交信の記録
【来信】
私市先生へ:
 『コイノニア』NO.70確かに受け取りました。ありがとうございます。遠藤周作の『沈黙』もその内容を初めてしりました。私はほとんど本を読まないのですね。ですから、柴田さんが言っている「ユングだとかフロイト」となると、もうちんぷんかんぷんの世界です。
 ペテロ岐部の強い信仰、フェレイラ神父の弱い信仰、昔は、この強い信仰に憧れましたが、今は、その場に私が臨んだ時、内なる御霊の声に従うだけだと思っています。内なる声に踏めと言われたら、ためらいなく踏みます。多分、私は、苦しんでいる人を救うことになるとか、ならないとか、考えないでしょう。それを考える人格も、品性もありません。ただ、止まらない、何だかわからない理由で出てくる涙と共に踏みしめることと思います。 その結果が、世から強い信仰、弱い信仰とどう評価されようと、何にも気にならない、そんな感じがします。多くの諸先輩たちが、そうであったのでしょう。世に対して死んでいるとは、雑音にとらわれず、御霊のいうことに従うことだと最近感じています。これ以外に、毎日を生きる術がないのですね。
 戦時中の「否認」、これも、その人にしかわからない御霊との語らいがあったと思っています。 私がどうこう言える事ではありません。ただ、それを乗り越えてきた方を信仰の先輩として尊敬するだけです。神様とその人の直接の問題ですから。
 
【返信】
  おっしゃるとおりですが、 これをほんとうに理解してもらうのは、難しいですね。 自分で実際に体験する以外に 理論や言葉ではどうにもなりませんから。
私市元宏
【再来信】
私市先生へ
ヨハネ12章27節: Now my soul is deeply troubled. Should I pray, "Father, save me from this hour?" But this is very reason I came! Father, bring glory to your name.
 このシーンは、もはや立っていることもできず、跪いた。そして、<この時を去らせてください>とまず、自分の思いの声がした。しかし、それとほぼ同時に、聖霊の声<This is very reason I came!>が肉に響き、その声が肉体を支配した。そんな感じがします。思いつめて、もう立っていられなくなって、ところ構わず、跪きます。
 祈りというよりは、崩れるように跪き、ああ天地の神様と、ため息なのか、祈りの言葉がわからないような言葉、そして、沈黙。 御霊の声が、内に響きます。「大丈夫、わたしに任せなさい。」そんな言葉に私が支配されると、崩れたひざに力が入り、どうにか立ち上がることができます。
 毎日、毎時間、毎分、それを繰り返しているように思います。祈りの決まった時間はありません。何時間、続けて祈るということもありません。物は食べなくても、一日どうにかやって行けますが、主の前に沈黙なくして起き上がることも、立ち上がることもできません。 神の言葉によって生きる、これが身にしみてわかるような感じがします。
 
【再返信】
<神の言葉によって生きる>。活字のことではない。印刷された聖書のことでもない。聖書注解でもない。教会での聖書の説教でもない。今のこの世界を包み、現実に働いてくださっている神の御霊のお働き、これがヨハネ福音書の言う<世の初めからあったみ言>です。わたしたちが心身共に活かされている「言」であり「事」です。ほんとにアーメンですね。
私市元宏
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