ナザレのイエス様
【来信】
私市先生へ:
"And the very words I have spoken to you are spirit and life." (John6--63)
「私があなたがたに語った言葉は、霊であり命である。」
(ヨハネ6章63節)
先生、私は、自分に語りかけてくださる内なる声が、この御言葉そのもの、the very wordsであるということに気づきませんでした。先生に言われて、今はじめて気づきました。初めての経験ですが、2000年前、この地上にイエス様がいらっしゃった時と全く同じイエス様が、まさに今の時に、同じようにしかも個人的に語りかけて下さる。実に不思議な雰囲気に包まれると同時に、言い知れない安心感に被われます。
この御言葉の意味・現象を他の人に伝えるのは本当に難しいと思います。"spirit and life"というのは、内なる声に、「大丈夫だよ。安心しなさい」と言われた時のあの私の内に広がる全身が包み込まれるような安心感ーー現状がどうであっても、それから護られて安息している自分ーー、またそこから沸きあがってくるというか、降ってくるというか、何かしらの元気。多分、このようなことだと思います。
先生のような霊的な良き指導者は、自分で探しても探しきれるものではありませんね。御子が引き合わせて下さなければ、めぐり合えなかったと思います。弟との話の中で、「終末=安息」の話になりました。福音派の思想というは、地上にあっては、苦しみがあるが、その苦しみは、死後、天国にいって初めて癒される。だから、「イエス様、再臨を早く、空中再臨を早く」というものです。ですから、この地上において安息はありません。これは、私と弟の一致する見解です。
「その日一日の安息を感じられない。瞬間でもいい、その日一日の安息を感じられたら、みんなもっと楽になるだろうに。」まさに、そうです。メールで先生が話してくださった、祈りの中で、すーっと重荷が取り除かれる感じ、雰囲気、それが多くのクリスチャンと呼ばれる方々に共通して必要とされることだと、二人でしみじみと考えました。「父よ、イエス様、ありがとうございます。ありがとうございます」と止まらない涙とともに感謝しています。
【再来信】
"The very words I have spoken to you" が、突然の黙示となりました。今でも祈りの中で、弟子たちと一緒にいらっしゃるイエス様、弟子たちは何もしなくても、ただイエス様と一緒にいるだけで平安になる。イエス様から過越の用意をしなさいと言われてそのとおりにやると不思議なことが起こる。ああ、何て不思議な方なんだと感じている、そんなイエス様のイメージが出てきます。
しかし、アッシジのフランチェスコに聖痕が出たのは、イエス様の十字架のイメージ、その復活後、その傷痕をもって人々に顕われた。それを強くイメージすることによって、聖痕が現われる体質の人もいるという記事がどこかに残っていたのでしょうか。一生懸命、十字架の姿をイメージしようと努力したことがあります。もちろん、人の努力ですから、Nothingでしたが、祈りの中でイメージされるイエス様には、両腕にも、両足にも、右のわき腹にも傷痕はありません。
見た事はありませんが、あのガリラヤ湖周辺で、エルサレム郊外で、弟子たちと共に実際に居て下さったイエス様の姿だけなのです。もちろん、その姿が、くっきり、はっきりしているわけでもなく、あくまで、ぼやーっとしたイメージなのですが、内なる声が、「事はすべてわたしが手配した。安心しなさい。あなたはしっかり目を見開いて事の成り行きを観ていなさい」と言われる時など、まさに、ガリラヤ湖のイエス様の雰囲気なのです。そういうことをいうと、「あなたは、イエス様の十字架のあの苦しみによる贖いに与かっていない」と、だれかが心配するのではないかと思って黙っていましたが、実際、御霊の語りかけは、全く否定的なことがなく、いつも励まし、平安にして下さいます。
正直、復活後、数百人に顕われたイエス様のイメージがどうも描けませんし、思い浮かんできませんが、ナザレのイエス様、まさに先生がおっしゃったピラトが十字架に架けたナザレ人のイエス様の雰囲気は、実に鮮明に、私の全身を覆い包んでくれます。
どうもうまく表現できませんが、そんな感じなのです。不思議です。もう駄目だという毎日が続いているのに、その日、その日、内なる声は、「大丈夫、心配するな」と強く励ましてくれ、本当に、重荷どころか、体全身が軽くなって、本当に自然に、「ああ、イエス様、ありがとうございます。あなたに、全身をお任せします。あなたの業をお現しください」と祈れます。
弟子たちも、こういう状態で、何も心配することなく、父なる神から油を注がれ、不思議な魅力を持つ、あのナザレのイエス様に自然と従っていったのではないでしょうか。そんな感じがします。
そんな中、先生方の祈りを感ぜざるを得ません。お祈り本当にありがとうございます。もがき、苦しみ、打ちのめされ、倒され、ああ、神様、これがあなたからの恵みですねと思ったら、次の瞬間は全くそれを覆すようなことだったり、それは、真理を証できるような状態ではありません。そう言えば、もう20年もそんな状態の中で、血みどろになっています。戦っていません。ただ、踏みつけられるままに、地面をなめているだけです。そんな私の書いたことが役立つのでしょうか。今の私には、ナザレの人イエス様が、わたしの内に確かに存在し、声をかけて下さり、相談にのって下さり、「こうしなさい」とおっしゃってくださる御霊の声、これがすべてです。信仰も、信心も、確信もありません。
この御霊の存在、これが現実で、目で見る以上に確かな存在ですから、私にはすべてなのです。しかし、こういうと、多くの方に誤解されるのではないでしょうか。そして、こういった人の地上の末路は惨めで悲惨だった。 わたしは、それでも十二分にうれしいことですが、コイノニア会の人々を含めて、多くの方が、躓くのではないでしょうか。
ああ、イエス様の御業はこれかもしれないと思い、期待していたことがことごとく、否定されていきます。今朝のメール連絡でも、「ああ、これも違った」と、もうがっがりするする力もありませんが、昨夜、明日はどうしたらいいだろう、もう気力も、活力も全くないのに、明日何かできるだろうか。そんな心配が少しはありましたが、どうにか事務上の必要最低限度のことはさせて頂けます。
同僚から電話で了解をもらい、多くのブローカーの人々や、そこの財務部の人々に、複雑な指示をするのですが、ミスが重なったり厄介なことになることもあります。しかし、今朝は、非常に限られた時間内だったのですけれでも、ことがSmoothに運んだのですね。先生が、おっしゃるように、何だかわからないが、こうやって、あれ!と思ううちに事が運ぶとき、主さまの時と配剤を感じます。不思議です。そして、祈りました。「主よ、どうしましょう。」すると、指示書の送付を明日の朝一番まで、銀行は待つのでは?と言われたので、今、確認のため、指示書は、明日朝一番までで大丈夫か聞きました。どう言う返事かはわかりませんが、とにかく言われた通りにします。
先生、私も、自分の弱さを、弱いがままに、そのまま、御臨在のイエス様にもっていきます。そして、相談させていただきます。パンがありません、資金がありません。イエス様、どういたしましょうかと。
もう通常なら、もうすべてCut Offなのですが、祈りのたびに、「大丈夫、安心しなさい。絶対にお前を倒れさせないから」と言われます。時間的に、追い詰められて、追い詰められているのに、どうしてと、自分でも不思議でたまらないのですが、これは、まさに" the very words I have spoken to you"として、現実にあるものとして、伝わってきます。どうも、ペテロがおぼれそうになって、「信仰のうすいものよ」と言われたお言葉が、頭にこびりついていたのでしょう。いつも、肩に力をいれて、信仰をましてください、もっと、確信をと祈り求めてきました。
しかし、このthe very wordsは、ナザレのイエス様の言葉、イエス様の御霊の言葉とハット体感した時、厚い/薄い信仰というのが消えた思いがしました。それにしても、おいしいものをおいしく頂いて、楽しい会話をして、27度まで上がった天候の真っ青な空の下ドライブし、新鮮な空気を一杯吸い込み、リラックスした昨日、本当に楽しかった。あのような一日の充実感をキルケゴールが、「その日一日に満足があり、十分な充実があれば、不安は、明日への不安はなくなる」とそんな言い方をしているのではないかと思いますが、まさに、そんな一日でした。
今日は、また、どうなるかわかりませんが、期待しないことが起こっても、ナザレのイエス様だけです。このお方に、付き添われて一日を歩ませて頂くだけ。それが、どんなに平安で、リラックスすることか。不思議ですね。
私はどんどん弱くなり、祈りさえも、かすかに残された目に見える希望さえも消えるのかと感じる割には、内なる存在によるのでしょうか、なんだかわかりませんが、今の段階では、いわゆる根拠も、証拠もないのですが、「わたしは、お前を絶対に見捨てたりしない、何があっても守るから」という内なる言葉によってでしょうか、今日どうなるかという、今日が、どうにかなっています。不思議です。
【返信】
「初めての経験ですが、2000年前、この地上にイエス様がいらっしゃった時と全く同じイエス様が、まさに今の時に、同じようにしかも個人的に語りかけて下さる。」
そうなんです。よく分かってくださいましたね。わたしが聖書講話で<ナザレのイエスの御霊の御臨在>と繰り返し言っているのは、このことなのです。
2000年前のイエス様が今ここに立ってくださることです。いわゆるキリスト教の「キリスト」、これはいったい、いつの人のことなのか、どこぞの神様なのか、仏様かキリスト様か孔子様か、誰だか分からないそういう「キリスト」のことでは<ない>のです。
聖書学的に言えば、イエスの十字架以後になって福音書の記者を含めて、教会がナザレのイエスとは別に作りあげた「キリスト」のことでは<ない>のです。使徒信条に「ポンテオ・ピラトによって十字架につけられた」あるとおりの「あの」ナザレのイエスです。イエス・キリストが復活する「それ以前の」イエスです。これがはっきりしないと、<ナザレのイエスの聖霊>は働かないのです。
これ以外の「キリストの霊」なら、韓国のなんとか言う教祖の「キリスト」やら、これもまた日本のある有名な教祖の「キリスト」やら、その他もろもろの「キリスト」があります。Jesus of Nazareth (ナザレのイエス)は、この意味で大事なんですね。大丈夫です。あなたは、イエス様のぶどうの樹にしっかりとつながれています。「肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに 語ったことは、霊であり命である」(ヨハネ6章63節)ですから、肉のほうからは、なんにもできないのです。ところが、肉とは別の次元から、肉に向かって働きかける御霊があるのです。あなたの存在とは別で、しかもあなたの存在に働くというこの不思議。創造するお方の不思議な働きかけすね。復活のイエス様の御臨在です。
【再々来信】
実は、これを読んでいて、慰めと平安を頂きました。本当に昨日の原稿〔編集された交信録〕には励まされ、慰められました。心からの涙が、所かまわず湧き出てきました。御霊から、<政府から援助対象として一兆ドルの救済を受けるより、地をはっていても、御霊に付き添われて歩むことの方が遥かに勝っている>と言われました。嬉しかった。何がそれ程重要なのか、私には、よくわかっていないところがありますが、そこで言われていること、御霊にあって、真実です。
昨夜導かれた祈りでは、御霊が父なる神様に貴方の胸の内を聴いて頂きなさいと言われ、その通り祈らせて頂きました。大平安の内によく眠ることができました。朝起きるのが辛いとき、祈ります。どうすればいいか、指示を仰ぎます。何もしなくていいよ。さあ、起きて、今日与えれている仕事をこなさないと、それだけで十分、先のことは私の領分。あなたは、今日、今を生きなさいと言われ、私はそうします。御編集本当にありがとうございました。
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