【注釈】
■ヨハネ福音書と共観福音書
 今回は、イエスが、ゴルゴタまで十字架を背負い十字架される場面です。ヨハネ福音書にでていて共観福音書にはない記述は以下の通りです。
(1)イエスが「自ら進んで」十字架を担った。
(2)罪状書きに「<ナザレの>イエス」と加えてある。
(3)罪状書きが三つの言語で書かれていた。
(4)ユダヤ側がピラトに罪状書きの書き換えを求めた。
(5)イエスの下着には縫い目がなかった。
(6)イエスの母と愛弟子が居合わせた。
 これに対して、共観福音書に語られていてヨハネ福音書に抜けている記述は次の通りです。
(1)キレネ人シモンがイエスの十字架を担いだ。
(2)女性たちの嘆きと彼女たちへのイエスの言葉(ルカ福音書のみ)。
(3)没薬を混ぜたぶどう酒がイエスに渡された(マタイ福音書とマルコ福音書のみ)。
(4)イエスによる罪の赦しの祈り(ルカ福音書のみ)。
(5)十字架された時刻(マルコ福音書のみ)。
(6)祭司長たちや群衆がイエスをののしった(共観福音書)。
(7)共に十字架された一人が悔い改めた(ルカ福音書のみ)。
 ヨハネ福音書だけが語る出来事の中で特に注目されるのが、(4)の罪状書きの書き換え要請と(6)の母マリアと愛弟子の登場です。この二つは、ヨハネ福音書では重要なのに、どちらも共観福音書に抜けています。これに対して、イエスへの嘲りがヨハネ福音書に抜けているのが、共観福音書との大きな違いです。
■資料の問題
 これで分かるように、罪状書きの書き換え要求と、母マリアと愛弟子の登場は、ヨハネ福音書だけの出来事なので、これらを資料的に考察してみます。マルコ=マタイ福音書では、十字架につけられてすぐに「服の分け合い」が記されています。この順に従うなら、ヨハネ福音書では19章19節から直接23節へつながるはずです。おそらく、これが、ヨハネ共同体に伝えられていたほんらいの資料だったのでしょう。だから、罪状書き書き換えの部分は(20~22節)、19節と23節との間に挟まり込む構成になっています。したがって、この20~22節は作者による挿入です。この挿入部分には、背後に19章12節「もしこの男を釈放するなら、あなたがたは皇帝の友ではない」と、同15節「我々には皇帝のほかに王はいない」というユダヤ側の発言が潜んでいるのでしょう〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 また、母マリアと愛弟子の登場(26~27節)は25節の女性たちの名前に続いています。ヨハネ福音書のほんらいの資料では、23~24節の「聖書が実現するため」から、直接28節の「聖書が実現した」へつながっていたと思われます。だから作者は、この間に25~27節を挟み込んだとブルトマンは見ています〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。なお、マルコ福音書だけは、女性たちのことが、イエスの死の直後まででてきませんが、これはイエスの死と埋葬を女性たちによる「看取り」として結ぶためです。
 以上をまとめると、ヨハネ福音書は、ゴルゴタ、「ユダヤ人の王」の罪状書き、二人の強盗、女性たちなど、大筋ではマルコ福音書の記事と一致します。しかし、罪状書きの書き換え要求や、衣服分けの場面や、母マリアと愛弟子の登場などは、共観福音書と異なっています。マルコ福音書では、十字架→衣服分け→罪状書き→二人の強盗の順になっていますが、ヨハネ福音書では、十字架→罪状の書き換え要求→衣服分けです。またルカ福音書のほうでは、十字架→二人の「犯罪者」(この用語はルカのみ)→(イエスの言葉)→衣服分けの順です。だから、共観福音書の間でも、受難物語では、マルコ=マタイ福音書とルカ福音書とで明らかに異なります。ルカ福音書の受難物語は、マルコ=マタイ福音書の受難物語と共通する用語が、全体のおよそ半分ほどで、ルカ福音書の受難物語の後の半分ほどは、ルカ福音書だけの特殊資料(L)からでしょう。また、「女性たちの嘆き」と「イエスによる赦しの祈り」と「犯罪者の一人の悔い改め」は、ルカ福音書だけの記事です。ルカは、マルコ福音書の記事を基にしながらも、これとルカ福音書の特殊資料とを合成しているのです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)〕。
 このように、四福音書の間では、出来事もそれらの順番も異なります。しかし、これらが、それぞれの福音書記者の「創出」であるとか、単なる「伝説」にすぎないと見るのは適切でありません。用語や語り方は、それぞれの記者の特異性を帯びていますが、出来事それ自体は、最初期の教会からの「伝承」に基づくもので、これを「伝説」にすぎないと見るのは誤りです。
 ヨハネ福音書への受難伝承は、共観福音書への伝承と共通性を持つものの、共観福音書への伝承の<前>段階から出ていると見ることができます。ヨハネ福音書は、これらの伝承資料に「神学的/霊的な解釈」を加えています。また、ヨハネ福音書だけの付加部分もありますが、これらにも、ヨハネ福音書以前からの貴重な伝承が含まれていると見るべきです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。このように、ヨハネ福音書の受難物語が共観福音書のそれと異なるのは、その伝承が共観福音書の伝承よりも早い時期に独立したからでしょう。それだけに、逆にヨハネ福音書と共観福音書との共通点が、出来事を知る上で重要な意味を持つことになります。
■ヨハネ19章
[16]この節の後半が、とってつけたような印象を与えます。このためでしょうか、後半の読み方にはいろいろな異読があり、これに続けて「そしてイエスを十字架するために連れて行った」という異読もあります。「彼らに(引き渡した)」とある「彼ら」とはユダヤ人のことですが、実際にイエスが「引き渡された」のはローマの兵士たちのほうです。しかし、その行為の責任を「引き受けた」のは、イエスを告発し続けた「ユダヤ人」にあるというのが16節後半の意味です。 「<人々は>イエスを引き取った」〔フランシスコ会訳聖書〕。
[17]【自ら背負い】ルカ23章26節には ローマ兵がシモンに命じて十字架を「イエスの後ろから運ばせた」とあります。これをイエスが十字架の前方を担ぎ、シモンが後方を担いで、二人で背負ったと解釈する説もあります。しかし、実際は、イエスができる限り「自ら進んで」十字架を背負ったけれども、終わりのほうではシモンが肩代わりしたと考えられます。
【ゴルゴタ】イエスが引かれて行ったのは「ゴルゴタ(されこうべ)という所」だとあります。「ヘブライ語でゴルゴタ」とあるのは、アラム語を知らないヘレニズムの人たちを念頭に置いているからで、ヨハネ福音書ではこのような説明が時折見られます(1章41節/5章2節/20章16節)。ゴルゴタは、ヘロデの宮殿から東へ250メートルほど歩いて、ハスモン家の宮殿の西にあたる城壁の門を北へ抜けて、さらに北へ向かった所にありました。ここは当時城壁の外にある墓地に近く、神殿から真西の方角になります。ヘロデの宮殿から刑場までは、およそ400メートルほどでしょうか(19章20節に「都に近い」とあることと一致します)。現在の聖墳墓教会の東の入り口から入り、聖堂の最奥の復活礼拝堂へ向かうと、途中の左側に十字架の場所があります。当時そこは城壁の外にある墓地でした。19世紀にドイツの学者たちが、エルサレムを囲む城壁の北端からさらに北の方にある「されこうべの丘」が十字架の場所であると唱え、イギリスのチャールズ・ゴルドン将軍がこの説を支持しました(1883年)。そこは、アントニアの砦からなら比較的近いのですが、それでもかなりの距離があり、ヘロデの宮殿からは遠すぎます。現在では聖墳墓教会のほうが十字架のほんらいの場だと認められています〔フランス『マルコ福音書』その他〕。
[18]【十字架】記録によれば、古代ペルシア帝国のダリウス王は3000人のバビロニア人を十字架刑に処したとあります。十字架刑は、古代のケルト民族の間でも、ブリテン島(現在のイギリス)でも行なわれました。アレクサンドロス大王は、フェニキアの征服に際して、最後まで頑強に抵抗したティルスの町の住民2000人を十字架刑に処したと伝えられています〔Anchor(1)1207〕。ユダヤでは、アンティオコス4世が律法を遵守するユダヤ人を十字架にかけ、その妻子を殺しました(前267年)〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』12巻256節〕。ユダヤ人同士の例では、仮庵の祭りの際にエルサレムの住民が、サドカイ派の大祭司アレクサンドロスに反抗して、ギリシアのセレウコス政権のデメトリオスと組んで闘いました(前90年)。その結果、アレクサンドロスは敗北しましたが、後にこの時の復讐のために、アレクサンドロスは、自分の政権に反抗した者たち800人(多くはファリサイ派)を十字架にかけて、彼らの目前で妻子を殺したとあります〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』13巻379節〕。
 古代ローマの十字架刑は、これらの慣習を受け継いだもので、奴隷や反逆者たちに対して課せられました。ローマ帝国では、処刑は公開で、ローマ市内の戦車競技場や剣闘士の闘いを見せる闘技場(アレーナ)では、市民の娯楽のために処刑が見せ物にされました。罪人をライオンなどの獣に襲わせたり、十字架刑にしたり、火あぶりにするなど、様々な「見せ物」が開かれたのです〔アンジェラ『古代ローマ人の24時間』〕。十字架刑が「残酷だ」と言われるのは、死ぬまでの時間が長かったからと、辱めの意図があったからです。
 十字架刑にはいろいろな仕方がありました。最も簡単なのは柱を立てて、これにかける方法です。しかし、通常は、刑場に掘った穴に前もって柱を立てておいて、これにつける横木だけを処刑される者に担がせて刑場へ連行する方法がとられました。横木は、柱の上にT字型に付ける場合と十字型に付ける場合がありましたが、十二使徒の一人アンデレはX型の十字架にかけられたと伝えられています。十字架の高さは、通常は人の背丈よりもやや高い程度で、罪人は裸でした。これは人々に見せしめにして辱めを与えるためです。このために夜間、犬などの獣に襲われる危険がありました。ただし、イエスの場合は、公に見せるために、やや高い位置で十字架されたのでしょう〔Keener, The Historical Jesus. 575. Note 291/292.〕。
 1968年にエルサレムの北ギヴァト・ハ・ミヴタルで、十字架刑に処せられた26歳ほどの男性の骨が発掘されています。柱はアカシア材、横木はオリーブの木で、横木は縄で柱に結びつけられていました。彼の両手は広げられて、手首に四角の木片を当てて、大きな頭のついた太い釘が打ち込まれていて、釘は裏側で曲げられて抜けないようにされていました(イエスの場合も釘であったことがヨハネ20章25節から分かります)。手首の途中から打ち込まれたとしても、体の重みで釘が手首の付け根まで来た状態でぶら下げられていたのでしょう。両足はやや曲げられて、両方の足首のかかとを重ねて、その上から太い釘が斜めに打ち込まれていました。おそらく裸の状態で、長時間この状態でかけられていたと思われます  〔Connolly, Living in the Time of Jesus of Nazareth.51.〕。
【ほかの二人】マルコ=マタイ福音書では、この二人のことを「強盗」(レーステース)、ルカ福音書では「犯罪者」とありますが、ヨハネ福音書では「ほかに二人を」とあるだけです。作者は、この二人の罪状を特定するのを避けたのでしょう。マルコ福音書が伝える「強盗」が、反乱を起こした暴徒の一味だとは限りませんが、おそらく彼らもバラバと同じ時に暴動でとらえられた者たちでしょう。権力に抵抗する人たちを為政者が「暴徒」呼ばわりするのは現在でも同じです。そうだとすれば、イエスを真ん中にして左右に二人の「暴徒」が十字架につけられ、真ん中のイエスに「ユダヤ人の王」という「称号?」をつけたローマ側の真意も理解できます。これを見ている観衆には、イエスがまるで暴徒たちの「頭」であるかのように見えていたでしょう。実際、彼らはイエスに従ったゼロータイ(熱心党)で、イエス自身がそのような革命運動の指導者だったという説さえあります。なお、マルコ15章27節のラテン語の異読には、二人の名前が「ゾアタン」"Zoathan"と「カンマタ」"Chammatha"だとあり、そのほかにも違った名前が与えられていますが、これらは後からの追加です。なお、ユダヤの「受難の僕」伝承に「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられた」(イザヤ書53章12節)とあるのが、共観福音書の「強盗/犯罪人」に反映されていると言われています。だとすれば、ヨハネ福音書には、そのようなイザヤ書の預言を想起させるものがないことになります。
[19]【罪状書き】処刑される人の罪状書きは、通常、板の札に黒あるいは赤で書かれて、引き回しの際に、罪人の首にかけられたり、罪人の前あるいは横を歩く執行人によって人々に提示されました。このやり方は場合によって異なりますから〔Keener, The Historical Jesus. 575. Note 297.〕、イエスの際に罪状書きが途中の見物人に告知されたかどうかについては証言がありません。マルコ福音書には、罪状書きが「どこに」あったのかも、またそれが何語で書かれていたかも記されていませんから、これの存在を否定する説さえあります。しかし、四福音書共に罪状書きについて記していて、しかもそれらの文言の間に違いがありますから、この伝承はマルコ福音書だけに依存するものではなく、罪状書きが十字架に付けられていたのは確かです。マルコ福音書の罪状書きが、実際の文言通りかどうか問題があります。その場所については、マタイ福音書に「(イエスの)頭上に」とあり、ヨハネ福音書には「十字架の上に」とありますから、イエスの十字架が、T字型でもX型でもなく、「十」字型であって、イエスの頭の上のほうに付けられていたことになります。
 罪状書きは、イエスがローマ皇帝を侮辱したことを示すだけでなく、イエスへの嘲りをも表わすものですから、後のキリスト教会による創出だと考えるのは無理です。「ユダヤ人の王」とあるのは、裁判でのピラトの言葉のままで、ローマ側から見た言い方です(マルコ15章2節)。ユダヤ人なら「イスラエルの王」と言います。この罪状は「騒乱」あるいは「暴動」の罪を指すのものではありません。ローマ皇帝からヘロデにパレスチナの王位が授けられたように、正規の手続きを踏むことをせず「ローマ皇帝の許可なくして」僭越にも「王」を自称した罪です。ピラトは、これをも「反逆罪」にあたると見なすことにしたのであって、これこそ大祭司たちがイエスをピラトに訴えた告発理由です。しかし、ユダヤ側にとってもローマ側にとっても皮肉なことに、イエスへのこの罪状書きが、逆にイエスこそ「王であった」という噂を広める結果になりました。
 なお、ヨハネ福音書に「ピラトは書いた」とありますが、これは、ピラトが直接書いたのではなく「書かせた」という意味でしょう(2018年の聖書協会共同訳では、「ピラトは罪状書き<をも>書いた」となっていますから、これだと、ピラトが自分で書いたことになります)。「ナザレの」があるのもヨハネ福音書だけです。四福音書の記述の中では、最も簡単なマルコ福音書の「ユダヤ人の王」が実際の文言だと考えられているようですが〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕、ヨハネ福音書の「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」が、本人名と罪状とが明記されていて、正式の罪状書きとしてなら、こちらのほうが正しいことになります。マタイ福音書がヘブライ語(アラム語)の罪状書きを、ルカ福音書がギリシア語のものを、ヨハネ福音書がラテン語のものを忠実に訳しているという説もありますが〔P.F. Regard(1928)〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕確かでありません。
[20]「ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語」の三通りの言語で書かれていたとあるのは、ヨハネ福音書だけです。この三カ国語の墓碑銘がローマにいたユダヤ人の墓でも発掘されていますから、ヨハネ福音書の証言には信憑性があります。「ヘブライ語」とは当時パレスチナで使われていた「アラム語」のことです。当時のユダヤのラビたちも「神は律法(トーラー)をシナイの山から四つの言語、ヘブライ語、ラテン語、アラビア語(あるいはギリシア語)、アラム語で広めた」と言っていますから、これら四つで離散のユダヤ人が住んでいた地中海世界全体を言い表わしていることになります。同じ用法で、ヨハネ福音書も、「ナザレのイエス」こそが真の意味で「イスラエルの王」であることを、異邦人をも含む全世界に知らしめているのです〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。その上で、罪状書きのこのような「逆効果」は、人の計らいによるのではなく、人知を超えた神の計らいから来ていることを言おうとしているのでしょう〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。十字架は、この意味で、イエスの高挙と栄光化です。だから、ピラトは、カイアファ同様に、知らずしてこのことを「預言」していることになります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。「ナザレのイエス・ユダヤ人の王」のラテン語は"Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum" です。これら四つの語の頭文字をとった "INRI"が、以後の西洋絵画で、十字架上の罪状書きとして定着することになります。
[21]~[22]ヨハネ福音書には十字架上のイエスに対する嘲りは記されていません。その代わり、祭司長たちが罪状書きに「この男は言った。自分はユダヤ人の王だと」(原文直訳)と書き直すようにピラトに抗議しています。マルコ福音書とマタイ福音書では「ユダヤ人の王」にされたイエスを嘲った祭司長たちが、ヨハネ福音書ではピラトの書いた罪状書きに抗議するのは矛盾しています。だからマルコ=マタイ福音書とヨハネ福音書とは、異なる伝承によっていると考えられています。けれども、見方を変えて共観福音書とヨハネ福音書を総合するなら、一方ではイエスを「ユダヤ人の王」として嘲る者たちがいるかと思えば、他方では、「メシア」の称号でもあるこの言葉を反逆者につけることに抗議する者もいたとしてもおかしくないでしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
 ユダヤ人が、罪状書きでピラトに抗議するというのは通常では考えられないことですから、ユダヤ側が、「ユダヤ人の王」という罪状書きにこめられた嘲りが自分たちにも向けられていることに耐えかねて、またこれを「称号」だと受け取られるのを恐れたのです。しかし、罪状書きは、ピラトによるユダヤ側への「意図的な侮辱」〔バレット『ヨハネ福音書』〕であり、これは、ユダヤ側がピラトに対して仕組んだ策略に対するピラトのしっぺい返しですから、彼は要求をはねつけます。「かく命じ、かつ記せ」とは、古来皇帝が発する勅(みことのり)の常套句で変更は許されません。ローマ法もこれを厳守していましたから、ピラトはそれに倣ったのです。ここ21~22節にも「ユダヤ人」に対するヨハネの痛烈な皮肉がドラマ化されているのが分かります。
[23]~[24]【衣服を分ける】処刑される者の衣服を含む所持品は、その刑の執行人の所有にすることが認められていました。執行人たちが罪人の衣服を自分たちの所有にすることも、これを分けるために処刑の場で「サイコロを振る」のもよくあることでしたから、イエスの場合も例外ではなかったでしょう。通常の場合、罪人は十字架に裸体でかけられました。ユダヤ教は裸体を嫌いましたから、これは、特にパレスチナのユダヤ人にとって屈辱的な処刑の仕方です。ただし、刑の執行の際の裸体は、慣習による原則であって、法令で定められたものではありませんから、十字架上のイエスが裸体であったかどうか、確かなことは分かりません〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。なお「4人で分けた」とあるのはヨハネ福音書だけです。ローマ軍団の最小単位は8名で、通常この人数が一つのテントで宿営しました。だから、これの半分の4名が、イエスの処刑に関わったことになります〔キーナー前掲書〕。
【下着】ヨハネ福音書はここで、詩編22篇の預言が成就したことを念頭に置いているのでしょう。下着は通常袖無しで、上半身と下半身とに分かれていました。亜麻布、毛織り、場合によっては皮製のものもありました。したがって、縫い目がない1枚ものは、手がかかり、それだけ貴重でした。
【縫い目がない】ヨハネ福音書だけの記事です。これの解釈としては、
(1)作者は、詩編22篇に「賽を投げた」とあるから、この預言から、イエスの下着が一枚織りだったと推理して「上から下まで縫い目がない」と推理したという見方があります。
(2)神殿の聖所と至聖所とを隔てる縫い目のない垂れ幕が、イエスの死に際に二つに「裂けた」(マルコ15章節38)ことと関連づけて、イエスの「縫い目のない衣」が裂かれなかったのは、新たな神殿を象徴するという解釈があります〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。マルコ15章38節(=ルカ23章45節)に、イエスの死に際して「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とあります。古代イスラエルの神の幕屋では、幕屋(聖所)の入り口と、至聖所の入り口とは、大きな垂れ幕で仕切られていました(出エジプト記26章31節以下/37節以下)。しかしソロモンの第一神殿では、どちらも黄金で覆われたアカシヤの木造りの扉になっていました。
 ヘロデの建てたエルサレム神殿では、神殿本体の外部は広い「異邦人の庭」になっていて、神殿の内部に入ると、イスラエルの男女が許される「女性の庭」があり、その庭の西側中央の青銅の扉を入ると、膝ほどの高さの壁がある狭い男性だけの庭があり、そこは、献げ物を捧げる祭壇に面しています。祭壇の奥には低い階段があり、そこを上がると垂れ幕と青銅の扉で二重に仕切られた「聖所」があり、そこには祭司だけが入ることが許されます。さらにその奥に垂れ幕があり、そこからは大祭司だけが許される「至聖所」です。だから聖所と至聖所とは、古代の幕屋に倣って大きな垂れ幕で仕切られていました。なお、聖所の入り口の幕は、深紅色(火)と青(空)と亜麻糸の刺繍(大地)と紫(海)で宇宙を現わしていたとヨセフスが伝えています〔ヨセフス『ユダヤ戦記』5巻1章4~5節〕。
 マルコ福音書が指している「神殿の幕」とは、聖所と至聖所と、どちらの幕のことなのかはっきりしません。しかし、「真っ二つに裂けた」とあるのは、霊的神学的な意味を含んでいて、人(犠牲を献げる聖所)と神(至聖所)との隔てが取り除かれたことを象徴すると考えられます〔フランス『マルコ福音書』〕。したがって「幕」は、至聖所に入る幕のことを指すのでしょう。このことはまた、地上のエルサレム神殿が崩壊して、代わりにイエスの体という新たな神殿が建てられたことを象徴するとも考えられます〔フランス前掲書〕。
(3)ユダヤ教の大祭司がまとう衣には縫い目がないことから(レビ記21章10節参照)、イエスの下着には「縫い目がなかった」という伝承がイエスを大祭司キリストと見なした初期の教会から生じた。ヨハネ福音書の記事はこの伝承に基づいているという説もあります。
(4)イエス以前のユダヤ教において、「アダムもモーセも大祭司も神から縫い目のない衣を与えられた」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕とあるラビ伝承が存在しており、復活信仰成立以後の教会が、メシアとして信じていたキリストにもこのような衣が与えられたと信じた。この場合、「縫い目のない下着」は、詩編22篇からの引用と同様に、預言の成就とみなされたことになります。
(5)このような象徴的な解釈としては、このほかに、「縫い目がない」とは教会の一致を表わすという比喩的な解釈があります。これは、古代教父キプリアヌスの解釈です。「大祭司の衣」や「神殿の垂れ幕」と関連づける象徴的な解釈は、イエス復活以後の教会が創出した伝承です。このような比喩的な解釈は、その時代、その状況に応じて与えられるものですから、記事が事実がどうかは直接関係しません。また、そのような解釈の是非を違った時代、違った状況の中から判定するのは控えるべきです。
 ここで、ヨハネ福音書は、衣服分けをも含むイエスの受難の出来事が、詩編22篇を反映していて、旧約聖書の預言の成就であることを自らも確信し、このことを明確にしようとしているのは間違いありません〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。しかし、旧約の預言がイエスにおいて成就したことを証しするだけなら、わざわざ「縫い目がない衣」を持ち出す必要がありませんから、「縫い目がなかった」とある伝承は、背後に何らかの事実が実際に存在していた可能性をも示唆します〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。イエスの最期を予期した女性たちが、裁判に先立って、縫い目のない下着を用意したのかもしれません。
【聖書の言葉】19章24節には、詩編22篇19節が引用されていて、その引用は七十人訳詩編21(22)篇18(19)節のギリシア語そのままです。マルコ=マタイ福音書でも、「衣服を分ける」「さいころを転がす」など、七十人訳の詩編と同じ用語が用いられていますから、ヨハネ福音書は、共観福音書が示唆しているこの詩編22篇をより明確にするために、七十人訳をそのまま引用したと思われます。このように、四福音書の受難物語では、詩編22篇とイザヤ書52章13節~53章12節とが重要な意味を持っていて、これらは、イエスの受難が旧約聖書の預言の成就であることを証しすると見なされています。
 ただし、注意してみると、共観福音書とヨハネ福音書とでは引用の仕方が違っています。ヘブライ語の原文は「彼らは自分たちでわたしの着物(複数)を分け合い、/そしてわたしの衣(単数)では賽(さい)を投げる」と2行が並行していて、「着物」と「衣」、「分け合う」と「賽を投げる」とが対応しています。これはヘブライ語独特の並行法ですが、ギリシア・ローマの西欧世界では、このようなヘブライの並行法の対応関係が理解されず、同じことの「繰り返し」"repetitio"だと判断されたようです。七十人訳のギリシア語では、これが、「ヒマティア(衣服)」〔複数中性名詞〕と「ヒマティスモン」〔単数男性名詞〕とに訳し分けてあって、ヘブライ語原典の複数と単数の違いを表わしています。しかし、マルコ=マタイ福音書では「ヒマティア(衣服:複数中性)を分ける」とあるだけで七十人訳に倣っています。ところが、ヨハネ福音書のほうは、用語こそ七十人訳と同じですが、「わたしの外衣(複数中性名詞)」と「わたしの衣服(単数の集合名詞)」とに訳し分けていて、しかも下着は「縫い目がない一枚織り」とあります。その上で、「分ける」と「賽を投げる」とが分けられていて、これは七十人訳に忠実であるだけでなく、ヘブライ語の原典をも意識しているのでしょう。イエスの頃のアラム語のタルグムも「着物」(複数)と「外衣」(単数)とを分けていて、ヨハネ福音書に近いようです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
 以上の点から判断すると、イエスの衣服の出来事は、イエス復活以後の最初期の教会、すなわち<アラム語を>話すユダヤ人キリスト教徒によって、詩編22篇19節の「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」と結びつけられて伝承されたと考えられます〔シュヴァイツァー『マルコによる福音書』〕。ヨハネ福音書と共観福音書では、七十人訳の詩編の預言が成就したことを証しするために「イエスの衣服分け」伝承が語られているのは間違いありません。イエス<以前の>ユダヤ教でも、詩編22篇が「メシア預言」と理解されていましたが、「衣服を分ける」ことまでが、そのメシア預言に含まれていたかどうかは分かりません。
 ただし、このことは、旧約の預言が成就したことを語るために、<実際にはなかった>衣服の出来事を、伝承の段階か、あるいは福音書記者たちによって「創出された」ことにはなりませんから注意してください。共観福音書とヨハネ福音書とが異なる伝承に依存していることも、ヨハネ福音書の引用の仕方も、この出来事が記者たちの創出では<ない>ことを示しています。最初期の教会の人たちが、イエスの十字架の出来事を目撃して、これを詩編22篇の成就だと見なしたのは事実です。このために、伝承が七十人訳の用語を採り入れてマルコへ伝承されたと考えるほうが適切です。それよりも、もっと大事なのは、詩編22篇が、<イエス自身にとっても>自分のアイデンティティに深くかかわる詩編であったことです。言い換えるとこの詩編は、イエスの霊性を洞察する上できわめて重要な意味を持っています。イエスの復活直後から、この伝承が生まれたのはイエス自身の霊性と切り離すことができません。
[25]【十字架のそばに】共観福音書には「遠くから」とありますから、ヨハネ福音書のここの記事と矛盾するようにも見えます。ただし、共観福音書の場合も「イエスの言葉が届く」範囲にいたことに変わりありません。ローマの処刑では、十字架刑に処せられた者の身内が、十字架の周りに集まることが許されていました。ただし、これには許可が必要でした〔バレット『ヨハネ福音書』〕。葬儀や臨終に際して女性が大声で「嘆く/哀悼する」というのが古来の慣習ですから、処刑される者の親族、特に女性たちがその側で泣くことを兵士たちは許可したのでしょう。また共観福音書の「遠くに」は、詩編38篇12節(=七十人訳詩編37篇11節)の「わたしに近い者も<遠くに>立ち」とあるのが反映していると見られています(「遠くに」は同じギリシア語)。これらを考え合わせると、共観福音書の「遠くに」とあることが、ヨハネ福音書の記事を否定する理由にはならないようです。むしろヨハネ福音書のほうが事実に近いとさえ考えられます〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。処刑の始めには、彼らがイエスの近くに立つことが許されていて、イエスの最期が近づくと「遠く離れる」ように命じられたとも考えられます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
【側の女性たち】19章25節の原文は、語法的に見れば次のように三通りに読むことができます。
(1)「イエスの母、/そしてイエスの母の姉妹であるクロパのマリア、すなわちマグダラのマリア」と読めば二人になります。
(2)「イエスの母、/彼女の姉妹であるクロパのマリア、/そしてマグダラのマリア」と読めば三人になります。
(3)「イエスの母、/そして彼女の姉妹、/クロパのマリア、/そしてマグダラのマリア」と読めば四人になります。
 だから、ここは「その(イエス)母と彼の母の姉妹、クロパのマリアとマグダラのマリア」〔岩波訳〕〔新共同訳〕と意図的にあいまいに訳されています(母の姉妹=クロパのマリアとも読める)〔NRSV〕〔REB〕。岩波訳では、「彼の母と<彼の母の姉妹クロパのマリア>およびマグダラのマリア」と三人に読む訳をも注にあげています。
(1)の読み方だとマグダラのマリアがイエスの母マリアの姉妹になりますから、この読みは採ることができません。
(2)の三人説は後で述べるように内容から見ても可能です。この場合は、イエスの母もその姉妹も「マリア」ですから、同一家族に二人のマリアがいることになります。しかし、パレスチナでは「マリア」がごく一般的で、たとえ姉妹が「マリア」の名前を共有していたとしても、彼女たちが結婚して実家から離れるなら夫の名前を付けて呼ばれますから混同されることがありません。当時のローマでも、父が姉妹に同じ名前をつけることがありました〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
(3)の四人説では、イエスを十字架に付けた四人の兵士たちと対応させる意味で、イエスを見守る四人の女性があげてあるという見方があります。ヨハネ福音書では、イエスの母の名前(マリア)が出ることはありません。読者にはすでになじみだからでしょう。ただし、彼女たちが「誰かを特定するのは容易ですが、確認するのは困難です」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。また(3)の四人説が自然だとしながらも(2)の三人説も可能だと見る意見もあります〔キーナー前掲書〕。この問題は、共観福音書の記述とも関連します。
[26]【愛する弟子】この弟子についてはヨハネ福音書補遺「イエスの愛する弟子」を参照してください。マルコ=マタイ福音書では、男性の弟子たちは皆逃げ去ったとありますが(マルコ14章50節)、ルカ=ヨハネ福音書の伝承では、女性以外にも男性がいたと証ししています(ルカ23章49節)。この「愛弟子」は、ヨハネ共同体の始祖であり、同時に「イエスの弟子」の理想の姿を体現している人物ですから、特にここ26節では、真のエクレシアの象徴として描かれていると言えましょう。彼が「自分の」ところ/家へ、イエスの母を引き取ったとある「自分の」とは、イエスが「自分の」民に受け容れられなかった(1章11節)とあるのと対応していて、イエスを拒んだ者と受け容れた者とが、ここで対照されています。この愛弟子こそ、イエスの真の弟子の模範であり、神のエクレシアを象徴する者です。だとすれば、イエスは、母をこのエクレシアに託したことになります。この母こそ「新しいエヴァ」であり、後のエクレシアが彼女を聖母として讃える道を開くことにもなります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。ただし、このような解釈を否定する見解もあります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
【あなたの子】パレスチナでは、男性がその死の間際に、自分に直接関わる女性を誰か他の人に託する慣習がありました。これは処刑される人についても同様です〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。「見なさい。あなたの~です」という呼びかけは、この養子縁組の際に、託される双方への常套句であったと考えられます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。イエスの兄弟たちは、生前イエスに対して冷ややかだったのでしょうか(7章3~5節)、愛弟子に母を託すイエスのこの遺言は、肉親よりも霊的なつながりを重んじていることを表わすと解釈されています。
[27]【自分の家に】原語は「自分のものへ」です。「その時から」とあるので、愛弟子は、イエスの言葉を受けて、母マリアをその場から直ちにエルサレムにある「自分の家」に連れ帰ったという解釈もありますが、愛弟子の家がエルサレムにあったかどうかは確かでありません。ここで言う「そのときから」は、イエスの言葉を遺言として、母マリアを「自分の家族として」受け容れたという意味です。なお、エルサレム教会の指導者であったイエスの弟「義人ヤコブ」が殉教すると(62年)、エルサレムの教会に激しい迫害が起こり、このため使徒ヨハネは、イエスの母マリアを伴って小アジアのエフェソ(現在のトルコのセルチュク)へ移住したと言い伝えられています〔『聖母マリア』Hitit Color 7頁〕。カトリックの伝承では、先に指摘したように、使徒ヨハネ、すなわちゼベダイの子ヨハネは、イエスの従兄弟にあたります。使徒ヨハネがイエスの母マリアを伴ってエフェソへ移住したというこの伝承は、ヨハネ共同体が迫害を避けてパレスチナからエフェソへ移住したという説とも一致します。だとすれば、ヨハネ共同体のエフェソ移住も60年代のことになりましょう。エフェソの遺跡から7キロほど離れた場所に、現在もマリアが住んでいたとされる「聖母マリアの家」が遺されています。
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