【注釈】
■マグダラのマリアへの顕現
 マグダラのマリアは、四福音書を通して、イエスの復活の際の証人として重要な役割を果たしています。しかし共観福音書では、復活の場面以外で彼女が登場するのは「七つの悪霊を(イエスによって)追い出していただいたマグダラの女、マリア」(ルカ8章2節)だけです。ルカ福音書に登場するこの悪霊憑きのマグダラのマリアと今回のイエスの弟子マグダラのマリアとは、はたして同一人物なのか? この疑問に加えて、さらに今ひとつ、12章1節以下にでてくる「香油注ぎのマリア」と20章のマグダラのマリアとの関係です。これら二つの疑問と、「マリア」と呼ばれる女性たちとマグダラのマリアとの関連については、51章「マリアの香油」の注釈「香油注ぎのマリア」の項を参照してください。
 キリスト教会の伝統では、マグダラのマリアは、イエスの復活を最初に弟子たちに伝えた証人として「使徒たちの使徒」と呼ばれています。ほとんどの場合、その名前がでてくるだけですから、20章11~18節だけが、彼女のことを詳しく描いているのが注目されます。イエス復活の最初の証人が彼女一人であるのは、マルコ16章9節とヨハネ20章1~2節だけです(マルコ福音書の記事はヨハネ福音書から出ている?)。マルコ=ヨハネ福音書のマリア単独と、マタイ=ルカ福音書の複数の女性たちとについて言えば、おそらく複数の女性たちのほうが、ほんらいの伝承に由来すると考えられます。
■20章
[11]【外に】この副詞が抜けている異読と、「外に」が「中に」とある異読とがあります。「中に」とあるのは、彼女が大きな墓の中に掘られた前室にいると推定したのでしょう。また抜けているのは筆写の際の見落としでしょう〔新約原典テキスト批評〕。
【立って】この節の動詞の時制は多様です。「立っていた」は過去完了形ですから、二人の弟子たちが墓の中を見た時には、彼女も一緒に戻っていたのです。
【泣いていた】通常喪に服す場合に哀悼の意を表わすために「泣く」ことをしますが、ここではその意味ではなく、イエスの遺体が見失われたことを悲しんでいたのです。「泣いていた」は現在分詞で、「泣きながら」は不定過去形で継続を表わします。「身をかがめた」はアオリスト形ですから、一度限りの行為でしょう。10節で二人の弟子がイエスの亜麻布と頭の覆いのこと見た後ですから、10節から11節へのつながり方がやや不自然です。11節以下は、10節までとは異なる資料に基づいていると思われます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
[12]【二人の天使】彼女は、天使を見ても特に驚いた様子を見せていません(マルコ16章5節/ルカ24章5節と比較)。なお「見る」は現在形です。マルコ福音書では「白い衣を着た<若者>」ですが、これは人間のことではないでしょう。したがって、ここはほんらい人間のことであったのが、後で天使に変えられたという想定は正しいとは言えません。「二人の天使」は使徒言行録1章10節にもでています。ヘレニズム世界では通常神々が様々な姿に変身して顕れますが、ユダヤ教ではこの役目は天使に限られます。
【白い衣】マルコ16章5節でも「白い衣」をまとっています。マタイ28章3節では「稲妻のように輝き、雪のような白い衣」をまとう天使です。この姿は山上でのイエスの変貌の姿を想わせます(マルコ9章3節)。アルコソリュウム型の大きな墓では、遺体を安置する棚が墓室の側面の壁に設けてありますから、天使たちはその棚の両端に座っていたのです。
[13]【女】原語は「女」「婦人」「妻」、場合によっては「母」(2章4節)をも指す広い意味です。なお、天使/若者(たち)が女性たちに告げる内容は、ヨハネ福音書と共観福音書とでは全く異なっています。共観福音書では、ここで復活の出来事が告げられ、天使はそのことを弟子たちに知らせるよう命じます(マタイ28章5~7節/マルコ16章6~7節/ルカ24章5~9節も参照)。ルカ福音書とヨハネ福音書では、二人の天使たちが「なぜ?」と問いかける点で共通しますが、ヨハネ福音書の天使は「女よ、なぜ泣いているのか?」と言うだけです。マグダラのマリアの答えは、先の2節の報告と似ていますが、この13節では「<わたしの>主」と呼んでいる点が違っています。後半の原文は「それなのに、彼らがどこへ置いたのかわたしには分からないのです」です。誰か複数の人たちが、イエスの遺体をどこかへ移動させたと思ったのでしょう。
[14]【後ろを振り向く】この段階では、彼女は、側にいるのがイエスだとは気づかなかったようですから、頭だけを少し振り返るようにして、相手が誰かをはっきり観ることはしないまま答えているのでしょう(16節と比較)。復活のイエスに出会っていることに気づかないのは、ルカ24章13節以下も同様で、イエスの姿が変容していたからです(マルコ16章12節参照)。原文は、そこに紛れもなくイエスが「立っている」〔完了分詞形〕ことを指していて、「それなのに」(原文)彼女は分からなかったとあります。
[15]イエスはマリアに天使たちと同じ言葉を繰り返しています(この点でマタイ28章7節と同10節も同じ)。
【だれを】共観福音書では、探している相手がイエスであることを天使たちが知っていますが、ヨハネ福音書では、イエスが「だれを?」と問いかけます。マリアが園丁だと思ったのは、この問いかけから来ているのでしょう。
【園丁】園丁は庭の番人のことです。イエスの墓は園(墓園)の中にありましたから(19章41節)、そこには庭木を手入れする園丁がいたのです。彼はおそらく園の番をしながら野菜などを栽培していたのでしょう。したがって、大勢の人たちが来て園が荒らされるのを恐れて、イエスの遺体をどこか別の場所へ移した。こうマリアは思ったようです。彼女が園丁に「わたしが(イエスの遺体をその場所から)別の場所へ移す(ように取りはからいます/引き取って埋葬します)」と言ったのはこのためです。「園丁」がでてくるのはヨハネ福音書だけです。後に、イエスの遺体が園丁によって別の場所へ移されたという噂がユダヤ人の間にひろまったと伝えられています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
[16]【マリア】原語は「マリアム」です。「マリアム」は、ヘブライ語「ミルヤーム」が、アラム語読みの「マルヤーム」に転じたものです。「マリアム」はヘレニズム的に「マリア」と呼ばれることもありました。イエスは、「ミリアム」(マグダラのマリアのほんらいの名前)をアラム語の読み方で「マリアム」と呼びかけたのでしょう。マリアはイエスに呼びかけられて初めて、体をイエスのほうに向けたのです。
【ラボニ】旧約聖書のヘブライ語「ラブ」(長/お頭)は、奴隷の「主人」などを意味すると同時に「先生/教師」の意味でも用いられました。アラム語で「ラブルバ(ー)ニーン」は「領主たち」「貴族たち」を指します。この語が「ラベーヌー」あるいは「ラビ」という呼称として用いられるのは後代(旧新約中間期)のことで、「先生」を意味します。しかし、時には「ご主人様」や「領主様」をも意味していて、王や裁判長への呼びかけとしても用いられました。
 この語が新約聖書でイエスに対する呼称になったのは、おそらく弟子たちや周囲の人たちがイエスをそのように呼んだからでしょう。新約聖書で「ラビ」はイエスに対してのみ用いられて、通常「先生/師匠」を意味しますが(マルコ4章38節/同9章38節)、むしろ、奇跡や不思議を伴う「偉大な教師」の意味で用いられる場合が多いようです(マルコ9章5節など)。例えばマルコ10章51節の「ラッブーニ」は、「先生」ではなく「ダビデの子」を指す敬称として「主様」の意味に近いでしょう。ただしイエスは、当時の宗教的指導者が「ラビ」と呼ばれるのを好む様子を厳しく批判しています(マタイ23章7節)。
 ヨハネ福音書では、「ラビ」は1章38節を始め全部で8回でています。ここでも「ラビ」は「先生」を意味しますが(4章31節/9章2節)、特に「神の小羊」すなわち「メシア」として(1章38節)、「神の子」あるいは「イスラエルの王」として(同49節)、さまざまな「しるし」を現わす神の人(3章2節)として「先生」と呼ばれています。また、「しるし」を表わす神の人としても、「王」になるべき人への呼びかけとしても用いられます(6章25節)。ヨハネ福音書は「ラビ」をヘレニズムの人たちに分かるように「先生」と訳していますが、ヨハネ福音書だけでなく新約聖書で「先生」は、通常のユダヤ教で用いられている「師/先生」の意味だけでなく、偉大な人や神の人への呼称ですから、旧約時代の古い用法の名残を留めていると思われます〔Anchor(5)600-602〕。
 20章でマリアは、園丁に呼びかける際には「主人様/旦那様」を用いていますが、16節では「ラッボーニ」あるいは「ラッブーニ」(両方の発音が可能)とアラム語で呼びかけています。ここだけ「ラッブーニ」が用いられているのは、マリアの愛情の表現だと解釈することができます。これを後のトマスのように「わたしの主、わたしの神」(20章28節)を意味する信仰の呼びかけととる説もあります。
[17]【すがりつく】原語は「ハプトー」で「くっつく」「すがりつく」「触れる」などの意味で、2人称現在形命令法です。相手に対する現在形命令法の否定辞「メー」は、現在行なっていることを止めさせることです〔ギリシア語小辞典〕。ここの動詞は、現在形で「すがりついている」ことですから、マリアはすでにイエスにすがりついていて、イエスが、彼女に「すがりついている手を離しなさい」と言っていることになります。もしもアオリストであれば「触れる」ことですから、まだ触れていないマリアに向かって「触れようとしてはいけない」という意味になります。ここはこの意味で、まだ触れていない彼女に向かって「触れてはいけない」と忠告していると見る説もあります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。この点をより明確にするために、「彼女は彼(イエス)に触れようと走り寄った」という後代の加筆がありますが〔原典聖書テキスト批評〕、マタイ28章9節でも、女性たちが復活したイエスの「足を抱いた」とありますから、復活後のイエスに同じようなことをしたのでしょう。イエスの復活顕現物語は、それ以前には見られない特徴を帯びています。ヘレニズム世界の復活/よみがえりにおいては、「身体的な」復活は理解しがたいものでした。ユダヤ教においても、「からだ」の復活は終末の到来を意味していました。
【まだ父のもとへ】原文の動詞「昇る」は完了形ですから、「まだ父のもとへ昇ることが完了していない」という意味です。昇天する前に触れたり、すがりついたりすることがいけないのに、昇天してからそのことが許されるという意味だとすれば、実際の場合とは逆のように思われます。だとすれば、いったい何が「完了して」いないのでしょう?
 イエスのマリアへのこの忠告はいろいろに解釈されています。復活したイエスは大祭司であるから、かつての罪ある女性(七つの悪霊に憑かれたマグダラのマリア像!)が触れてはならないとか、マリアの手が「汚れている」ので聖なる体に触れてはいけないとか、逆に、死人からのよみがえりは死人の汚れが染みついているから、これに触れると汚れがマリアに移るとかです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
 後で、弟子たちの間にイエスが顕現した時には、イエスのほうからトマスに呼びかけて、わざわざイエスの脇腹に手を入れるように告げています(20章27節)。だから、17節と27節との合間に、イエスの昇天がすでに<完了していた>ことになりましょう。重要なことは、弟子たちへの顕現の際に「聖霊授与」が行なわれることです。このことは、バレットが示唆するように〔バレット『ヨハネ福音書』〕、マグダラのマリアへの顕現の際には、イエスの昇天がまだ「完了して」いなかったことを意味します。だから、この段階では、イエスの御霊はまだ授与されていないのです(7章39節)。マグダラのマリアは、自分の主であるナザレのイエスが復活したことを確認します。しかし、今や、彼女は、地上でのイエスとは全く異なる次元で、しかも地上での時よりもはるかに喜びに満ちた状態で、やがて与えられる「パラクレートスにある」イエスを「知る」ことが求められているのです(16章7節参照)。イエスは彼女にこのことを告げたかったのでしょう。
【わたしの神】「わたし/あなたがたの主~わたし/あなたがたの神~」は、パウロの「わたしたちの主イエス・キリストの神であり父である方」(ローマ15章6節/第二コリント1章3節)を想わせます。イエスの復活顕現は、様々な形で、40日間にわたって弟子たちに与えられたとありますから(使徒言行録1章3節)、これらの呼称は、イエス復活以後の「キリスト顕現」の様々な過程の中から生じたと思われます。イエスがここで「わたしの兄弟」と言ったのは、「わたしの父、わたしの神」のもとへ昇るイエスによって、弟子たちが今までとは異なる新たな意味において「わたしの兄弟」となることを告げるものです。
[18]【告げた】原文では「行く」も「告げる」も現在形です(終わりの「伝えた」はアオリスト形)。「宣べ伝える/告白する(アパンゲロー)」(マタイ28章8節/ルカ24章9節)は、ここの「告げる」(アンゲロー)からでた動詞です。17節でのイエスの命令を受けて、マグダラのマリアが「兄弟たち」のところへイエスの復活を告知するのは、受難と復活を預言する詩編22篇の後半で、その冒頭の「わたしの兄弟たちに御名を語り(告知し)、集会の中であなたを賛美します」(23節)とある言葉が成就したと考えられているのでしょうか。
【主を見ました】ここでは、マグダラのマリアが報告した言葉を「わたしは主を見た」とそのまま直接話法で伝えています。これはヨハネ福音書だけです。イエス復活以後に教会で用いられた「主」は、昇天して神の右に座している世界の「主」という意味です。ここでもその用法が反映しているのでしょうか。
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