203章 十字架への道
   マルコ15章15〜21節/マタイ27章24〜32節/ルカ23章24〜32節
                    【聖句】
■マルコ15章
15ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
16兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
17そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
18「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
19また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
20このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
21そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
■マタイ27章
24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
■ルカ23章
24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。
25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
27群衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
28イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
29人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
30そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。
31『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
 
                   【注釈】
                   
【補遺】
 
                   【講話】
 十字架は、キリスト教のシンボルです。これが定着したのは、ヨーロッパの中世に描かれた図像、十字架に付けられ頭に荊冠を頂くイエス様の姿からのようです。「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を意味するINRIと書かれた札の下で、十字架にぶら下がる荊冠のイエス様に向かって「侮辱」が行われますが(マタイ27章37〜43節)、今回は、その一歩手前の場面で、荊冠で戴冠する「ユダヤ王」イエス様への侮辱と鞭打ち行為です。
 この侮辱の様子も、ヨーロッパの中世に描かれていて、二人の男が、面白そうに両側から太い棒を交差させて、茨の冠を載せたイエス様の頭の上から、ニヤニヤ笑いながら茨の冠を押さえつけています。イエス様は、顔中に垂れ下がる血を流して、(血を想わせる)赤い衣をまとっています〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』EKK新約聖書註解(Iの4)教文館365〜75頁の解説と図を参照〕。
 スイスの女性画家ウイリー・フリース(Willy Fries: 1907--1980.) が描いた一群の「大いなる受難」の絵(The Great Passion 1936--44)の一つである「荊冠と侮辱の場面」では、ヘルメットを被る現代の兵士3人と、白衣の僧侶(聖職者)と、身なりの立派な市民?とが、イエス様を囲んでいます。兵士二人が、嘲り顔と無表情で、イエス様の頭上の荊冠を太い棒で上から押さえつけています。イエス様は、血まみれの顔で、目を見開き、無言で、葦の棒を右手に、苦しそうにじっと堪えています。傍(かたわ)らで、市民と僧侶と兵士一人が、そのイエス様をからかうように拝んでいます〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』371頁の図(41)を参照〕。
 これを観る人は、ヘルメットの兵士から、第二次大戦中に、軍隊によって苦しめられ殺された数知れない無実の人たちの顔を想起するでしょう。2025年5月現在の私から観れば、その顔は、イスラエルの攻撃に曝されているパレスティナのガザの人たちの顔と重なります。
 今回の場面について言えば、マルコの記述によるピラトの最終判決は、(ピラトが)ユダヤの群衆の叫びに押された結果、心ならずも行われた処置であって、暴動に加わったバラバよりも平和を求めたイエス様のほうを処刑するよう選んだのは、ひとえにユダヤの群衆のほうであることを明確にしている。このユダヤの群衆の誤った選択こそが、以後の(ユダヤとローマ帝国との)ユダヤ戦争の動因であり、その結果として、ユダヤの滅亡が生じることになった。マルコは、このことを伝えようとしている〔A・コリンズ『マルコ』ヘルメネイア721頁〕。こういう解釈が現在でも行われています。
 しかしながら、ここでは、「だれのせいか?」を問うよりも、この出来事それ自体が、私たちに語りかけていることのほうが重要で、悪いのは、「十字架せよ」と叫ぶユダヤの群衆だけでなく、「お前のせいだから、お前が始末しろ」とユダに向かってすごむ祭司長たちも、手を洗い落とすピラトも、イエス様が流す「無実の血」の責任を免れたとはとうてい思えません〔Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 590など〕。
 今回は、「地上にいた時」の「王様のイエス様」です。このイエス様は、王座ではなく十字架から支配し、仕えられる代わりに仕える王です。ひたすら受け身で不正に堪えるその姿は、「弱さに潜む強さ」、「賢者を自称する者を恥じ入らせる愚かさ」の見本です。そこに見えてくるのはは「耐え忍ぶ愛」です〔Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 605〕。だから、荊冠のイエス様から「人間イエス」の苦しみを我が身に覚えて、キリストと「共苦する」(ドイツ語で「ミットライデン」)ことで、人間の罪の重さを実感すると同時に、その「人間イエス」が、神性を宿すことを想起することで、「受肉の神秘」を想い、人をその罪から解放するために苦しまれたイエス様を注視するようウルリヒ・ルツは勧めています〔前掲書〕。
             共観福音書講話へ