、後を指すのかが問題になります。前にかけるとすれば、17~19節で弟子たちが互いに論じ合っていることを受けていますから、この動詞は「尋ねる/問う」の意味になります。後にかかるとすれば、「父に願う」と関連しますから、ここの動詞も「願い求める」ことを意味します。ただし、この節の後半の「(父に)願う」の原語は「アイトー」で別の動詞です。「エロートー」は、通常「尋ねる」の意味ですが、ヨハネ福音書ではこの動詞が「願い求める」の意味でも用いられます(4章31節/14章16節など)。ここでは、前半と後半とが「アーメン、アーメン」で区切られていますから、「エロートー」は、後の「アイトー」と区別して「尋ねる」の意味に理解するほうが適切でしょう。イエスとの再会は、復活と聖霊降臨、そして終末の二重の時間関係を帯びていますが、続く内容から判断して、ここはパラクレートスのイエスとの再会をも指します。御霊は弟子たちを「あらゆる真理へ」導きますから(14章26節/16章13節)、彼らはもはや「だれにも尋ねる必要がない」のです(第一ヨハネ2章27節)。
[24]【満たされる】原語は「満たす/実現する/成就する」の受動態完了形です。単純に「祈りがかなえられて、喜びに満たされる」と理解してもいいでしょう。祈ることが喜びであり、その喜びが成就するのです。「イエスの名による」祈りは、イエスの御霊の臨在にあっては「イエス自身の祈り」です。だから、祈りもまたイエスによって「与えられる」ものです。与えられた祈りは、イエスの父から必ず「受け取る」(原語の意味)ことができるのです。だから「求めなさい」〔現在形〕は、励ましと恵みの命令であり、それが「受けるであろう」〔未来形〕と未来につながり、その祈りの喜びが「成就する」〔完了形〕終末へいたるのです。祈りがかなえられる喜びは、祈りそれ自体の喜びと同質なのです。
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