【来信】さっそく質問させていただきますが、皆様は異言の賜物をどのような機会に、どのように活用なさっているのでしょうか。私は密室の祈りにおいて、言葉による祈りと併用して、また自由に交代して祈っていますが、ごくささやかであるという気もいたします。他の方々の体験をさまざまお聞かせ下さったらと思います。
【返信】異言の賜物は、人によって、またこれが与えられる時と場合によって様々ですから、これを一概に一般化して語ることができません。しかし、わたし自身の場合を考え合わせながら、できるだけお答えしてみようと思います。
異言を体験している方ならどなたもご存じのように、異言は人が自分で語ろうとするものではなく、祈りのうちで授与されるものです。ですから異言をいかに「活用する」かは、祈りをいかに大切にするかということと密接に関連していると思います。しかし、特に異言に注目して言うならば、これが与えられる場合は大きく2つに分けられると思います。(1)自分一人の祈りにおいて。(2)他人との祈りにおいて。
(1)自分ひとりの場合
(a)最も一般的で、誰にでもお勧めできるは、朝起きた時と夜寝るときです。一日のスタートとその日の反省と感謝をこめて祈るときが、私にとっても一番楽しいときで、まさに「祈りは懐かし」の賛美歌にあるとおりです。私は、異言をまだ経験していない人には、まず朝と夜に「イエスのみ名を呼ぶ」祈りから始めるように勧めています。
(b)次には、疲れて祈りたくない場合、あるいは祈りさえも出てこないような場合です。意外に思われるかもしれませんが、異言は、その人が神から遠いときにこそその大事な働きを発揮します。異言を自分で語ろうとしてはいけませんが、自分の力が消えるときこそ逆に異言が臨むのです。み霊の語らせてくださるままに、風に吹かれて祈るうちに、だんだんと祈りが湧いてくるから不思議です。そのうちに、異言ではなく自分の言葉で祈りが出てくるようになります。「祈れないときには異言で始めよ」です。
(c)迷うときには異言で祈ります。真理と偽り、正義と悪とがはっきりと区別できるときには、祈りは比較的楽です。何をどう祈ればよいかが自分で判断できるからです。信仰生活で一番苦しいのは、はたして自分のしていることが本当に正しいのか? こういう疑問に襲われたときです。真理と偽りとが逆に見えることも希ではありません。まして、サタンも聖書を引用するから、なおさら複雑です。「何がなんだか分からなくなったら異言で祈れ」です。
(2)他人と共にいるとき
(a)すでに異言の体験のある人とは自分も異言で祈ります。ただし、相手が普通の言葉で祈っているのに、自分だけ異言で祈ることはしません。しかし、相手の祈りを聞きながら、自然と異言が出てくる場合は、<相手の祈りを聞きながら>静かに異言で祈ります。もっともこれは親しい人との場合に限りますが。
(b)相手が未信者の場合は難しいです。私は長い間、このような場合には、異言を避けてきました。しかし、最近考えを改めています。たとえ相手が異言を語らない人でも、異言に関心がある人、あるいは異言を求めていると<思われる>人であれば、異言で祈るのをためらわないことにしています。この場合、判断はみ霊に委ねて、導かれるままに異言で祈ります。
(c)異言に心を開かない人の場合は、異言の祈りが自然と出てきませんから、異言では祈れません。ですから、複数の未信者やいろいろな人が出席している集会などでは、異言の祈りは控えています。