【来信】
自立したクリスチャン、自分ひとりで立つ信仰者になるようにと言いますが、結局はそこに行くしかないのでしょうか。教会に忠実に出席し奉仕している敬愛する先輩たちの多くでさえ、そんな生き方を強いられているのを、教団の教会ではいやと言うほど見てきました。今の教団の教会ではそういう生き方をかなり多くの人がしていると思います。それは大変ですが、一人一人を取ってみれば強い人たちで、組織のありようにも、指導者にも流されない歩みをする人ではあります。
しかし、組織に同一化しきれない、あるいは組織を持ち得ない哀しみというものもあると思うのです。教会に属しながら人を誘えない。ここに来てキリストに出会ってほしいと言えない。そういうつらさがあると思うのです。伝道したくても個人的には限界があります。ですから、やはり教会の逆機能、日本に根付かない神学や組織的に個人のニーズにはこたえられない教会の貧しさから、<自立せざるをえない>クリスチャンが生まれてきているという見方ができます。このことはまた、誰でもが、カトリックの本でもカルトの本でも自由に読めてさまざまな情報を得ることができ、同時に選択しなくてはならない責任の中にいながら、それに適応しようとしている姿だとも言えましょう。しかし、それは比較的「強い羊」の生き方で、弱い羊は日本の社会に呑まれてしまいます。信仰をもち続けることはできません。どうやって、どこで信仰を成長させていったらいいのだろうか、と考え込んでしまいます。
【返信】
自立した信仰者の歩み、これはどこにも安住できないというネガティブな意味ではなく、私はむしろ積極的・肯定的にとらえています。聖霊体験とは、まさにそういう自立したひとりの信仰者を育てるために主から与えられた賜であり、自分一人で立つ信仰に到達デキタならば、これはすばらしい恵みです。
ここで真に問われるのは、教会とその組織は、ほんとうに信者ひとりひとりの内面的な個性を生かすことができるのか? という問いかけです。これは、たとえば「エフェソの信徒への手紙」3章15節以下の祈りにあるように、個人としての信仰者が、み霊の愛と知性と豊かさを知るようになることです。教会でもこのことが、「教会の発展のために」信者ひとりひとりが訓練されなければならないという発想で、古くて新しい問題としてとりあげられています。
しかしあなたがここで提起されている問題は、そういう自立の大切さを認識した上で、なお日本では、自立せざるを得ない立場に追い込まれるクリスチャンの少なくないことを悲しんでいるのですね。その問いかけは、私にもよく理解できます。しかし、私があえて、その様な状況を肯定的に捉えるのは、それなりに理由があります。
なぜなら、私が「自立」というのは、教派や教団から分離して孤立した信仰者のことを特に指しているのではありません。キリスト者は、教団・教派の中にいても外にいても、組織の一員であっても孤立した状態であっても、「キリストに結ばれたひとりの個人」であるし、またそうあるのが当然だという意味です。イエス・キリストを信じるとは、特に<聖霊の体験を通じて>イエス・キリストを信じるとは、まさにそのような自立した個人と個性を具えた人間に「成長する」こと(ヨハネ第1の2章27)ではないでしょうか。私は、プロテスタントである限り、無教会であろうとその他の宗派であろうと、この点は基本的に同じであると思います。カトリックとプロテスタントとの最も大きな違いは、プロテスタントでは、ひとりひとりの信仰者が、教会とこれの形成発展のために存在しているのではなく、ひとりひとりの信仰者が、それぞれに主から与えられた状況にあって(これは実に多種多様です)、聖霊に導かれて自分の本来あるべき姿を「追求する」(これが「終末」に向かう信仰の基本です)ことであり、これを助け支えるのがプロテスタントの教会のあるべき姿であって、したがって牧会者が目指すべき目標であると思います。
しかし、日本において、自立した信仰者になるということは、もう一つ別の面があります。それは、他宗教とみ霊の福音との関係です。聖霊派と純福音の教会でもそうだと思いますが、これらほとんどの教会では、仏教や神道に対して否定的であり、厳しい反対の姿勢をとります。これもこれで、聖書的に間違いとは言えません。教会の立場からは、この点ではっきりとした一線を画さなければ、組織としての教会の発展も団結も弱まりますから。しかし、あなた自身は個人として、全く白紙の人に福音を語る場合に、この問題に関してどういう姿勢で臨みますか? ほとんどの日本人にとって、初めから仏教を捨てよ、神道を否定せよと迫られると、それだけで後込みするのではないでしょうか?
つまりひとりの日本人が福音を受け入れる場合に、この問題は、教会から自立したクリスチャンになることとつながってくるのがわかります。仏教や神道を「異教」として否定したり非難したりするよりも、まずその人が主イエスとそのみ霊の恵みを知る。このことが大切なのではないでしょうか? 彼/彼女がみ霊の恵みを知るならば、それ以外の問題は、<み霊ご自身が導いて>その人自身の内でそれぞれの仕方で解決してくださる。これが私のやり方です。でもこのやり方では、ご指摘の通りなかなか<伝道の成果>があがりませんよね。でも私は希望を捨ててはいませんし、むしろこれからこの国で、何か創造的なことが起こると期待しています。
21世紀のキリスト教とは、まさにこういう霊的実存に生きる個人のあり方を支える福音のことだと信じています。私は教会のための信者というカトリック的な有り様と今ここで語られている自立した個人の信仰者という有り様は、矛盾対立するものではなく、相互補完的な働きをすると信じています。長いキリスト教の歴史の中でも、教会が組織として発展するほどに、これと相呼応して、少数者による修道院が生まれました。いかなる形態の組織でも、それ自体に真理を含み得ない性質を持っていますから。ただし、このことと組織を否定することとは別です。「無」教会は「反」教会ではないのと同様です。
このことを踏まえた上で言うのですが、21世紀のキリスト教は、そのどちらの方向へ向かうのかと問われるなら、私ははっきりと人間一人一人が個人としてより自由なみ霊の霊性に生きる方向へと向かう。こう確信しています。そうでなければ、これからの人類全体の歩みを支えるキリスト教であり、本当の意味での「よい知らせ」であるとは言えないと思います。
【再来信】
個人としての信仰者についてのお考え、よくわかりました。既成の教会が本当に個人の信者の個性を大切にしているか、という問題は私も考えてきたところです。籍のある教会では、個人の信仰体験はほとんど主観的なものとして無視されました。日常生活の中で与えられるものはこの世のもの、として烙印を押されて、教会の中でのわずか数時間の教会生活が大事だといわれてきました。個人としての祈りの生活でさえ、何一つ指導されませんでした。もっとひどいときには、信仰は共同体的なものであり、命としての組織の存続が大事というスタンスの説教を聞いて落胆したことがあります。しかし、私の信仰経験はこれについて徹底的なノーを言います。日常生活の中で、如何に主ととともにあり、教えられてきたことの方が、説教から学んだことよりも悲しいくらい多いか。個人として個人の生活の中で、如何に日常的な経験から、神の声を聞き分け従っていくか、ということをどうして教会は教えてくれないのか、と思います。