来信】
  私自身が個人的には聖霊体験を持ちながら,カリスマ運動に近づかないのは,一つのおそれがあるからです。たぶん異言を排除する人たちにも共通のものだと思いますが、そこまで行ってはいけないというところに、入っていってしまうからです。たとえば、「霊の闘い」「悪霊を縛る」などということを結構真剣に書いてあったりします。神社に行って霊を縛る、霊的な地図を作る、とか書いてある本もあります。そのような中では他宗教との対話も何もないように思えます。
 つまり,聖霊が存在すれば悪霊や悪魔も存在し、それが大きなリアリティーを持つと考えるようになります。果たして、そこまで行っていいのだろうか。どこで止まればいいのだろうか。どこで歯止めをかけるのだろうか。そんなことを考えるくらいなら、はじめから聖霊体験は過去のもの、と言ってしまったほうが・・・という論法も分からないではないように思えます。私自身はそれ(悪霊払いや闘い)はキリスト教の本質ではないし、もし本質ならば、それを中心にキリスト教は形成されたでしょうが、そうならなかったところに御心を感じるのですが、どんな風に考えていらっしゃいますか。これは結構、この聖霊体験へのアレルギーを考えていくうえで大きい問題と思いますが、いかがでしょうか。

【返信】
(T)
  最近のアメリカにおける聖霊運動の傾向として、個人的な伝道よりも一人一人の個人をいわばそれが所属する共同体の一員としてとらえ、その共同体ごと改心させようという運動が起こっています。例えばひとりの若者が福音を信じたとすれば、その方法を応用してその若者が所属する固有の階層の人たち全体を同じように福音へと導くことができるという考え方です。このように個人を社会の階層のメンバーと規定して、その階層全体を、主婦であれ学生であれ労働者であれ、その他いろいろな階層の人たちにこの原理を適用する伝道方法です。
  さらにもう一つは、社会的階層だけではなくて、人々をある特定の地域共同体の一員としてとらえ、その共同体が有する特徴を解明することでその問題点を探り、これによって、いわばその地域ぐるみでキリスト教に改宗させようとする動きもあります。キリシタンの伝道方法として、まず大名をキリスト教に改宗させ、それを通じてその大名の支配する地域全体がキリスト教に改宗するという方法をかつての宣教師がとりましたけれども、この考え方に通じるところがあろうかと思います。
  こういうアメリカの聖霊運動の伝道原理が、日本の聖霊運動にも採用されつつあります。ただし、キリスト教を立て前とするアメリカとは異なり、日本はキリスト教から見れば「異教国」です。この「偶像礼拝の国と民」とをその地域ごとどのようにしてキリスト教に改宗させることができるか? これが盛んに論じられているのです。
  問題はいろいろありますけれども、特に現在この点で問題とされていることは、神道と天皇制あるいは天皇制文化という問題です。ここでは天皇個人としてではなく、皇室を中心とする日本の文化それ自体が抱える「悪霊的潜在性」が問われています。この場合、そのような文化の根底を支えている日本人の霊性それ自体(具体的には神社・仏閣などの宗教施設)が悪魔的なものに支配されているから、悪霊の働きと規定され、いわば福音の敵とみなされる傾向があります。『リバイバル新聞』や雑誌『ハーザー』などで、現在この問題が盛んに論じられています。中には日本人の霊性と日本文化とに価値を認めこれと協和していくことを提唱する人たちもいます。しかし、どちらかと言えば天皇制とそれを支える日本文化を悪霊的なものととらえて、これに戦いを挑もうとする人たちの方が多数を占めているようです。
(U)
  小泉改革路線の裏に潜む国家主義的な傾向や最近話題になっている復古調の「歴史教科書」など、ナショナリズムと国家主義的な傾向が今後強くなるのと呼応するように、キリスト教側からの反体制的、反天皇制的な挑戦がいっそう強くなるのではないかと私は懸念しています。私が先のメールで、「宗教的な寛容」とか異なる宗教に対する「祈りと執り成し」について述べたのは実はこのような現在の聖霊運動の傾向を念頭に置いていたからです。問われているのは、キリストの福音的霊性と日本古来の霊性に基づく文化という2つの異なる宗教・文化が遭遇し出会うところに生じる避けられない摩擦、衝突です。天皇制論議がこの点を浮き彫りにしてくれます。この場合に、敵対/協調いずれかが正しいと割り切ることはできないように思います。この点について考えるヒントとして、コイノニアのHPにある「旧約時代の霊性」の3章「サムエルとサウルの時代」の中の「受容と拒否」の項目をお読みいただければ私の考えがある程度理解していただけるかと思います。
  私は日本の天皇制や日本の文化に敵対することは、自分に与えられた主イエスのみ霊の福音から見て決して正しいとは言えないと信じています。しかし、ただ単に日本の霊性を非難する人たちの態度を批判したり否定したりしていても、少しも問題の解決にはならないと思います。大事なのは、自分自身が、積極的肯定的に、日本がイエス・キリストのみ霊にあって罪赦されて救われるというはっきりした確信を抱くことではないかと思います。このような展望は、特に日本人に対する愛と執り成しの祈りの中で、み霊によって主から示されること以外にはあり得ないと思います。私が「十字架の贖いと執り成しの祈り」こそが、問題解決のキーワードであると申し上げたのは実はこのことなのです。主は間違いなく、この国の民をその文化共々に愛しておられますよ。これが私の到達した信仰です。
(V)
  あなたの提唱した2番目の問題はこれよりもはるかに大きく深いです。それはキリスト教のもたらす光とそれの反動としての闇の力、キリストとサタン、神と悪魔という問題に関わってきます。この問題は日本という狭い範囲だけではなく、全世界的にキリスト教の歴史それ自体のはじまりへとさかのぼることになります。それどころでなく、私が「旧約時代の霊性」の第1章で触れているように、旧約をはるかにさかのぼる古代オリエントの文化と宗教にまでこの問題は及んでいます。一般的に言えば、神と悪魔との対決が聖書においてはっきりとした様相を見せるのは、捕囚以後、特にイランのゾロアスター教(紀元前7世紀頃実在したとされる半ば伝説的なザラスシュトラを元祖とする)の影響を強く受けたことから出ていると言われています。新約でこの問題を最も鋭く追求しているのがヨハネ系文書、すなわち「ヨハネによる福音書」とヨハネの手紙と「ヨハネ黙示録」です。でもこれを今論じることはとてもできません。私は「闇は光を支配できなかった」というヨハネ福音書の初めの1節〜5節に端的に答えが示されていると思います。光は闇の中に輝きますが、光は闇と「闘う」のではありません。闇とは光の欠如を意味しているからです。私はキリストとサタンとの関係は、この光と闇の関係で最もよくとらえることができるように思います。言うまでもなくこの問題は、先ほどの日本の文化的霊性とこれに対する執り成しの祈りと深くつながってきますよね。最近、私の所属するミルトン学会のメンバー幾人かが、『古代悪魔学』という本を訳しました。ここにはまさにキリストとサタン/神と悪魔の対立という構図をどのように解き明かすべきかが論じられていて、とても興味深い本です。
 こんなふうに語っていてはきりがありません、結論を申し上げます。日本という「国家」のためではなく、「日本人」のために愛情を込めて祈る執り成しの祈り、そこに働く御霊の愛こそ、問題解決のカギだと思います。神はこの民を愛して、きっと導いてくださいますよ。神は「この世を」愛して御子イエスをお送りくださったのですから。このような信仰こそ私にとってなによりも大切ではないかと思います。
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