【注釈】
■マルコ15章15~21節
[15]『共観福音書対観表』では、このマルコ15章15節だけが独立して扱われ、次いで兵士たちによる愚弄行為が扱われ(マルコ15章16~20節前半)、続いてゴルゴタへの道が扱われています(マルコ15章20節後半~21節)〔『共観福音書対観表』314頁~315頁/NOVUM TESTAMENTUM GRAECE. 170.〕。それで、今回は、マルコ15章15節~21節をひとまとめにして、「十字架への道」と題して扱います。聖書協会共同訳の16~20節と、フランシスコ会聖書研究所訳の16~19節/20~22節との区切りとは、区切られる段落の前後が少し異なります。後述するように、マルコのこの部分は、史実に基づく最初期からの伝承にさかのぼるものでしょう〔A.Y.Collins. Mark. Hermeneia. 723. さらにNote(112) 〕。
【満足させる】これは、ピラトが「(ユダヤの群衆に)好意を示す」ことではなく、「納得させて(騒ぎを)鎮める」ためです。ピラトは、自分の個人的な感情や自己流のリンチ(私刑)ではなく、ローマの官憲としてどこまでも「公平/公正」な処置であることを示そうとしています〔France. The Gospel of Mark. NIGTC. 634.〕。
【鞭打ち】十字架刑に伴い、刑に先立って行われるべく定められた「鞭打ち刑」のことです。「鞭打ち」の原語はラテン語「フラゲロー」で、ローマ式の鞭打ちは、市民権を持たない「非ローマ人」や奴隷に対して行われることが多く、彼らを杭に縛り、先端に骨や金属を付けた皮紐の鞭が用いられました。40回を限度とするよう定められていましたが、実際は、それを越えることも多く、骨が出るまで打たれて、死にいたる場合もあるむごい仕打ちでした〔Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 593〕。十字架刑に先立つ「鞭打ち」は、十字架上での死を早めるためであったという説もあります。
【十字架刑】古代の十字架刑は、最も残酷な処刑と見なされていましたから、ギリシアやローマの著作では、この極刑を同国の人に課するのを控えて、もっぱら「野蛮人」と見なされた異邦の民や奴隷に限っています。イエスの頃、この極刑は、敵方へ寝返った軍人、(国家的な)秘密を外部に漏らす、政治的反乱を企てる、支配者を殺害、あるは支配者への善からぬ予言、(夜間の)聖なる儀礼を汚す行為、黒魔術、国家的に重要な遺書の偽造などの場合に適用されました〔A.Y.Collins. Mark. Hermeneia. 722.〕。
[16]マルコの記述では、イエスへの侮辱的な行為が、最高法院での判定の後と(マルコ14章65節ではユダヤ人による)、ピラトによる死刑判決の後と(マルコ15章16~20節ではローマ兵による)、二度にわたって行われます。侮辱行為は、実際は、一度だけであったという説もありますが、ローマ兵から見れば、イエスとの会合は、これが初めてですから、そこでも愚弄が行われたと見ることができます。イエスは、おそらく、最初のユダヤ人とその指導者たちによる侮辱の仕業で、身体的に弱くなり、ローマ兵による二度目の愚弄の際には、ただなされるがままの状態であったと思われます。その後では、十字架を担ぐ力もままならず、途中で別人に十字架を担がせた理由も納得できます〔France. The Gospel of Mark. NIGTC. 636.〕。
【部隊の全員】ユダヤの「代官」であるピラトに託されていたのは、ローマ軍団の補助隊(主として歩兵)で、ユダヤの外の、カイサリアあるいはサマリアなどの出身の兵士たちであったと思われます。補助小隊は、全員でも、600人を上回ることはないでしょう〔前掲書637頁〕。平常の場合、部隊は、神殿に隣接するアントニア砦に駐在していますが、総督のピラトがエルサレムに来た時には、その護衛のために「総督の官邸」に駐留していたのです〔Collins. Mark. 725.〕。
[17]【紫の服を着せ】マルコが言うこの「紫」は、とりわけ、古代オリエント(中東)では、「国王」だけがまとうことができる衣の色を指しているのでしょう。「着せる」とある動詞も、新約聖書では通常見られない動詞ですから、「王様並みの紫の衣でドレスアップして」という愚弄した言い方になります。
【茨の冠】草木などで編んだ冠は、とりわけ、オリンピックなどで、競技の勝利者に観衆の前で被せられました。「茨」は、通常、そのトゲによる痛さを意図すると言われています。ここでは、シリア産の「茨」が用いられたという説がありますが〔Collins. Mark. 725.〕、具体的にどのような物か確かでありません。茨の「突き出たトゲ」は、王冠の「輝き」をイメージするという解釈もあります。
[18]ローマ帝国が、とりわけユダヤ人だけを差別したり蔑(さげす)んだりしたとは思えません。しかし、ユダヤ人から告発され、帝国に挑戦する「ユダヤ人」として、総督のピラトから死刑の判定をうけた囚人を任されたローマの兵士たちにしてみれば、この囚人を「ユダヤ人の王」に見立て愚弄する絶好の機会を得たことになります〔France. The Gospel of Mark. NIGTC. 636.〕。ただし、マルコ福音書の読者たちにしてみれば、イエスこそが、「メシア」として遣わされた「(真の)ユダヤ人の王」の名にふさわしいという想いがあったでしょう(マルコ16章19節)。
[19]マルコの念頭には、イザヤ書50章6節と同53章3節~5節の「苦難を受ける主の僕(しもべ)」の姿があったと思われます。イザヤ書の「苦難の僕」は、マルコの頃のキリスト教会によって、メシアとしてのイエスへの預言だと見なされていたからです。
【葦の棒で頭をたたく】ここで、マルコは、ミカ書4章14節(七十人訳ではミカ書5章1節)の「彼ら(ユダ王国に敵対する異邦の民)はイスラエルを治める者の頬を杖で打つ」を念頭においていると思われます〔Collins. Mark. 727.〕。ミカは、イザヤとほぼ同時代の預言者で(前8世紀)、アッシリア帝国によって北王国イスラエルが終末を迎え、南王国ユダもその脅威に曝(さら)されていた時代に預言しました。なお、国王に対して「跪(ひざまづ)いて敬意を表する」行為は、1世紀の東地中海でも見られないほどですから、いかにもわざとらしい「からかい」方です〔Collins. Mark. 728.〕
[20]【侮辱したあげく】マルコは、マルコ10章34節でのイエスの受難預言を念頭においているのでしょう。
【元の服を着せた】十字架刑に処せられる場合は、通常、裸のままの状態で刑が行われました。ここでのローマ兵の行為は、イエスへの「思いやり」とも受け取れますが、「(イエスを)外へ引き出した」とありますから、ユダヤ人がとりわけ「裸を嫌う」ことを知った上での行為だと見ることもできます。
[21]「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」とあるのは、マルコの教会に伝わる受難伝承に組み込まれていたと思われます。このような「些細なこと」が伝承されていたことは、これが史実に基づくものであったからこそ、「伝承にしっかり組み込まれた」と見なすことができます〔France. The Gospel of Mark. NIGTC. 641.〕。シモンとその二人の息子アレクサンドロとルフォスは、たまたまシモンがイエスの受難の十字架を担がされたことが機縁となり、後にキリスト教徒になったと言われています。彼らがキリスト教徒になったことは、マルコ福音書の読者たちにも知られていたでしょう〔前掲書〕。ヨーロッパの中世後期(15世)では、シモンは、イエスの苦難に信従する模範とされます〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』I(4)385頁〕。
【キレネ人】キレネは、イエスの頃のローマ帝国の(ギリシアに向かい合う)北アフリカ沿岸にある「キレナイカ州」の首都です。交易の盛んであった地中海では、キレネにもユダヤ人の集団があり、エルサレムには、キレネ(系の)人のための会堂がありました(使徒言行録6章9節)。クリスチャンになったキレネ系の人がいたことが使徒言行録11章20節にでています。シモンは、たまたま、エルサレムの外の「田舎から出てきた」(マルコ15章21節)ところをローマ兵に「強制されて」、イエスの十字架を担ぐことになります。シモンのこの行為から、彼は、イエスの十字架を担ぐことで、イエスの「弟子になった」人だと見なされるようになります。この事を機に、シモン親子がクリスチャンになったという伝承が伝えられていましたから、マルコもこの伝承を念頭においています。しかし、シモンの場合、言わば、強制的に担がされたことを思えば、この「イエスの弟子」設はすんなり受け容れがたいところがありましょう。「弟子のイメージに与ることはできても、弟子の行為に与るとは言えず、弟子を見倣おうとしたが、弟子の模範だとは言えません」〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1188--89〕。なお、「ルフォス」は、ローマ16章13節でパウロが言及している「主にあって選ばれたルフォス」のことだと思われます。  
■マタイ27章24節~32節
 マタイ27章24~25節は、マタイだけの記述です。ピラトの妻からのメッセージと同様に、ここもマタイ独自の資料からでしょう。ここでも鍵となるのは、マルコ15章13節の「十字架につけろ」と叫ぶ群衆の叫びです。ただし、今回のこの箇所のマタイの扱い方には、少なからぬアイロニー(皮肉/内容に潜む裏と表の二重の意義)がこめられています〔John Nolland.The Gospel of Matthew. NIGTC. 1176--79を参照.〕。
 ユダの裏切りを利用したユダヤの指導者たちは、彼らの思惑(おもわく)通り、一般群衆に悟られることなく、密かに事を運ぼうとしていました。ところが、ここに来て、ピラトの「ためらい」によって、ユダヤの指導者らの意に反して(マタイ26章5節)、群衆から騒動の気配が生じたのです。そこで、ピラトは「両手を洗い落とす」仕草を見せます。この行為は、単に「手を洗う」ことではありません。
 「洗い落とす」(動詞の中動態)という言い方は、旧約聖書では、独特の祭儀的な意味を帯びていて、しかも、その内容は、必ずしも肯定的ではなく、やや否定的なニュアンスを帯びる場合があります。「自分では清いと思いこんで、自己の(汚れた)歩み方を<洗い落とさない>」(七十人訳箴言30章12節)とあり、また、北王国イスラエルの王が南王国ユダの王ヨシャパテと組んで、ラモト・ギルアデと戦った時に、ヨシャパテは、我が身を案じて変装しますが、たまたま、敵兵の放つ矢に射貫かれます。王が死んで、王の戦車からその血を「洗い落とす」と、「豚や犬がその血をなめ、娼婦たちがその血で体を洗った」とあります(七十人訳列王記上22章38節)。
 「両手を洗う」行為は、自分には罪がない「無実の罪」を示すための祭儀的な行為です(七十人訳出エジプト30章17~21節/七十人訳詩編25篇6節=現行訳詩編26篇6節では「手を洗う」「無罪」などがマタイと共通)。言うまでもなく、洗う者には「ほんとうに無実である」ことが求められます。
  旧約聖書で、「血の責任を免れる」出来事としては、例えばサムエル記下3章に記された「アブネルの血の責任」があります。イスラエルの王となった将軍サウルの家と、後に王位に就くユダの家ダビデとの間に争いが生じます。ダビデの家臣ヨアブは、サウルの家中でダビデに味方すると思われるアブネルに(欺きと悪巧みが潜むと)疑いを抱きます。ヨアブは、人を遣わしてアブネルを呼び寄せ、アブネルを刺し殺します。後でこれを聞いたダビデは、「私と私の王国は、アブネルの血について、主の前に潔白だ。その血は、ヨアブの頭とその家との降りかかる」(サムエル記下3章28~29節)と宣言します〔Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 591〕。
 さらに、申命記には、たまたま殺された人の死体が発見される出来事が記されています。「死体」に「汚れ」を覚えた近くの村の人たちは、だれもその犯人を見つけることができません。そこで長老たちは、まだ軛(くびき)を負ったこともなく、使われたこともない雌の子牛を刺し殺して、その子牛の頭の上で手を洗い、「イスラエルの中で流された<無実の血>の責任を(わたしたちに)負わせないでください」と主に祈ることで、「無実の血」が流された「罪の赦し」を祈り求めます(七十人訳申命記21章6~9節)。血が流された場所に住むその民は、こうして「殺人の血の汚れ」の責任を免れることができたのです。マタイが記述する今回のピラトの「手洗い」は、申命記のこの記事を模しているという指摘があります〔Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 590〕。ピラトは、あたかも「伝染病に汚染されないため」のように、「両手を洗い落とす防護策」を講じるのです〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1177.〕。
 しかし、マタイの記述では、ピラトは、ここで、さらにもう一歩、対策を進めています。ピラトは、群衆が「無実の血」を流そうとしていることをはっきりと見抜いています(マタイ27章24節の原典には、「この人の血」を「この義人の血」と読む多数の有力な写本の異読があります)。ピラトは、自分と群衆とが共に「無実の血」の責任を負わないよう企画する代わりに、自分に代わって群衆に裁きの判断を任せることで、血の責任を群衆に負わせようとするのです。これは、ちょうどユダが、イエスの血の責任から「手を引こう」とした行為にあたります(マタイ27章3~4節)。祭司長たちがユダに告げた言葉をピラトも群衆に告げます。「私(たち)の問題ではない。お前(たち)の問題だ。」しかし、祭司長たちもピラトも、これでイエスの「血の責任」から完全に免れることができたとは思えません〔Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 591〕。
 マタイの描く群衆は、ピラトのこの責任転嫁を「進んで引き受けます」。群衆はここで、最高法院と同じ決断を下します。「彼は死に相当する」(マタイ26章66節)。群衆は、さらに、その責任負担を広めて、自分たちの子孫までも、その責任を負う覚悟があると宣言します。 群衆による子孫へのこの責任負担の宣言については、サムエル記下14章で、テコアの女が、アブシャロムの赦しを得るために、ダビデ王に対して行った出来事が、ここに反映しているのではないか、と指摘されています〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1178.〕。
ダビデ王の長子アブシャロム皇子は、父王に対しておぞましい罪を犯し、その結果、死を免れるために逃走します(サムエル記下13章=七十人訳)。そこで、ダビデ王の家臣の一人ヨアブは、テコアから知恵のある女を呼び寄せて、策を授けます。テコアの女は、王のもとへ行き、こう告げます。「私には二人兄弟の息子が居ましたが、二人の喧嘩争いの結果、一人が殺されました。親族は、殺された息子の<血の復讐>を求めて、生き残ったほうをも殺せ言います。王様、私に世継ぎがいなくなることのないよう、どうかお取り計らいください。」ダビデ王は彼女に答えて言います、「あなたの息子が血の責任を負わされて殺されることがないよう私がとり計ろう。」すると、テコアの女は、王に訴えて言います。「王様は、私の願いを聞き入れて、息子から血の責任を免れさせるよう取り計らってくださいます。では、なぜ王様は、血を流した責任を負って逃走しているご自分の息子アブシャロム皇子を赦すようとり計ろうとなさらないのですか?」ダビデ王は、この女の知恵が、ヨアブから出ていることを知って、アブシャロムは血の責任を赦されて、王宮へ戻ることができました(サムエル記下14章1~24節=七十人訳)。
 実は、マタイによる今回のピラトの群衆への責任転嫁は、その裏に、サムエル記14章のこの「血の責任からの赦し」が、潜んでいるのではないか。こういう解釈があります。イエスの「無実の血」への責任は、最高法院、祭司長たち、長老たち、ユダ、イエスの弟子たち(とりわけペトロ)など、「全員に有罪の責任」が負わされます(マタイ23章35節~36節)。しかし、「無実の血」を流す罪科をあえて甘受するイエスの受難は、すべての人の罪を露わにすると同時に、そのすべての人に、(神からの)赦しと立ち直りの可能性をも約束するのです(マタイ27章25節)〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1179.〕。
[24]【騒動が起こる】ユダヤの指導者たちが怖れていた事態が(マタイ26章5節を参照)起こりそうになったのです。ユダの裏切り行為によって、指導者たちの思惑通り、イエスの逮捕と処刑が密かに行われようとしていたのですが、ここに来て、ピラトの「ためらい」によって、群衆から騒動の気配が生じたのです〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1176〕。なお、「この人の血」を「この義人の血」と読む異読が、多数の有力な写本やパピルス断片にあります(Novum Testamentum Graece. 96. Apparatus.)。
[25]マタイ23章36節のイエスの預言では、「義人の血」の責任が「今の時代に降りかかる」ですが、ここ27章25節では「私たちの子供たちへ降りかかる」です。「キリスト教の歴史においては、マタイ27章25節への語りにこめられている真意を汲み取ることで、その意義を十分適確に評価してきたとは言えない。その結果が、ユダヤ人に向けられる最もクリスチャンらしからぬ憎しみと迫害である」〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1179〕。
[26]【そこで、ピラトは】マタイは、この節の冒頭を「そこで/その時に至って」で始めた上に、マルコにはでてこない「ピラト」を出しています。ピラトが、前節での群衆の叫びに押されて、ようやく決断したことを印象づけるためです。
【鞭打ってから】マルコの記述では、語順から判断して、イエスをローマ兵に「引き渡し」、イエスを鞭打ち、それから、十字架刑へ向かうことになりますが、マタイの語順では、先ず「鞭打ち」があり、その後で「引き渡され」、十字架刑へ向かうことになります。マタイの記述のほうがより「論理的」で〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1179〕、史実に即しているのでしょう〔Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 593〕。
[27]【(イエスを)連れて行く】マタイは、マルコの原語「アパゴー」(引き出す/連れて行く)に代えて、原語「パラランバノー」(受け取る/伴う/連行する)を用いています。「パラランバノー」は、マルコ14章33節=マタイ26章37で、イエスが、ゲツセマネで、ペトロとヤコブとヨハネを祈りに<伴って出かけ>、苦しみもだえる受難の場面に出てきます。「大祭司カイアファのところへ<連れて行く>」(マルコ14章53節=マタイ26章57節)では、どちらも「アパゴー」で、「イエスを縛って(ピラトのところへ)<>連れて行く>」(マルコ15章1節=マタイ27章2節)では、マタイは「アパゴー」でマルコは「アポフェロー」(力づくで連行する)です。この27節で、マタイは、意図的に「パラランバノー」を用いることで、イエスの受難を伝えようとしているのです〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1181を参照〕。
[28]~[30]【赤い外套】マルコの記述では「紫の服」ですが、マタイの原語は「コキノス」(深紅/緋色)です。マルコの「紫」は、王の衣を意識しているのでしょう。しかし、よほどの高位の将軍以外に、一般の兵士たちが、実際の王の衣の色物を所持していたとは考えられませんから、 マタイは、ローマの兵士たちの外套の色に近い「赤に近い色」をイメージしたのでしょう〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1182〕。ここでのイエスの身なりは、頭に茨の輪を載せて、全身裸体のまま、右手と右胸の部分までを露わにして、左肩から斜めに右腰へ流れる帯のような)赤い外衣をまとう姿でしょう。ほんらいの姿は 首の丸い白い衣で全身を足下まで覆い、白衣の上に、左の肩から降りて全身を包むように、帯状の外衣をまとう姿ですが。
【右手に葦の棒を】マタイは、マルコの「茨で編んだ冠」を「茨の冠」に変え、マルコの「頭に巻き付ける」(現在形)を「頭に載せた」(アオリスト)と簡略にしています。さらにマタイは、「それに、彼の右手には葦を」を加えています。マタイは、マルコ15章19節に「(兵士たちが)彼の頭を葦で叩いた」とあることから、その行為の前に、王が手にする「王笏」(おうじゃく)に見立てて、葦をイエスの右手に持たせることで、「ユダヤ人の王」らしさを引き立てたのです。これは、続く30節で、「葦の棒を取り上げてイエスの頭を叩く」(侮辱的な)行為が、読者にいっそう強く印象づけられるためです。なお、マルコ15章18節では、兵士たちが、葦の棒でイエスの頭を叩いてから、ひざまずいて拝んでいますが、マタイ27章29~30節では、葦の棒を持たせて、ひざまずいて拝んでから、わざわざその葦を取り上げて、イエスの頭を叩いています。マタイは、ここで、「幼子をひれ伏して拝んだ」(マタイ2章11節)東方の博士たちをも念頭においていますから、兵士たちの行為にこめられた「神の皮肉」がいっそう際立ちます〔Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 604.〕。なお、「ユダヤ人の王万歳」という「メシア嘲り」の後で、イエスの頭を(葦で)叩く行為は、最高法院で、「人の子が天の雲に乗って再び来臨する」というイエスの「メシア宣言」の後で、議員たちがイエスに唾を吐きかけ、こぶしで殴った行為と共通します〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1184〕。
[31]~[32]【侮辱したあげく】兵士たちの様々な侮辱がようやく「終わった」ことを指します。
【元の服を着せ】十字架刑に処せられる者は、ほんらい裸体で刑場まで歩いたのですから、ローマの兵士たちは、イエスへの仕打ちを「手加減した」〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1185〕とも考えられます。あるいは、「裸を嫌う」ユダヤの群衆を考慮したとも考えられます。ローマ兵は、イエスを十字架につけてから、再び「衣を脱がせ」、その衣をクジで分け合っています。
【引いて行った】大祭司カイアファの裁きへ「引かれる」時へも、ローマのピラトの裁きへ「引かれる」時も、刑場へ向かう時も、同じ動詞「アパゴー」です。最高法院とピラトの裁定を経た公式の十字架刑ともなれば、刑場へ向かうイエスには、それなりの警護の兵士たちが同伴したと考えられます〔Nolland.The Gospel of Matthew. 1185〕。十字架の刑棒は、縦棒だけが、予め刑場に据えられていて、受刑者は、その横木だけを担いで刑場へ向かうしきたりでした。イエスも、(それなりに重くて長い)十字架の横木だけを担いで歩んだのです。
■ルカ23章24~32節
 ルカの記述では、ローマ兵による侮辱行為が省かれています。ルカは、ヘロデの部下による侮辱行為を告げることで、ローマ兵を同様の行為から免れさせているという見方があり、これによって、ピラトの判決から十字架刑へ直結します。ルカの今回の箇所は、(喪の)行列で嘆く女性たちとホセア10章8節の預言を核に、エルサレムの滅亡を告げるイエスの預言が中心です。そこでは、「不妊の女」(29節)に触れることで、「災いに遭わない祝福」も預言されています〔I.Howard Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. 862.〕。なお、ルカの意図では、23章の後半(26~56節)は内容的に一体で、その中心に来るのが42~43節のイエスの言葉です〔F・Bovon. Luke 3. 293/294.〕。ただし、ルカの資料は、マルコ福音書とルカの独自資料の両方からです〔Bovon. Luke 3. 295.〕。
[24]ルカは、「群衆による(十字架要請への叫び」を省筆して、「ユダヤ人の要求」が通ったことだけを告げています。だから、ピラトが群衆に要求されて「やむを得ず」判決を下したという印象を受けません。
[25]ルカは、バラバが「暴動と殺人のかどで投獄されていた」ことを強調しますから、「バラバと無実のイエス」との対比がはっきりします。しかし、「引き渡された側」とはいったいだれのことなのか、この点が明瞭ではありませんから、ローマ兵よりも、ユダヤ側のほうに注目が移ります〔Marshall. The Gospel of Luke. 863.〕。
[26]シモンに強制して十字架を担がせたのは誰なのか? これをルカは明らかにしていません。「ローマ兵」は、36節の十字架の場面で初めて?登場しますから、ここで担がせたのは「ユダヤ人」であるとも想定できます。ルカは、マルコの「背負って運ぶ」を「持ち上げて(担いで)運ぶ」へ変えて、「イエスの後から(従った?)」を加えています。ルカにとって、イエスの十字架を(自ら?)担いだキレネ人シモンは、「イエスの弟子の理想の姿」だと映ったでしょう。ただし、ここでルカは、シモンと「嘆き悲しむ女たち」とを対比させているのではありません〔Marshall. The Gospel of Luke. 863.〕。なお、ルカは、マルコにでている「シモンの二人の息子たち」には触れていません。(読者にとって)父のシモンほど知られていないので、不必要だと判断したのでしょう。
[27]葬儀の行列では、「嘆き悲しんで」哀悼を示す女性たちが加わるのが習わしですから、ここでの女性たちの登場もこれに従っています。ただし、ルカの記述では、イエスの一行を見守る群衆が、「嘲りよりも悲しみ」を抱いていることが、女性たちの嘆きから伝わってきます。この哀悼は、処刑される者の苦痛を和らげる「麻薬的な効果」〔Marshall. The Gospel of Luke. 864.〕をもたらすためもあります。それゆえに、イエスは、彼女たちの哀悼の意を「心に留めて振り向いた」(28節)のです。
[28]ルカ福音書では、エルサレム滅亡への預言は、すでに、ルカ11章48~51節/ルカ13章1~5節/同33~35節/ルカ21章20~24節で告げられています。今回そこに、ホセア10章8節の預言が入り込んできます。用語はルカによるものですが、その内容は、アラム語にさかのぼるキリスト教会の最初期からの伝承を受け継ぐ資料からだと推定されます〔Marshall. The Gospel of Luke. 862.〕。
【エルサレムの娘たち】「エルサレム」とあるのは、この女性たちが、ガリラヤからイエスに従って来た女性たちではなく、イエスの一行を見守るエルサレム市民たちだからです。ただし、「エルサレムの娘たち」は、とりわけ「女性だけ」を念頭においているのではなく、「エルサレムの住民たち」の意味もこめられています。イエスは、ここで、旧約聖書の預言を引き合いに出しています。「エルサレムの娘たちよ。私(イエス)の(苦痛の)ために泣くな。むしろ、自分たち(への災い)のために泣きなさい。また、(自分たちの)子供たち(にも及ぶ災害)のために泣きなさい」。哀悼に向けられたこの言葉に近いのは、サムエル記下(=七十人訳「第二王列伝」)1章24節で、ダビデが、サウル王と皇子ヨナタンが、戦(いくさ)で亡くなったことを聞いた時の言葉、「イスラエルの娘たちよ、サウル(王)のために泣け」とある(ダビデの)言葉です。
[29]【(子を)産んだことのない胎】ルカはここで、「身重の女と乳飲み子を持つ女」がイスラエルに下る神の怒りによる苦難と災いを受ける(ルカ21章23節)とあるイエスの預言を繰り返しています。この預言は、ほんらい否定的な意味を帯びていて、それがルカ独自の資料へ伝承されていたのですが、今回のルカ23章29節では、これが、「災いに出逢わなくて済む幸い」“a calamity beatitude"という独特の皮肉な「幸い」の性格を帯びるようになりますBovon. Luke 3. 295.〕。ここには、七十人訳イザヤ書54章1節「喜べ。子を産むことのない不毛(なあなた)」が反映していますBovon. Luke 3. 303--304.〕。北王国イスラエルがアッシリアによって滅びる戦(いくさ)のために、「子を産むこと」で、父親が居ない「子供たち」が生まれるからです。
[30]ホセア10章8節には、「その時、彼ら(イスラエルの民)は、山に向かって『我々を覆ってくれ』と祈り、丘に向かって『我々の上に崩れ落ちよ』と言う」(ヨハネ黙示禄6章12~17節を参照)とあります。ホセアは、北王国イスラエルがアッシリアによって滅びることを預言しています。黙示的な終末へのこの預言では、死を祈り求めても得られないほどの「善いは悪い」「悪いは善い」という価値観の逆転が生じます。ある人たちが言うように、これは「全面的な核戦争が起きることで放射能の汚染が天から降り注ぐ事態」を指すのでしょうか。
[31]「生の木」と「枯れた木」のこの対比は、イエス以前の時代からユダヤに言い伝えられてきた諺(ことわざ)ですから、イエスのこの言葉は史実に基づくと思われます〔Bovon. Luke 3. 305.〕。「まだ若いイエス」が生木(なまき)なら、年老いたエルサレムは「枯れ木」です。以下に幾つかの解釈をあげます〔Bovon. Luke 3. 305.より〕。
(1)ローマ兵が、無実のイエスさえこのように扱うのなら、罪あるエルサレムをローマはどんなふうに扱うことか。
(2)ユダヤの指導者たちが、ユダヤを救う者をこのように扱うなら、彼らは、どんな報いをうけることか。
(3)人類が、その罪の始まりにおいて、このように振る舞うのなら、罪が頂点に達したらどんな振る舞いをするのか。
(4)神が、イエスさえもこのようにされるのなら、悔い改めない人類はどんな扱いを受けるのか。
(5)正しい者がこんな報いを受けるのなら、邪悪な者はどんな裁きをうけることか。
[32]マルコ=マタイの「(武器を持った)強盗」(ローマ帝国への反逆者をも示唆する)をルカは「盗人(ぬすっと)/犯罪人」と言い換えています。32節は26節と共通するところがあり〔Bovon. Luke 3. 306.〕、26節に続けると分かりやすいです。32節は39~43節を導き出します。
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