【注釈】(2)
■18章
[28]【人々は】原語は「彼ら」です。18章35節に「お前(イエス)の同胞(ユダヤ人)や祭司長たちが」とありますから、カイアファと仲間の指導者たちは、最高法院の会議の場から神殿警護の者たちに命じてイエスを連行させたのでしょう。エルサレムの最高法院は、「切石(きりいし)の間」と呼ばれる所で開かれていました(後注参照)。もしもそこだとすれば、「切石の間」は、神殿の西の入り口から谷を渡ってエルサレム市街へまっすぐつながるアーチ型の橋の下にあって、そこにドーム型の天井の広い部屋がありました。そこが最高法院の場所であったとすれば、イエスはそこから谷を上って、まっすぐ西へ延びる道路を通り、500メートルほど西のヘロデの宮殿に連れて行かれたことになります(後注参照)。
 切石の間は、幅7メートル、長さ10メートルの広さで、なめらかで飾りのない見事な石組みで造られていました。これは「ヘロデ風の石組み」と呼ばれる手法で、石と石との間の筋目がくっきりと狂いなく見える石組みのことです。ドーム型の天井は後になって造られたのかもしれません。この部屋が建てられた当初は、その位置から、エルサレムの市役所として用いられたのが、後に市評議会(最高法院)の会議の間になったと考えられます〔Leen & Kathleen Ritmeyer, Jerusalem in the Year 30 A.D. Jerusalem; Carta (2004)14/51.〕〔フルッサー『ユダヤ人イエス』〕。ただし、会議は、その後別の場所に移動したという記録が残っていますので、イエスの頃の最高法院が、この場所だったかどうか確かでありません。
【総督官邸】原語は「プラエトーリオン」(司令部)です。平時のピラトの住居は、カイサリアにあって、海に面したヘロデの別邸にありました(使徒23章24節/33節参照)。しかし、有事の際や祭りの時などには、ピラトもエルサレムに来ていました。神殿の北に接しているアントニアの砦にはローマ兵が駐屯していて、祭りの間は、神殿を囲む城壁の上から民衆を監視していました。しかし、ピラトはこの砦ではなく、エルサレム市内の「上の町」の西部にあって、街の西側の城壁に沿った長方形の広い敷地にあるヘロデの宮殿に居たと考えられます。マルコ15章16節では、ヨハネ福音書とは異なる原語「アウレー」(広い中庭のある邸宅/屋敷)が用いられているのもこのことを裏付けています。ただし、教会の古くからの伝承によれば、イエスの頃のピラトの官邸は、切石の間に近いハスモン家の宮殿にあったという証言があります〔70章 大祭司の尋問からピラトへ→「逮捕後の足取り」を参照〕。
【明け方】アンナスの尋問が午前3時頃に終わったとすれば、カイアファの最高法院は「明け方」6時頃には終わったと考えられます。ローマの長官/代官や総督たちは、早朝6時頃から仕事を始めて、午前中に仕事を終えるのが通例でした。ユダヤ人たちは、この習慣を知っていたので朝早くピラトを訪れたのです。イエスの件を前もってピラトに報告していたかどうかは分かりませんが、おそらく何らかの連絡がとられていたのでしょう。ヨハネ福音書では、マルコ15章25節と異なり、イエスの裁判は、思いの外手間取って、ピラトが最終的な判決を下すのは正午頃になります(19章14節)。
【汚れないで】ユダヤ人が異邦人を訪問したり交際することは律法によって禁じられていました(使徒10章28節)。しかし、この規定がどの程度まで厳格に守られていたのか確かでありません。過越の際には「種を用いたパン」に近づいてはならないという規定から、ピラトの官邸内に入ることを避けたのでしょうか? あるいはローマの官憲たちが死体に触れているのではないかと恐れて、汚れが移ることを懸念したのでしょうか(民数記9章6節)。単に異邦人の家を訪れただけなら、その汚れは、その日だけで、沐浴によって浄めることができますから、翌日の過越を食べるのに差し支えがないはずです。ただし、死体に触れた人に近づく汚れは7日間続きます。イエスの頃は、ファリサイ派のシャンマイ系の厳しい規定が生きていて、異教徒/異邦人の家に入ることも重い汚れを招くと考えられていたのかもしれません〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
【過越の食事】共観福音書では15日(日没の6時に始まる)からイエスと弟子たちは最後の晩餐(過越の食事)をとり、イエスの逮捕から十字架刑までが、その日のうちに行なわれます(1日は次の日没の6時まで)。しかし、ヨハネ福音書では1日早く、過越祭の前日の14日の朝(14日は前の日没から始まるから、その12時間後に)、ピラトへ渡されて、その日の午後、過越の小羊が屠(ほふ)られるのと同じ頃にイエスが十字架にかけられます〔ヨハネ福音書補遺→マルコ福音書とヨハネ福音書の受難週の比較表を参照〕。したがって、大祭司たちは、「汚れ」を受けることで、翌日(15日=午後6時以後)に過越の食事ができなくなることを恐れたのでしょう。両者の食い違いを説明するために、共観福音書の暦とヨハネ福音書の暦が違うという解決も提示されていますが、どちらが史的に正しいのか、確かな結論は出ていません。ヨハネ福音書のほうを史実として有力視する説がいぜん強いものの(例えば共観福音書の晩餐が過越の食事と合致しないこと、シモンが野原から帰ってきたとあるのも過越の日の規定に反することなど〔シュヴァイツアー『マルコによる福音書』NTDシリーズ(1976年)〕)、最近では、共観福音書のほうが事実に即していて、ヨハネ福音書の記述は、イエスを「神の小羊」として過越の犠牲の羊と同一視するための神学的な構想に基づいているという解釈に傾いているようです〔Sanders, The Historical Figure of Jesus.286.〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔キーナー前掲書〕。
[29]【ピラトが】29~31節は共観福音書にはありません。ピラトはユダヤ教の規定を知っていたので、ユダヤ人の宗教的な規定に譲歩してわざわざ官邸の「外へ」出てきたのです。ピラトがいきなり登場しますが、この文面から見ると、読者はピラトのことをすでによく知っていたのでしょう。なお、属州の「総督」は、通常、元老院のメンバーで、法務官や執行官経験者が任ぜられました。ピラトは、それより身分の低い騎士階級の出でしたから、地方の「代官」あるいは「地方長官」の身分でした。
 イエスへの尋問と裁判が、かつてのヘロデ大王の宮殿で行なわれたかどうか、これには異説があります〔70章大祭司の尋問からピラトまで→「逮捕後の足取り」を参照〕。もしもヘロデの宮殿だったとすれば、宮殿はエルサレムの「上の町」の西の部分を占めていて、エルサレムの西の城壁に沿っていました。宮殿それ自体も城壁に囲まれていて、この城壁の東の城門を出るとそこは広場(市場)になっていました。ただし宮殿への城門は邸宅を囲む城壁の南側にも、また北側にも(?)あったと思われます。東側にある城門が言わば王宮の正面になり、そこを入ると、立派な柱廊に囲まれた王宮の広い中庭に出ます。王宮の各部屋は、天井が高く金や大理石を用いた贅沢な造りで、「カエサルの間」とか「アグリッパスの間」などの名称がつけられていたとあります〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』15巻9章318節〕。
 もしも裁判がこのヘロデの宮殿だったとすれば、ピラトは官邸の外へ出たのですから、東の城門か、あるいは南の城門の外へ出たことになります。城門それ自体も階段で上がる高い場所にありましたから、ピラトは、イエスと告発者たちを城門まで上がらせて、そこで尋問を行なったことになります。群衆のほうは、城門の下にいて様子を見ていたのでしょう    〔Connolly, Living in the Time of Jesus of Nazareth. 49.〕。ヨハネ福音書では、ピラトは、イエスを城門からさらに中庭に入れて群衆から隔離し、そこで個人的に尋問したことになります。
 重要なのは、マタイ27章19節前半とヨハネ19章13節に、共通して、ピラトがイエスへの尋問の<途中から>裁判の席に着いたとあることです〔ルツ『ヨハネ福音書』(4)〕。そこには「敷石」と呼ばれる高座が設けられていました(13節の注釈参照)。だから裁判は、下にいる群衆からも見えるように、その「敷石」で行なわれたのでしょう。宮殿の南側にある城門の外側に、城門に向かって左側に、城壁を背に石組みの高座が発掘されていて、そこが裁判の席であったという説があります〔Tabor, The Jesus Dynasty. Map2 "Jerusalem in the Time of Jesus." 214~215頁の写真と挿絵を参照〕。ただし、今回の裁判席は、むしろ王宮の正面にあたる東側の城門の脇に設けられていて、広場(市場)に面していたと考えられないでしょうか?
【どういう罪で】原文は「この人に対してどんな告発/告訴(理由)を(あなたたち)は持っているのか?」です。ピラトは、イエスがユダヤの最高法院ですでに裁かれていることを知っていたはずです。しかし彼は、裁判の結果を尋ねるのではなく、自分で改めて裁判を行なおうとしているのが分かります。
[30]【この男が】原語は「この者」で、軽蔑の意味がこめられています。
【悪いこと】原文は「悪を行なっている」です。ここでは「悪いこと」の内容は述べられていませんが、後で彼らは「律法によれば(イエスは)死罪にあたる」(19章7節)と述べています。この30節から判断すると、ピラトはイエスの「罪状」については、ほとんど何も知らされていなかったことになります。なお「悪いことをしている」という、やや不自然で漠然とした言い方には、ヨハネ福音書の頃をも含めて、後にイエスを信じる人たちへ向けられた非難も重ねられているのかもしれません。
【引き渡し】原語には「裏切る」の意味もあって、この原語はユダの「裏切り」に関連して、これまでも用いられています(6章64節/同71節/18章2節/同5節)。おそらくここでは、この裏切りが、ユダから「彼ら」に引き継がれているのでしょう。
[31]【自分たちの律法に従って】一見するとピラトのこの言葉は、ユダヤ人たちが、自分たちのモーセ律法に従って勝手にイエスを処罰せよ、と言っているかのように聞こえます。しかし、ここで言われていることはそれほど単純ではありません。ローマ帝国内に住んでいるユダヤ人共同体は、皇帝の布告によって、それぞれに「評議会」(例えばエルサレムの最高法院=サンヒドリン)を持ち、「ローマの元老院とローマ市民たちが認める法と自由」に従って、安息日に集まり、彼らユダヤ人の「先祖の律法にならって」祈りと犠牲を献げることを認められていました。ローマ帝国の属州の地方総督や長官/代官たちは、そのよう条件の下で、ユダヤ人共同体に特定の居住地域を割り当てるなどして、ローマの定める法と自由の範囲内で「ユダヤ人の律法にかなう」生活を許可していたのです〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』14巻9章23節以下〕。
 言うまでもなく、このような自治権は、ユダヤ人共同体がローマ皇帝の命に服従して、パレスチナのユダヤ人が親ローマ的な方針を堅持し続けたことによって(多大の税金と徴兵によるユダヤ人の若者たちの命と引き替えに)認められたものです。したがって、ここでピラトが言う「あなたたちの律法」とは、為政者と被支配者との両方の合意に基づく意味での「律法」のことであって、その律法は、ピラト側から見ればローマ帝国へのユダヤ人の服従と帝国の秩序維持のためであり、逆にユダヤ側から見れば、もしもこれが犯されるならば、ユダヤ人の自治権それ自体が危うくなる危険を意味していたのです。
 だから、ピラトは、当初、イエスの件には直接関わらないで、ユダヤ人の自治権の範囲内で「彼らの律法」に従って処理させることによって、自分に余計な責任や負担が及ばないように図ろうとしたのでしょう。このことが、これからのピラトの「回避/逡巡」の姿勢の根底にあります。ところが、ユダヤ人側は、イエスが、ユダヤ人に認可されている「律法」を踏み越えた「悪いこと」をユダヤ人に対しても帝国に対しても犯したから、皇帝の命令に違反していると訴えたのです。しかし、ヨハネ福音書の読者から見れば、ユダヤ人が主張する「悪いこと」とは、まさにイエスが大祭司の面前で否定していることにほかなりません(18章23節)。
【死刑の権限】この句は、イエスの頃には、ユダヤ側に「死刑の権限」が認められていなかったことを意味します。マタイ福音書とルカ福音書は、最高法院がイエスを「冒涜」の罪で断罪したにもかかわらず、自ら死刑を執行することをせずに、なぜピラトの所へ連行したのか? その理由を明らかにしていません。その理由がはっきりと説明されているのはヨハネ福音書だけです。しかし、ヨハネ福音書の記述に関して様々な説が提起されています。以下に整理すると次のようになりましょう。
(1)ユダヤ側には、死刑を「宣告する」権限は認められていたけれども、これを実際に「執行する」ためには、ローマの支配者の法的な認可を必要とした。
(2)ただし、死刑を「宣告する」だけでなく、これの執行も場合によっては許されていたようです。しかしそれらは、神殿内での冒涜行為とか、安息日問題、宗教的・倫理的な「赦されざる行為」のような涜神にかかわる重犯罪の場合であって、ステファノスの殉教(使徒6章8節以下)、姦淫の女性への石打の刑(8章1~11節)がこれにあたります。しかしステファノスや姦淫の女性の場合でも、公式の裁判によるのではなく、私刑(リンチ)にあたるという解釈もできます。後にイエスの兄弟で「義人ヤコブ」と呼ばれた人が、大祭司アンナス2世の手にかかって殉教しますが(62年)、これも、ユダヤの代官の交代の合間を利用した「非合法な」処刑であろうと考えられます。とりわけ、政治的な犯罪については、必ずローマ側の審判を仰がなければなりませんでした。これは、ローマ側に味方する者たちが不当な裁判で処刑されるのを防ぐためです。
(3)地方の属州では、犯罪行為の取り締まりと刑の執行はその地方の評議会に任されており、どのような事件をローマ側が採りあげて裁判するのかは、概(おおむ)ね総督の裁量に委ねられていました。まして、ユダヤ地区のような地方長官/代官の場合は、秩序を維持することが肝要でしたから、ローマからの代官が裁判のために事件を取捨選択するその基準は、必ずしも明確でなかったようです。
 以上の点をヨハネ福音書について言えば、(1)については、イエスへの死刑判決の言い渡しは、ユダヤ側に認められていたけれども、これの執行にはローマ側の認可が必要であることを明確にしています。ヨハネ福音書のこの記述に対して疑義を呈する説もありますが、この点でヨハネ福音書は歴史的に正しいと認められています〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
(2)については、ユダヤ側からのイエスに対する告訴は、イエスが自らを「王」と称して、皇帝に反逆する意図を示したという、政治的な理由を根底に据えていることが重要です。最終的には彼らのこの告発が容れられますが、言うまでもなく、イエスに対するこの告発理由が正当かどうかは、全く別の問題です。ヨハネ福音書の読者にはこのことがよく分かっていました。さらに今ひとつ注意しなければならない点があります。それは、ユダヤの律法では、「血を流さない」ために通常石打の刑が行なわれていたことです。しかし、ヨハネ福音書(この点では共観福音書も同様)の場合は、「イエスの流血」が重要な意味を帯びていました〔バレット『ヨハネ福音書』〕。したがって、イエスは十字架刑に処せられることが予め神によって定められていたとヨハネ福音書は告げているのです。
(3)についてヨハネ福音書は、逮捕(18章4~11節)→容疑(同29~32節)→取り調べ(同33~37節)→無罪の告知(19章13~15節)と、裁判の正規の手続きがとられています。しかしこれで終わらずに、さらに続いて、鞭打ちによる警告(19章1~3節)→容疑(同4~8節)→取り調べ(同9~12節)、判決(同13~15節)、刑の執行(同16節)のように、手順が重複します〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
 これで見ると、ヨハネ福音書の描くピラトのイエスへの裁判は、法的な手続きに乗っ取った正式のものであったことが分かります。しかし、このようなピラトの回りくどい手順がはたして史実に基づくのか? ローマ側がイエスに罪を認めなかったように見せかけるキリスト教側からの護教的な配慮から出た創出ではないか? という疑いがかけられてきました。ヨハネ福音書も共観福音書も使徒言行録も、イエスの神の国の運動が、ローマ帝国の秩序を破壊する意図から出たものでは<ない>と証ししているのは確かです。しかし、そのことと、ピラトが裁判において「イエスの無罪を告知した」という事実それ自体が「なかった」のに、福音書記者たちがこれを創出した、と現代のわたしたちが判断することとは全く別問題です。福音書の描き方が護教的であることと、そのような描き方の根拠となる事実があったか、なかったのか、ということ、これは別問題ですから混同してはなりません。福音書の描き方には、護教的な意図を読み取ることができます。しかしそれは、それなりの事実に基づいたところから生じていると考えられます。ヨハネ福音書によれば、ピラトは、イエスの件をピラトとしては異常なほど慎重に扱っています。なぜそのような「逡巡」が起こったのか? ピラトの逡巡には、それなりの歴史的な理由があった〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。その理由を洞察することがここで求められているのです。
 イエスが「ユダヤ人の王」として、ローマ帝国への反逆のかどで「正式に」告発されたことが、ピラトにとって非常に大きな意味を帯びていたことは間違いありません。そうでなければ、彼がイエスの問題にこれほど手間取ることはなかったと思われます。なお、死刑は、ローマ市民であろうと元老院のメンバーであろうと適用されました。しかし、ローマの市民に十字架刑が課せられることはほとんどありませんでした。十字架刑は、奴隷や地方属州の民に科せられることが圧倒的に多く、これがローマ市民や自由人に適用されるのは、ローマへの反逆罪に限られていたようです。
[32]【どのような死を遂げる】原文は「どのような死を死ぬか」です。ここでヨハネ福音書は、現代の聖書学者たちのするように、イエスに起こった出来事を「歴史的に確定しよう」としているのではありません。そうではなく、イエスの死の「霊的な意味」を問うのです。十字架刑は、イエスの当時としては最も残酷で、しかもこれを受ける側にとって「恥ずべき」ことでした。それは絞首刑と同様に神に呪われた者に対する処置だったからです(申命記21章22~23節/ガラテヤ3章13節)。大事なことは、ローマによるこのような十字架刑が、予め神によって計画されたことであり、イエス自身の言葉の成就であったことです(12章33節)。ヨハネ福音書の頃の教会も、イエスのこの「不名誉な」死に方について、ユダヤ教の側から攻撃を受けていたと思われます。これに対してヨハネ福音書は、イエスの十字架刑こそ、イエスが「栄光を受けて挙げられる」ために避けることのできない出来事であることを強調しているのです(12章16節/同23~24節)。だからヨハネ福音書は、イエスの死を単なる歴史的な事件として伝えているのではなく、イエスの十字架が、予め神によって定められ、イエス自らがこれを選び取った「不思議な出来事」として、人知の及ばない「霊的な出来事」が現に起こったと証ししているのです。
[33]【ユダヤ人の王】ここでピラトは、ローマの代官として正式にイエスの裁判を始める決意をしたようです。彼は、回廊から官邸の中庭に入り、イエスを呼び寄せて尋問します。「お前がユダヤ人の王なのか?」。「お前が」が強調されていることから、ピラトは、目の前にいるイエスが、告訴されているような「ユダヤ人の王」にはとても見えないことを幾分蔑んだ口調で言っているのが分かります。しかし、「ユダヤ人の王」というこの言い方は、イエスの裁判において重大な意味を持っています。この言い方は四福音書に共通して出てきますが、ヨハネ福音書のここの言葉は、おそらくマルコ15章2節から出ていると考えられます。「ユダヤ人の王」には次のような意味がこめられていました。
(1)ローマの将軍ポンペイウスは、敵対するアリストブロスの立て籠もるエルサレムを占領して(前63年)、ローマ側に与したヒルカヌスを大祭司に任命しました。この時点で、ユダヤの祭政一致の王権は事実上失われたことになります〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』14巻4章5節〕。しかし、後にヘロデがユダヤを支配した頃、パレスチナはローマの将軍アントニウスの支配下に置かれていました。ヘロデはアントニウスに献身的に仕えてその信頼を得て、ついにローマの元老院から「ユダヤの王位」を贈られました〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』14巻14章5節〕。ヘロデの王位は、その後オクタヴィアヌスによっても確認され(前30年)、彼は「ヘロデ大王」と呼ばれてローマの「同盟王」(ローマの属国の王のこと)として、パレスチナを支配しました(治世前37年頃~前4年)。これは彼が、ローマの皇帝に取り入って、ローマ風の建築や文化を導入するなど、徹底した親ローマ政策を維持したからです。だから、「ユダヤ人の王」という言葉は、イエスを訴えたユダヤ人の指導者たちにも、イエスにも、そしてピラトにも、最も身近な例として、ヘロデ大王を連想させる言葉であったことを知っておく必要があります。
(2)しかし、ユダヤの指導者たちがイエスを告発したのは、ヘロデ的な王権の意味ではありません。それは、イエスが「自分を王なるメシアだと称して」(ルカ23章2節)、ローマ帝国に反抗する意図を示したという理由からです。これが四福音書が提示するイエス告発の理由です。したがって、イエスは「皇帝侮辱罪」と「反逆罪」で告発されたのであり、これに対する処刑は十字架刑です。ピラトがイエスを呼び寄せたのは、はたしてこの告発が正当かどうかを自分で確かめるためです。
(3)しかし、ヨハネ福音書の読者には、「ユダヤ人の王」は、全く別の意味を帯びていました。イエスは「イスラエルの王」(1章49節)であり、人々はイエスを「王位」につけようとし(6章15節)、イエスがエルサレムに入る時には、民衆は彼を「イスラエルの王」として歓呼して迎えたのです(同12章13~15節)。
 ピラトは、目の前にいるイエスを見て「お前がユダヤ人の王なのか?」と、半ば驚き半ば蔑むようにイエスを見ているのが分かります。(1)の意味の「ユダヤ人の王」について言えば、もしも、ここでイエスが、彼の「霊能」を発揮して、自分こそ「ユダヤの王」となるのにふさわしい人物であることを言葉巧みにピラトに訴えて、もしも自分が王位に就くようにピラトがローマ政府に働きかけてくれるなら、それはピラトにとってもローマにとっても最大の益になるに違いない。なぜなら、自分は、ヘロデ大王に優って、このユダヤを親ローマ的な王国として支配するだけの霊能と知恵を具えているのだから。もしもイエスがこう語ったとすれば、これはまさに荒れ野でサタンがイエスに勧めた誘惑をそのまま言い表わしていることになりましょう(マタイ4章8~9節/ルカ4章5~7節)。
(2)の意味での「ユダヤ人の王」なら、見本はいくらでもいます。「イエス」はごくありふれた名前でしたから、イエスの十字架刑から35年ほど後に別の「イエス」が現われます。パレスチナのユダヤの民がローマ帝国に向かって反乱を起こし始めると、ヴェスパシアヌスとその息子ティトスのローマ軍が、ガリラヤへ攻め入りました(65年)。このイエスは、ガリラヤのティベリアスに赴きます。ヴェスパシアヌスは、ティベリアスの市民に降伏を勧告しますが、このイエスはこれを無視して、先頭に立ってローマ軍を攻撃します。事態を憂慮したティベリアスの住民は「少数の者の狂気の沙汰のために」町を攻撃しないようにヴェスパシアヌスに懇願します。これを知ったイエスの一団は、ティベリスからタリカイアへ逃げます。このためにティベリスはかろうじて虐殺を免れました〔ヨセフス『ユダヤ戦記』3巻10章1節〕。このイエスが逃げ込んだタリカイアは、ガリラヤ湖の南端にあって、そこは背後にガリラヤ湖があり、前面には堅固な城壁がありました。イエスの一団は、ここでもローマ軍と戦いますが、前面ではローマ軍に敗れ、ガリラヤ湖に浮かべた多数の船はローマ軍によって焼かれ、湖は火の海となり、多くの人たちが殺されました。イエスの一団は、そこからも逃げ出しました〔ヨセフス前掲書4~5節〕。
 最も陰惨だったのはエルサレムです。ここにはヨハネという人物が逃げ込んできて、先のイエスと同様に「根拠のない希望を人々の間で並べ立てて彼らを戦争へ駆りたてた」のです〔ヨセフス『ユダヤ戦記』4巻3章1節〕。「彼は謀略にたけた男で、心の中には恐ろしいまでの独裁権力に対する願望を蔵して」〔ヨセフス前掲書4巻3章13節〕いたから、口には言わないまでも心で「ユダヤ人の王」をねらっていました。時の大祭司パンニアスは、市民の穏健派を説得してなんとかローマとの和解を図ろうとしますが、ヨハネは、熱心党(ゼロータイ)の指導者たちを扇動して、謀(はかりごと)を用いてパンニアスたちを殺害します。こうしてローマ軍との戦いが避けられなくなったことを知った市民の中には、城壁から逃げ出してローマ軍に降伏しようとする人たちが大勢いましたが、彼らはヨハネの率いる反乱軍によって処刑されました。こうして、エルサレムから逃げ出そうとする者はヨハネたちに処刑され、逃げ出した者たちは城壁の周囲でローマ軍によって十字架刑に処され、人々は飢えと恐怖に襲われてエルサレムは滅亡しました。この「イエス」、この「ヨハネ」のような「ユダヤ人の王」は、それ以前にもこれ以後にも現われています。
(3)の意味で言う「ユダヤ人の王」あるいは「イスラエルの王」という称号は、イエス自身の口から出たものではありません。しかし1章19節でイエスは「イスラエルの王」という称号を頭から否定してはいません。ただし、6章15節に見るように、イエスはこの称号を受け容れようともしていません。また、12章13~15節では、民衆が、イエスを「メシア」として「王」として歓迎するのを受け容れています。ただし、イエスが「ユダヤ人の王」であるというこの称号は、このままでキリスト教の正統的な伝承にはなりませんでした〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
[34]大祭司たちがイエスを告発したのは、先にあげた(2)の意味で、ローマ帝国に反乱を起こそうとする人物としてです。これに対してピラトは、告発理由を大祭司たちには尋ねないで、直接自分でイエスから確かめようとしています。しかし、大祭司たちは、告発に際して「ユダヤ人の王」という称号をそのままの形でイエスを告発する理由として用いていたのかが問題です(19章21~22節参照)。「ユダヤ人の王」という言い方それ自体は、ピラトの口から初めて出たのかもしれません。だとすれば、イエスが、その言い方は「あなた自身から出たのか」(原文はこの点が強調されています)と尋ねた理由がいっそうはっきりします。
 マルコ15章2節では、ピラトが「ユダヤ人の王か」と尋ねると、イエスは「それはあなたが言っていることだ」と答えています。「ユダヤ人の王」にはいろいろな意味合いが含まれていますから、相手がどのような意味で言うのかが分からなければ、うっかり答えることができません。「あなたが言うこと」というこの答え方は、こういう場合のユダヤ流の答え方で、「そうである」とも「そうでない」とも、どちらにもとれる答えです。
 ヨハネ福音書はここで、マルコ福音書でのイエスのこの答えをヨハネ流に拡大して解釈しています〔バレット『ヨハネ福音書』〕。「ユダヤ人の王」は、イエスの受難理由を象徴する重要な表現だからです。大祭司たちがイエスを告発した理由の中に「ユダヤ人の王」という言い方がすでに使われていたのでしょうか? おそらくピラトは、ピラト流に解釈した「ユダヤ人の王」を多少軽蔑の意味をもこめて用いたのでしょう。しかし、この言い方が、すでにほかの者たちから聞かされていたのか、それとも、ピラト自身の口から「思わず?」出た言い方なのか、これによってその発言の意味が異なることをヨハネ福音書は指摘しているのです。人間の言葉は、それがいったん口からでた後では、本人はそのつもりではなかったような思いがけない意味を帯びて働くことを旧約聖書の伝統はよく知っています。ローマの権力を代表するピラトが「自分の口から」この言葉を語ったとすれば、それは、神御自身が、「彼の口を通して」語らせたかもしれないことを意味します。そうだとすれば、「ユダヤ人の王」は、神がローマ帝国に向けてピラトの口から語らせた預言/予言になります。同様のことが、先の大祭司カイアファの発言でも起こりました(11章49~52節)。だから、イエスは、ここでこの点をピラトに尋ねているのです。ピラトがここで語ったこの言葉が、イエスの十字架の上に付けられた罪状書き「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」になります。これらのラテン語の頭文字を組み合わせたのが”INRI”で、以後、西洋絵画の伝統では、イエスの十字架の絵では、この略語が罪状書きとして描かれることになります。
[35]ピラトがここで言っているのは、「お前は私のことをユダヤ人だとでも思っているのか!お前を私に引き渡したのは、お前自身の民と祭司長たちなんだぞ。お前はいったい何をしたんだ?」です。ピラトはイエスの問いに直接答えてはいません。彼は事前にイエスのことをほとんどなにも知らされていなかったことが分かります。ピラトは、心の内で、自分はイエスの事件について直接関係がない「外の」存在だと思っています。ただし、ピラトの念頭にあるのは、もしもユダヤ地区のだれかが、ローマ皇帝の許可なしに「ユダヤ人の王」を僭称(せんしょう)したのなら、その者は十字架刑に処せられなければならないことです。だからピラトは、イエスが、大祭司たちの告発通りに、何らかの騒動か反乱を起こすような行為をしたのかどうかを自分で確かめようとしています。おそらくピラトには、目の前のイエスが、例えばバラバのように、いかにも騒動を起こしそうな「無頼の徒」には見えなかったのです。門外漢であるはずのピラトは、皮肉にも、イエスを引き渡した「ユダヤ人」たちの思惑通りに十字架刑を宣告することになり、イエスの処刑において重要な役割を演じることになります。
【お前の同胞】原語は「お前の民」です。大祭司たち以外に「ユダヤの民」も加わってイエスを訴えたとあるのはルカ23章13節です。ちなみに、ヨハネ福音書でイエスのことを「ユダヤ人」と呼んでいるのは、ピラトとサマリアの女だけです(4章9節)。
[36]原文を訳し変えると次のようになります。
 
イエスは答えた。
「わたしの国はこの世から出てはいない。
もしわたしの国がこの世から出ているのなら、
わたしの部下たちは戦っているはずである
わたしをユダヤ人たちに引き渡さないように。
だが実際、わたしの国はここから出てはいない。」
 
【わたしの国】イエスはピラトの問いに直接に答えることはしません。ピラトの念頭にある「王権」をめぐる争いではなく、イエスが伝える「御国」そのものが大事だからです。イエスの答え全体は5行構成になっていて、最初と最後の行が同じで、間の3行がこれの説明になっています。最初の行を含めて36節全体は17章16節に、すなわちイエスの霊性それ自体につながっています。共観福音書では「神の国」が語られますが、ヨハネ福音書では「わたしの国」、すなわち「イエスの国」が語られるのです。
【戦っている】武装して戦うことです。原語は不定過去形ですから、一時的なことではなく、同じことが繰り返し行なわれることを指すのでしょう。
【部下】原語は「手下たち/臣下たち」。ヨハネ福音書ではこの言葉が神殿警護の役人たちに使われていますから(18章3節)、イエスはここで、イエスを逮捕に来た彼らと対抗しようとしたイエスの弟子たちのことを指しているのでしょう。しかし、このギリシア語は、「賢明な臣下は王に受け容れられる」(箴言14章35節)とあるように、七十人訳では「王国の役人/臣下」をも指します。ヨハネ福音書の作者は、「神の国の王に仕える臣下たち」の意味をもここに重ねているのでしょう。ルカ福音書はこのギリシア語を「部下」(使徒13章5節)/「神の国の奉仕者たち」(ルカ1章2節)の意味に用いています。
【この世から】「~から」とは、その起源だけでなく、出てきたものの性質をも指しています。ここでは、「イエスの国」が「この世」すなわち地上における権力争いから出ているものではないことが強調されています。だから「この世」を天国と対照させることもできますが、ヘブライ語の「世(オーラム)」には、空間的な領域だけでなく時間的な「時代」をも意味します。ヨハネ福音書では空間的な領域を指す「世界(コスモス)」が用いられ、共観福音書では時間的な「時代(アイオーン)」が用いられると言われます。けれども、黙示思想では時空がひとつになって啓示が進行しますから、ここ36節でも「現臨」する神の国と、やがて「来臨」する神の国とが区別されてはいません〔バレット『ヨハネ福音書』〕。この点は、続く37節でのピラトの問いとイエスの答えを理解する上で大事なヒントになります。
 ローマ皇帝ドミティアーヌス(在位81~96年)は、キリスト教を迫害しましたが、ある者たちがイエスの兄弟であるユダの孫たち(息子という説もあります)をキリスト教徒として告発しました。イエスの兄弟ヤコブとユダのことを記したヘゲシッポス(?~180年)が伝えるところによれば、皇帝がキリストの王国についてユダの孫たちに尋ねると、「それはこの世的なものではなく、地上的なものでもなく、天的なもの、天使的なものであり、キリストが生きている者と死んだ者とを裁くために、また各自の業にしたがって報いるために、栄光のうちに到来するアイオーン(時代)の終わりの時に実現するものです」と答えました。これを聞いたドミティアーヌスは、彼らを阿呆な奴らだと愚弄して、彼らを釈放し教会への迫害を中止させたと伝えています〔エウセビオス『教会史』3巻(20)〕〔エウセビオス『教会史』(1)秦剛平訳;山本書店(1986年)〕。
[37]~[38a]【やはり王なのか】原文は「それではお前はやはり王なのだな?」です。ピラトは、直前のイエスの答えを無視してもう一度33節に戻り、イエスが自分を「王」と称しているかどうかを確かめようとしています。ローマの裁判では、死刑の判決を言い渡す前に、通常その被告人に3度彼の容疑を確かめることになっていました。ただしピラトは、33節の時とは違って、「ユダヤ人の」を抜かしています。36節のイエスの答えで、イエスが「ユダヤ人」と対立していることが分かったからでしょうか。言うまでもなくピラトが「王」と言うのは、政治的な野心を抱く人物が目指す「王」のことです。
【わたしが王】おそらくイエスとピラトは、当時の国際的な共通語である「コイネー」と呼ばれるギリシア語で話していたのでしょう。共観福音書でのイエスの答えは、ギリシア語で二語「あなたが(そう)言う」だけです。これは、イエスが実際に語ったギリシア語をそのまま伝えているとも考えられますが、確認はできません。ヨハネ福音書では、この答えが「<わたしが王だとは>あなたが言う」のように拡大されています。先に指摘したとおり、「それはあなたが言うこと」は、相手の言った言葉をそのまま相手に返すやり方で、肯定にも否定にも受け取ることができます。ここでイエスは「王」であることを否定はしていませんが、ピラトの言う「王」をそのままで肯定してもいません("King" is your word . [REB])。
【真理について】イエスは続いて、「わたしはこのために生まれ、このためにこの世に来た、すなわち真理を証しするためである」と答えます。ヨハネ福音書は、イエスがどのような意味でピラトの言う「王」で<ない>のかを説明しているのです。ただし、ここでピラトは、イエスが言う「真理を証しする(王)」を、おそらくギリシアの哲学者たちが言う「真理の王国」を支配する「王」の意味で理解したと思われます。
 当時ヘレニズムの哲学で考えられていた「真理の王国」とは、この世的な権力者が統治する王国のことではありません。それは「真理が統治する」王国の意味です。真理が統治する王国、すなわち「真理の王国」という言い方は、現代のわたしたちにはなじみの薄い言葉です。しかし、ヘレニズム世界では、栄枯盛衰を繰り返す地上の権力が支配する王国と対照されて、永遠に変わらない「真理」(ギリシア語「アレーテイア」)が支配する世界が実在していて、これこそが宇宙/世界における「不変の王国」であり「真理の王国」であるという思想がありました。この王国は人間の心にも働きかけるもので、人が宇宙の真理に目覚めてこれに従うなら、彼は「自分の心を支配する王」であると考えられたのです。人は、自分自身を支配することで、自律した自由な存在になる。このような人こそ真の意味の「王」であると考えたのです。
 このような考え方を代表するのがストア派の哲学で、これは、プラトンとアリストテレスの後を受けたゼノン(前335頃~263年)を始祖とします。宇宙を支配する事物の原理と人間の心を統治する倫理性を重視するストア哲学は、禁欲的な傾向が強く、人には神的な理性が具わっており、この理性の法によって、自分の心の王国に生じる様々な「情念の反乱」を鎮める者こそが、真の意味で「王」と呼ばれるにふさわしいのです。このような「哲学者の王国」の思想は、ギリシア哲学に始まるものですが、ローマ時代には、特にその倫理的で実践的な面が強調されました。己の理性によって心の情念を統治できる者こそ真の意味で「自由な王」であるというこの考え方は、ヘレニズム世界からキリスト教思想を通じてヨーロッパにも受け継がれて、16~17世紀のフランスやイギリスのルネサンスの思想を形成する大事な思想になりました。
 ピラト自身は権力に敏感な政治家ですから、哲学者の言うこのような「王国」には関心を持たなかったでしょう。またローマ人のピラトには、「真理」は「あるがままの事実」を意味するラテン語「ヴェーリタース」の意味で受け取られたでしょう。しかし、彼もまた、当時のヘレニズム世界に行き渡っていた「哲学者の真理の王国」を彼なりに理解することができたと思われます〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。なによりも、彼の前にいるイエスの風貌が、ピラトには「真理の王国」の王にふさわしいと映ったのでしょう。後に書かれた「ピラトの報告書」には、ピラトがイエスを「理想の哲学者」と見なして敬意の念を抱いたとありますが、ピラトがイエスに敬意を抱いたとは考えられません。しかし彼が、イエスの言葉をヘレニズム世界の哲学者の言う「真理の王国」の意味に理解したことは十分考えられます。
【わたしの声を】イエスの時代のパレスチナが、ギリシア哲学の影響を受けていたのは確かです。しかし、イエスがここで「真理について証しする」というのは、そのようなヘレニズム世界で言う「真理」のことではありません。ここでイエスは「真理から出ている者」(原文)について語っています。七十人訳の「アレーテイア」は、旧約聖書でいう「真理」を受け継いでいて、神の贖いの契約を信じて神からの契約に誠実に従うことを意味します。「わたしの声を聴く」とは、イエスの言葉に聴き従うことです。10章3~5節には「イエスの声に聴き従う」羊たちのことが語られていて、そこでイエスは、神から遣わされた羊飼いに譬えられています。この「羊飼い」は、旧約聖書に出てくる「羊の大牧者」であるヤハウェにつながるもので、ヨハネ福音書は、イエスをこの意味での牧者、すなわち神御自身のことにほかならないと語っているのです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。だから、イエスが言う王国とは、なによりも「ヤハウェの王国」のことであり、この意味で「神の国」です。しかも、ここでイエスは、特に「このために生まれ、このために来た」と語っています。ここで言う「このために」とは、父の神の御許(もと)から降り、この世に来たことだけではなく、父によって「挙げられる」こと、すなわち受難の栄光を受けることをも指しているのです(12章27~28節)。これが、ヨハネ福音書の読者たちがここに読み取っている「真理の証し」です。
【真理とは何か】以上で分かるように、ピラトには、イエスが、ローマ帝国に反乱をもくろむ権力志向の革命家か、あるいは哲学者の説く真理の王国に生きようとする人物か、そのどちらかに映ったでしょう。イエスという人物とその言動は、人間的な客観性を保って合理的な判断を下そうとする者には、これ以外に理解できないからです。事情は現代でも全く同じです。現代の史的イエスの研究は、より穏健な路線ではあるが、とにかくイエスを社会的な革命志向に沿って理解しようとする説と〔例えばクロッサン著『イエス:あるユダヤ貧農の革命的生涯』太田修司訳。新教出版社(1998年)。原書は1994年〕、あるいは、これもヘブライ的な伝統を含みながらも、ギリシア哲学の系統、特にキュニコス学派(犬儒学派)に近い知恵思想に沿って、イエスの「神の国」運動を理解しようとする説とがあります〔バートン・マック『失われた福音書:Q資料と新しいイエス像』秦剛平訳、青土社(1994年)。原書は1993年〕。現代のいわゆる「史的イエス」は、この二つの両極の間にひろがる様々な見方で論じられています。しかしピラトにとっては、イエスが証しする「王国」が、あまりにも矛盾に満ちていて、不思議で不可解だったのです。
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