【注釈】
■マルコ15章
[33]原文の「第六の刻」は、朝6時から数えてちょうど正午(12時)になり、「第九の刻」は午後3時になります。33節は、前マルコの資料からで、ここには、70人訳アモスア書からの次の言葉が預言として想定されています。
「その日には、起こるであろう」と
主なる神は言われる。
「太陽は真昼に沈み、
地では昼間に光が暗くなる。
わたしは、あなたたちの祭りを喪に変じ
あなたたちの歌を哀歌に変える。
・・・・・
そして、それ(祭り)を愛する者への喪に変え
それ(「彼」とも読む)と共なる者たちへの哀しみとする。」
(70人訳アモス書8章9~10節)
イスラエルの預言者アモス(前8世紀)は、イスラエルの捕囚期以前の時代の初期の預言者です。彼は、南王国ユダから北王国イスラエルへわたって預言し、南北の王国に向けて、その不正のゆえに、「おごれる人たちに」に対して、厳しい「裁き」を預言します。引用は、彼に啓示された「裁き」の六つヴィジョンの第4番目からで、「終わりの日」についての預言です。「あなたたちの祭り」とあるのは、罪の赦しのために、朝と夕に、主への「宥(なだ)めの犠牲」として献げる小羊の供え物のことで、イスラエルでは中核となる祭儀です(出エジプト29章38節~42節)。太陽の光は、正義の象徴であり、それが最も輝く「正午」は、「裁き」をも表象します。だから、マルコが意図した引用の内容は、
(1)十字架のイエスの死の時が、全地への「裁き」を具えていることへの証しです。
(2)「暗闇」は、さらに、その「イエスが飲む(死の暗闇の)杯」(マルコ14章36節)をも象徴します。
(3)さらに、七十人訳ギリシア語の「それを愛する者への喪に変える」は、ヘブライ語原典では、「独り子をなくしたような喪に服させる」です。これから判断すると、「(全地への)裁きの時」となる時が、同時に、「神が愛する者=神の独り子」(マルコ1章11節を参照)が、死に渡される「喪の時」にもなることが示唆されてきます。マルコのここの記述には、当時のローマ帝国を含む広い地域で、「有名人の死」に際して、「様々な超自然の出来事が伴って起こる」といわれていることも関連します(以上は、A.Y. Collins.Mark. Hermeneia. 751--752.を参照)。
[34]【エロイ、エロイ】七十人訳詩編21篇1節(=聖書協会共同訳詩編22篇2節)は、次の通りです。
「おお、神よ。私の神よ。わたしに目を向けてください。なにゆえ、わたしをお見捨てになったのですか?わたしの(数々の)不義の事(言葉)は、わたしへの救いからほど遠いものです。」
七十人訳ギリシア語の「目を向ける」の原語「プロセコー/プロシスコー」"prosexw/prosisxw"(注意する/心を向ける)は、動詞の二人称單数命令形で、「見捨てる」の原語「エンカテレイポー」(置き去りにする/見捨てる)は平叙文の二人称単数アオリスト形です。「事(言葉)」の原語は名詞「ロゴス」の複数形です。
詩編22篇2節のヘブライ語の原文は「エリー、エリー・ラー(ン)マー・アザヴタァニー」。マルコのギリシア語綴りの引用は「エロイ、エロイ。レンマ、サバクタニ」。マタイのギリシア語綴りの引用の原文は「エリ、エリ。レンマ、サバクタニ」です。
「私の神」のヘブライ語は「エリ」ですから、「エロイ」の発音は、アラム語からだと思われます。なお、マルコの「エロイ、エロイ」を「エリ、エリ」と読む異読がありますが(ベザ写本/Codex Koridethi/ギリシア語写本の一部/エウセビオスなど)、この異読は、後のマタイの読み方に影響されているのでしょう。
したがって、共観福音書のイエスのここでの叫びは、詩編22篇2節からの引用ですが、マタイの原文「エリ、エリ。レンマ、サバクタニ」は、ヘブライ語の原文に等しく、マルコの原文「エロイ、エロイ。レンマ、サバクタニ」は、アラム語読みを、ヘブライ流にしたと思われます。マルコのここの引用部分の伝承過程は、何に基づくのかはっきりしませんが、古シリア語訳福音書での(詩編からの引用文の)アラム語読みも関連しているのでしょうか〔R.T.France.The Gospel of Mark.NIGTC. 649.〕。
[35]35~39節については、前マルコ資料について次のような内容が想定されていて、そこから、この部分への厳しい文献批判がなされています(Collins. Mark.753--756.)。
「すると、第九の刻に、イエスは大声で叫び息絶えた。すると聖所の幕が、上から下まで二つに裂けた。」(Collins. Mark.753.)。
もしも資料のこの内容が正しいとすれば、これ以外は、マルコの編集による加筆になりますから、34節でのイエスの叫びの内容も、37節に「イエスが大声を発した」とあるその内容を受けて、マルコがアモス書から引用して挿入し編集したことにもなります。そうだとすれば、34節の「叫び」は、37節の(内容が語られない)「叫び声」を受けたマルコによる創出で、その意図は、35~36節での「無理解」と「侮辱」に対応するためになりましょう。また、マルコの前資料である受難物語は、神殿の垂れ幕が裂けたところ(38節)で終わっていたと想定するなら、「幕が裂ける」のは、「神の子」としてのイエスの受難へのヴィンディケイション(正当性への主張)を表わすためにマルコが加えた編集になりますから、神殿崩壊とは無関係です。なお、マルコの言う「側に居合わせた人たち」(35節)が、十字架の傍らのローマ兵のことだとすれば、彼らが、ユダヤ人たちのように、「エリヤ」の件を口にする(マルコ15章35節後半)とは考えられないと指摘されています。また、「超能力を働かせるエリヤからの救助を求める」のは、「エリヤがすでに到来して、イエス同様に受難で死んでいる」(マルコ9章11~13節)とあるマルコの記述と矛盾するという指摘もあります。
一方で、マタイのほうは、マルコに準じながらも、マルコの記述を訂正しています。マタイでのイエスの叫びは、「エリ」で始まります。さらに、マタイは、マルコにない地震と死者たちの墓からのよみがえりを記しています。ルカのほうは、イエスの午後3時の叫びもなく、その叫びの内容もありません。神殿の垂れ幕のことは記されていますから、ルカは、マルコと資料を分かちあっていますが、そのほかにも、ルカ独自の口頭伝承からの資料をも併せて用いています〔F.Bovon.Luke3. Hermeneia. 322.〕。
ただし、この部分の資料に関して言えば、マルコの前資料の内容を「午後3時の叫び」と「神殿の垂れ幕」だけに絞るのは、資料の内容を過小に限定しすぎるきらいがあります。マルコの前資料には、最初期からの口頭伝承に基ずく他の内容も含まれていたと見るほうが適切ですから、マルコは、単なる編集ではなく、それらの伝承をも受け継いでいます。
[36]【エリヤを呼んでいる】「(十字架の)側に立っている」人が、イエスの叫びを聞いて、「エリヤを呼んでいる」と直感するのは、ローマ兵よりもユダヤ人のほうです(名前は記されていませんが)。イエスの叫びの「エリ」のほうが「エリヤ」に近いですが、苦悶の叫びなので、聞き分けは難しいでしょう。彼らの「聞き違い」は偶然ではなく、人々が、イエスをエリヤの再来だと信じていたことがあります(ルカ1章14~17節)。エリヤのことは列王記上17章~19章に詳しく出ていますが、イスラエルでは、エリヤが再び顕れて、イスラエルを復興させると信じられていました(マルコ章11~12節)。「エリヤがイエスを十字架から降ろしに来るかどうか見よう」とあるのはこの背景からです(Collins. Mark.756.)。
【酸いぶどう酒を】酸化したぶどう酒を水で割ったもので、庶民の飲み物とされていました。ここでは、見張りのローマ兵のために置かれていたのでしょう。ただし、マルコは、「ある者が走り寄って」とあるだけで、与えたのが誰なのか(おそらく意図的に)記していません。飲ませようとしたのが、イエスを見守っていたユダヤ人であったとしても、ローマ兵の許可なしにイエスに近づくことができません。マルコの記述では、この人の行為がことさら「侮辱的」には見えません(Collins. Mark.757.)。この点で、マルコの記述は、ルカとは異なり(ルカ23章36~37節)、むしろ、ヨハネ福音書に通じています(ヨハネ19章28~30節)。 ただし、ここで語られている「受難して、もう居ないはずのエリヤ」を呼ぶ行為も、酸いぶどう酒のことも、70人訳詩編68篇22節(=聖書協会共同訳詩編69篇22節)であげられる「毒」と関連づけて理解するなら、「エリヤ」も「ぶどう酒」も、この十字架の場面では、皮肉と嘲りの意味を帯びるのは避けられません(Collins. Mark.759.を参照)。
[37]マルコによれば、イエスは、34節と37節とで、二度、大声を出しています。しかし、マルコは、二度目の発言内容を記していません。この点で、ルカでの「信頼の言葉」(ルカ23章46節)とも、ヨハネでの「成し遂げ」の言葉(ヨハネ19章30節)とも異なります。マルコは、イエスが息を引き取った時間も記していませんが、前後の内容から判断して、午後3時以後ほどなくです。「夕方」(午後6時)までにはまだ余裕があるようです。
【息を引き取る】原語は1語「エクプノォー」のアオリスト(過去)形で、あえて訳せば「息を吐き出す/息を引き取る/霊を出す/霊が去る」です。マルコとルカはこの1語で、マタイは「息/霊を去らせる」、ヨハネは「息/霊を渡す」の2語です。四福音書共(とも)、「息/霊」(プニューマ)が関連しているのは変わりません。
[38]【神殿の垂れ幕】これについては、コイノニア会のホームページ「共観福音書補遺」の「古代イスラエルの神殿とその垂れ幕」を参照してください。マルコの記述では、「神殿の垂れ幕が二つに裂けた」出来事が、イエスが息絶えた時と、側に居た百人隊長が「神の子」発言をする時との間に挟まっています。ただし、マルコは、百人隊長が、垂れ幕の出来事を「見た」とは記していません。十字架の傍らに居た者が、神殿の垂れ幕の出来事をその場ですぐに見ることはありえませんから、神殿の垂れ幕が二つに裂けるというこの不思議な出来事は、たちまち、人々の知るところとなり、これを耳にした百人隊長は、イエスの息絶える時のその姿と併せて、二つの出来事の時刻が奇しくも一致することを想って驚き畏れ、「イエスは神の子だった」と告白したのでしょう。垂れ幕の出来事は、イエスの死の意義を読者に悟らせるためにマルコがこの箇所に置いたと考えられます。
[39]【この人は神の子】百人隊長は、イエス処刑の役目を帯びた補助的な分隊の責任者です。百人隊長は、一般の兵士から選ばれましたから、その地位は「将校クラス」ほど高くはなく、おそらく、ユダヤ人以外の兵士たちと同等の身分だと思われます。だから、イエスについても、イスラエルの宗教についても、特別の知識も先入観も持たないこの人物は、イエスの死とともに突然「暗闇が襲う」出来事に接して驚いたのです。それまで、イエスは、自分が「神の子」だという周囲からの発言に否定的でしたから、百人隊長のこの「神の子」発言は、イエスの死に際して、ごく普通の人から、イエスが「メシア(神の子)」であると「最初に発言された」事例になります。
■マタイ27章
マタイ27章で語られるイエスの十字架刑は、七つに大別することができます。どの部分にも初めのほうに、原語「デ」(さて、そこで/次に)が来ますが、27節だけは「トテ」(その時)で始まります。(1)15~23節、(2)24~26節、(3)27~31節、(4)32~38節、(5)39~44節、(6)45~53節、(7)54~56節です。「十字架刑」の舞台の幕が開いてから、今回は、その七場構成の第六場にあたります。第六場も、50節を中心に、二つに分けて描かれます(John Nolland. The Gospel of Natthew. NIGTC. 1203.)。
[45]【全地は暗く】マタイの語気では「全地を暗闇が襲う」です。申命記には、もしもイスラエルの民が主に逆らうなら、その歩みは、エジプトで奴隷にされた状態と同じように、「真昼でも盲人のように暗闇で手探りする」と警告されています(申命記28章29節)。「終わりの日」には、「白昼に闇が地を襲う」(アモス8章9節)というお告げもあります。しかし、ここ45節での「暗闇」は、それよりも、さらに「重くて力強い」(詩人ワーズワース)と言われ、天地創造が始まる前の「深淵を覆う暗闇」(創世記1章2節)にもたとえられます。今回の十字架の闇は、「終末の出来事が成就へ向かう」ことを予兆するからです(Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 621.)。
[46]【大声で叫ぶ】南王国ユダがアッシリアの大軍によって滅びそうになった時、アッシリアの将軍ラブ・シャケは、「(ユダの)ヒゼキヤ王はお前たちを救うことができない」と<大声で叫び>ます(前8世紀)(イザヤ書36章13節)。南王国ユダが新バビロニア帝国によって第一回目の捕囚とされた時、預言者エゼキエルは、エルサレムの邪悪な指導者ペラトヤフの死に際して、「主よ、イスラエルの残りの者も滅びるのですか」と<大声で叫び>ます(前6世紀)(エゼキエル11章13節)。ユダヤの民を代表して、その共同体全体を「わたし」として体現するのが「人の子」としてのイエスです(マタイ17章1~9節)。だから、ここでイエスが、「わたしを見捨てるのですか」と<大声で叫ぶ>時の「わたし」とは、ユダヤ共同体全体を表す「人の子」としてのイエスです。ここの大声が、50節で、「(イエスは)再び大声で息を引き取る」へつながります。
マタイは、ギリシア語名詞「セオス」(神)の(呼びかけの)呼格「セエ」(神よ)を用いています。イエスは、幼少の頃から会堂で詩編を唱えること学んでいましたから、詩編22篇の最初の部分を唱えることは、続くその詩編全体をも唱えることに相当します。だから、絶望の時に唱えた詩編からのこの引用は、絶望の嘆きから、「苦しむ人を侮らず救いを与えてくださる」(22篇25節)主への賛美に終わる詩編22篇が、イエスの最後に与えられた神からのメッセージになります(Davies and Allison. Matthew 19--28. 625.)。
【なぜわたしを】マルコの「なんのために、わたしをお見捨てに」を「なにゆえ、このわたしをお見捨てに」と「自分」を強めています。「なにゆえ」は、七十人訳詩編21篇1節(聖書協会共同訳詩編22篇2節)のギリシア語と同じです。
[47]マルコでは「見ろ。エリヤを呼んでいる」で、直接話法に近いですが、マタイでは、「『この男、エリヤに(助けを)呼び求めている』と言った」ですから、間接話法です。「この男」は軽蔑した言い方です。「エリヤを呼ぶ」というこのような誤解は、ここでマタイが言う「居合わせた人たち」が、ユダヤ人であって、ローマ兵ではないことを示唆します。
[48]【そのうちの一人】マルコでは、「イエスの側に居合わせた人たちのある人」ですが、マタイでは、「居合わせた人(47節)の一人が」ですから、これは、ローマ兵ではなくユダヤ人です。マタイは、それが誰なのかを問おうとしていません。「酸いぶどう酒を飲ませようとした」は、34節の嘲りの「苦いぶどう酒」と比較されますが、ここでの「酸いぶどう酒」は、息絶えようとする渇いた人には「良い飲み物」になります。だから、この行為自体が「嘲りのため」とは言えません(Davies and Allison. Matthew 19--28. 626.)(Nolland. The Gospel of Natthew. 1208.)。このぶどう酒を詩編69篇22節と関連させて、そこに「毒」を読み取ろうとする解釈がありますが、マタイのこの文脈では、こういう「毒意解釈」は適切でありません。イエスは実際に受け取って飲んだ可能性さえあります(Davies and Allison. Matthew 19--28. 627.)。ただし、たとえこれが、「気まぐれな好奇心」(Nolland. The Gospel of Natthew. 1209.)から出た行為だとしても、周囲にいた「嘲り組み」には、これも、「命を長らえさせて苦痛を増し加えよう」とする悪意からだと受け取られたのでしょう(前掲書)。
[49]【待て】マルコでは二人称複数命令形で、マタイでは二人称單数命令形です。マタイでは、「(エリヤが)この人を<救いに>来るかどうか」です。
この節には、「しかし、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハネ19章34節)を付加する異読があります(Codex Tischendorfianus IV(10世紀)/シナイ写本/ヴァティカン写本/エフラエミ写本/レギウス写本など有力な写本)(本文は、アレクサンドリア学派/ベザ写本/Codex Cipius/ Codex W/ Codex Sangallensis/Codex Koridenthi など)。
この異読部分は、ほんらいの資料にあったという説もありますが、ヨハネ福音書に影響されたために、後の(2世紀?)付加だという説もあります。どちらにせよ、この部分は、ヨハネ福音書への伝承と共通して、初期の段階で広く受け容れられた伝承だと見なされています(John Nolland. The Gospel of Matthew.NIGTC. 1201.)。
[50]マルコの「大声を出して」をマタイは「(イエスは)再び大声で叫び」に変えています。人が死ぬ間際に「大声で叫ぶ」のは、通常ではありえないことです。カインに殺されたアベルの血が「地の中から(裁きを求めて)主に向かって「叫んでいる」(創世記4章10節)、主は、エジプトで苦しむイスラエルの民の「叫ぶ声を聞いた」(出エジプト3章7節)とあり、さらに、終末において、神のお言葉を証したために殺された人たちの魂が、裁きを求めて主に向かって「大声で叫ぶ」(ヨハネ黙示禄6章10節)とあります。イエスのこの「叫び」も、自分に対する「不当な仕打ち」への抗議として、神からの終末での裁きを求める「叫び」であろうと解釈されています(Davies and Allison. Matthew 19--28. 627.)。イエスのこの最後は、人々から受けた様々な責め苦に負けた結果ではなく、イエスがそれまで体現してきた神の御意志を毅然(きぜん)とした態度で、最後まで貫き耐え抜いたことを表しています(Nolland. The Gospel of Matthew. 1203.)。
[51]【垂れ幕が二つに裂ける】天と人とを隔てている「幕」が、「裂ける」ことで、天の霊性が人に下ることを象徴する出来事です(マタイ3章16節を)。「神殿」を指すギリシア語は、「ヒエロン」と「ナオス」の二つがあり、「ヒエロン」(神聖な場所/神殿)は、神殿全体を指し、建物と庭をも含む広い意味で用いられます(70人訳ダニエル書1章/ヨセフスやフィロンなどの用語の「神殿」)。一方、「ナオス」(神殿/聖所)は、聖所を含む本堂を指します(ルカ1章9節/ヨハネ黙示禄11章1節)。だから、ここでの「垂れ幕」は、本堂の聖所の「入り口」に掛けられている「外幕」のことと、聖所の奥にあって、聖所と至聖所とを分かつ「内幕」との二通りの解釈が可能です。原語の「ナオス」は、通常、「聖所を中心とする神殿」を意味しますが、今回のマタイ27章5節やヨハネ2章20節の「ナオス」は、もっと広い意味での「神殿」を指すという解釈もあります(Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 630.Note98.)。マタイが、「外幕が裂けた」と見ているなら、神殿の本堂それ事態が、(ユダヤ戦争の結果、70年に)崩壊したことの予兆だと受け止めていることになりましょう。マタイが、ここで内幕を指すとすれば、イエスの十字架の死の結果、人と神との交わりを隔てる「幕」が裂けることで、人が神の子の死を通じて、神と交わる道が開けたことを指すと解釈していることになります。一般に「内幕」説が有力ですが、裂けたことが神殿の警護の者たちに「見えた」のは、外幕のほうであると見て、マタイは、ここで、裂けたのは「外幕」のほうだという説もあります(Davies and Allison. Matthew 19--28. 631.)。
[52]~[53]神殿の垂れ幕が裂ける出来事に続いて、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて多くの聖なる者たちの体が生き返る」とあるのは、マタイだけの記述です。「<地>が<揺れ動く>」「(墓が)<開かれる>」「生き返る」などは、マタイの用語です。しかし、これをマタイによる「創出」だと見なすことはできません。この部分の伝承と資料に関しては、確かなことは分かりませんが、少なくとも、マタイは、「イエスの復活以後に、それまで長らく眠っていた死者が生き返って、エルサレムに現れた」という伝承を保持していたと考えられます(Nolland. The Gospel of Matthew. 1204.)。
「死者の生き返り」については、エゼキエル37章1~14節に「(死者の)枯れた骨の生き返り」(エゼキエル37章5~6節)がでてきます。その上で、捕囚期の災厄の滅亡を免れた民へ向かって主が語り、「見よ。わたし(主)は、あなたたちの墓を開こう。そして、あなたたちを墓から引き出し、イスラエルの地へ導き入れる」という預言があります(七十人訳ギリシア語エゼキエル37章12節)。エゼキエル書のこの部分は、後に、「終末に起こる死者の復活」を預言すると解釈されるようになり、ここが、以後のイスラエルの「死者の生き返り/よみがえり」伝承の形成に大きな影響を及ぼします。マタイ27章51後半~53節も、このエゼキエル預言を反映しています(Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 628.)。
なお、「地震が起こり岩が裂ける」は、ゼカリヤ書14章4~5節で「オリーブ山が裂けて地震のような状態が起こる」とあるのを反映するという説があります。マタイは、「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」(マタイ25章31節)と終末でのイエスの再臨を告げています。これも、「わが神、主が来られる。すべての聖なる者たちも主と共に来る」(ゼカリヤ書14章5節)を反映するという説があります。ただし、ゼカリヤ書の「聖なる者たち」(14章5節)は、人ではなく「天使たち」を指しますから、ゼカリヤ書と、マタイのこの箇所との直接の関係を疑問視する向きもあります(Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC. 629.)。
マタイがここで語る諸々の出来事は、「終末の原初に起こる出来事」を象徴するものです。これらは、本格的な終末の訪れを予想させますから、イエス復活以後の原初教会による終末伝承が、ここに反映しているのは確かです。ここで語られている出来事は歴史的に見て「史実」かどうか? これに関連しては、イエスの復活の時期とも重なるイスラエルとローマとのユダヤ戦争での時期の出来事の証言があります。ヨセフス『ユダヤ戦記』第6巻5章によれば、70年にエルサレムの神殿が焼かれるまでの時期に、反乱や騒乱などの「神の警告」が起こり、夜の9時に突然明るい光が真昼のように差したり、重い神殿の内扉がひとりでに開いたり、戦車が天空に現れたり、兵士が雲の中を疾走する姿が見えたりする出来事があったと報告されています〔ヨセフス『ユダヤ戦記』(3)秦剛平訳。山本書店。166~174頁〕。
[54]【地震やいろいろな出来事】「いろいろな出来事」の原語の「ゲノメナ」(起こったいろいろな出来事を)は、「ギノマイ」(生じる/起こる)の「中性複数アオリスト分詞」の対格です(シナイ写本やアレクサンドリア学派の写本など多数)。これには、「ギノメナ」(起こっているいろいろな出来事を)という異読がありますが、これは「ギノマイ」の「中性複数現在分詞」の対格です(ヴァティカン写本とベザ写本)。
53節に「彼(イエス)が復活した後で」とありますが、これだと、墓から生き返った聖なる者たちが多くの人たちに現れたのが、52節で言われているイエスの十字架の死の<直後>のことではなく、(三日後の)イエスの復活の後の出来事になります(Nolland. The Gospel of Matthew. 1214)。キリスト教会の初期からの伝承では、「死者から生き返った」のは、「イエスが最初」であると伝えていますから(コロサイ1章18節)、マタイは、この事を念頭に、53節で、「彼の復活の後に」を加えたと見ることもできます。もし、「彼(イエス)が復活した後で」を「<彼ら>が復活した後で」と読めば、イエス復活の「以前に」、かつてのイスラエルの聖者たちが「生き返る」出来事が生じたことになります。百人隊長たちが「目にした出来事」とは、いったい何だったのか? 53節のこの句は、おそらく、「幾つかの伝承の不完全な合成」の結果生じた「不手際な混乱」であろうと思われます(Davies and Allison. Matthew 19--28. 634.)。マタイは、ここで、イエス以前のイスラエル聖者たちの「終末での」生き返りを「イエスの十字架の死」の直後の出来事ではなく、十字架の死に続くイエスの復活の出来事と関連付けようとしているのです(Nolland. The Gospel of Matthew. 1216)。
【この人は神の子】ローマ兵やギリシア・ローマの一般人が言う「神の子」は、無冠詞の場合、古代ペルシアやローマの「帝国の王」を指す場合があります。ここの「神の子」も無冠詞ですが、奇跡的な出来事を観て驚いた発言ですから、特に「イスラエルに終末に顕現すると信じられているメシア(キリスト)」を指します(マタイ14章33節の「あなたこそほんとうに神の子」を参照。これも無冠詞)。隊長たちの発言が「王位」を意識していたのなら、イエスの頭上に掲げてある「ユダヤ人の王」が念頭にあるでしょう。
神への証しのゆえに不当な仕打ちを受けたり、殺されたりした人たちが、ほんとうは「正しい」人たちであることを人々にはっきりと証明してくれる神の御業のことを英語で「ヴィンディケイション」"vindication"と言います。ここでの百人隊長や見張りの兵たちの証言は、十字架で息絶えたイエスに与えられるヴィンディケイションです。それまでの嘲りの「神の子」が、ほんものの「神の子」に転じるからです。マルコには出てこない「一緒に見張りをしていた人たち」が、マタイに出てくるのは、先ほどまで、イエスを嘲っていた人たちだからです(マタイ27章35~36節)(Davies and Allison. Matthew 19--28. 635.)。 また、マルコ15章39節の「百人隊長」をマタイもここに出しているのは、この二人の福音書の作者が、「異邦人によるイエスへの信仰」を表そうとしていると指摘されています(前掲書)(マタイ8章5~12節を参照)。
■ルカ23章
今回に始まるルカの記述では、「真昼の暗闇」と「神殿の幕が裂ける」二つの不思議が生じ、百人隊長と民衆の二組みがこの出来事から感銘を受け、「イエスの知り合い」と「ガリラヤから同伴した女性たち」の二つのグループがこれらを目撃し、アリマタヤのヨセフがイエスを葬り、ガリラヤから同伴した女性たちが香料と香油の準備をします。ルカのこういう「ペアの語り方」は、ルカの創出ではなく、ルカが、マルコの記述と同時に、ルカ独自の資料にも準拠していることを示します(F. Bovon. Luke 3. Hermeneia. 320--321.)。
マルコ=マタイの記述では、先ず「全地(域)が暗くなり」、これと共に、イエスの「エロイ/エリ、エロイ/エリ」の叫びがあり(マルコ15章36節=マタイ27章46節)、これに続いて、兵士たちが酸いぶどう酒を飲ませようとする行為と、神殿の垂れ幕が裂ける出来事とが続きます。ところが、ルカの記述では、イエスの「エロイ/エリ」で始まる神への訴えの叫びが完全に除去されています。このために、「全地が暗くなる」(ルカ23章44節)出来事とほぼ同時に、神殿の垂れ幕が裂ける出来事が生じます。また、「全地が暗くなる」よりも先に、民衆と議員たちとが一緒になって嘲けり(35節)、兵士たちが酸いぶどう酒をイエスに向かって「当てつけに突きつける」(36節)行為がでてきます。
マルコ=マタイでは、イエスが息絶えた後で、百人隊長による「神の子」発言が出てきますが、ルカでは、イエスが息絶えた後で、百人隊長とともに民衆も共になって、イエスが「正しい」人であったと悟ります。こうして、 ルカ23章44~56節で語られる「イエスの死」と「遺体の葬り」は、ルカ24章1~12節へつながり、受難の金曜日"Good Fryday"が、土曜の安息を挟んで(ルカ23章56節後半)、復活の日曜"Easter"へ結びつくのです。
[44]マルコ=マタイに出てこない「既に」で始まります。「ところで、既に第六の刻であった」は、ルカ24章1節の「ところで、週の最初の日に」と対応します(Bovon. Luke 3. 320.)。ルカでは、イエスが十字架につけられてから、「罪の赦し」の祈りが唱えられ、民衆や議員たちによる嘲りが行われ、酢を飲ませようとする行為があり、その上、左右の「強盗たち」さえも、それぞれ異なる姿勢をイエスに向けます。これらの出来事があって「既に」正午になったのです(「既に」が抜けている異読があります。シナイ写本、アレクサンドリア学派の写本、ベザ写本など多数)。この「既に」は、ルカ22章66節で「夜が明けた」受難の金曜日が、「既に正午になり」、「三時間に及ぶ暗闇」の後で、「イエスの息が絶える」出来事の始まりです(ルカ23章44~46節)(Howard Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. 874.)。
【全地が】「全地」は「あらゆる地域」とも訳すことができます。「地の上が全部暗闇になってきて」(塚本訳「ルカ福音書」)、「地のすべてを闇が襲い」(岩波訳「マタイ福音書」)。
[45]【太陽は光を失っていた】「(光を)失う」の原語「エクレイポー」(尽きる/なくなる)(英語"eclipse"の語源)は、太陽や月が「蝕になる」ことをも意味します。「日蝕だったのである」(塚本訳)。ただし、満月とも関連する過越祭の日に、自然界での日蝕が起こったとは考えられません(Marshall. The Gospel of Luke. 875.)。このためでしょうか、原語「エクレイポー」(尽きる/蝕になる)(シナイ写本/Bodmer Papyrus XIV.)に代わって「スコティゾー」(暗くする/見えなくする)の受動態アオリスト形が用いられている異読があります(べザ写本)。
【垂れ幕が裂けた】マルコ=マタイでは、ここで、イエスと神との間の「乖離(かいり)」を意味する「エロイ、エロイ」の叫びが来ます。神殿の垂れ幕の出来事が、これに続いて起こりますから、垂れ幕の出来事は、イエスの「乖離(かいり)を訴える」叫びに応えるように、神と人との間にある「乖離(かいり)の幕が裂ける」出来事が生じたとも受け取れます。しかし、ルカには、イエスの「エロイ、エロイ」の叫びがありませんから、「太陽が光を失う」という超常現象と共に「神殿の垂れ幕が裂ける」不思議な出来事が発生したという印象を与えます。ルカは、垂れ幕が裂ける出来事が、外からも「見える」はずだから、この垂れ幕の出来事は、「神殿の崩壊」を予兆する外幕(聖所の入り口の幕)のことだと理解しているのでしょうか(Howard Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. 875.)。
ルカでは、「イエスが息を引き取る」出来事の前に垂れ幕が裂けたとありますが、マルコの記述では、垂れ幕が裂けるのは、イエスが息を引き取ったその直後です(マルコ15章38節)。マルコには、イエスの最後の叫びの内容が記されていませんが、ルカは、イエスの最後の叫びの内容を記しています。「エロイ」発言を除いたのは、おそらく、ルカの神学的な配慮からだと想定されますが、「最後の叫び」(ルカ23章46節)の内容は、ルカの独自資料からです(Bovon. Luke 3. 321.)。
[46]【叫んだ】原語「フォーノー」は、「(気持ちをこめて)声を出す/(鳥が)鳴く/呼びかける)」ことです(使徒言行録16章28節「パウロは大声で呼びかけた」)。「叫ぶ」は通常「ボォー」(大声で叫ぶ/わめく)です。「息絶える」間際に「大声で叫ぶ」のはやや異例です。叫びの内容はルカの記述だけですから、イエスは、息絶える間際に、はっきりと聞き取れる声で、誰かに「呼びかける」ように発言したのです。
【わたしの霊を御手にゆだねます】これは、七十人訳詩編30篇6節(現行訳詩編31篇6節)「まことの神よ。わたしの霊をあなたのみ手にゆだねます。あなたはわたしを贖われた」から出ています。ここのイエスの叫びは、ステファノが殉教する間際に、「主イエス」に向けた呼びかけの叫びと通じます(使徒言行録7章59節)。さらに、この叫びは、「神の御心に従ったゆえに苦しみを受けるキリスト者」への呼びかけになります(第一ペトロ4章19節)。イエスは、不当な仕打ちを受けながらも、最後まで、霊的な意識と自制心を失うことなく、息絶えたのです。
ユダヤ教では、詩編のこの祈りが、「(死につながる)眠りに入る前」に唱える「夕べの祈り」として唱えられていたようですが、最初期のキリスト教会でも、おそらく、この46節でのイエスの言葉を伝承して唱えられました。なお、ルカは、詩編22篇2節からのイエスの叫びを(ルカなりの神学的な配慮によって)省筆したために、この46節を加えたという説があります(Marshall. The Gospel of Luke.876.)。
ところで、「大声をあげる」と「言う」と「息絶える」という三つの仕草は、それぞれ時間的なずれを挟んで行われたのか?それとも、ほぼ同時に行われたのか? こういう疑問が提示されています(Marshall. The Gospel of Luke.876.)。微妙な違いですが、以下に訳例を提示します。
“Then Jesus, crying with a loud voice, said,...Having said this, he breathed his last”[NRSV]. /”Then Jesus uttered a loud cry and said,...and with these words he died."[REB]./「そのときイエスは、大声を上げて言われた・・・・・こう言われるとともに息絶えた」〔塚本訳〕/「するとイエスは、大声をあげて言った、・・・・・そして、これを言った後、彼は息絶えた」〔岩波訳〕/「イエスは大声で叫ばれた。・・・・・こう言って、息を引き取られた」〔新改訳2017〕/「その時、イエスは声高く叫んで仰せになった。・・・・・こう仰せになると、息を引き取られた」〔フランシスコ会聖書研究所訳〕/「イエスは大声で叫ばれた。・・・・・こう言って息を引き取られた」〔聖書協会共同訳〕。「イエスは、(周囲の人たちに)はっきり聞き取れる声で、呼びかけるように言われた。・・・・・こう言い終えると、息を引き取られた」(意訳)。
[47]ルカの「実に、正しい人だった」は、「アーメン。正しい人だった」に近いです(Marshall. The Gospel of Luke.876.)。ルカは、マルコの「神の子」という「メシア」を指す言い方を避けて「正しい」を用いています。ルカでをは、「メシア」をイエスの復活の出来事と関連づけるからでしょう(Bovon. Luke 3. 328.)。ルカがここで言う「正しい」には、「無実/無罪」の意味があるのは確かですが、それ以上に、「神の正しさのゆえに苦しみを受ける義人」という、ヘブライの伝統的な意味がこめられています。
[48]47節の百人隊長の反応に続いて、48節では「群衆」の反応です。「胸を打つ」(原語は不定過去形なので、継続的な行為を指します)この仕草は、イエスの死刑判決に際して、「民衆」の叫びが大きく働いたことで、「無実の人」を死なせた罪を民衆が「悔い改めた」ことを表す仕草だという解釈があります。外典の「ペトロ福音書」には、十字架からイエスの遺体が降ろされた後に、「ユダヤ人と長老たちと祭司たち」は、自分たちの「悪行を悟って」、胸を打ち始めて言います。「われわれの罪にのろいあれ。(神)の裁きと、エルサレムの終わり(滅亡)は近い。」〔「ペピラトのトロ福音書」(25節)(第7章)。『聖書外典偽典』(6)新約外典(I)教文館。151頁〕(Bovon. Luke 3. 323.)。ここでは、「悪行を悟った」とありますが、「悔い改めた」とは言っていません(Bovon. Luke 3. 323.)。「胸を打つ」ことと「悔い改める」こととは、全く同じではないのです。だから、この節で言われているのは、「(処刑される人が死んだことを)単純に哀しむ」仕草だと受け取られますが(Marshall. The Gospel of Luke.877.)、それだけでなく、「胸を打つ」行為こそ、「真の悔い改め」へいたるための不可欠な段階だという見方ができます(Bovon. Luke 3. 328.)。この節の文体も語彙もルカ独特ですから、これは、ルカによる編集です(Bovon. Luke 3. 321.)。
206章イエスの死へ