第8章 日本とキリスト教との出合い
世界のキリスト教を大別すると
 現在の世界のキリスト教は、大きく三つに分かれています。一つはカトリック圏で、これには、イタリア、フランス、スペイン、南アメリカ、フィリピンなどが入ります。もう一つ、カトリックよりもさらに古い伝統を持つギリシア正教圏があります。現在のロシア正教圏もこれに含まれ、これらを東方教会と呼んでいます。さらにもう一つ、私たちになじみの深いキリスト教に、プロテスタント系があります。カトリックに対して、これを「新教」と呼ぶこともあります。なぜかと言えば、16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパで宗教改革が行なわれ、多くの国々が、中世以来続いてきたカトリック圏から独立したからです。イギリス、アメリカ、カナダ、ドイツ、北欧諸国、オーストラリア、ニュージーランドなどがプロテスタント圏に入ります。
キリシタンと鎖国
 日本にキリスト教がはじめて伝えられたのは、今から約450年前の1549年のことだと言われています。スペイン人でバスク地方出身のフランシスコ・ザビエルという宣教師が、日本で布教を始めました。この人は、カトリックで、イエズス会という宣教団に属していて、その伝道活動の一つとして日本を選んだのです。1549年というのは、ちょうど宗教改革の時期に当たっていて、ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントとが激しい宗教戦争をしている最中でした。このことが、日本のキリスト教伝道にも陰を落としています。なぜなら、ザビエルの後で、ポルトガルからフランシスコ会の宣教師もやってきました。同じカトリックでありながら、イエズス会とフランシスコ会とは互いに競い合っていました。さらにこの頃スペインが日本をねらっていました。ザビエルはこれを察知して、日本への侵略を諦めるようにスペイン国王に手紙を書いています。
 さらに悪いことに、秀吉と家康の頃に、オランダからプロテスタントの宣教師が来日しました。カトリックとプロテスタントの宣教師たちは、互いに、相手が日本に対して領土的野心を抱いていると告げ口したり、非難し合ったりしたのです。その上、仏教界からもキリスト教に対する反対が起こったのです。このために秀吉も家康もキリスト教に対して警戒を強めるようになりました。その結果、キリシタン禁書令が出され(1630年)、キリシタンへの弾圧が行なわれて、それが島原の乱となり(1637年)、ついに日本は鎖国を行ないました(1639年)。ヨーロッパでの宗教戦争が日本での伝道に不幸を招く結果になったと言えます。
キリシタン弾圧の影響
 ある人たちは、鎖国は日本を侵略から守ったのだからよかったと考えます。しかしある人たちは、鎖国が日本を世界から孤立させたから不幸な出来事であったと考えます。当時のヨーロッパの宗教活動が、植民地主義的な性格を帯びていたのは否定することができません。ですから、日本が鎖国を行なったのは、政治的な視点から判断する限りでは、正しかったと思います。もしそれをやらなかったら、日本は確実に欧米の植民地にされていたことでしょう。宗教が、国家や政治と分離していなかった当時としては、この不幸は避けられないことでした。しかし、欧米の宗教戦争と幕府の鎖国政策の狭間にあって、大勢のキリシタンたちが、惨く長い受難の苦しみを受け、このためにおびただしい殉教者がでたことはよく知られています。この人たちの信仰は、キリスト教の歴史の中で、大きな光芒を放っています。しかし私たちは、彼らの揺るぎない信仰をただ賛美するだけでなく、そのような不幸を二度と招かないように努めなければなりません。キリシタン弾圧は、大きな傷を日本人の心に残しました。それは、江戸幕府の反キリシタン政策によって、キリスト教は日本の国を危うくする邪教である、あるいは、白人が日本を侵略する道具であるという考え方が、日本人に根強く残ったことです。日本は、アジアの諸国の中で、欧米の植民地にならなかった珍しい国です。しかし、このために、日本人が、キリスト教だけでなく、外国の思想にも心を閉ざすというマイナスの結果を生じたことを覚えておかなければなりません。
明治時代とキリスト教 
 明治維新になって、日本は、欧米の圧力によってキリスト教の禁令を解きました。その結果、欧米のプロテスタントの宣教師たちが、布教のために来日することになりました。同志社大学、関西学院、梅花女子大、明治学院、青山学院、東京女子大などの名前をあげただけでも、皆さんは、プロテスタントの影響が、明治の日本にどのように大きな影響を与えたかがわかると思います。17世紀の日本は、欧米の侵略から身を守ろうとして鎖国をしました。ところが、明治政府は、欧米の侵略から身を守るためには、欧米に見習って富国強兵に努めなければならないと考えました。徳川幕府とちょうど正反対の政策をとったのです。この選択も正しかったと私は思います。なぜなら、もしもそれをやらなかったら、日本は、ちょうど中国のように、確実に欧米の植民地となっていましたから。
  しかし、明治の人たちは、欧米の制度や産業や科学を学び、その思想を研究しましたが、「和魂洋才」という言葉があるように、キリスト教には心を開きませんでした。先に言いましたが、日本にキリスト教が広まらなかったのは、欧米の宗教戦争と幕府の政策によるものでした。しかし、その結果、日本人の精神的な土壌がキリスト教に合わないとか、日本は多神教の国だからキリスト教の一神教は日本人に合わないとか、日本の家族制度とキリスト教とは対立する(これは徳川幕府がキリシタンを締め出すために檀家制度を設けて政策的に流布した見方からでています)というような、誤った考えが根付くことになったのです。
内村鑑三と無教会
 こういうわけで、明治の日本の知識人たちは、「教養として」キリスト教を学ぶことはしましたが、キリスト教を信じて受け入れることを避けたのです。しかし、欧米の文化や制度を理解するためには、その精神であるキリスト教を学ばなければならないと考えた人たちも大勢いました。ところが、キリスト教を、欧米の文化や制度を学ぶ一環としてではなく、日本人の視点から直接にこれを観ようとする人たちが現われたのです。内村鑑三という人が、その代表です。内村鑑三は、欧米の制度や文化をよく知るためにキリスト教を学んだのではありませんでした。彼は、日本人の視点から直接にキリスト教そのものを学ぼうとしたのです。なぜなら、そうすることで、キリスト教の教えを軸にして、欧米の文化や制度を正しく批判できる、彼はそう考えたからです。
 なぜ内村がそのように考えたかと言いますと、彼は、明治の近代化した日本が、「悪い意味で」欧米の真似をする国に成り下がってしまうのではないか? その結果、日本独自のよい意味でのアイデンティティが見失われて、いたずらに欧米の文化・文明に追従する国になってしまうのではないか? このことを彼は恐れたからです。もしも日本が、本当の意味で近代化するのであれば、それは、欧米のキリスト教文化の何が正しくて何が間違っているかを、きちんと見定めた上でなければなりません。そうすることで、日本は、はじめて欧米を超える「神に導かれた国」になることができるからです。彼は、そういう視点から欧米のキリスト教よりも聖書そのものに向かったのです。
 すなわち、内村は、欧米も日本も同等に視野に入れて、そのどちらをも正しく判断できる公正な視点(内村はこれを「神の正義」と呼びました)を求めて、キリスト教、特に聖書を学んだのです。その結果、彼は、欧米の文化や社会が、聖書の教える本来のキリスト教から大きくかけ離れていることに気がつきました。文化や制度だけでなく、欧米のキリスト教それ自体が聖書の説くキリスト教から離れていると考えたのです。内村は、その原因が、キリスト教の教会制度にあると考えました。この制度が、キリスト教の本来の精神を歪めている原因であると見たのです。同時に、聖書に照らしてみるならば、欧米よりも日本のほうが、はるかに神の前に正しい面もあることに気がついたのです。内村とその弟子たちの信仰は、一般に「無教会主義」と呼ばれています。
海は開いたり閉じたりできる
 徳川時代に日本は、植民地化を免れるために国を閉ざしました。明治維新では、今度は、同じ理由で国を開きました。現在はどうでしょうか? もしもここでこの国が、内向きの精神的鎖国状態に陥るなら、必ずどこかの国に政治的・経済的・外交的だけでなく、文化的な価値観においても支配されます。もはや徳川時代のように世界から孤立することはできない情勢だからです。しかし、明治維新のように、思い切って国を開くならば、外国からの影響に身を曝すことになります。これは厳しいですね。しかしこれを避けることはできません。これが、現在の日本が置かれている難しさです。だから、現在の日本は、思い切って国を開いて、しかも、自分の政治理念や文化や価値観を外に向かってはっきりと伝えていかなければなりません。今の私たちには、これ以外にとるべき道がないのです。
戦後日本のキリスト教
 キリスト教と日本との関わりの第3の波は、日本の敗戦によって訪れました。アメリカの司令官であったマッカーサーは、その占領政策の一環として、アメリカのキリスト教を日本に広げようとして、多くの宣教師を日本に招きました。「日本の敗戦と日本の占領政策は、軍事や政治の課題だけではない、それは神学的課題である」、こうマッカーサーは考えたからです。日本国憲法は、この精神に基づいて生まれたと言えます。マッカーサーの支配のもとで、地主制度が廃止され、財閥が解体され、神社は国家神道の座からはずされ、教育から宗教が排除されました。
 ところがその頃、アメリカを中心として、世界のキリスト教に、一つの大きな変化が生じていたのです。それは、「ペンテコステ」と呼ばれる聖霊運動です。日本のキリスト教の人たちは言うまでもなく、マッカーサーたちも、そのことは知りませんでした。この運動は、太平洋戦争前からあったのですが、それが、戦後に大きなうねりとなって欧米のキリスト教に広がりました。そのうねりがフィンランドにも伝わって、そのフィンランドの宣教師さんに、私ははじめて聖書を学ぶことになったのです。ペンテコステ運動は、その後テレビやその他のマスメディアと結びついて、アメリカのキリスト教に大きな影響を与え続けています。先ほど言いましたが、内村鑑三は、欧米のキリスト教に問題があるとすれば、それは教会制度であると考えました。聖霊運動は、欧米の教会制度をも超える力となって、その波は、最近になって日本にも大きな影響を与えています。
 アメリカの宣教師が日本に入ってきていた頃に、日本の知識人のクリスチャンたちは、戦後のドイツ神学に目を向けていました。ドイツは、日本と同じように戦争に敗れたのですが、ナチスの台頭する前後に、ドイツのキリスト教は厳しい試練に立たされました。その中に、カール・バルトやルードルフ・ブルトマンなど、戦後の世界のキリスト教神学をリードする人たちがいました。また、マルティン・ニーメラーやディートリヒ・ボンヘッファーなどの反ナチ・反ドイツ民族主義教会の姿勢を貫いた人たちもいました。戦後の日本のキリスト教学界は、主としてドイツ神学の影響のもとに育ってきたと言えます。
 以上、ごくおおざっぱに、日本と欧米のキリスト教との関わりを眺めてきました。このようなわけで、現在の日本のキリスト教には、伝統的で典礼や儀式を重んじるカトリックと、明治以来のプロテスタントと、新しくアメリカから渡ってきたペンテコステ系の聖霊運動と、ドイツ神学を主流にしたキリスト教学界とがあります。個人名をあげるならば、伝統的なカトリックを代表する人として、マザー・テレサがいました。学問的なドイツ神学を代表する人では、昨年日本を訪れたユルゲン・モルトマンがいます。プロテスタントの聖霊運動の1例としては、この間の9月21日から、神戸でベニー・ヒン一行のミラクル・クルセードがあって、私たちも参加しました。現在これらの三つの勢力が、日本のキリスト教を動かしていると言えるでしょう。
 しかし、私が気になるのは、これらのどの勢力も、本当に日本に根ざした福音の本質から出発しているのではないことです。カトリックの総本山はローマのヴァティカンにあります。聖霊運動はアメリカが中心です。学問的にはドイツが主流です。だから、現在の日本では、ちょうどかつて内村鑑三が目指したように、日本人の視点で直に聖書を読んで、それに基づいて欧米や日本を全く同じ秤にかけて、公正に批判し判断しようとする人たちが、いたとしても、きわめて少ないのです。
 なぜ日本に根ざした福音の受容が大切かと言いますと、もしもこれをやらないと、現在私たちの国で行なわれているキリスト教の伝統的・儀式的な面(カトリック)と知的な面(ドイツ神学)と伝道的な面(聖霊運動)とが、互いに結びつかないままに、ますますその亀裂を深めて行くからです。アメリカやドイツでも、そのような亀裂が存在しますが、それが日本ではますます広がって、日本のキリスト教は、頭脳(神学)と心(聖霊運動)と体(カトリック的儀式)とが、ばらばらになってしまうおそれがあります。これらを統合するためには、私たちが、自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の霊的な伝統の上に福音を捉え直さなければならないのです。どんなに難しくても、これはやらなければなりません。すでにカトリックでは遠藤周作のような作家が現われています。また、神学の分野では、内村鑑三の流れを汲む無教会から、関根正雄などの神学者が出ています。
 ここで大切なことは、これらの人たちが、キリストの福音を日本に根づかせようと求めているにもかかわらず、いわゆる「ヤマト主義」ではなく、右翼思想に対して厳しい姿勢を貫いていることです。真の意味で福音をこの国に根づかせるためには、同じようなことが、これからの聖霊運動にも起こらなければなりません。そうすれば、日本のキリスト教は、頭脳(神学)と体(儀式・制度)と心(霊性)とが統合された姿となって、アジアに新しいキリスト教が誕生する道を開くでしょう。
(2)
新約聖書の地図
 現在の日本のキリスト教が、どのような経過をたどってきたかをお話ししましたから、今度は、キリスト教の過去に目を向けてみましょう。過去と言っても、キリスト教が生まれた紀元1世紀頃のことです。先ず、地図(1)をご覧ください。ここに「パウロのローマへの旅」とありますね。私が今まで見てきた聖書に付いている地図は、ほとんどがこの地図で終わっています。パウロが最後に旅した地図ですから、これで間違いはありません。この時代以後のキリスト教地図は、さらに西の方、現在のスペインやイギリスなど、ヨーロッパ全体を含めた地図になります。私たちは、キリスト教が西洋の宗教であり、特にヨーロッパで生まれた宗教であると受け止めているのは、こういう地図から来ているのです。
  キリスト教は、紀元313年にローマ帝国によって公認され、395年には、ローマの国教と定められました。私たちが現在用いている新約聖書27巻が、正典として決定したのもこの頃です。ところが、このすぐ後で(395年)、ローマ帝国は東と西に分裂するのです。これに伴って、国教となったキリスト教の教会も二つに分かれることになりました。西方教会、すなわちカトリック教会ですね、これと東方正統教会、現在ギリシア正教あるいはロシア正教と呼ばれる教会です。西と東の教会は、同じキリスト教ですけれども、政治的だけではなく、文化的にも宗教的にも、また教義においても異なる面を持っています。
 これでわかるように、ヨーロッパの人が「東方」と言うときには、それはこの辺りから始まるのです。特に、現在のトルコの所から「アジア」が始まります。皆さんは「アジア」と聞けば、日本や中国や東南アジアを思い浮かべると思います。ところが、ヨーロッパから見ると、ここからが「アジア」なのです。ですから、「オリエント・東方」というのは、この辺りを指しています。この地図で見る東地中海文化圏が、新約聖書の舞台だと考えてください。新約聖書の地図としては、この地図はとてもいい地図です。先に指摘しましたが、これに続く地図は、ヨーロッパ全域を含みます。ところが、東方教会、すなわちギリシア正教圏が、どうなっていくのかは、聖書の地図では明瞭でないのです。それだけではありません。この地図では、エルサレムの東側は全く無視されています。まるで、キリスト教の視点から見れば、この地図の東側は存在しないかのようです。これが、この地図の大きな欠点です。
日本から見ると
 そこで、次に地図(2)を見てください。これは、皆さんがよくご存知の、高校の世界史の授業で用いる地図を下敷きにして作ったものです〔谷澤伸・他編『世界史図録ヒストリカ』山川出版社(2013年)13頁〕。この地図を見ていると、(1)の地図とは全く異なるキリスト教の姿が見えてきます。先ずキリスト教は、エルサレムから、エジプト、アラビア半島、さらに東に向かって広がりました。この地図はとてもいい地図です。なぜなら、この地図が、キリスト教をその全体においてとらえることができる正しい地図だからです。西北インドに「クシャナ朝」とありますね。この辺りまでが、アレクサンダー大王の遠征が行なわれた所です。アレクサンダー大王が西インドに侵入したのが、紀元前325年頃のことですから、なんと、イエス様が生まれる300年前に、ギリシアの文化がここまで広がっていたのです。
 地図(2)を見ているといろいろなことがわかります。先ず、キリスト教は、私たちから見ると、アジアの1番西の端、ちょうど西洋と境を接する地域で生まれたことがわかります。ですから、私たちから見れば、キリスト教は、「オリエント」や「中近東」(Near East)の宗教ではありません。キリスト教は、アジア大陸を挟んで、日本とちょうど反対側の「極西アジア」(Far West Asia)で生まれた宗教なのです。キリスト教はアジアの西端、極西アジアで誕生しました。それは直ちにギリシア文化圏を通じて西洋と出合い、その出合いを通じてキリスト教はヨーロッパから両アメリカ大陸へと広がりました。そして2000年を経た現在、今度は極東アジアにある日本と欧米のキリスト教とが出合っているのです。
東へ向かったキリスト教
 ところで、この地図を見ていると二つの大きな疑問が湧いてきます。一つは、キリスト教が西へ向かって広がったのなら、いったい東には向かわなかったのか? という疑問です。新約聖書を読めばわかるように、キリスト教は非常に強い宗教です。そんなに強い宗教が、西の方へあれだけ発展したのなら、当然東の方へも伝わったはずです。なぜなら、この地図にも書かれていますが、この当時は海路・陸路ともに交通網が発達し、さまざまな商品が交易されていたことがわかります。キリスト教が東に伝わる条件は、西に伝わるのとまったく同じくらいによい条件だったのです。
 実は、キリスト教がこの頃インドにまで伝わっていたという証拠があります。インドの南の端に黒く塗って「キリスト教」と矢印で示してありますね。紀元直後に、すでにこの地方までキリスト教が伝わっていて、それが現在まで残っているのです〔「紀元直後にキリスト教広まり習合し生き残る」『朝日新聞』1994年7月9日号〕。キリストの十二弟子の一人であるトマスが、インドへ伝道をしたという伝承が古くからあります。インドのこの地方のキリスト教が「トマス派」と呼ばれるのと合わせると、キリスト教がここまで伝わったのはほぼ間違いないようです。地図でわかるとおり、当時は海上でも陸路でも自由に交通ができたからです。
 こんな所まで伝わっていたのなら、その途中の地域にも伝わっていたと考えるべきでしょう。しかし、その後、アジアのキリスト教がいつどのようにして伝わり、どのような過程をたどったのか? いったいどこまで伝わったのか? この分野での「キリスト教の歴史」は、いまだによく分かっていません。この分野は、キリスト教の歴史の中で、最も未開拓の分野です。「誰も書かないキリスト教の歴史」のこの部分は、アジアのキリスト教学者か、あるいは欧米の学者によって、将来必ず掘り起こされるときが来るでしょう。
イエス様は仏教を知っていた
 2番目の疑問は、今度は逆に、インドから仏教が、イエス様の時代に、西方のパレスチナにまですでに伝わっていなかったのか? ということです。お釈迦様が生まれたのは紀元前560年頃ですから、イエス様より500年以上も前に生まれています。この地図(2)は「紀元後2世紀の世界」です。同じ世界史の地図帳には、これの前に「紀元前2世紀の世界」の地図が出ています。ところが、パレスチナを中心に見た場合、紀元前2世紀から紀元後2世紀までの400年間、その東西の状況はほとんど変わっていません。ただし、中国が前漢から後漢に、インドがマウリヤ朝からクシャナ朝へ変わり、ローマが、イタリア本土からローマ帝国へと版図を広げています。しかし、パレスチナを挟んで、東にパルティア王国があり、西にローマがあるという事情は全く変わっていないのです。したがって、キリスト教が生まれた時代は、世界的に非常に安定した時代であったことがわかります。当然東西の交通も貿易も盛んに行なわれていました。
 マウリヤ朝とクシャナ朝のインドは、文明だけでなく、文化的に非常に栄えた時代でした。しかも、マウリヤ朝ではアショーカ王(在位:前268年頃〜前232年頃)がおり、クシャナ朝でもカニシカ王がいて、仏教全盛の時代だったのです。特にアショーカ王の時代には、シリアやエジプトにまで僧や学者が派遣されていました。またカニシカ王の時代には、仏教とギリシア文化とが合体したガンダーラ美術が生まれています。
 イエス様の時代というのは、このように交通が安定して、東西の貿易が盛んに行なわれていたときでした。それなのに、仏教がパレスチナに伝わらなかったのでしょうか? 私は、この地図を眺めながら、長らくこの疑問を抱いてきました。日本のキリスト教学者で、こういう問いを出した人はまだ誰もいません。だから欧米の学者にももちろんいない、こう私は思っていました。ところが、イギリスで出版された旧約聖書の「コヘレトの言葉」の注解書を読んでいるときに、アショーカ王が、紀元前3世紀に、パレスチナのアンティオキアとプトレマイオス朝のアレクサンドリアに伝道のために僧侶たちを派遣したこと、したがって、紀元前200年頃に、すでにエルサレムでも仏教が知られていたはずだということを、ディロンという学者が述べているのを知ったのです〔Barton, George Aaron. A Critical and Exegetical Commentary on The Book of Ecclesiastes. The International Critical Commentary. Edinburgh, T&T Clark,1912.〕。
 1995年のことです。学会でイギリスへ行った折りに、私は、泊まっていたロンドンのホテルの近くにある本屋へ入ってみました。するとそこには、キリスト教の誕生と仏教との関わりについて書かれた本が二種類も置いてあったのです! 私は驚いてしまいました。その内の1冊が『本来のイエス:キリスト教の仏教起源』(1995年)と題したこの本です〔Gruber, Elmar R. & Kersten Hoger. The Original Jesus: The Buddhist Sources of Christianity. Element, 1995. 現在この本は日本語に訳されて出版されています〕。ドイツとウィーンの若手の学者が二人で共同で書いています。読んでみますと、福音書のイエス様の教えは、仏教思想がその下敷きになっているというもので、これが正しいかどうかはともかく、その大胆な発想に再び驚きました。日本でこんな本を出したら、おそらく笑いものにされるでしょうね。しかし、その後、グノーシス研究で日本でも知られているアメリカの著名な女性の学者、エレーヌ・ペイゲルズという人が、『グノーシスの福音』という本の中で〔Pagels, Elaine. The Gnostic Gospels. Penguin Books, 1979.〕、南インドで、仏教がトマス派のキリスト教と出合ったこと、その後何代にもわたって、仏教の僧侶が、エジプトのアレクサンドリアで伝道を行なっていたことが述べてあって、私の推測が間違っていなかったことを知りました。
カナダでの体験
 最後に、私自身の体験を紹介させていただきたいと思います。私は、1991年に、カナダのヴァンクーヴァーで開かれた国際ミルトン学会で研究発表をする機会を得ました。学会の期間中の日曜日に、同じ日本ミルトン学会のクリスチャンの先生二人と、大学内にある教会の礼拝に出席しました。礼拝は実に簡素で儀式張らないものでした。その後別室で、参加者全員がコーヒーを飲みながら交わりの時を持ったのです。そこで私は、テイラー博士という方としばらく話をしました。その時私は、「ヴァンクーヴァーは、カナダの東部とは正反対の太平洋に面しているから、これからは、ここのキリスト教が、アジアの宗教と交流を深めなければならないのではないか」という意味のことを話したのです。すると博士は、私にぜひ会わせたい人がいるから、連絡してあげようと言ってくださいました。
 翌日の朝、朝食前に伝言板を見ると、私宛てにマクシェリーと言う人から伝言が届いていました。さっそく電話を入れますと、わざわざ宿舎の前まで迎えに来てくださいました。マクシェリーさんご夫妻は、聖公会の牧師さんを定年で退職されて、今はヴァンクーヴァーのアパートで暮らしておられます。ご夫妻は、長らく広島で牧師をしておられました。とても穏やかなご夫妻で、昼食をいただきながら、いろいろとその当時の話をしてくださいました。
 その後で、マクシェリーさんは、私に尋ねたいことがあると言って、1冊のノートを持ってきました。見るとそれは「いろは歌」でした。
色は匂へど  散りぬるを
我が世誰ぞ  常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず

 マクシェリーさんは、この歌が「いろは歌」であることは知っていました。しかし、その歌の意味がよくわからないので、私に説明してほしいというのです。私は、この歌が「諸行無常 是生滅法」という仏教の教えを弘法大師という方が歌にしたという言い伝えからはじめて、その意味を自分でできる限り説明しました。すると彼は、この歌の精神は、私の信じているキリスト教とまったく同じだと言うのです。それから、彼は、分厚い綴じた書類を持ってきました。そこには、中国の景教に関する英語の論文や景教のお寺の写真などがたくさん綴じてあったのです。彼は、日本人が英語で書いた景教に関する本も持っていました。
 紀元5世紀のことです。ネストリオスという人が、東方教会のコンスタンティノポリスの主教でした。彼は、聖母マリアが「神の母」と呼ばれるのを拒否したために、異端とされて追放されました。しかし、彼の信仰は、ペルシアに伝わり、そこから中国に伝わりました。ネストリオスのキリスト教が中国に伝えられたのは、635年で、中国は唐の時代に入っていました。日本では大化の改新が行なわれ、遣唐使が派遣され始めた頃です。中国ではこれが景教と呼ばれるようになり、唐の都の長安にも景教の立派なお寺(大秦寺)がありました。景教は、その後弾圧も受けましたが、200年以上も続いて、中国全土に広がり、781年には、長安に景教流行の中国碑が建てられました(もっとも景教はネストリオス以前から中国さらに日本へも入っていたという説があります)。ですから、804年に遣唐使として長安に渡った空海が、この景教に接する機会があったのは十分に考えられます。
 マクシェリーさんは、この景教が、日本にも伝わったに違いないと考えていました。彼の推定は確かに根拠があります。私の住んでいる太秦に、俗に「蚕の社」(かいこのやしろ)と呼ばれている神社があります。ここは、桓武天皇を京都に導いて平安京を造営させた秦氏(もとの姓は「大秦」)の社で、京都で最古の神社です。そこには、三本柱の鳥居が池の中にあって、その上が三角形になっています。これは、秦氏が景教を信じていて、三角形は三位一体を表わすのではないかと言われています。神社の案内の立て札にも、「ネストリウスのキリスト教の流れを汲むという説がある」と書いてあります。私は景教のことは歴史で知っていましたが、彼が、そのことをこんなに詳しく調べて、日本人の心には、キリスト教と共通するところがあるのだと確信しているのを知って、驚くと同時に、この出会いを通じて、私たち日本人が、自分自身とキリスト教との関係について、いかに無知であったかと、改めて考えさせられたのでした。
戻る