【来信】
 わたしの母は夜中に怖い夢を見てうなされていました。その日は母と妹しか家に居らず、妹は母のうめき声で目が覚めたようです。なにやら呟いているので様子を見にいくと、どうやら寝言らしいですが、それが何と!英語で話していたそうです。妹も不思議に思ったようですが。夜も遅かったので話は明日にして床についたそうです。次の日、妹は母に「昨日お母さん 怖い夢を見ていたでしょ。神さま助けで下さい」とか「サタンよ、イエスの御名によって退け!」とか、英語で話ししていたよ、最後に「イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りします。ア〜メン」と祈って眠ったよ、と告げました。母は聞いてビックリしたそうです。
  自分が英語で話していたとは母にも信じられませんでしたが、確かに夢の中で、何やら得体の知れないものに追われて、母は逃げ回りながらも助けを呼び叫んでいたそうです。母はイエスさまにもお祈りをしていました。それは、妹が英語で聴いた内容とピッタリでした。母が英語を話せる人なら別に不思議でもありませんが、英語を聴くことも書くことも、まして話すことなど出来る人ではありません。家族の誰もが、あのような流暢な英語が母の口から出てきたのはまさに神さまからの贈り物の一つであると思いました。そして異言の賜によって祈らされていたのだと神の恵みを賛美し感謝しました。また、この英語での異言の現れは、妹に対する神さまの恵みでもあったとも思います。妹はまだ正式なクリスチャンではないですが、個人的には、聖書の言葉とイエス様を信じているようです。ちなみに母は今でも英語を話す人ではありません。

【返信】
 メール興味深く読ませていただきました。お母さんが英語で語ったのは、とても不思議な体験で、それは、いわゆる「異言」ではなく「異言語」で語ったことだと思われます。「異言語」と「異言」とは違います。「異言」は語っている本人にも聞いている人にも理解できません。ですから、「異言を解く」ことが与えられるのです。しかし「異言語」は、はっきりした「言語」ですから、語っている本人にわからなくても、それを聞いている相手には理解できます。「使徒言行録」2章の「異言」の記事では、「異言」と「異言語」とが重ね合わされていますので、一般に誤解を生じているようです。
ところで、この件で3点ほどお尋ねしたいことがあります。
(1)お母さんは、その異言語を語ったときに、すでに「異言」の体験があったのでしょうか? あるいはその直後に異言を語ったでしょうか? 私はすでに異言体験があったのではないかと推察しますが。
(2)もうひとつは、お母さんが叫び求めていた相手というのは、日本人ではなく、だれか日本語を話すことができない人に向かって叫んだり助けを求めたりしていたのではないでしょうか? 
(3)お母さんは、自分の語っている英語がどういう意味かを理解できたでしょうか?たとえば、私が英語で語っても「異言語」とは言えません。私は英語が理解できるからです。もし私がインドネシア語で語っていて、私にはなんのことかわからなくても、聞いている相手がインドネシアの人で、その語る言葉を理解できたなら、それは「異言語」です。 
  こういうわけで、この3点を教えていただきたいのです。厳密に「異言語」であるかどうかを知る上で大切なことですから。ただし、厳密に異言語でなくても、お母さんの体験はやはり大きな恵みですよね。どうぞお母さんによろしくお伝えください。主にあって。

【再来信】
 ご返信どうも有り難うございます。わたしの母は寝言で英語を語っていたようですが それより以前に異言の賜はいただいております。使徒行伝2章に於ける「他国の言葉で話し出した」という箇所と類似しておりますが、その体験と同じと考えてもよろしいのでしょうか?
母は 夢の中で悪魔のようなものに襲われて逃げ回りながらイエス様に助けを求めていたそうです。 わたしは母の体験が異言の祈りから来るものだと思っていたのですが、それとはまた違う働きなのでしょうか? 異言の祈りには解き明かす者が必要とされていますが、何を語っているか分からない祈りもどこかの国の言語であると聞いたことがあります。また 異言の解き明かしの中にも秘密の部分もあり、その人の個人的な事柄に関して神さまが守って下さるので解き明かされないそうです。異言の祈りに関してまだまだ知らないことが沢山ありそうですね。神さまの恵みを賛美し感謝します。
 
【再返信】
  ご返事有り難うございます。やはり私の思った通り、お母さんは異言体験がおありでしたね。これは重ねての私の推察ですが、母さんはとっさの時にイエス様が日本人ではなく外国の人だから、日本語は通じないと思ったのかもしれません。ご返事を戴いて、お母さんの語ったのは、聖書の「他国の言葉」である「異言語」にとても近いと思います。ただし、どんな「異言」でも、どこかの国で話されている言語に違いないという考えは、現在では否定されています。ですから、私たちが語る異言は「翻訳できません」。翻訳できなくても、み霊によって「解釈できる」のですから、不思議ですね。