【注釈】
■マタイの伝える「ユダの死」
今回の「ユダの死」は、四福音書ではマタイだけです。「ユダの死」について、先ず問題となるのは、いったいこれは何時のことか?という点です。「私は、無実の人の血を売り渡した」は、イエスの十字架での死後の言葉として適切だと思われるからです〔John Nolland. The Gospel of Matthew.NIGTC. 1149.〕〔W.D. Davies and D. C. Allison. Mathew 19--28. ICC. 558/561.〕〔U.ルツ『マタイによる福音書』(1/4)EKK新約聖書註解。285頁〕。マタイは、なぜ「ユダの死」をここに置いたのでしょうか? マタイは、おそらく、ユダをペトロと比較対照させようとしています(どちらも、イエスから「裏切り」を予告されています)〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 571.〕〔ルツ『マタイによる福音書』(1/4)289頁〕。もう一つ、今回の記事に見られるのは、「祭司長たち」の偽善ぶりです〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 558.〕。彼らは、「無実の人の血を売り渡した」と訴えるユダの言葉を否定していません。その上で、ユダが投じた銀貨で、畑を買い、それを「血の土地」と名付けています。自分たちが流した「無実の血」の責任をユダ一人に背負わせて、自らは、その血に責任がないかのような振る舞いです。これも、イエスの十字架刑以後のことだと見るべきでしょう〔Nolland. The Gospel of Matthew. 1149.〕。
後述するように、今回のマタイの記事は、ルカの使徒言行録1章17~2節20節と並行する内容が語られていますが、共通するのは「血の土地/畑」だけで、両者の記述には相違があります。このことは、今回のマタイの記事が、その核心部分では歴史的な出来事に基づくものですが、古くからの独立した口頭伝承として伝えられていたのを、マタイが、旧約聖書からの引用をこれに採り込み、彼なりに書き換えたと思われます〔Nolland. The Gospel of Matthew. 1149.〕〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 559.〕。
[3]【その時ユダが見てとって】字義通りに訳せば、「彼(イエス)を手渡しているユダが~を見てとったその時に」です。語法としての「その時に」は、「その時ヘロデは学者たちにだまされたと見てとって」(マタイ2章16節)と同じです。ユダは、イエス逮捕の際の手引きをしてから、逮捕の兵たちと共に大祭司の屋敷に入り、最高法院でのイエスへの裁判で、(イエスが)<死(刑)に相当する>と宣告される(マタイ26章66節)その一部始終を「目撃し/見てとった」その時です。「その時」(ギリシア語「トテ」)は、マタイがよく用いる語ですが(2章16節)、とりわけ今回は、「時」の内容があいまいで「不正確」です〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 560.〕。ユダが祭司長たちのもとへ何時行ったのか、祭司長たちは、陶工から何時土地を手に入れたのか、その「時」がはっきりしません。「そのあと」(岩波訳)。「後悔」が始まったのは「その時」でも、ユダの自殺の出来事は、後日のことだと見ることができます。
【有罪の判決が下るのを知って】これの内容を汲んで訳せば「自分が手引きした(引き渡して逮捕された)人(イエス)が(死刑に)断罪されているのを気に病んで」です。マタイがここで「引き渡す/裏切る」と言う時、過越祭の直前にイエスが語った言葉、「人の子は引き渡され(裏切られ)て十字架につけられるだろう」(マタイ26章2節)を受けています。その上で、イエスを「引き渡す(裏切る)」画策を立てているユダに向かってイエスが告げた言葉、「その者は生まれなかったほうがよかった」(マタイ26章25節)をここで引き継いでいます。
マタイは、マルコが用いている「死に当たると断罪する」(マルコ14章64節)を今回まで用いていません。しかし、今回の箇所では、法廷での正式の用語として「有罪の判決を受ける/死に当たると断罪する」を用いています。ユダは、ここに来て初めて、自分がイエスに行ったことが、「公的な裁判において」政治的にも宗教的にも、おおやけに「正しいと認定された」ことを「知った」のです。まさに「この出来事」が、「自分の手引き」の責任で生じたことをユダはここで覚ったのです。ここにきて、ユダは、かつてイエスが、(祭司長たちや長老たちに向かって)教えた「義の道(を歩む)」(マタイ21章32節)ことを改めて思い返したのでしょう(ヴァチカン写本などは、27章4節の「罪のない人の血」を「義人の血」と読んでいます)。「徴税人や娼婦たち」でさえ理解して受け容れた「(イエスの)義の道」を彼ら(祭司長たちや長老たち)は「心を入れ替えて」(前掲書)受け容れることを避けたのです。ユダは、こういう事態の全部を思い起こして、
【後悔した】この意味は「心を(入れ)替える」"change one's mind"〔Nolland. The Gospel of Matthew. 1150.〕ことです。ユダは、それまでの自分の行為を「逆向きにして」そっくり「お返しする」ことを思い立ったのです〔前掲書〕。ただし、ここの原語の「メタメロマイ」(心を替える/後悔する)を「メタノー」(心を入れ替えて悔い改める)と同じ意味にとるのは適切でありません。ユダは「気に病んではいた」けれども「(信仰にいたる)悔い改め」にはいたらなかった〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 561.〕。「彼は、自分にふさわしい懲罰を自らに科した」〔ルツ『マタイによる福音書』295頁〕。「ユダは、自分の生き方を(自分の)死をもって贖おうとします。神の律法にかなうこの行為でも、人間の責任を無にすることにはならない」〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 565.〕。「ユダは、悪を犯す自己の人生をこれ以上続けることができない。字義通りではないが、とりようによっては、彼もまた、イエスのために命を失う最初の弟子になった」〔ノウランド『マタイによる福音書』1153頁〕。こういう解釈が、今も続いています。
【銀貨三十枚を返す】「銀貨三十枚」については、26章15節の注釈を参照してください。これは、労働者のほぼ4カ月間分の賃金です。ユダは、先に「祭司長たち」(26章14節)に裏切りの相談を持ちかけています。今回は、「祭司長たちと長老たち」(27章)に銀貨を返そうとしています。「長老たち」が加わるのは、先の「祭司長たち」だけではないことを言いたいのでしょうか(ここの「長老たち」には26章47節の「民の」がありません)。ただし、ユダが神殿に投げ込んだ銀貨をわざわざ取り分けて出すのは「祭司長たち(だけ)」です(27章6節)〔ノウランド前掲書1150頁〕。マタイは、神殿の最高位の指導者たちの偽善ぶりを念頭においているのでしょう。「返す」の原語「ストレポー」は、「向きを変える」「転換する」という自動詞の用法が一般的なので、マタイのここでの「(銀貨を)返却する」という目的語を伴う他動詞の用法は異例です。マタイは、「金を返す」だけでなく、ユダの「心の向きが変わった」(自動詞の意味)ことも併せて言いたいのでしょう。
[4]【罪のない人の血】「無罪(罪がない者)の血」という言い方は、新約ではマタイだけが用いています。この言い方は、七十人訳(旧約聖書)のギリシア語でしばしば用いられ、マタイの用語は七十人訳から出ています。とりわけ、申命記27章25節では、「無実の血」が「賄賂」(わいろ)と結びついていますから、ユダの裏切りのお金と関連します。また、サムエル記上17章~19章の物語では、ペリシテの豪將ゴリアテを殺したダビデが、「サウル王に優るイスラエルの救済者」だと人々から賞賛されるのを妬んだサウル王が、ダビデを亡き者にしようと企んでいるのを知った王の息子ヨナタンが、父サウル王に向かって、「あなたはなぜ<罪なき者(ダビデ)の血>を流して罪を犯そうとするのか」(サムエル記上19章5節)と戒める場面があります。ダビデを密かに亡き者にしようと企むサウル王は、「ダビデの子」とも称される「メシア・イエスの無実の血」を流そうと企む最高法院に通じます。しかも、「無実の血」のことで父を戒めるヨナタンとは逆に、最高法院にこれを促そうと企むのが今回のユダです〔ノウランド前掲書1150頁〕。七十人訳の「無実の血」で、筆写(私市)がとりわけ注目するのは、エレミヤ書19章1節~11節です。そこでは、主がエレミヤに命じて、エルサレムの長老たちと祭司の長(おさ)たちを伴って、陶工の作った陶器を携え、「陶片の門」の前のヒンノムの谷へ行き、そこで陶器を砕くよう命じています。ヒンノムの谷では、エルサレムの民が、「主を捨ててバアルを拝み」、自分たちの子供たちを主への犠牲に捧げて「罪のない者の血」を流したからです。この罪のために、この谷は「地獄の谷」と称され、エルサレムは敵に囲まれ、その住民は飢餓(きが)のため息子や娘の肉を食べ、エルサムは崩壊して、谷は殺された者たちの墓場になるとエレミヤは預言しています。マタイは、七十人訳の「無実の血」を今回のユダの死に重ねていますが、とりわけ、マタイは、新バビロニアによるかつてのユダ王国の滅亡を告げるエレミヤのこの預言を(マタイ自らも身近に体験している)ローマ帝国によるユダヤの滅亡への預言と重ね合わせて、ここでエレミヤの預言を念頭に置いているのでしょう。マタイは、今回の箇所をゼカリヤ書11章12~13節からの引用で結んでいるのに、「預言者エレミヤの口を通して預言が成就した」(マタイ27章9~10節)とあるのは、この事を示すものです。
【お前の問題】平たく言えば、「(お前の面倒は)お前が見ろ」です。最高法院のこの言い方は、ローマ帝国のラテン語"tu videris."から出ています。ピラトも、裁判の席でこの言い方をしています(マタイ27章24節)。マタイはここで、「無実の血」の責任がユダ一人にあるのだと最高法院に言わせていますが、銀貨の返還を退ける最高法院も、手を洗ったピラトも、どちらも言い逃れできず、彼らもユダ同様に「無実の血の責任」を負わなければならない。最高法院とピラトと、両者に共通する応答を通じて、マタイは「このこと」を示唆しています〔ノウランド前掲書1151頁〕。
[5]【銀貨を神殿に投げ込む】「神殿の中へ放り込む」というやや乱暴な?言い方で、マタイはユダの絶望した気持ちを伝えようとしています。「神殿の中へ」"into the temple"とあるのは、具体的には、神殿の聖所にある捧げ物を容れる場所のことですが、ユダの気持ちとしては、「神殿の宝庫に投入する」ことを意図しているのが、この後の祭司長たちの言い方から察知できます。ただし、後に出て来るゼカリヤ書11章13節からの引用には、「陶工職人に投与せよ」とありますから、「(神殿の)宝庫」と「(神殿の)陶工」との違いが生じます。これについては後述します。なお、ここでの「離れ去る」と「出て行く」という二重の言い方は、イエスの父ヨセフが、アルケラオを恐れて、ガリラヤへ「立ち去った/避難した」(マタイ2章22節)と同じ動詞です。ユダは「(銀貨とは)もう関わりを持たないよう身を引き離そう」としたのでしょう〔ノウランド前掲書1152頁〕。
【首をつって死ぬ】原語の「アパンケスタイ」は、「縛る/絞める」ことですが、「絞首刑にする」の意味にもなります。ユダが、銀貨を神殿に投入したのは己の罪を「贖う」「浄める」意図からで、「神殿から離れ去って首をくくったのは、神殿を血で汚すことを避けるためだとマタイは見ています〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 564--565.〕。なお、マタイはここで、サムエル記下で語られるアフィトフェルの姿をユダのそれと重ねていると見る解釈があります〔前掲書〕。ダビデ王が、息子のアブシャロムの反逆によってその命を狙われた時に、アフィトフェルは、アブシャロムがダビデ王の側女たちと寝るように仕向け、自分が兵を率いて王を(オリーブ山で)殺害すると提案します(サムエル記下16章~17章)。その提案は、フシャイによって妨げられ、アフィトフェルは、自分の提案が受け容れられなかったことから、もはや王を亡き者にすることがかなわぬと覚ったのでしょう。「首をくくって死ぬ」(サムエル記下17章23節)のです。ダビデ王を亡き者にしようとしたアフィトフェルは、「ダビデの子メシア・イエス」を亡き者にしようとするユダと重ねられているのです。ダビデ王は「泣きながら」キドロンの谷を横切りオリーブ山へ向かいます(サムエル記下15章30節)。イエスも、最後の晩餐を終えて、キドロンの谷を横切り、ゲツセマネへ向かいます(ヨハネ18章1節)〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 565.〕。ただし、ダビデ王は生きながらえますが、イエスは、ユダの策略によって、十字架刑に処せられます。
【キリスト教の自殺観について】
キリスト教会は、伝統的に、自殺を厳しく批判しますが、これにはそれなりの理由があります。先ず、旧約聖書には、以下の二つの事例が挙げられています。
(1)レビ記24章17節には、「人が人の血を流してはならない」とあります。人の命を奪うのは、神だけが行うことで、「人が神を演じてはならない」のです。
(2)民数記35章33節では、人の血が流された土地は「汚れた」ものと見なされます。その土地を「贖う」ことができるのは、血を流したその人の血だけです。
旧約聖書のこれらの律法だけでなく、自殺を善しと見なさなずに、これを断罪する紀元後の最初期の事例としては、ヨセフスの『ユダヤ戦記』に記されている以下の二つの事例がをあげることができます〔ノウランド『マタイ福音書』1152頁/(脚注)311〕。以下にこれを紹介すると、
(1)紀元67年に、ユダヤでのローマへの反乱分子の絶滅を意図して、ウェスパシアノス指揮下のローマ軍は、パレスチナ沿岸でティトスの軍と合流し、総勢6万の軍団が、ガリラヤ湖の西方の沿岸のプトレマイオスとセポリスの間にあるヨタパタで、ヨセフスの率いるユダヤ軍と対峙します。ヨタパタは、強固な城壁に護られていたために、ローマ軍団は、戦略に長けたユダヤ軍によって幾度も敗北を喫します。ローマ軍に襲われたユダヤ人たちは、ヨタパタの城壁内へ逃れようとしますが、城壁内のユダヤ軍は、ローマ軍が侵入するのを恐れて、逃れてきたユダヤの市民たちを見殺しにします。ヨセフスのユダヤ軍は47日間も持ちこたえますが、ローマ軍得意の土塁と投石機による攻撃に耐えきれずにヨタパタは陥落します。密告者の裏切りによって、ローマ軍が市内に侵入すると、ヨタパタの市民は、捕らえられて奴隷にされるよりも集団自決を選びます。
ヨセフスは、町の有力者40人ほどと洞穴に潜んでいましたが、ローマ軍は、ヨセフスに、身の安全を保証するから降伏するよう説得します。ヨセフスの友人ニカノルは、ローマの支持を得て、ヨセフスに降伏を促すと、ヨセフスは「神の霊感に動かされて」これに応じようとします。ところが、共に居たユダヤ人たちは、今になって降伏するのは、ユダヤ人の恥であり、裏切りにあたるとして、ヨセフスを殺そうとします。そこで、ヨセフスは長い演説をして、人が自らの命を絶つのは、生命を与える神の自然に反する行為だと告げ、「我々の生命は神から賜ったもので、人はその命は神のみ手に委ねるべきであり、神に委託された命を抹殺するのは、神への悪である」と説きます〔ヨセフスの『ユダヤ戦記』(2)第3巻7章~8章。秦剛平訳。120~161頁〕。
(2)もう一つの事例としては、紀元70年に、エルサレムがローマ軍団によって陥落すると、ローマとの徹底抗戦を煽る「シカリオイ」と称される人たちは、最後に残った堅固な砦マサダに立てこもります。ローマ軍団に追い詰められたマサダの指揮官エレアザロスは、「ユダヤ民族は、神によって破滅する運命にあると覚って」、全員の集団自決を決意します。彼は、「霊魂の不死と、霊魂による生まれ変わり」を説いて、「臆することなく、雄々しく死のうではないか」と迫ります。「これに熱狂した」男たちは、自らの手で妻子を殺して、全員自決します。しかし、年老いた一人の女性と、「思慮と教養ですぐれた」もう一人の女性だけは生き残ります。「シカリオイの狂気は、その後、さらに蔓延して」、ユダヤに数々の反乱を引き起こす原因となり、その結果、ユダヤは滅びます〔ヨセフスの『ユダヤ戦記』(3)第7巻8章~11章。秦剛平訳。240~275頁〕。
ヨセフスの『ユダヤ戦記』では、エルサレムの住民の「集団自殺」とマサダでの集団自決とが、鋭く批判されています。ただし、これらは「集団での自決」の場合です。
(3)個人の自殺が「神への罪」として「赦されない」という考え方は、今回のユダの自殺から出ていて、「ユダの犯した罪は神によっても赦されない」という信仰が、クリスチャンに自殺を思いとどまらせる重要な契機になっていると言えます〔ノウランド『マタイ福音書』1153頁(脚注)312〕。
[6]【血の代価】この言い方は、4節では(ユダの口から出た)「無実の血」の値段であり、9節では「(無能な牧者たちに飼われる主の羊群を売り買いする商人たちによって)羊群の所有者である主(ヤハウェ)が値踏みされる値段」です(ゼカリヤ書11章13節)。これは「忌(い)むべき値段/代価」ですから(使徒言行録1章18節を参照)、祭司長たちは「(銀貨を受け容れるのは)良くない=律法にかなっていない」と言うのです(申命記23章18節~19節を参照)。マタイの視点からは、祭司長たちのこの行為は、「人に見せるためのうわべだけの偽善的な行為」(マタイ23章4~5節)だと映るでしょう〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 566.〕。
【神殿の収入にする】祭司長たちは、ユダが投げ入れた銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、コルバンに受け容れるわけにはいかない」と言います。原語のギリシア語「コルバナース」は、ヘブライ語の「コルバン」(供え物/捧げ物/献金)から出た語で、神殿の宝物庫(幾つかの場所があった?)のことです。「神殿の基金/資金」“the temple fund"[REB].“It is not lawful to put them into the treasury."[NRSV]. なお、「(銀貨を)拾い上げた」のは、祭司長たちで、長老たちは含まれていません。
[7]【陶器職人の畑】「神殿の陶工」とは、神殿へ献げられた金属類を溶かして鋳造する仕事をする人たちのことです。七十人訳のゼカリヤ書11章13節を直訳しますと、「主は私に言われた。『それら(銀貨三十枚)を溶鉱炉(金属を鋳造するための壺)へ落とし込みなさ』」です。ここの「金属を鋳造するための壺(炉)」のギリシア語は「コーネウテーリオン」です。ところが、ヘブライ語原典のほうでは、七十人訳と異なり、これが、冠詞付きの「ハ・イオーツェル」(職人/陶工師)です。しかも、ここを「ハ・オーツァル」(倉庫/宝庫)と読み変える異読があります〔Biblia Hebraica. Landkarten: zum Alten Testament. 968.〕。
[8]【血の畑】使徒言行録には、ユダが「不正の代価」で土地を買い、そこへ逆さまに落ちて無残な死を遂げたことから、その土地がアラム語で「アケルダマ(ク)」(血の畑)と称されたとあります(使徒言行録1章19節)。ユダの最後と「血の畑」との相互関係は、今も確かなことは分かりませんが、マタイのこのギリシア語は、七十人訳の申命記、詩編、とりわけエレミヤ書にしばしば出てきます。筆写の推定では、マタイはここで、とりわけエレミヤ19章4節を念頭においていると考えられます。そこでは、「血の畑」がヒンノムの谷と関連付けられています〔『旧約・新約聖書大事典』(教文館)752~753頁〕。だから、マタイは、「預言者エレミヤによって預言されたことが成就した」(27章9節)と見ているのです。
【今日にいたるまで】「血の畑」は、「今日にいたるまで」とあることから、マタイの頃のエルサレムのヒンノムの谷の辺りに「(汚れた)よそ者たち(異邦人)のための墓地」が、存在したと考えられます〔ルツ『マタイによる福音書』288頁〕。ただし、マタイの記述と使徒言行録のそれとでは、かなりの違いあります。マタイでは、畑を買うのは祭司長たちですが、使徒言行録ではユダです。マタイでは、ユダは「首をくくって」自殺しますが、使徒言行録では「逆さまに落ちる」不慮の事故です。なによりも、マタイでは「血の畑」はイエスの血を想わせますが、使徒言行録では、ユダの血のことです。マタイは、ゼカリヤ書から引用しますが、使徒言行録では詩編69篇26節と同109篇8節からです〔ルツ前掲書287頁〕。
[9]~[10] ここで引用されているのは、ゼカリヤ書からです。ゼカリヤ書11章13節のへブライ語原文を直訳すると「主は私に言った。『あなた(ゼカリヤ)はそれ(銀貨三十枚)を陶工(職人)に手渡しなさい。(それは)彼らによってわたしが値踏みされた(「私に対する敬意の」の意味も含む)値段。』それで私(ゼカリヤ)は、それ(銀三十シェケル)を手に取って、それを主の神殿(家)の陶工(職人)に手渡した」〔ed. by Norma Henry Snaith. Hebrew Old Testament. London: The British and Foreign Bible Society. 936.〕。
ただし、「陶工」には、「金庫/献金箱」という異読(別の聖書物語による)があります〔Biblia Hebraica. Landkarten: zum Alten Testament. 968.〕。“Throw it into the treasury--this lordly price at which I was valued by them." [NRSV]. この英訳の "treasury"には、"Syr. Heb. it to the potter"と欄外に(シリア語写本の)異読があげてあります。ちなみに、七十人訳(のギリシア語)では、「主は私に言った。『それ(銀三十枚)を鋳造用の壺(炉)へ投げ入れなさい。私はそれがよい金属かを見よう(試そう)。それらによって私は値踏みされたのだから。それで、私は、銀貨三十枚を手に取って、それを主の家の鋳造用の壺(炉)へ投げ入れた。』」です。なお、新約のマタイの原文では「銀貨三十枚」は中性名詞の複数形ですが、七十人訳のほうは男性名詞の複数形です。
引用はゼカリヤ書からなのに、「預言者エレミヤを通して言われていた」とあるのはなぜでしょう? 単純にマタイの「思い違い」とする説もありますが、そうではなく、エレミヤ18章~19章には、主が、陶工の業(わざ)を通して、ご自分のご計画の真の意図をエレミヤに示されて、そこでは、陶工から「買い求める」ことも語られています(エレミヤ19章1節)。さらに、「アケルダマ」(血の畑)と称される「墓地」が存在していて、異邦人の墓があったとされるベン・ヒンノムの谷が言及されていて(エレミヤ19章2節)、その上で、「無実の血」が語られています。エレミヤが、銀貨によって土地を買い取ったことも今回の出来事との関連で重要です(エレミヤ32章6~9節)。マタイは、その上で、エレミヤが、南王国ユダの滅亡を預言し、エレミヤ自らもその悲劇を体験したことをも重ね、これらを総合して、引用はゼカリヤ書からでも、その内容は、預言者の代表とされるエレミヤに属する。こうマタイは考えたのです〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 568--569.〕。
ユダの死へ