キリストと神が愛された世と世に起こる出来事について思うこと。
コイノニア京都集会 小阪廣治
(2018年2月24日)
コイノニア会に於ける最近の出来事である久子さまの死を悼むという行為はわたしが今日、この会に出席して彼女のことを想起し語ることにより、すなわち久子さんとともに共有した出来事を語ることによって悼みという行為がわたしたちに生まれて来る事実にあります。それはともに過ごしたこの会での出来事の意味を共有することでもあります。
さて共有するものとは何でしょうか。おりしも先月のコイノニア集会でご主人の私市さんがおっしゃつておられたように、当たり前のことなのですが久子さんの祈りがいつもコイノニア会にあつたと気づかされたことにあります。
当たり前にそこにあるもので気づかずいる大切なもの。人々の交わりを支えているもの、コイノニア会の出来事において久子さんの祈りは彼女が世を去った後もわたしたちの間に残ったもの、・・・・・ナザレのイエスさまの死も久子さんとまったく同じ、・・・・・とともに交わった人々の間で当たり前にそこにあるもので気付かずにいた大切なものを、共有され言葉化されて物語られて今日のわたしたちに届き今もあり続けていると言えましょう。
人が誕生し人々と共に生きそして死んでゆく、キリストも人々のなかに生まれ人々の中に生きそしてとともに生きた人々によって共有され、神がそのひとり子を賜うほどに愛された世に、人間の与わる当たり前にそこにあるもので気付かずいる大切なもの、人々の交わりを支えているもの、いつまでも続くものを語り継がれて世に残るのです。
久子さんは世に生まれ私市さんと結婚され、人間にとっていつまでも続く信仰と希望と愛を残されました。わたしたちの暮らす世にいつまでも残る真実を、神がそのひとり子を賜うほどに愛された世に、ご自身に神の愛を写しだしてわたしたちによく理解させてくださいました。
「神への愛」は、個人のなかで起こる信仰であるので千差万別、一方で、「隣人愛」は、原罪によって等しく罪深い存在であるゆえに、この世においてひとは相互に依存しあい、過去を共有するなかで起こる信仰である。贖罪のためにイエスが世にもたらされたことからも分かるように、ひとが神を感じることができるのは、唯一この世における出来事によるのです。神の御子が地上にみどりごとして生れる出来事がわたしたちの希望であるのは、地上の夫婦にもこどもが生まれる新生に喜びが湧く事実に対応している。すなわちわたしたち一人ひとりが地上で出会う出来事が喜びであると思えるのは一人ひとりが新生の事実によって神の御子の出来事を引き継ぐからです。
人が新しく誕生するのは新しい始まりを引き受けて誕生とともに地上に希望が生まれてくるからです。新しいひとによって人の暮らす世が荒涼とした土地から人間の住む故郷へともたらす久子さんの祈りを引き継ぐ希望が生まれるからです。
だれでもキリストのうちにあるなら その人は新しく造られた者です。
古いものはすぎさって、見よ、すべてが新しくなりました。(IIコリント5:17)
久子さんによって、主のことばがよく解って来るのです。
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