【交信】
  先生はじめまして。私は洗礼を受けて24年になります。職業は医師をしています。先生も御存じでしょうが現代の医療は矛盾だらけです。そしてつくづく最近私は考えざるを得ません。人はどうして、何を求めて、病院にこんなにも多くの人々が、まるで巨大な寺院に参詣しているかのように集まってくるのだろうかと思うのです。自分という肉体、自分という者、自分という存在を、同じ人間でしかない医師と看護婦と科学機械に委ねて、その前で、自分という肉体の分解を少しでも遅らせようと躍起になっているということに。理論では皆、死というものが人にとって運命的にやってくることは分かっていても、おそらく、現代人の誰も、もう死という運命を受け付けなくなっているのでしょう。それどころでありません。人は死ぬということの根元的な恐れの中で、死を否定し続けているようです。
  日本では現在多くの人が、自分という者の前に神がいなくなってしまいました。神の元から姿を消したアダムとイブの様に、知識の木の実を食べた人間が、肉体であろうと精神であろうと、苦しめば病めば不安になれば、皆病院へ向かうのでしょう。自分とこの世を救ってくれるのは中世のように全知全能の神がいる教会ではなくなりました。その代わりに、人々はお金を携えて病院へ向かう。昔の教会の中で人々が求めたものは、今は全て病院の中で行われているのです。しかし臨床医学の無力さを感じざるを得ないことが多いのです。だからこそ、死に逝く方々との出会いを通して主の福音を証ししたくなっています。
   私は新約聖書学に造詣の浅い一信徒に過ぎません。先生は田川健三師やブルトマンの著作についてどうお考えでしょうか? イエス時代のユダヤ教(初期ユダヤ教)においては死後の復活を認めないサドカイ派と認めるファリサイ派があり対立していた様です。彼等の考える死後の復活は「肉体の蘇生」ではなかったようです。しかし復活を聖書の記事そのままに読むと、あたかも「肉体の蘇生」のように読み取れます。この点についてブルトマンは次のように考えました。新約聖書に記されている出来事は、古代の神話的表現によって記されているから、科学的な考え方を身に着けている現代人がそれをそのまま信じることは、知性を犠牲にすることになる。したがって、新約聖書に記されている事柄は、それが私にとって何を意味しているかという基準で「非神話化」されなければならない。
   問題は、イエスの復活の「歴史性」です。先生の「歴史的」とはどういうことを指しておられるでしょうか? もし実証的に確かめることができて、歴史学の研究の対象となる事柄だけを「歴史的」と呼ぶとすれば、イエスの復活はその意味では歴史的とは言えないと私は考えています。これは異端的な考えでしょうか。また最近、ある聖書批判のホームページを読んで、自分の信仰が根本から崩されるような気がしています(単に弱い信仰に過ぎないと言われればそれまでですが)。先生も是非御覧になって先生の御感想をうかがえれば幸いです。

【返信】

(1)
  メールをくださって、有り難うございました。「巨大な寺院に参詣するように」病院へ来るとは、現代の医学の役割をいみじくも言い表していると思います。肉体的な悩みを持ったときに、ある人はそれが先祖からの祟りだと判断します。この場合彼/彼女は祈祷師のところでその祟りを払ってもらおうとするでしょう。ある人が自分の病気は道徳的な欠陥からだと判断すれば、彼は自己修養に励むことになります。ある人が、身体のメカニズムの不調和あるいは故障であると判断するなら、彼は現代医学を信じて病院へ行くことになります。人が宗教、道徳、医療のどれを解決方法に選ぶかは、このように自分に生じた出来事をどう解釈するかによって決まります。アフリカや未開の部族の人たちは、医療よりも祈祷師を信じるのはひとつにはこのためです。
   言うまでもなく、現代医学が古代の医療(例えば古代ギリシアのアスクレピオスの行ったような寺院での薬・音楽・匂い・祭儀・哲学・催眠・温泉などを総合的に組み合わせた医療)よりも優れているというのも、現代の私たちの<解釈>です。こう考えるなら、あなたの言われるとおり、現代の医学は、古代の祭儀宗教の役割をしており、したがって医者は癒しを行う祭司の役割をしています。特に日本の医者の帯びる<権威>は(残念ながら宗教的な祭司職にともなういかがわしさをも含めて!)、まさにこのことを裏書きしていると言えましょう。なにしろ私たちは、いったん手術ともなれば、神に己を捧げるごとくに、医者の前に自分の生命を委ねるのですから!いかなる信仰者もここまで信仰に達するのは容易ではないと思うほどです。
  ところで、医者にもいろいろあるようです。ある医者は、精神的な要因を完全に排除して、肉体を物質的な「臓器の固まり」と<解釈>します。おそらくあなたなら、そのように割り切った見方をせずに、人間の精神性、肉体の奥に宿る霊性の存在を<読みとって>医療に当たられるのではないでしょうか? <人体というテキスト>、あるいは医療というテキストをどのように<解釈>するかが、それぞれの医者がそれぞれの仕方で医療に臨む態度を決定すると言えると思います。実は英語のreadには、このように「観察する・読みとる・解釈する」の意味が含まれています。
   現代の「科学的な」分析と解明なしに、精神性、霊性のみを強調する治療が誤りであることは論を待たないのですが、では、「科学的な」方法のみで、はたして医療というテキストの「正しい読み方」になるでしょうか? 特に、霊とか祈りとか、要するに科学的な考察の対象に入らないものは、ことごとく「排除する」ことによって、現代の科学が、そして医学が成立してきた過程を考え合わせると、そこに含まれる問題性は、素人の私などよりあなたのほうが、遙かに熟知しておられると思います。現代と言うよりは、近代の医学がそのような「排除を」おこなったのは、理性と論理に基づく医学を形成するために避けられないことであったのでしょう(まさに正統キリスト教が、異教を、その祈祷や呪術ともども迷信として排除してきたように!)。良くも悪くも、医学はこのような「ヘルメネイア・解釈学」に基づいて成立したと言えましょう。
(2)
   ところで、この「ヘルメネイア」という用語は、まずなによりも「聖書解釈」あるいは聖書釈義に用いられた用語であったことは、とても示唆深いと思います。ヨーロッパの学問の方法論では、伝統的にまず聖書解釈の分野でこのような変革が行われ、それが文芸、人文、科学の分野へと波及するということが、常に生じてきているように思います。
  ある出来事、というより宇宙そのものを<解釈する>こととこれを「書く」という行為は、人間の一切の営みの根底に関わる重大な行為であることを古代エジプトの祭司・神官たちはよく知っていました。この考え方は、ヨーロッパキリスト教に受け継がれ、現代に至っています。ブルトマンの『共観福音書伝承史』は、20世紀において、この意味での「聖書解釈」における大きな出来事だったと言えましょう。文献批評についてあなたの考えていることは、私にもよく分かります。あなたの立場は、ブルトマンがたどり着いた視点に近いようですね。ただご存じの通り、彼の聖書解釈では解決できない問題もいろいろと出てきて、それが<ブルトマン以後>の様々な試みとなって現在に続いています。例えば、現在の日本では、ブルトマンを超える立場として、<社会文学的視点>という、なんだかちょっとわからない解釈も行われています。
  わたしの立場は、あなたよもかなり<霊的>です。言い換えると文献批評を踏まえながら、<文学的な>特徴を帯びていると言えましょうか。文献批評の立場だと、例えばヨハネ福音書などは、最も扱いにくい文書になると思います。この辺の事情は『聖霊に導かれて聖書を読む』に詳しく述べていますので、ホームページの「著作欄」でお読みください。コイノニアのホーム・ページにもあるとおり、わたしが特に強調しているのは、聖霊の働きを<知性>と<宗教的寛容>から体得することにあります。
   カトリックの聖書解釈は、ファンダメンタリズムというよりは、中世以来の象徴的秘義的な性格を帯びていて特に祭儀的な解釈が特徴のようです。中世では、聖書の<字義どおり=ファンダメンタリズム>の解釈の他に、秘義的、アレゴリー的のようにいくつかの解釈のレベルが複合的に重なっていました。現代医学の先端にいる方から見れば、人体と字義どおりの復活とがとうてい結びつかないのは当然だと思います。私がどのような過程で、御霊の働きと聖書解釈とを結びつけるようになったかは、現在執筆中の<わたしの場合>の第12章「御霊と聖書解釈」をご覧ください。
(3)
   聖書テキストに潜む矛盾や不合理に徹底的にメスを入れて、聖書本文をバラバラに解体するというブルトマンの方法は、またそこから生まれてきた結果は、そのテキストに対する様々な解釈を可能にします。人体の医学的な解明の結果と、その結果あるいは成果をどう<解釈する>かという行為とは、別個の問題であるのは、あなたなら洞察できると思います。注意しないと、一見学問的に見えながら、その実、学問的に正しくない判断を下す恐れがあります。お知らせくださったホーム・ページを私が散見したところ、彼の聖書解釈には、「聖書の間違い」のところで、このような混同が随所に成されているのを見ます。例えばヨハネの手紙は現在的な終末観だから他の福音書と異なっているから間違いであるというような例です。いわゆる主流の教会の終末信仰に「現在的終末観」を導入したのがヨハネ宗団であり、まさにそれこそが、ヨハネ宗団の大事な使命であったのですから、違っているのは当然です。学問的な研究の結果とその結果をヨハネ宗団の「誤り」と判断する<解釈>行為とが混同されるという「間違い」がここにあります。なお「歴史的出来事」とは何か? ということですが、これについては、コイノニアのホームページにある「著作欄」の『これからの日本とキリスト教』の10章をお読みくだされば、ご参考になるのではと思います。
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