【来信】
私はプロテスタントの教会に通うクリスチャンです。最初は結構激しいペンテコステというか、カリスマ系の教会に行っていました。その教会で自分の罪深さを聖霊よって示されてイエス様を信じる恵みを受けました。「ハレルヤ」と同時に異言も戴いたわけです。その教会では、イエスさまを信じて救われた者は聖霊を受けて異言を語ることができるということです。それは、逆に言えば、異言を語ることができないクリスチャンは聖霊を受けてもおらず救いの保証もなく、再臨の時には残されるかも知れないという内容でした。私は、イエス様を信じる導きを受けて信仰の告白をして異言の事も何も分かりませんでしたが、導かれるままにその場で異言も頂きました。その時は自分に何が起こってるのかも判りませんでしたが とても心に平安があって、家に帰ってもなんだか嬉しくて、教会に行ったら不思議なものを貰ったよ!と何も知らない友達にまで話すほどでした。そこでは、ほとんど人が異言で祈っていました。しかし中にはなかなか受けることが出来ない人もいて、その人は、「 貴方が傲慢だから聖霊が働かないんだ!もっと砕かれなさい」などと言われて傷ついていました。
また、 聖霊を受けることと異言を語ることが同じでもあり、異言を語らないクリスチャンは聖霊を受けていないとか、救われていないとも言っていました。だから他教会( 福音派 )などは再臨の時に残されるかも知れないとまで・・。今考えると恐ろしいです。私はそれから福音派の教会に移ったのですが、 むしろこちらの方が信仰的にもバランスがとれていて良識もあり、クリスチャンとしての輝きも喜びも持っています。
でも今の教会では異言はすでに終わったという聖書解釈をしていて、聖書解釈が全然ちがいますね。私はこちらに移った時に前の教会の話をしたら、ちゃんとした説明も無いままに洗礼を再度受けることになってしまいました。私は牧師の強引なやり方にまたもや傷つけられました。だから今でもお客さん気分が抜けず傍観者です。なんだか組織に深く関わるのに抵抗を感じます。個人の信仰を認めずに牧師の考えを押しつけている感じがして。私の信仰と牧師の考え方(聖書解釈)にズレを感じるので、何とも身動きがとりづらいです。できれば 福音派のもつ好いものもカリスマ派やペンテコステ派のもつ好いものも 聖書に照らし合わせてバランスのとれた解釈をしてほしいと望んでいるだけなんですが。
私はこの世では教派・教団に属しているとしても神の目から見たら主にある自由人です。すべてのことは主なるイエス・キリストさまが導いて教えて下さるのだと信じて従って行くしかないですね。信じるべきものは 私たちの罪のために 十字架に架けられて命まで与えて下さったイエス・キリストさまと聖書のみ言葉ですね。
【返信】
私たちコイノニアのHPをごらんになって、メールをくださったことを本当に嬉しく思います。あなたの体験は、現在この国で聖霊体験を受けた人の多くが味わうような出来事です。ご参考までに私の意見を率直に述べてみましょう。
(1)まず第一にあなたに知ってほしいこと、それは異言を伴う聖霊体験が与えられたことは、あなたにとってすばらしいことだということです。それは、おそらく今あなたが考えている以上に大事な賜だということを知ってほしいと思います。どうか、その賜を大切にして、自分自身の信仰を育ててください。
(2)次に私があなたに知ってほしいのは、今述べたのと矛盾するようですが、異言を語らないからといって、また異言が与えられていないからといって、そのことで、信仰的に劣っているとか霊的に不完全だと言ったり考えたりすることは間違いだということです。異言を受けることはすばらしい。だから、異言を受けないことは劣っている、ということにはならないのです。「AであるからBである」は、だから「AでないからBでない」ということには必ずしもならないのです。それは、「信仰によって病気が癒されることはすばらしい」からと言って「病気が癒されないから惨めである」と言うことにはならないと同じです。なるほど信仰によって神様に病気を癒されることはすばらしい恵みです。しかし、癒されないからその人の信仰は不完全だ。あなたはそう思いますか? 病気のままで、あるいは病気が癒されなくても、神を信じ主に祈る人。その人の信仰のほうが、癒されて喜ぶ人の信仰よりもずっとずっと純粋で深い。こうは考えられませんか?
さらに異言の賜を主に「心から祈り求める」人は、そのうちに必ず与えられます。人によって早い遅いはありますが、必ず与えられます。それなのにそういう人に向かって「傲慢だ」と言うのは、せっかく与えられるはずの人の心を逆に塞ぐ結果になります。
(3)洗礼を二度受けたということですが、これは受けたあなたではなく、受けさせたほうが間違っています。洗礼はその教会の大事な営みです。それが無効だというのは、その教会をキリストの教会だと認めないことを意味します。どんな宗派や教会にも人間的な誤りがあります。誤りがあるからといって、その教会がキリストの教会でないと言うなら、地上に教会は存在できません。洗礼はイエス様との結婚式です。結婚式は二度挙げる必要はありません。あなたにとってほんとうの洗礼は、はじめに受けたほうです。後の洗礼はなんの意味もありません。実は私の妻も同じ経験をしています。
(4)聖書解釈についてですが、これは少し難しいです。でも、できるだけ説明してみましょう。聖書には旧約と新約がありますよね。新約聖書も大きくふたつに分かれていて、はじめの四つの福音書とその後の使徒言行録や手紙があります。このことは、神様が人類を救うご計画をお立てになるときに、いきなりイエス様の十字架の贖いから始めないで、「幾つかの時代」に区切って、段階的に順序を追って、救いのみ業を成就しておられることを意味しています。それぞれの時代には、それぞれ違った救いの道が備えられていると見るのですね。これを少し難しく言えば神の「経綸(けいりん)」と言います。神の救いの時代は、まずイエス様が来られる以前の旧約の時代、イエス様が地上におられた時代、イエス様が十字架の贖いを成し遂げられた後の時代。大きくこの三つに分かれています。
なぜこんなことをあなたに語るかと言いますと、「異言」や神様による「病気の癒し」を否定する人たちは、そういう「異言」「預言」「神の癒し」は、なるほど聖書に書かれてあるけれども、すでにその時代は「終わった」から、現在の私たちには、そのどちらも救いのために必要ではない。こう考えるからです。
しかし、ここで知ってほしいのですが、異言や預言などの聖霊の働きは、十字架の贖い「以後に」与えられていますから、このような賜が授与される神による救いの時代は、終わっているどころか現在まで続いていることです。現実に異言が与えられていることがそのなによりのしるしですね。異言を否定する人たちは、ここのところが、聖書解釈の上で食い違っているのです。現在は「使徒言行録」と同じ「聖霊の時代」ですから、霊の賜を活かすことがとても大切なのです。
(5)あなたが最後に述べていることは全くその通りです。どの教会に所属しているのか、どのような洗礼や聖餐をうけたのか、こういうことよりも、一番大事なのは、自分自身が祈りと聖書のお言葉によって霊的に成長することなのです。なぜなら、主が「あなたに」異言を伴う聖霊体験を与えてくださったのは、まさにそのためだからです。どうか自分に与えられた聖霊体験を大切にしてくださいとはじめに述べたはこのためです。そして、もっともっと深く主イエスに従い主に信頼してください。
なんだかくどくど書いたような気がします。でも、もしもあなたが、上に述べたいろいろな事柄で、疑問や不審を抱いていたならば、用心して「今以上に」深く主を信じ主を愛することを控えるかもしれない。私はそのことを何より恐れるからです。人は自分のしていることが「正しい」と確信できなければ、どこまでもそれを求めようとはしません。それでは、せっかくすばらしい聖霊体験が与えられても、その賜を活かすことができませんよね。ですからどうぞ安心して祈りとみ霊にある歩みに励んでください。