【来信】あらためて思ったことは、なんと聖書は聖霊について言及することが多いのかということ、そして自分はそれを読み飛ばすように今まで読んでいた、ということでした。エペソ書を読みながら一人で祈っていた時に、「愛は律法で満足するだろうか。」という問いの迫りを強く感じました。それは私のそれまでの信仰生活が「すべし、すべからず」という人間の努力の信仰だったからだと思います。すぐさま、「満足できません」と応答の祈りを投身するようにささげ、主の問いの前に潰された時、異言の賜物をいただきました。しきりにうながすような何者かの衝動を感じ、この衝動にゆだねてみよう、としたときに異言が生じたのです。自分の舌を意識すると、それは止まり、また衝動のような何かにゆだねるといつまでも未知の言葉が出るのです。私は異言というものを今までに聞いたことがなく、いわゆる聖霊を強調する集会に一度も参加したことがなかったので、自分の体験が何なのか、しばらくの間、はっきりしませんでした。ラリー・クリスティンソンの『異言』(生ける水の川出版)という本を通じ、「これは異言だったのだ」と分かった次第で、自覚と恐れが除かれていくにつれ、異言はハッキリと力強く生ずるようになりました。実はまだまだわからないことだらけです。神の貴い賜物を消さないためにも、もっと学び、自重したいものと思っております。『聖霊に導かれて聖書を読む』との出合いは貴重でした。三回通読したのですが、まだつかみきれていません。なお読み続けていくことと思います。
【返信】あなたの異言体験で、私が注目したことが二つあります。第一に、異言が集会の中や特別の場で、すでに異言を語る人たちによって励まされ指導されてではなく、自分でもそれと知らないうちに異言が臨んだという点です。これは、私にはとても大事なことを教えてくれます。なぜなら、異言とは人が語るのを真似することで伝わるという説があるからです。つまり、異言についていろいろと聞かされて、その結果として異言を熱心に求めるようになって初めてその体験に与るという考え方です。でも、あなたの場合はそれと異なります。
第二に、ひとりでいるときに異言が臨んだことです。普通初めての時は、誰かが側に付いてくれていて、導いてくれることで異言を語ることができます。私の場合もそうでした。ところが、あなたの場合は、自分一人でその体験に与ったのですから、これはすばらしいです。すでによほどしっかりした自己の信仰的な確立ができていたからでしょう。この証しは、これから異言を求める人にとって大切な証言になるでしょう。