【来信】 初めてお便りします。 私はある福音主義の教会へ行っております。 コイノニアのホームページで御霊のバプテスマについていろいろと書かれているのを読ませて頂きました。 今現在の私自身のクリスチャン生活に疑問を持っています。 廻りを見渡しても自分自身を見ても あまりに弱々しく見えます。 私の教会では、異言などについて受け入れがたいようです。私自身は異言を語る集会にも行ったことがあり、また聖霊に関する本をいろいろ読んでみました。9月の半ばに開かれた聖霊100年祭にも一日だけですが主人と共に行ってきました。 ペンテコステの集会に行ったり異言や癒しに関する本を読んだりするうちにもっとイエス様に近づきたいという気持ちが強くなりました。 御霊のバプテスマを受けたいと望んでいます。祈り求めていますがなかなか難しいようで。 誰か他の方に祈って頂くほうがよいのでしょうか? 何か具体的な方法がありましたら教えてください。
【返信】メールくださって有り難うございます。コイノニアのホーム・ページにある<交信箱>は、あなたのような方からの質問にお答えしたメールの交換から生まれたものです。ご質問の答えになるかどうかわかりませんが、私なりに幾つかのヒントをお伝えします。
(1)一般に「御霊のバプテスマ 」と呼ばれているものは、ひとつの型だけでなくいろいろな型があります。今それを詳しくお話しすることは避けますが、私があなたにお勧めしたいのは、その中でも一番標準的で、聖書的なものである「異言の賜」です。これについては、交信箱の下半分をごらんください。
(2)「異言の賜」などと言いますと、なんだか近寄りがたいもの、自分に与えられるとは信じられないものという感じを持つと思います。しかし、この点をよく理解してほしいのですが、<求めよ、そうすれば与えられる>というのは、まさにこのみ霊の賜のためにあるのです(ルカ11章9−13)。だから、あなたが切に望むなら、異言の賜は必ず与えられます。どうぞこのことを知ってください。
(3)聖霊のバプテスマを受けるのはあなたに聖霊がないからではありません! あなたがイエス様を信じているのであれば、あなたの内にはすでに聖霊が働いておられます。そうでなければ、イエス様を信じることなどできません。ですから、あなたは、自分の努力や力で、聖霊のバプテスマ に与ろうとしてはいけません。むしろ、力を抜いて、楽になって、自分自身を全く主様にみ手にお委ねするようにしてください。自分に強くならないで、自分に弱くなってください。聖霊は主様から来るもので、自分で創り出すものではありません。すでにあなたの内に聖霊様は働いておられて、あなたにそういう祈りを起こさせているのです。
(4)決して怖がることはありません。<主を信じる>ということはまさにそういう姿勢なのですから。その姿勢は、おそらく、あなたが、最初にイエス様を<信じた>ときを思い出させるのではないでしょうか? きっとその時にも、かなりの<勇気>を出して主様に祈ったと私は思うのですが。パウロが<信仰から信仰へ>進むというのは、そういうことです。入信も聖霊の満たしも聖霊体験の後も、この<信仰>それ自体は本質的に同じです。一貫しています。 書き添えますが、私が「怖がらないで」というのは、舌を委ねることは<言葉>を委ねることを意味します。<舌と言葉と理性>の三つは、つながっていて、人間のもっとも大切な思考能力に属します。ですから、それを主にお委ねすることは、自分の全存在を委ねることになり、どうしても<恐れ>を抱かせるのです。 これを克服するためには、主のみ霊による<愛>を信じるしかありません。自分のうちに主様のみ霊が働いていてくださる。このことを信じてください。言い換えると、主様があなたを<愛しておられる>ことを信じてください。これがキーワードです。
(5)以上のことを念頭に置いた上で、どこかの聖霊のバプテスマ を求める集会に出るのもいいでしょう(文面ではあなたはすでにそういう集会をご存じのようなので)。大都市では、大きな聖霊集会が度々ありますので、そういうものに出てみるのもいいでしょう。でも、これは絶対条件ではありません。自分一人で祈っているうちに、聖霊がその人に降った場合が多くあります。
以上思いつくままにあげてみました。ご参考になれば幸いです。
【再来信】早速先生に助言をして頂いたように、交信箱をもう一度読み、お言葉どおり力を抜いて、楽になって主の御手に自分自身を委ねるようにしてみました。舌が小さく小刻みに動き出し舌打ちをするような感じがしてから、声というより音が出てきました。心がとても安らかで温かいものを感じます。ただ前にも聖霊様を求めた時3度ほどですが同じような状態になった事があります。それと共に身体が震えてきたこともあります。私にはこの時の言葉が異言かどうか良くわかりません。 5年ほど前になりますが、ある女性の集会で小さなグループに分かれ交わりのひとときを持ちました。その時他教会の一人の方が、祈りの中で、数分ですが異言を語って下さったのです。一度だけ聞いたその時の異言を無意識に真似ているのではとも思ったのですが。今ではその異言の記憶もかなり薄れていますが。異言の確信というのはどの程度持てるものなのでしょうか。引き続き求めていった方が良いのでしょうか。
【追伸】お祈りありがとうございます。この2日間何度も 祈りに深く入ったようです。今まで頭でしか理解できなかった御言葉も霊的な部分で理解できます。何とも言えない深い感動を覚えます。またイエス様が私を深く愛してくださっているのがわかります!本当に信じられません!私を主に導いてくれた姉妹にも異言が求める者に与えられる事を話し、コイノニアのホームページの異言を求める際に必要なことをFAXで送りました。この事をわかってくれそうな人には伝えたくてたまらない思いです。