200章 ユダの死
【聖句】
■マタイ27章
3そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
4「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
5そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
6祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、
7相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
8このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
9こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。
10主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
九州のある地域では、男(お)びな女(め)びなのたくさんの紙人形を「お雛流し」として川に流す行事がおこなわれていて、その様子をテレビで見ました(2025年3月1日)。実は、小さな女の子を捧げて穀物の豊穣を願うという「ハイヌウェレ神話」と称される神話が、遙か古代から世界中に伝わっていて、おひな祭りには、この古代からの神話が関係しているという話を聞いたことがあります〔吉田敦彦『小さ子とハイヌウェレ』みすず書房。1章「小さ子とハイヌウェレ」を参照〕。その昔、過酷なとりたてのために、貧乏で生活できない人たちは、生まれた(女の)子供を殺したり、人に売ったりしなけれなりませんでした。九州のこの辺りは、かつてのキリシタン弾圧で、支配者による厳しい年貢を課せられた住民が、餓死するか一揆を起こすかを迫られた地域です。だから、犠牲ににされたわが子たちを忘れずに記憶の底に留めるのが、おひな祭りにも受け継がれているのではないか、と想われます。わが子を犠牲にするというこの「恐ろしい罪」の意識を「水に流す」のが、「お雛流し」の由来にも受け継がれているのでしょう。「無実の血を流す」なんとも悲しく、やりきれない「祭り」にこめられた深い意味の怖さです。今回のユダの「血の畑」もこれに類する宗教的な意味を帯びた出来事への追憶です。
今回のマタイの「ユダの自殺」記事は、そのすぐ前で、同じようにイエスを裏切った「ペトロの改悛」記事と比較対照されています。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に三度裏切る」というイエス様の言葉を思い返して「激しく」泣き続けました。赤ん坊が泣くのは、母親か誰かに「聞いてもらえる」と信じるからです。だからペトロは、「イエス様に向かって」泣いたのです。その結果、ペトロは、誰よりも先に、イエス様の復活を知らされて(マルコ16章7節)、その信仰を取り戻します。「イエス様に向かって泣く」者には希望が開けるのです。
一方でユダは、大祭司の邸宅での裁判で初めて、自分が「無実の人の血を流す」裏切りをおこなったと覚ります。ユダは、愚かではなく、利口な人だからです。彼は、銀貨三十枚を祭司長たちに返却することで、自分の誤った行為を「水に流そう」とした。ところが、銀貨の返却が拒まれ、その上、「お前一人の責任だ」と逆に告発されたのです。ユダは、「水に流す」相手を間違えたとも言えましょう。おそらく彼は、誰に向かっても泣くことも、誰をも信じることができない「泣くに泣けない」状態に陥ったのです。ユダの「高慢な頭の良さ」が泣くことを妨げたのでしょう。ユダは、受け取った銀貨を「返す」ことを阻(はば)まれて、もはやこれまでと、神殿の宝庫に自らの手で銀貨を投入して自殺します。ユダの死は、「(神に)赦しを乞う」ことにも絶望した結果だと言えましょう。デンマークの哲学者ゼーレン・キェルケゴールが指摘するとおり、(神からの)罪の赦しを受けることに「絶望する」ことは、最悪の罪です。「ユダの自死」は、この意味での「絶望」が招く悲劇を象徴しています。
ユダの死を知った祭司長たちは、この犠牲を利用(悪用)して、自分たちの「流し雛」の祭りをやります。「罪なき者の血」、「血の畑」(アケルダマ)を作ることで、自分たちの犯している罪をも「ユダの犠牲」を通じて「水に流した」ことにするのです。しかし、罪なき者の「血の畑」は、はたして、大祭司を始めとする祭司長たちの偽善の罪を「水に流して」くれたでしょうか。それ以後のユダヤが、「ユダヤ戦争」に巻き込まれて、ついにエルサレムが崩壊し、その神殿が焼け落ちる悲劇へいたる。イエス様はこう警告しますが(マルコ13章2節)、ユダの死を聞いた祭司長たちは、誰一人そのことに思い至りません。
ローマ教皇フランシスコが、2015年9月に、アメリカの議会で演説した時のことです。彼は、サウジアラビアに武器を売却するアメリカの軍需産業を念頭において、こう言いました。「個人や社会に苦しみを与える計画をしている人たちに、金儲けのために凶悪な武器を売り続けるそのお金は『血にまみれたお金』です。その血は『無実の血』です」〔宮田律(おさむ)『イスラエルの自滅』光文社新書。121頁〕。
その上でこの本の著者は、現在、アメリカが、パレスチナのガザやヨルダンの西岸地区で、アラブの庶民を殺害するための武器をイスラエルに売却することも同じ罪に当たると指摘しています。2025年の3月現在、パレスチナのガザやヨルダンの川西岸では、イスラエルの武装した軍や入植者たちが、そこに住むアラブの民の生活を破壊して、人々がその土地で生きる力を、土地もろともに奪っています。「無実の血の土地」を求めるこのような「シオニズム」は、まさに、「ユダの罪」に値します。このままでは、イスラエルは、周囲の敵対する諸国との戦争で、(かつてのユダヤのように)自滅して滅びる恐れがある。こう著者は警告しています〔宮田前掲書126頁〕。
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