201章 ヘロデの前で
(ルカ23章6節~12節)
【聖句】
■ルカ23章
6これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、
7ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。
8彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。
9それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
10祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。
11ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。
12この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
【注釈】
【講話】
ホセア書10章には、北王国イスラエルがアッシリア王によって滅ぼされた時(前586年)に、サマリアの人たちは、自分たちの王が「子牛のようにアッシリアに運ばれて敵の王への貢ぎ物にされた」と嘆きます。古代の教父テルトリアヌス(160年頃生まれ~220年頃没)たちは、ピラトからヘロデへ、ヘロデからピラトへまわされる「メシアの王権」を具えるイエス様を、ホセア書で「貢ぎ物」にされるこの王の姿にたとえました。また、その間のイエス様の沈黙は、イザヤ書53章7節で預言されている「苦難の僕の沈黙」だと見なしました。ミラノの司教アンブロシウス(在位374年~397年)は、イエス様の沈黙と、奇跡の見せびらかしを拒否する姿勢とが、異邦人の権力者ピラトとユダヤ人の権力者ヘロデとを「和解させる」結果になったと指摘します。このように、イエス様は、自分を断罪しようとする者たちを和解させるのです。イエス様がまとった「つやつやの衣」は、祭司がまとう「執り成しと贖いの衣」だと見なされたのです。フランシスコ会のボナヴェントゥラ(1217年頃生まれ~1274年没)は、ピラトの「(うまく処理できない)負け惜しみのずるいやり方」とヘロデの「罪深い好奇心」とに触れ、さらに、訴える民衆の「不誠実」をも引き合いに出して、イエス様を「侮辱することで断罪しようとする」これらの不合理なやりかたを批判しました。「イエス様の姿やその奇跡を目で見るよりも、そのお言葉に耳を傾けるべきだった」というのが、ボナヴェントゥラを始め、伝統的な解釈のようです〔フランソワ・ボヴォン『ルカ(3)』271~272頁〕。
今回のピラトとヘロデの二人の支配者は、当時の「宗教」(キリスト教はまだ成立していません)と、その宗教を信じる霊能の個人と出会います。二人が置かれた立場はとても複雑で、これに対する明確な答えは、現在でもまだ見いだされていません。言わば、今回の出来事を皮切りに、これ以後、無数の「ピラト」と「ヘロデ」たちが、キリストの教会に対して、あるいは、教会の指導者たちに対して、あるいは、霊能のキリスト者個人に対して、どのように対処すべきか?を問われることになります。問われた人たちそれぞれは、それぞれの置かれた立場において、その答えを迫られることになります。イエス様個人と、イエス様を信じる教会共同体と、権力を保持する為政者たちとの「出会い」と「相克」、ピラトのずるい政治手法とヘロデのからかいと侮辱の対策、これらが、現在でも生じているのです。
例えば、中国では、国家に対して「無害」だと主張するキリスト教会も、その活動を制限されていて、扉を閉め切ったままのキリスト教会堂が数多くあると聞いています。とりわけ、国家権力に批判的なイスラム教徒の多いウイグル自治区では、一切の宗教活動が厳しく「取り締まり」の対象にされています。また、仏教の盛んなチベットでは、さすがに、これを「閉じ込める」ことがかなわないと見ると、中国政府は、仏教とその寺院を言わば「観光化」することで、寺院を訪れる人たちが、その信仰や思想に与(あずか)る代わりに、「外から見物」させることで、博物館並みの観光施設と見なすことで、宗教的な影響力を「無害で無力な」施設として国家に奉仕させる方策を採っていると聞きます。どこぞの国のキリスト教の会堂や聖堂も、同様に「観光」扱いされてはいないでしょうか。これなどは、ヘロデ並みの「おからかい」戦術です。香港のキリスト信者たちは、中国本土から送り込まれた人たちによって、「信仰行為の有害性をまくし立てられ、訴えられて」、やむなく台湾その他の地に避難する場合が絶えないと聞きます。
こういう厳しい状況の下で、権力に向かって「沈黙を保ちつつ」礼拝を続ける信者の姿は、ピラトやヘロデの前のイエス様そのものです。イエス様の沈黙は、何を語っているのでしょうか? それは、沈黙に入る直前に、宗教の最高指導者たちを前に語ったお言葉、「わたしが語っても、あなたたちは決して信じない。わたしが尋ねても、決して答えない。しかし、(わたしは言っておく)今から後、人の子は、(必ず、天に居ます)大いなる力ある神の右に座る(ことで、この世界に臨在する)」(ルカ22章67~68節)に言い表されています。あっと驚く、この大胆なお言葉が、ほんとうに起こる出来事を観るまで、この世の指導者たちは、イエス様に具わる真のお力を全く知らないからです。ヘロデの前のイエス様は、奇跡を見せびらかして助かる道もあったでしょう。しかし、主様は、そのようなことは一切なさらず、ひたすら、神がお備えくださった道を歩まれました。かく言う私も、主様に課せられた道を歩みたいと願うものです。
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