【来信】主人の父が入院先の病院で亡くなったのですが、お通夜、お葬式、初七日と済み、少しほっとしました。身近な人の死を初めて経験し、とても感じさせられるところが多かったのですが、今は、仏事の多さに、家族みんなが悲しむ間もなく追われているような感じです。イエ制度もいやというほど顔を出しました。こんな時こそ、集会に出席して深呼吸をしたいのですが、今の時点では、それができるかどうかわかりません。
【返信】お手紙読ませていただきました。お手紙の中から、引っ越し、義父の葬儀、子どもの転校と一度に疲労と心労とが重なって、霊的にも肉体的にも厳しい状態にあると察せられます。本当は、そういうときこそ、少し離れた所へ来て、ゆっくりと祈ったり心を休めたりすることが精神的にも肉体的にもいいのでしょう。
葬儀にかかわる仏事でいろいろ大変だったようですね。仏事は一度でなく、これからも繰り返し続きます。主イエスを心に信じる者が、仏事をおろそかにしても、少しも罪にはなりません。信仰の自由という点から見れば、問題ないと思います。しかし、信仰のない人たちや周囲の人たちへの思いやりから、嫁としてしなければならないことをきちんとすることは、主イエス・キリストを信じる者としてよいことです。そのように務めをきちんと果たすことが、主イエスを信じる者のよい証しとなり、あなたのイエスにある誠意が伝わるなら、集会に出席することを家族の人々に認めさせることにつながると思うのです。
このような信仰に立って、たとえ仏事でも、イエス様のみ霊によって、祈りをこめて行うなら、貴方のすることがきっとうまく運んで、人々に認められると思います。驚くかも知れませんが、イエス様のみ霊は、それほど広いお方で、かつ賢く、祈る貴方を内面だけでなく、実際の出来事でも助けてくださいます。ですから、安心して主に委ねてください。自分でなにもかもしようとすると、かえって疲れてしまいます。
【再来信】世間では大変と言われている同居ですが、私の場合、いろいろなことに恵まれたこともありますが、精神的に少しも束縛されることなく、自由でいられるということに、最近気がつきました。そして、それは 聖書のみ言葉のおかげだということに気がついたのです。今まで、自由な環境の中では気づかなかったけれど、いろいろな考え方の人々の中に入っても、自分の中にはみ言葉の世界があると思うと、心の中はとても自由で。しかも、こんなに支えられていたんだということに気がつくことができて。今とても嬉しく感じながら、日々を送っているのです。先生のくださる助言に、どれだけ励まされ、教えられ、導かれ、慰められるかわかりません。何度も、何度も、読み返しています。