【来信】
  主を賛美します。メールありがとうございました。今まで高校生たちを導いてきた時も、祈りに祈って、ああこれで、と思った時に子供たちは受洗の決心をしていきました。その時の感覚は私の中に定着しています。結局のところ、伝道というのはとりなしの祈りに全面的に乗っかって起きてくる一連の動き−−−聖霊の働きのことですから。祈らないで出来る伝道はありませんね。祈りが消えたらたちまち消えてしまうのは実感できます。私が主の愛の水源地でなければならない。真剣にそうでなければならないと思っています。
  ご指摘のとおり、福祉を志す人たちは、聖性への憧れを秘めた人たちがかなり多いです。まずはじめに福祉へ向かう動機が、肉親の病気や死・不登校・障害、自分自身の家庭の問題−−−児童虐待・ドメスティックバイオレンス等です。そのようなことから、人生について自分自身について比較的深い洞察力を高校生の頃から身につけています。そしてそこからの脱却−−−カタルシスを求めて福祉に入ってきます。自分と同じ苦しみを持つ人たちのために生きたい、自分のためだけに生きたくはないということです。それでもあまりに傷が深いと、他者のために生きることは難しいのですが、自分からいかに目を離すか、他者のニーズをどう読み取るか、それをどう専門知識と結びつけるかを学ばせます。彼らがぶつかることは、「愛のない自分」です。人間としての自己の「破れ」です。これは人間としてのエゴイズム云々より、人間である以上避けられない限界であるといえますが、破れはキリストに出会うための機会ですし、聖性への希求もまた、そこから噴出してきます。もちろん、そのような「破れ」の話を聞いてもすぐに信仰の話はしません。個人的な関係が深まり、私の話を聞くようになったときに、初めて証しするようにしています。
 私が福祉を志す若い人たちの魂に立ち会いながら感じてきたことは、これが私が個人伝道者(中を)としての按手をしていただいた動機のひとつにもなるのかもしれませんが、普通の若い人たちの中に「破れ」があり、聖性への希求がある。それなのにそれらの魂とキリストをつなぐつなぎ手がない、ということです。愛のない自分への解決がキリストであるということ自体が知られていないのです。またたとえそれが分かったとしても教会は遠い。ストリートに座り込んでいる彼らにとっては、教会はあまりに遠いのです。本当はこういうつなぎ手は教会に属するクリスチャンの一人一人がするべきことなのかもしれません。しかし、伝道への召命という自覚に押し出されないと、日本人のクリスチャンはそこまで出来ないというのが個人的実感です。また教会に属する人がつなぎ手になったとしても、あまりに教派主義で包容力の狭い教会では、彼/彼女のような志向性の違う求道者を、どうつなげるのかという問題があります。
  私個人は、彼らの霊的ニーズを生かしていこうと考えています。彼女のような人には、霊的な読書を通じて、マザーテレサから始まって、活動を支える祈りの大切さ、その根源にあるキリストとの出会いの大切さを意味付けていきます。プロテスタントとカトリックの違いを簡単に説明し、誤解のないように意味付けながら。一方で彼のほうにはどん底に落ちた人を救うキリストの力について読んでもらいます。ミッション・バラバの牧師の書いた本です。彼らは本を多分交換しますから、面白いユニークなものをそれぞれの課題から受け取って、成長できると思います。一方で家庭集会では、聖書を少しずつ読み、主の祈りを教えるということをしていきます。聖霊に導かれるままに、今しようとしていることはこんなことです。

【返信】
  すばらしい伝道の実践の証しを有り難うございます。あなたの場合、職業と伝道とが自然と一体になっていて、それが主様の導きであったことがよく分かります。しかし、どんな職業にあっても、御霊の導きがあれば、それなりに様々な仕方で、御霊の福音を証しする道が開かれて来るというのが、私の今までの歩みを通じて学んだ信仰です。その意味でも、あなたの証言は貴重です。
  私も学生に接する機会が多いのですが、近頃の学生の大多数は、あまりに享楽的で、「楽しいこと」だけを追い求めているという印象を受けます。かわいい人形のように幼稚でひ弱な女子学生が大勢います。そんな中に混じって物事を深く見たり、自分の生き方を真剣に求める魂もいます。霊性に多少とも目覚めたそういう若い人たちにとっては、自分を囲む軽薄な風潮は耐えられないでしょう。傷ついたり悩んだりしてだんだん内向的になっていくタイプがこうして生まれるようです。こういう学生たちにアプローチするには、自分の歳が違いすぎるとつくづく思うこの頃です。ですから、あなたのような若い方々が、そういう若者たちを導いてくださるのは本当に嬉しいです。
  今あなたの集会に来ている魂たちは、そこから育って、様々な道へ、あるいはいろいろな教派の教会へと行くでしょう。しかし、霊的にあなたが育てたという事実は変わりません。また、おそらくその中には、生涯あなたの集会で信仰を送る人も出てくると思います。霊的な交わりは息が長いということです。逆に言えば、アップ アンド ダウンは覚悟の上で、決して焦らずじっくりと育ててください。「涙と共に蒔く者は、悦びと共に刈り入れる」と言いますが、とにかくじっと見守る。それしかできないことがあるのです。子供を育てるようなものですよ。主様があなたを導いて、このすばらしい御霊の福音を、パウロ流に言うならば「幾人かの人にでも」伝えることができれば十分ですよ。伝道のお仕事はスタートしたばかりです。まだまだこれからです。決して自分でなにもかも背負いこまないで主のみ手に委ねてください。これが個人伝道者の召命に生きる秘訣です。そういう意味でも祈りが大事ですよね。
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