206章 イエスの死
(マルコ15章33〜39節/マタイ27章45〜54節/ルカ23章44〜48節)
                【聖句】
■マルコ15章
33昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
36ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
38すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
39百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
■マタイ27章
45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酔いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
49かの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
51その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
■ルカ23章
44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
             【注釈】
 
             【講話】
 今回の十字架の場面では、イエス様が十字架につけられている状態が描かれます。こういうイエス様の姿を目にして、嘲る人、批判する人、同情する人、悲しむ人、無表情な人など、周囲の人たちそれぞれが、あらゆる表情を浮かべるのが見えてきます。ほとんどは、「虚しい」姿のイエス様の有り様を目にして、残酷な笑いを浮かべますが、十字架の側近くに居合わせた人たちの中には、せめて、死に際に喉の渇きを癒やしてあげようと「酸いぶどう酒」を差し出す人が居ます。ところが、注釈書を見ると、この「好意的」とも思える仕業さえも、からかいと、意地悪の仕業にほかならない「無くもがなの」仕業だと見なされています。「一事が万事」で、渇いた人に「酢を飲ませる」という好意と憐情からでた行為さえも、イエス様の十字架の出来事の中では、悪意と嘲りを帯びて受け取られるという事態を避けることができません。これが、十字架の出来事が帯びるほんとうの怖さです。
 こういう事態をもたらしたその原因はなんでしょう? これを見分けるのは難しいですが、民衆の趨勢を巧みに操(あやつ)って、「無実な人を処刑するのか?」と問いかけるピラトに向かって、「十字架につけろ」と民衆をして一斉に叫ばせた「指導者たち」の策謀が、イエス様の十字架刑の出来事の背後に潜んでいます。
 この世には、自分が「正しい」と「信じてはいけない」人が居ます。こういう人になるのはとても怖いこと、悲しく、しかも恐ろしいことです。なぜなら、こういう人は、自らを正しいと信じるがゆえに、平気で人を傷つけ、人を殺すことが<できる>人だからです。聖書は、こういう人のことを「神を侮る愚か者」と呼び、「人を侮る傲慢な者」と呼んでいます。なぜ、こういう人になるのがそんなに怖いのか? それは、こういう人が、イエス様を十字架につけた人たちだからです。ユダヤの国を滅ぼしたのは、こういう「人知傲慢」の人たちです。集会に分裂を持ち込み、人への愛を人への憎しみに変える人たちも彼らと同類です。こういう「うぬぼれ」こそ、民を誤導し、イエス様を十字架刑にした人たちの正体です。
 かく言う、わたし自身も、うっかりすると、こういう「自己傲慢」な「人知愚劣」に陥る危険性があります。イエス様を通じて注がれる「霊知謙虚」で「愛光無限」の霊性を忘れると、まさに「この罪」に陥る危険性が増します。「食べてはいけない」と言われた知恵の木の実を神に逆らってあえて食べる罪です。
 しかし、十字架刑の最後には、「この人こそ真の神の子だ」という告白が続きます。 読者・聴衆にとって、この「神の子」発言は、イエス様が「見かけとは全く異なる」人物であったことを証言する重要な意味を帯びてきます。さらに言えば、ここで百人隊長が言う「神の子」は、一ユダヤ人が信仰する特定の神学的な内容に限定される「神」のことではなく、地位も教養もないごく普通の人が口にする「カミサマ」のことであり、それは、人類普遍の「宗教する人」が発するごく身近でごく当たり前の「信心のための」神様のことです。「神様のお子」は、この意味で、「ほんとうに崇拝するに値するお人」であることを指しています。だから、ルカは、この意味をこめて、百人隊長に「この人は<正しい>お方だ」と言わせるのです(R・T・フランス『マルコ福音書』659頁/660頁より)。
 イエス様の十字架の死に伴って、神殿の垂れ幕が二つに裂けます。この「垂れ幕」は、「贖いの座」と人との間にあって、人から贖いの座を「仕切る」という霊的な意味を帯びています(出エジプト35章12節を)。だから、「神殿の幕が真っ二つに裂ける」は、人が、そのあるがままで、「天が裂けて」、天からの神の御霊が、イエス様の十字架の「死」の「暗闇の出来事」を通じて、まるで鳩が羽ばたく時の風のように、人に吹き付つけてくるのです。これが、イエス様の十字架から降る私たちへの「神の賜(たまもの)」です(マルコ1章10節)〔A・Y・コリンズ『マルコによる福音書』ヘルメネイア:761〜763頁〕。
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