【来信】
ある寺院の宿坊で受洗の前夜に悪夢を見ました。真っ黒な沼地から恐ろしい腕が無数に出ていて数珠を握っている。そしてうなるような、無数の題目の合唱なのです。その腕に沼の底に引きずり込まれそうになりながら、キリストの名を呼び、そうしているうちに、金縛りは解けました。意味のつけようによっては悪霊体験になると思います。聖霊のバプテスマを受けたことは、おそらく、キリストのものという自覚を鋭くしますから、悪霊が実在してもしなくても、人間の心理にそういう体験をもたらすのかもしれません。
【返信】
あなたが見た悪い幻には、ふたつの要素が重ね合わされているように思います。ひとつはヴィジョン(幻)を「見る」ということ。もうひとつは悪霊の働きを「感じる」ということです。このふたつは本来分けて考えるほうがいいと思います。
(Ⅰ)
夢・幻は寝ていて見る場合と覚めていて見る場合とがありますが、私は便宜上、寝ていて見る場合を「夢」、覚めていて見る場合を「幻」(ヴィジョン)と呼ぶことにしています。あなたの場合は「夢」のほうだと思いますが、わたしはまず「幻」について考えてみる必要があると思います。「夢」はいわば「幻」のやや異なる様態だと考えるほうがいいと思うからです。「幻」の場合にも、幾つかの異なるケースがあります。
1)まずは現実に起こっている日常の出来事や物事を見て、そこに霊的な意義付けが与えられる場合です。これは日常生活の中にあって、み霊に感じてさまざまな洞察が与えられる場合です。しかしこれは、ヴィジョンと言うよりは、日常見聞きしている事柄に対する私たち自身の洞察あるいは「霊察」で、私は、そういう場合でも、さまざまな体験を通して主から与えられた<語りかけ>として、大切にするよう心がけています。この場合は言うまでもなく、私たち自身の意識的な観察が加えられています。
2)しかしそのような普段の意識的な洞察ではなく、何かを見たり聞いたりしたときに、突然に主のみ霊が語ったり、そこに思いがけない幻が主から与えられる場合があります。旧約の預言者の場合にもそれが見られます。彼らは、主から「出て行ってある事柄を見なさい」と言われ、そのとおりにすると、主はそこで彼に語られるという場合です。多くの場合、イスラエルに対する厳しい裁きですが。ある人は、東京の町を歩いていると、突然自分の見ているビルなどが真っ赤な炎に包まれて燃え上がるという不吉なヴィジョンを体験しました。これらはいずれも、<現実に何かを見ながら>、そこに霊的な幻が重なる場合ですが、本人の意図や意識的な試みは何一つなされていません。
3)次に全く何も見ていないのに、ヴィジョンが与えられる場合です。この場合は、しばしば根拠のない偽りの幻や夢の場合が多いようです。夢・幻は、言葉として言語化して与えられる場合よりも比喩的で暗示的(隠喩的)であり、それだけ多様な解釈が可能ですから、それ自体にあまり大きな意味付けを与えないほうがいいかもしれません(「エレミヤ書」23の28/「コロサイの信徒への手紙」2の18)。古代とは違って現代では、自分の見た夢になんらかの意義付けを与えることをあまりしなくなりました。なおこの点については、コイノニアホームページの「交信箱」にある<絵画的なイメージ>の項目をも参考にしてください。
  しかし、繰り返し同じようなヴィジョンが与えられたり、その幻と同時にお言葉が与えられる場合には、これを心にとめる必要があります。聖書で言えば、アモスの場合などがこれです(「アモス書」7章以下。ただし、アモスが実際に見ているのかそれとも全くの霊的なヴィジョンなのかについては議論があります)。この場合は、見る本人の意識や意志は働きませんが、類似のヴィジョンがしばしば臨む場合は、2度、3度目には、見る本人も、はっきりと神からの語りかけを意識するようになります。
4)しかし、何も見ていないのに主から霊的に示されるヴィジョンがあります。旧約では「エゼキエル書」のそれや「ダニエル書」や「イザヤ書」(11の6節以下)などです。新約では「使徒言行録」10章11節以下でペトロが見たのがこれです。これらは、どれも祈りと結びついていますが、全く不意に臨む場合もあるようです。ここに挙げた聖書の場合は、善いヴィジョンが多いようです。しかし、ある幻が「善い」のか「悪い」のか、これの判断は難しいところがあります。民が滅びる幻は、どう見ても「善い」とは言えません。しかし、それが主から来ている場合には、これを与えられた預言者にとって、「平和だ」と思わせる悪霊の惑わしよりも正しく真実なヴィジョンではないでしょうか? 特にペトロの場合は、彼には嫌な幻でしたが、実はそこに不思議な導きが隠されていました。だからこういう場合には、自分の見た幻が、善い幻か悪い幻か、またそれが<自分に>与えられたのはどういう意味なのかを、自分で勝手に判断しないで、祈りによって悟ることが大事だと思います。イザヤはすばらしい終末の平和の幻を与えられていますが、私の場合もどちらかと言えば、幻が与えられるときは良いヴィジョンの場合が多いようです。どのような場合でも、もしそれが本当に主のみ霊からその人への語りかけであるのならば、けっして一回限りの一過性のものではなく、必ず繰り返し与えられます。み霊は決して曖昧な語り方をしません。これは間違いなく主が自分に語っておられる。このことが確信できるまで、み霊は繰り返しその人に臨むからです。もっとも、そのような主からの語りかけを見たり聞いたりするためには、普段の祈りが大切ですが。
(Ⅱ)
  あなたの体験のもう一つの要素は、<悪霊の働き>についてです。言うまでもなく、これは<見える姿>で来るとは限りません。人間に働く悪の力には、
1)自分の人間的な欲望から来るもの(肉・罪の働き)。
2)他人や世の中の在り方や環境から来るもの(この世の働き)。
3)そしてさらにこの世の奥に潜む悪霊の働き(サタン・悪魔の働き)。
  大きくこの三つの場合があると言われています。ただしこの三つは別々ではなく、重複している場合もあります。これらは必ずしも幻として見えるとは限りません。例えば私の場合などは、悪の力を「感じる」ことはあっても、幻としてそれが見える場合はあまりないようです。またある人には悪霊の「臭い」を感じる場合があります。悪霊に押さえつけられているのを体に感じる体験も時にはありますが、そういう圧力だけではなく、これに<言葉が伴う>場合のほうがさらに強い力となって働きます。また、一見ただの<力>のように思っても、それがみ霊によって追い出されていくときに、はっきりと言葉化されてそれの正体が分かる場合もあります。
  あなたが体験したのは、悪霊的な力の迫りとヴィジョンとが重ね合わされていたわけで、いわば<見える姿で>悪い霊的な迫りがあったと思いますから、これはかなり強烈なインパクトを受けたことでしょう。もっとも「悪霊が夢・幻を見せる」というのは、やや特殊なケースではないでしょうか? また、見えないからその悪の力が弱いということではありません。私には、あなたが見た夢は、金縛りを伴ういわば悪霊の働きのように思います。しかし、それがなぜ<あなたに>与えられたのか? それがあなたにとってどのような意味を持ったのか? またそれは、主があなたに見せてくださったものなのか? それともやはり悪の霊から出ているのか? 私には軽々しく判断することができません。み霊の働きは人格的・個人的(personal)ですから、とりようによっては、悪い幻も何かを教えてくれる場合があります。ヴィジョンには、このように多義性と曖昧性とがつきまといますから、こういう場合、そのことについて祈ることが大切ではないでしょうか。
(Ⅲ)
  では悪い力あるいは悪霊の働きかけを受けた場合に、どうすればよいのでしょうか? 次にこのことを知る必要があります。この場合、対処の仕方に大きく3つあると思います。
1)まず大切なことはキリストのみ霊は天と地と地獄とのどのような力よりも強いということをしっかりと「知る」ことです(マルコ17の18/「コロサイの信徒への手紙」2の13~15)。キリストのみ霊はどのような悪霊よりも強い力を与えられていて、十字架の贖いの力に勝る権能はこの世にも地獄にも存在しないことを心に銘記してほしいのです。日本にはさまざまな祟り信仰や悪霊憑きの霊的現象がありますが、私は主のみ霊は、これらすべてに勝る力を神より与えられていることを認識し確信しています。ここではキリストの聖霊は、これに信頼してお委ねする私たちの中に働き、悪霊的な闇の力を照らしてくださいます。そうであれば、たとえどのような悪の力を体に感じることがあっても、自分の中に宿ってくださるみ霊は、この世を支配する力にうち勝つお方であると信じて祈ることができるのです。イエス・キリストの十字架の贖いの力がどんなにすばらしいかを実感できるのはこういう時です。
2)そのような悪の霊の働きかけの場合には、<自分の力や努力で>これを追い払おうとしたり、これと闘おうとしてはならないことです。下手にもがいたり、闘ったり、口をきいたりすれば、自分もその悪の霊的な状態と同じレベルに巻き込まれる恐れがあります。これは、悪い霊の場合だけではなく、悪い人間に出会った場合でも同様です。悪い霊の働きかけがあるときには、それとはいっさい口をきかないことです。自分の心の内で<黙して語らず>いっさいを主のみ霊にお委ねする。この心構えが大切です。己の心にも惑わされない無心の境地に入る祈りこそこういう場合の秘訣です。沈黙して主のみ霊に委ねる<黙従>ですね。そうすればみ霊ご自身が私たちの心に働きかけてくださるのが分かります。たとえ嵐にもまれても、根底ではみ霊の働きに安んじて動かない。そのことが嵐を沈める最大の秘訣です。もっともこれは、「言うは易く・・・」ですが。静寂の中にあってみ霊ご自身が祈ってくださる執り成しの祈りに身を委ねる。こういう静かで深い霊的な祈りこそ私たちが求めるべきものであるように思います。少なくともわたし自身は、この心構えでいます(「ヨハネによる福音書」14章27)。
3)今ひとつは、今度は聖霊に促されて、積極的に悪魔・悪霊に立ち向かう場合です。聖霊に満たされた伝道者や神の人がとる態度がこれです。この場合、彼/彼女は、「主イエスのみ名によって命じる。サタンよ、出ていけ!」とはっきり命令します。そうするとマルコ福音書などに描かれている場面がそのまま再現します。しかしこのやり方は危険が伴いますから、普通のクリスチャンは、よほどの場合でないと控えるほうがいいと思います。
  聖書ではこのような場合に、悪霊がその人を引きつけさせたり倒したりして出ていったとあります。こういう激しい能動的な場合でも、静かな受動的な場合でも、み霊によって悪霊が出ていくときには、逆にその悪の本質や正体をはっきりと露わにします。ですから、身体的にもかえって苦しくなったり、激しい恐れに襲われたりする場合があります。でもそのために止めてしまうのは、手術の最中にやっぱり止めようというのと似ています。み名と御霊を信じて、恐れずに最後まで委ねきる覚悟が大切です。私の場合、多少の嵐が起こっても、落ち着く先は愛光無心の静寂であることを<知っています>から祈り続けます。でもこれは、やはり経験を積む必要があります。時には失敗して、我ながら情けないことになったりします。特に人々に語る集会の時など、辛い戦いの場合もありますよ。以上、何となく自分でも意を尽くせないままにとにかくご返事しました。何らかのご参考になれば幸いです。
【再来信】
先日お話した悪霊体験らしいものなのですが、出張しまして、聖霊の喜びに非常に強く満たされて祈っていた明け方、この度はおそらく本当に夢ではなく、暗い中に一人の男性の念仏の声が私の周りを駆け回っていまして、身延山の時ほどではないのですが、ゆるく縛られました。「イエス・キリストの名によって命ずる。ここから立ち去れ。二度と戻ってきてはならない」と3回言うと周囲が明るくなり、束縛が解けました。その後少し疲労していましたが,賛美を歌いました。聖霊体験はやはり、指導があれば別ですが、そうでなければ、ある程度神様との関係がきちんととれていないと耐えていかれない分野なのだなあと思いました。もし、信仰をもってまもなくして、一人でこういう体験をしたら、多分耐えられませんね。
  基本的に全てのことがそうなのですが、自分に向けられた十字架の愛のうちに捉えられること、そこから見るということに尽きるのかもしれません。十字架に幼子のように背負われた私が、他宗教の人たちを隣人にとして愛することは、少し怖い悪霊を感じます。それらを独立した事象として意味付けようとすれば、いろいろ意味はつけられましょうが、全てを自分が背負わされる体験から見ること、そこから動かないこと、それに尽きるのかなと思ったりしています。先生からメールをいただいているうちに、私の中で確立してきたことは、自分に与えられた聖霊のバプテスマ経験を肯定的に捉え、大切にすることであると思います。ずいぶん助けていただいたと感謝しています。
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