世の罪を取り除く神の子羊

          コイノニア会2020627

              小阪 廣治 

 

  先週ヨハネ会で発表した世へ現れる愛は、あなたもわたしも隣人として互いに世ではキリストに贖われた等しい罪人であることを意識させます。それでは互いが罪びとである世は神に愛されるとはどういうことなのか。わたしは思うに神の贖いにより人それぞれの言論が赦されていることにある。と。それでは等しい罪びとが互いに論じ同意した合意は罪人の偽り(罪の満足)か否か。隣人が隣人の自由を受け入れることは究極の自由の合意かあるいは罪びとであるが故の滅びへの合意か。そんな心配を蹴散らすように神は私たちに現れて真理を知ることが出来るようにしてくださいました。心を尽くし思いを尽くし精神を尽くしあなたの神を愛しなさい。あなたを愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。

  隣人との合意については二通りの方法しかない。合意に至る自由を隣人に懇願することか強要することかです。請願は最終的には祈りを強制は暴力に行きつきます。自由な者が納得し従うためには隣人の要請に対する隣人の同意がある。自由な者の間の同意は互いの自由の承諾であり、互いの信頼のなかで起きる世の出来事で歴史となる。ここまで来て私たちは気づくのです、これはあなた自身を愛するように隣人を愛しなさいと神のみことばの受肉した姿を見ると。そうですわたしたちが現在到来した(神の恵みである)民主主義です。と同時にわたしはこの地上にキリストが現れた意味、共同の自由の誕生には隣人の現前に必ず隣人が居ることを知る、隣人の有意性を知るのです…インマヌエル…ここに創造者の(知恵)をみるのです。

  アウグスチヌスは「世界」mundus世界が存在する限りにおいて、「被造者」は必然的に「世界に帰属する」de mundo世界状態におかれる。構造にあると述べますが、つまり「現世」とは、「被造者」が自ら「世界への帰属性」に基づいて、人間の世を構成してゆくところのものであり。人間が所与の世界に生れそこを人間の住む処へと造り変えてゆく人間の活動に、そこにキリスト(善き隣人)が関わってくださっているのです。

 

世には、人は誕生する以外、現れるすべはありません。

すべのないひととおなじように神は現れてくださいました。

人が世に現れるようにキリストも嬰児として誕生されました。

 

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

世でお互いの自由のもとで互いに言葉を信じて同意する合意行為は約束となる。わたしたちはみ言葉を信じるか否を誰に強制されるのでもなく自由のままに同意する。キリストとわたしとの間に交わされた約束は。古代ローマでも約束はpacta sunt servanda 合意は守られるべし。自由なものの行う同意は果たされる。歴史がある。人の世での契約に見られるように隣人()との約束は隣人の自由の承諾でもあり、世にある人間を信頼する隣人()の信頼がなければ約束は成立しない。このことよって、あるいはこのことにこそ人に約束は果たされると確信させられる。世が滅びるか永遠の命をもつかは世にある人びとの自由な約束に。神の恵みのである罪の悔い改めが起こるか否かに担(架か)っている。

 

罪の悔い改めについて 

  現実に考えれば隣人との世での付き合いはいろいろと罪を持つもの同士のゆえに諍いもおこるが、隣人を一方的に悪者として世から放り出すのではなく受け留め赦すこと。諍いの相手方とよく議論し打ち負かすのではなく何が諍いの原因となるのか問題を見定め諍いの原因となるものを一つ一つ取り除く途方もない忍耐に倦まず務めることでもあります。取り除くには何が足りないのか、何をすればいいのか知ることです。互いに諍いによって失うものと得ることの差異を明白にして争って得るもの以上のものを手に入れるために、主に祈り、主を信頼し希望をもって実現に努める人間の姿と言えましょうか。隣人とともに人が喜びに溢れ平和に暮らす以上の幸せはありません。

 

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

 

神の愛された世は私たちが去った後も残り、善きものが残りそれを保ち新しく生まれるものに手渡してゆく。世に、新しく生まれて来るものを世から放り出さすことをせずに受け入れ訓戒しあたらしく生まれてきたものが予見しえないものを企てるチャンスをかれらの手から奪うことなくお互いの共通基盤を引き継ぐように訓戒し希望を共同する隣人を愛する人の居場所でしょうか。

 

罪の悔い改めについての考察資料 コイノニア−第6講 箴言の「知恵」 

『宰相プタハヘテプの教訓』

 紀元前27世紀に始まるエジプト古王国時代には数多くの教訓文学が書かれていて,古代エジプト人の生き方や考え方を知るうえで貴重な資料になっているが,前25世紀頃つくられた最古の教訓文学の一つ『宰相プタハヘテプの教訓』(尾形禎亮訳,『古代オリエント集』,筑摩書房)では,請願者に対する官吏の心得が次のように説かれている.「汝,請願をうける人であるならば,請願者の言葉に穏やかに耳を傾けよ.かれがその体をきれいにするまで,あるいは赴いた用件を話してしまうまで,追い出してはならぬ.請願者は,用向きの件が成就するよりは,自分の言葉が傾聴されることを好むものなり」.そしてそのうえで,「話すことは心のよき慰めなり」,「かれの請願が完全に実現される(必要は)ない.よく耳を傾けてやるは,心慰めることなり」と,人情の機微をついた実践的な忠告がなされるのである.

ファラオの側近であったプタハヘプテが、自分の経験に基づいて後継者のために書き残した教訓である。

  箴言とエジプトの教訓様式との間には、はっきりとした違いが見られる。それは、エジプトの教訓のほうは、国家や行政のエリートを養成することにその主眼点がおかれているのに対して、イスラエルのそれは、より広い共同体全体の若者にあてて知恵が語られ教訓が与えられている点である。体験主義であり、鋭い観察と経験に裏打ちされた証言である。だが、この経験主義は、オリエントの多くの知恵者が行き着くような「賢い処世術」へと人を導かない。「主を畏れる」という一言に凝縮されている。

 

「知恵は人間を慈しむ霊である」(知恵の書1・6)。

「主の霊は全地に満ち、すべてをつかさどり、あらゆる言葉を知っておられる」(1・7

 

 わたしは若い頃から知恵を愛し、求めてきた。
  わたしの花嫁にしようと願い、
  また、その美しさのとりこになった。
  知恵は神と共に生き、その高貴な出生を誇り、
  万物の主に愛されている。
               (8章2〜3節)

 

 知恵は、主の律法よりも、むしろ「主の御霊の働き」において知られ、生きられる。すなわち、「体験」としてとらえられていることを意味する。

先祖たちの神、憐れみ深い主よ、
  あなたは言(ことば)によってすべてを造り、
  知恵によって人を形づくられました。
               (9章1〜2節) 

 

「あなたの王座の傍らにいる知恵をわたしに授けてください。」(9・4                

「知恵を手に入れる人は神の友となる」(7・14 

位格(いかく)は、他者に対して区別される主体。 また自己が成立つ個物のこと。 特に、人に対しては人格という言い方がされる。

知恵が、ヤハウェから独立した位格として、ヤハウェ顕現の姿を担っているのは確かであろう。

 

知恵には、理知に富む聖なる霊がある。
  この霊は単一で、多様で、軽妙な霊、
  活発で、明白で、汚れなく、
  明確で、害を与えず、善を好む、鋭敏な霊、
  堅固で、安全で、憂いがなく、
 すべてを成し遂げ、すべてを見通す霊である。
               (7章22〜23節)

 

「知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する純粋な輝き」(7・25)とあるのを見ると、ここで知恵に宿る御霊の威光は、神の臨在を意味する「シェキナ」それ自体にほかならないと言えようか。ここでは、神から発する知恵の霊(ソフィア)が、神ご自身とほとんど同じ位格を帯びた存在として示されているのである。

 

 

ヨハネ福音書だけが、イエスを父から遣わされた「ひとり子」《モノゲネース》という特殊な用語で語ります。 市川喜一 

この「霊」は、「単一」である。すなわち、聖なる神の「独り子(モノゲネース)」なのである。それでいて、この独り子である知恵の霊は、「多様」で、さまざまな姿で己を顕わす。多様な姿をとりながら、本質では神の「独り子」であるという。知恵の書に現れるソフィアは、イシス女神の面影を宿していると先に述べた。しかも、このソフィアが、ヤハウェの臨在それ自体を示す位格を具えていることも指摘した。これはいったい、どういうことであろう? ソフィアがイシス女神を反映しているとすれば、それは女性的(母性的)な性格を帯びていることを意味する。しかも、彼女は、男性的あるいは父性的な神格を有するヤハウェ自身が、人間に顕現するまさにその相を代表しているのである。わたしたちは、この知恵の書で、イスラエルの知恵が、ある決定的な段階を迎えたと見ることができる。このヤハウェ=ソフィアという不思議な関係がなにを意味するのかは、重要な謎である。はっきりさせておきたいのは、ここでの知恵は、ヤハウェの「配偶神」ではないことである。そうではなく、知恵がヤハウェそれ自体の顕現であり、存在であるというこの二重性にこそ謎が潜んでいるのである。 

  スコットの言葉を借りるなら、「神は知恵(ソフィア)として語り行動する。それと同じく、知恵もヤハウェとして語り行動することができる」のである。しかも、ソフィアの行動範囲もその力もいささかも制限されてはいない。この謎は深い。わたしたちはここに、文字どおり「モノゲネース(独特・独り子)」な知恵の姿を見る。これが、イスラエル知恵文学において、知恵の書が到達した地点である。 

  その際ラートは、箴言9章の背後に、愛の女神アシタロテ(古代メソポタミアのイシュタル)の祭儀が、イスラエルに入り込んできたことを認めている。ラートの言うように、イスラエルの教師たちが、この「愚かで悪い女」(箴言9・13)について、イスラエルに警告を発しているのは確かであろう。しかしながら、ここで重要なのは、箴言9章に「アシタロテ女神の祭儀」の影響が認められるとしても、「知恵」はここでは、警告としてではなく、逆に、自分を求めるようにと、イスラエルの人々に訴えかけていることである。ここでは、アシタロテ女神の祭儀は、警告の対象として取り入れられているのではない。知恵の勧めへの表象として取り入れられているのである。しかも、「愚かで悪い女」についての警告は、「その後で」行われている。ラートの説では、まだ「この謎」を解くにはいたってはいない。 

  いったいここで起こったことはなんなのか? それは、イスラエルがこの女神と「遭遇した」最初の段階において、イスラエルが、先ずアシタロテ(イシュタル)女神の祭儀を受け入れて自分たちのヤハウェ信仰の内へと取りこんだことを意味している。そうでなければ、彼女の表象が、知恵の表象として肯定的に用いられることはありえない。このような「受容」が行われた後で、初めて、本来のアシタロテ女神に対する厳しい「拒否」が可能になったのである。それが可能になったのは、女神信仰が、ヤハウェ信仰と結び、彼女の祭儀が「ヤハウェ化した」後のことであって、その前ではない。わたしたちはここに、ヤハウェ信仰と異教の女神信仰との間に生じる「受容と拒否」の弁証法的なプロセスを見いだすことができる。 

女神の受容と拒否

 ラートは、箴言9章1節以下の女神の表象が、「盛んになった〔アシタロテ女神の〕風習から身を守るため、それとは対照をなすように〔女神の祭儀形式が〕形象化された」と述べているが、この解釈は、先に述べたような過程を十分に理解したものとは言えない。なぜなら、アシタロテ女神から身を守るために女神の表象を下敷きにしたということは、この女神の表象をいったん自分の側に取り込むという段階を経なければ意味をなさないからである。女神の表象をまったく受け入れることをせず、これに対抗するのであれば、伝統的なヤハウェ信仰をそのまま用いて対抗するはずだからである。この場合生じるのは、完全な正面衝突である。ところが、一度「受容」の過程を経た後に起こる「拒否」とは、すでに相手の本質を己の側に含んだ上で行うわけだから、その「拒否」は、相手の挑戦を受け身で防ぐこと以上の積極性を可能にするのである。 

 イスラエルの伝統的なヤハウェ信仰が、アレクサンドリアのヘレニズム世界との出会いを通じて、ソフィアと出会い、そうすることによって新たなヤハウェ信仰の段階を迎えたのである。このことは、知恵の書9章1〜2節にある「ロゴス(神の言葉)」と「ソフィア(知恵)」とが、「知恵の御霊」を媒介にして再びその生き生きした関係を取り戻したことを意味する。

このような知恵の書の信仰は、伝統的なイスラエルの救済史理解においても、重要な影響を与えずにはおかないであろう。知恵の書の10章〜11章には、知恵がイスラエルの歴史をどのように見ているかが語られる。

 

知恵こそ過去を知り、未来を推測し、
  言葉の理解や、なぞの解釈に秀でており、
  しるしや不思議、
  季節や時の移り変わりを予見する。
               (8章8節)

 

「しるしや不思議を予見する」とは、単に奇跡的な出来事を指すだけではないであろう。「しるし」とは、過去の出来事を現在の時代に通じる表象としてとらえ、そうすることで未来を洞察することであって、過去がそのまま繰り返されることではない。過去は現在と未来を指し示す表象、すなわちタイプ(予型)としてわたしたちに語りかける。「季節や時の移り変わり」とは、"what the different times and seasons will bring about"〔REB〕(それぞれの時代や時節がもたらすこと)という意味である(単なる季節は予測する必要がないから)。これは単なる未来予想ではない。現在がどのような時かを知ること、その「時のしるし」を見分ける霊的な知恵のことを含むのである。歴史は過去の出来事ではない。また未来に起こるべきことへの預言でもない(したがって、知恵の書は黙示ではない)。それはなによりも、神の救済史の中で「今の時」がどのような時かを見分けるためにある。「このようにして著者は、イスラエルにいまだかって与えられたことのなかったほどの強烈なかたちで、歴史を現在化することにも成功している」〔ラート〕。 

先に引用した7章22節にあるように、知恵の霊は「神の独り子」である。しかもこの知恵は「主に愛されて」いる(8・2)。福音書では、イエスが、神の「独り子」(ヨハネ福音書3・16)であることと神に「わたしの愛する子」(マタイ福音書3・17)と呼ばれることとが、ほとんど同じ意味で用いられている。このことは、知恵の書の知恵が、来るべきイエス・キリストを予徴しているという見方を可能にするであろう。そうであれば、最初に引用した「知恵は人間を慈しむ霊である」という言葉は、この書の救済史的な視点に照らしてみるとき、受肉したロゴスにおいて顕わされた神の愛を指し示すと受け取ることができよう。

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