【来信】
「イエス様とモーセ」(『コイノニア』34号)、興味深く読ませていただきました。人間にとって祭りや犠牲がもつ意味、イエス様が切り拓かれた異次元の世界、信じるということ、などについて教えられ、考えさせられました。先生の聖書講話をとおして、先生が聖書に向き合っておられる姿が伝わってきます。聖霊のご臨在があることを感じ、ただならぬインパクトを与えられます。
「祭りと犠牲」のところで、新嘗祭と大嘗祭のことが書かれていました。これは天皇が死んで復活し、新しい霊を獲得する儀式だとありました。私は神と共に収穫したものを食べ、共に寝ることによって新しい霊を獲得する儀式だと思っていたのですが、日本にも復活信仰があったんですね。
【返信】
「イエスとモーセ」でとりあげた「王と祭儀」の問題は、文化人類学的にとても重要で、それだけに広範囲な内容を含むものです。特に日本の天皇とこれの「よみがえり」思想は、様々な議論を呼んでいますので、私の叙述の仕方は、少し言葉足らずであったと反省しています。
天皇が大嘗祭を通じて「復活する」(resurrect)と言うよりは、より正確に言えば、「再生する」(regenerate)というほうが正しいかと思います。「再生」というのは、人間の血統による自然なサイクルを意味しています。ですからこれは、自然のサイクルの中で、次々と受け継がれていく性質があります。これに対して新約聖書の「復活」は、イエスの復活に見られるように、歴史的に一回限りの出来事としてとらえられています。しかも、この歴史的出来事には、啓示としての性格が備わっています。それは自然の循環する時間の中での出来事ではなく、過去・現在・未来へと直線的につながる歴史的な時間での、一回限りの出来事であり、しかもそれが、歴史の「終末」を「現在」という時の中で、人間に啓示し続けるという独特の性質を有しています。このような復活の啓示性は、神からの終末を絶えず現在の中へと呼び込むことになります。この点で「復活」は「再生」と異なるかと思います。
もっとも、古代ヘブライの「復活」観の背後には、それより遙か以前の古代バビロニアや古代エジプトの「再生」思想がその背後にあると考えることができます。古代のエジプトでは、「死者が再びこの世へよみがえる」という信仰がありました。また古代バビロニアでは、新年ごとに王の「更新祭」が行われていました。モーセ以来のイスラエルは、このようなオリエント、特に古代エジプトの死者のよみがえり信仰を背景に、聖書的な復活観を生み出したと考えるべきでしょう。
さらに問題を複雑にしているのは、日本の皇室が古代ヘブライ起源を有するのではないかという指摘がなされていることです。こうなりますと、天皇の「復活」信仰もあながち誤りではないことになります。しかし、この辺の所は、まだまだ未確認の部分が多く、今後の研究に待たなければならないと思います。
ご指摘の「異次元」についても、補足が必要かと思います。「終末」は、必然的に私が指摘した「イエスの異次元性」へとつながります。この意味での「異次元」とは、この世の現象を「超越すること」と受け取っては誤解を生じると思います。なぜなら、「超越」は、しばしば「この世離れ」を意味するとうけとられがちですから。いわゆる瞑想的なこの世離れの超越は、それなりに無意味だとは言い切れませんが、現実の世界とキリスト者とを結ぶ接点に欠ける恐れがあります。これに対して、終末は、超越しながらも現実世界との関わりを保ち続けることを意味します。現実との関係を「保ち続ける」と言うよりも、現実の世界を「神様の視点から」見ることで、今の時に展開されている真相を見抜く霊的な洞察力が与えられることだと思います。イザヤやその他の旧約の預言者たちが、一見幻想的とも思える終末的な絶対平和のヴィジョンを与えられながら、現実のイスラエルの置かれた歴史的状況を驚くべき的確さで洞察できたのは、こういう聖書の神の霊性に導かれていたからではないかと思います。旧約の預言者たちが、政治や軍事や経済の現実のまっただ中にありながら、それらに流されることなく、神の御霊にある終末的・聖歴史的視点を見失わなかったことがとても大切だと思います。