70章 大祭司の尋問とペトロの否認
18章12〜27節
■18章
12そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
13まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
14一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
15シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
16ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
17門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
19大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
20イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
21なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
22イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
23イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
24アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。25シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
26大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」27ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
■ペトロとイエス様
ヨハネ福音書は、共観福音書と異なって、大祭司(アンナス)によるイエス様への尋問の前後に、ペトロの否認を二つに分けて配置しています。ペトロの最初の否認の言葉「わたしはそれでない」は、これに先立つイエス様の逮捕の際の御言葉「わたしはそれである」と対照されます。アンナスの尋問に対しても、イエス様は「わたしは敵対の前でも堂々と語ってきた」とお答えになります。ところがペトロは、アンナスの家の者から「お前もあの男の弟子か?」と言われて、「わたしは、イエスの弟子でない」と否認するのです。ヨハネ福音書には、鶏が鳴いた後で、ペトロが泣いたことも悔い改めもでてきません。その代わり(?)21章で、復活したイエス様が、ペトロに向かって「あなたはわたしを愛するか?」と3度お尋ねになり、ペトロの殉教が予告されます。
このように、ヨハネ福音書では、弟子たちを逃がすために自分から前に進み出るイエス様と、このイエス様を見棄てて否認するペトロの姿を、また大祭司の前ではっきりと告白するイエス様と、同じ庭でイエス様を3度も否認するペトロの姿を対照させるのです。ここには、霊的に「強い」イエス様と「弱い」ペトロが描かれています。
■ペトロの否認の解釈
ペトロの否認には、解釈の長い歴史があります。ペトロが否認したのは、まだ聖霊を受けていなかったからだという解釈があります(ルツ『マタイ福音書』(4))。イエス様の復活以後に聖霊さえ受けていれば、否認はなかった、ということでしょうか。ローマ帝国による迫害の終わり近くのディオクレアヌス帝(在位284〜305年)の頃から、迫害で「転んだ/否認した」キリスト教徒たちを教会が再び受け容れるべきかどうかが問題になりました。キリスト教が公認された4世紀の半ば頃には、北アフリカで、ドナトゥス派と呼ばれる教派が、殉教者たちを尊ぶあまり、かつて転んだ後で再び教会に復帰した司教を認めず、カトリック教会と対立することになり、この際にも、ペトロの否認が大きな問題になりました。教会の首長であるペトロでさえ、否認と改悛を体験したのだから、教会は、躓いて転んだ人たちを赦して受け容れるべきだというのです。
宗教改革の時代になると、ペトロのように自分の「罪深さ」を自覚することで罪赦される「恩寵の深さ」を悟ることが大事になります。「人間の罪深さ」と「神の恩寵の大きさ」が対照されたからです。
■カイアファの庭
ペトロの否認が起こった「場」を考えてみますと、先ず大祭司たちによる宗教的・政治的な圧力があります。しかし、彼らの背後には、もっと大きなローマ帝国の権力が控えていて、アンナスとカイアファたちは、その影に怯えているのが分かります。ヨハネ福音書では、カイアファもイエスの逮捕に深く関与していますから(11章49節以下)、四福音書を併せて見れば、ペトロの否認は、「カイアファの庭」で起こったと比喩的に言うことができます〔ルツ前掲書〕。
否認は、春まだ浅い寒い夜に、「カイアファの庭」で起こりました。イエス様が大祭司の前で堂々と告白している姿は、ペテロには見えません。反対に彼には、弟子たちが、イエス様を見棄てて逃げ去ったことだけが見えています。周囲は敵だけで味方は誰もいません。その中で自分の命が危うくなる。否認は、このような「カイアファの庭」で起こるのです。否認の原因が政治的なものか、宗教的なものかを問うのはほとんど意味がないでしょう。ユダヤの国内情勢も地中海世界を支配する国際的な帝国の力も、これらすべてが、その時その場の「カイアファの庭」を作りだしているからです。
■キリシタン弾圧
わたしたちは、こういう「カイアファの庭」が、かつての日本にも存在していたことを知っています。宣教師たちがもたらした「南蛮文化」とキリスト教は、キリシタン大名たちの支援と信長の支持を得て、秀吉の「バテレン追放令」(1587年)まで、ほぼ40年にわたって日本社会に大きな影響を与えました。南蛮文化とキリスト教の影響は、それ以後も、家康による最初のキリシタン禁教令(1612年)まで続きましたから、かれこれ65年間ほどの期間になります。
しかし、この南蛮文化渡来の間にも、世界の情勢は変わりつつありました。ポルトガルとスペインは、フィリピンの西方を境に、世界を東西に分割して支配する計画を立てていました。ローマでは、世界政策において、キリスト教による宣教と、軍隊による征服と、そのどちらを優先すべきかが論じられていました。ポルトガルは宣教を優先し、スペインは軍事的な征服を優先させていたようです。スペインの商船が平戸に入港したのは1584年のことです。
時あたかもヨーロッパでは、プロテスタントとカトリックとの間で、血で血を洗う争いが行なわれていました。この間に、スペインとポルトガルのカトリック勢力は、オランダとイギリスによるプロテスタント勢力によって徐々に後退し始め、その推移は、スペインのフィリピン征服(1565年)、イギリスの東インド会社設立(1600年)、オランダの東インド会社設立(1602年)となって現われます。
日本では、関ヶ原の戦い(1600年)を境に、秀吉から家康へ権力が移る時期でした。秀吉=家康の権力は、外国の侵略を察知していたこともあって、諸大名を支配下に置く全国統一が、政権の重要な課題となっていました。信長による一向一揆絶滅や比叡山延暦寺の焼き討ちが起こったのは、諸大名と宗教/宗団とが結びつくことが天下統一への妨げになると考えられたからです。同様の危惧が、秀吉と家康にも受け継がれて、その結果、キリシタン大名たちが国外追放になり(1614年)、京都と長崎と江戸ではキリシタンの処刑が行なわれました(1619〜23年)。以後の長期にわたる苛酷なキリシタン弾圧の始まりです。
渡来した宣教師たちは、キリスト教を伝えることが目的であって、必ずしも領土的な野心を持つ人たちではなかったでしょう。しかし、日本の為政者たちはそうは考えませんでした。これには、カトリックとプロテスタント双方の宣教師が、互いに相手に領土的な野心があると為政者に讒言(ざんげん)したこともあったようです。だから、徳川政権のキリシタン弾圧には、「キリシタン」に名を借りて徳川政権への反対勢力全体を弾圧する意図があったのです。キリシタンを「国賊」呼ばわりすることで、政権に反対する勢力を一括して「キリシタン」と称したのです。このことは、島原の乱(1637年)で原城に立て籠もった勢力が、キリシタンだけでなく、かつての豊臣方の武士たちや反徳川の武将たちも多く加わっていたことから分かります。徳川政権は、幕府に反対する者を国賊「キリシタン」として弾圧することができたのです〔飯嶋和一著『出星前夜』小学館(2008年)〕。この結果、イギリスの日本撤退(1624年)、ポルトガル船の日本来港禁止(1639年)となり、オランダだけが長崎の出島での居留が許されることになりました。
このキリシタン禁令は、明治政府によって禁令が廃止されるまで260年間続きました。これが、「潜伏キリシタン」の時代です。この禁令の廃止は、浦上の隠れキリシタンたちが名乗り出て弾圧を受けた、いわゆる「浦上四番崩れ」の出来事(1867年)が西洋の各国に伝わり、これが直接のきっかけとなってようやく実現しました(1873年)。キリスト教は260年後に、ようやく日本でも公認され、信仰の自由を勝ち取ったのです〔永井隆著『乙女峠』サン・パウロ修道会(1952年)〕。
■ペトロ岐部(きべ)
徳川幕府の政策によるキリシタン弾圧は、日本の各地に「カイアファの庭」を出現させました。残酷な拷問に最期まで耐えて殉教する人たちが大勢出ましたが、これに耐えきれずに「転ぶ」人たちもそれ以上に出ました。ここにきて信仰の「強い」人と「弱い」人とがはっきりと分かれることになったのです。
数ある殉教者の中で、幕府の注目を集めたペトロ岐部と呼ばれる一人の日本人司祭がいます。彼は、1587年に豊後(現在の大分県)の浦辺に生まれ、両親共に熱心なキリシタンでした。彼が生まれたのは、キリシタン領主大友宗麟が亡くなり、秀吉がバテレン追放令を出した頃です。彼は、15歳の時に、当時長崎の岬近くにあったセミナリオに入り、そこで少年使節団に随行してローマまで行ってきた伊東マンショと出会い、キリスト教のローマに憧れを抱いたようです。江戸幕府がキリシタンの弾圧を始めた1614年に、彼は、宣教師たちと共にマカオに向かい、マカオから船でインドのゴアに着き(1618年)、そこからホルムズ海峡近くのペルシア(現在のイラン)に上陸して、驚くべきことに徒歩でエルサレムまで旅をし、そこから船でヴェネチアへ渡り、ローマに着くことができたのです(1620年)。
彼は、イエズス会への入会を許されて司祭に叙任されました。2年間の修練期間を終えると、迫害の嵐が吹く日本へ帰還する決意をします。大西洋からアフリカ南端の喜望峰を回り、再びマカオに到着し、2年間ここに滞在し、その間にシャムを訪れています。ついに1630年、殉教を覚悟で九州に戻り、長崎でフェレイラ神父たちと出会います。しかし、キリスト教弾圧の最も厳しい時でしたから、少年使節であった中浦ジュアンとフェレイラ神父たちも長崎奉行に逮捕されていました。
ペトロは、九州で布教することができず東北へ向かいました。そこは、かつてキリシタンを保護した伊達政宗の領地で、イエズス会のポルロ神父やフランシスコ会の神父も潜伏して布教を続けていたからです。しかし、1637年の島原の乱以後、取り締まりは一層厳しくなり、ペトロ岐部も捕らえられて、ポルロ神父、マルチノ式見神父と共に江戸に送られました(1639年)。彼はそこで、将軍家光、柳生但馬守、沢庵和尚の3人から尋問を受けています。その頃、フェレイラ神父はすでに棄教させられていましたので、ペトロ岐部は、かつてのその神父とも対面させられます。ペトロ岐部、ポルロ神父、マルチノ式見神父の3人は穴吊りの残酷な刑に処せられ、二人は棄教しますが、ペトロだけは最期まで耐えて、1639年7月4日に殉教を遂げました〔『ペトロ岐部:ローマまで歩いた男』NPO法人大分豊後ルネサンス(2009年)〕。
■遠藤周作の『沈黙』
ペトロ岐部の清冽な信仰の歩みと対照的なのは、遠藤周作の小説『沈黙』にでてくるロドリゴ神父とフェレイラ神父たちです。この小説は、キリシタン弾圧の時代に、長崎の「カイアファの庭」で起こった出来事を題材にしています。先に名前がでて来たフェレイラ・クリストヴァン教父は、来日して33年間も管区長として布教に努めた後に、井上筑後守の手によって穴吊りの刑に遭い、棄教して沢野忠庵と名を変えました。井上奉行は、ペトロ岐部をも拷問にかけた人物です。
小説は、ポルトガルでフェレイラ教父の教えを受けた3人の司祭たちが日本へ渡るところから始まります。3人の一人はセバチァン・ロドリゴ神父で、1610年生まれで、言わば『沈黙』の主人公です。「棄教した」と伝えられるフェレイラ師の消息を確かめるために、彼はポルトガルからマカオに至り(1638年)、そこから船で密かに九州に渡りました。島原の乱直後のことで、すでにポルトガル商船は渡航が禁止されていました。彼は、マカオから日本へ、キチジローと呼ばれる転びキリシタンを同伴しますが、来日して密かに布教を続けるうちに、キチジローに裏切られて役人の手に陥り、長崎の奉行所で取り調べを受けます。
「されば一隊の兵卒は松明と武器とを持ちて此処に来たれり。」ロドリゴの逮捕はこのように始まります。捕らえられたロドリゴは、井上奉行の計らいで、すでに棄教して沢野忠庵と名を変えているフェレイラ神父と面会させられ、長崎市内を引き回しにされてから、一人、牢に閉じこめられます。「今夜、鶏が鳴く前に、汝三度(みたび)我を否(いな)まん。」通辞はロドリゴにこう予告します。夜中に、彼の耳元に鼾のような声が聞こえてきます。しかしそれは、すでに転んで放免されるはずのキリシタンたちが、穴吊りされて苦しむ声だったのです。フェレイラ神父は、彼らが苦しい目に遭わされるのはロドリゴが棄教しないからで、彼が棄教しさえすれば、即刻彼らは釈放されると教えます。教会を裏切ることはできないと祈るロドリゴですが、キリストも神も「沈黙」したまま何も語りません。
フェレイラは、ロドリゴに、苦しむ日本人たちを助けるためなら「確かに基督は、彼らのために、転んだだろう」と言い、「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為」を彼らのためにするように説きます。ついにロドリゴは決心し、「勇気を出して」踏み絵を踏むことにします。彼が踏み絵に足をかけようとしたその時、「踏むがいいと銅版のあの人(キリスト)は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」とロドリゴに語りかけます。ロドリゴが転ぶと「朝が来た。鶏が遠くで鳴いた」とあります。
遠藤周作が描くロドリゴやフェレイラの「転ぶ」姿は、ペトロ岐部とは対照的です。一方は「弱い」人であり、他方は「強い」人です。しかし作者は、二人の神父たちの転ぶ姿を不名誉で卑しい出来事だとは見ていません。悪魔のような井上奉行の罠と誘惑にはまったと言えばそれまでで、実際、教会も一般のキリスト信者たちも、今なお、二人を裏切り者だと見なしているようです。けれども、作者の描くロドリゴとフェレイラは、自分たちの内面に「踏むがいい」というキリストのみ声を聴いていたのです。それだけでなく、イエス・キリストは、その彼らの「痛みを分かち合う」ためにこの世へ来たのだと二人に告げるのです。
これは、一見すると、ユダの行為さえも正当化する「異端の論理」に思われるかもしれません。彼らは、イエス様を再び十字架につける行為とも思われることを深く悟った上で、あえて「一番辛い愛の行為」を行なう決心をしたのです。「踏むがいい」という語りかけは、そのような彼らの苦悩と祈りに対するイエス・キリストからの赦しの声だったのでしょう。
踏まれるキリストは強い信仰者です。踏む者は弱い信者です。弱い彼らに強いキリストの顔を踏ませるのは、この世の闇の力に支配された権力者です。踏み絵は、このような「カイアファの庭」で起こりました。信仰の弱い者が、その弱さを知って、自分が犯す罪の痛みを覚えつつ踏む相手のキリストに祈る時に、キリストはその人を赦すのです。この小説によれば、「一番辛い愛の行為」を行なった者が「一番深い赦しの愛」を体験するのです。鶏の声を聴いて目覚め、自分の犯した行為の痛みに泣いたペトロを主が赦してくださったようにです。
■太田彼得(ペテロ)さんのこと
『沈黙』は、かつてわたしが出会った方のことを思い出させます。太田彼得(ペテロ)さんは、わたしがまだ若い伝道者であった頃に知り合った方です。彼は、聖公会のメンバーでしたが、戦時中のキリスト教弾圧によって、強制的に「否認」させられる体験をしました。戦後になってから、ご自分のことを「彼得」と呼んで、『泉』という雑誌を出しておられました。だから、彼もまた「カイアファの庭」で転んだ人です。
初めて太田さんに出会った時には、その穏和で温かい人柄から、そのような体験をした方だとはとても想像できませんでした。しかし彼は、警察(憲兵か特高のこと?)に連行されて、ピストルで脅された時の辛い思いを少しだけ語ってくれたことがあります。その時わたしは、「そんなことがあったのか」と、人ごとのように聞いていたのですが、今思えば、太田さんが、どんなに鋭い心の痛みを感じておられたのか、その一端が分かるような気がします。わたしが洗礼と聖餐を止めるかどうか迷っていた時に、聖餐を止めてはいけないと強く忠告してくださったのも太田さんです。「形だけ」だと人は言うけれども、その「形だけ」が、とても重い意味を持っていることを彼は知っていたからでしょう。太田さんの、穏やかな愛に満ちた人柄は、彼が人知れず体験したであろうイエス様の赦しの深い「泉」から湧いていたことを思わずにおれません。天に召されてからずいぶん経ちますが、今でもそのお顔をはっきりと覚えています。
■受難の僕
殉教にいたるまで信仰を貫き通すことのできる人は「強い」人です。そのような強さは、神の御霊に支えられることで初めて生じる強さです。彼こそ「主なる神の僕」であり、イザヤ書53章の伝承を受け継ぐ「受難の僕」です。これに対して、信仰を全うすることができず「主を踏みつけた」人は「弱い」人です。信仰の強い人たちの殉教は、そのような弱い人たちが救われるためです。なぜなら「受難の僕」は、自分を苦しめ、自分を十字架にかける人たちの罪をも赦し、その罪を贖うために殉教の苦しみを耐え抜いた人だからです。
福音書のペトロが、イエス様のお顔を踏んだ時に、「わたしは踏まれるためにこの世に来た」と語ったかどうか、わたしには分かりません。しかし、ペトロが、鶏の鳴き声を聞いて我に返り、自分が何をしたのか、その犯した罪の重大さを悟って、悔い改めの涙を流した時に初めて、ペトロの否認と続くペトロの改悛が一つになって、ペトロの弱さをその強さへと変えたのでしょう。パウロが「自分は弱い時に強い」と言うのはこの意味でしょう。自分の罪をごまかさずに認め、犯した罪の深さを洞察することで、人は初めて、パウロが体験したような「受難の僕」による罪の赦しに与(あずか)り、神の下へ戻ることができるのです。信仰の弱い人たち、躓いた人たちが、このようにして信仰の強い人たち、殉教した受難の僕たちによって救われるのです。救いは、自分が敵対した受難の僕の栄光を仰いで、犯した過ちを認めることによって達成されるからです。
ヨハネ福音書講話(下)へ