【注釈】(1)
■ヨハネ福音書と共観福音書
マルコ福音書で、ピラトは、イエスが訴えられたのはユダヤ人同士の「ねたみのため」ではないかと疑います。しかし、イエスを処刑することにためらいを感じている様子はありません。マタイ福音書は、マルコ福音書とほぼ同じ筋書きに沿っていますが、ピラトは、イエスの処刑にかなりのためらいを覚えています(マタイ27章17~19節/同24節)。ルカ福音書は、ピラトがイエスの釈放に努めたことを強く印象づけています(ルカ23章4~5節/同13~16節/同22節)。ルカ福音書が他の福音書と異なる点は、イエスがピラトからヘロデのもとへ回されたことです(同23章6~12節)。イエスは夜中に逮捕されて大祭司の家に連行されますが、そこでの尋問は何も書かれていません。夜が明けて初めて、イエスの尋問のためにサンヒドリンが開かれたこともルカ福音書だけです。
ヨハネ福音書も共観福音書とはかなり違っています。ヨハネ福音書の場合に問題となるのは、(1)ローマの兵隊が逮捕に加わっていたこと、(2)最高法院での尋問が抜けていること、(3)「アンナス」の登場です。
(1)の場合:大祭司の神殿警護の役人たちにローマ兵も参与することもありましたが、イエスの逮捕については、ローマへの関与がなかったと見るほうが適切です〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
(2)では、マルコ14章53~65節に、最高法院での尋問が詳しく語られています。これに相当する場面はヨハネ福音書にありません。しかし、マルコが描く尋問の内容を見ますと、「神殿を倒して、三日で建てる」とあるのは、ヨハネ福音書では2章19節にでてきて、そこでは、イエスが語った言葉の意味が解釈されています。イエスについての人々の証言が食い違っていたことは、7章40~43節その他の箇所で語られていて、そこでも、人々が<どのようなことで>食い違っていたかが説明されています。大祭司がイエスに「お前はメシアなのか?」と訊くところは、10章24節でユダヤ人がイエスに訊いています。イエスが「人の子は全能の神の右に座して、天の雲に乗って降る」と語るのも(マルコ14章62節)、「神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのをあなたがたは見る」(1章51節)とあるのに対応します。大祭司と一同がイエスの処刑を決議する場面は、11章49~53節にでてきて、ここでも大祭司が<なぜ>そのような決心をしたのか、大祭司の決断の理由がはっきりと語られています。ヨハネ福音書の最大の特徴は、ピラトの裁判に際して、ピラトとユダヤ側とのやりとりと、ピラトとイエスとの対話が詳しく描かれていることです(18章29~38節/19章9~12節)。ヨハネ福音書は、ここでも、起こった出来事を語るだけでなく、その出来事の意義を解釈しているのです。
このように、マルコ福音書では<ひとまとめ>にして語られている場面が、ヨハネ福音書では、イエスの受難にいたる<その経過>を語る中で分散してでてきます。マルコ福音書は、イエスがユダヤ人によって十字架刑に追い込まれる理由をサンヒドリンの場面で<まとめて>いるのでしょうか? それとも、ヨハネ福音書のほうが、分散して伝えられていた尋問の内容を物語の中に組み込んでいるのでしょうか? マルコ福音書とヨハネ福音書と、どちらが真実により近いのか? これを判別するのは難しいようです。(3)については、注釈の「アンナス」の項を参照してください。■テキストの問題点
アンナスの尋問に始まりペトロの否認に終わるまでのテキストの問題点を見ることにします。18章12~27節の構成については異読があります。『新約テキスト批評』によれば、24節の「アンナスは、イエスを縛ったままカイアファのもとへ送った」を同13節の前半に挿入して、「まずアンナスのところへ連れて行った。<アンナスは、イエスを縛ったままカイアファのもとへ送った。>アンナスは、その年の大祭司カイアファのしゅうとであったからである」と読む異読と、13節全体の直後に24節を続ける異読とがあります(どちらも12世紀のもの)。この読みだと、続く尋問はアンナスではなくカイアファによって行なわれたことになります。さらに、18章13節+24節+14~15節+19~23節とする異読もあります(3世紀~6世紀のシリア語の写本)。これだと、アンナスに続くカイアファの尋問の後でも、大祭司の庭でペトロの否認が起きたことになりますから、アンナスの尋問を除けば、共観福音書の記述と一致します。しかしこれら、ヨハネ福音書の原本への後からの訂正だと考えられます。
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